政が重要なのは、国の行く末を、決めるからだけでなく、民衆の生活にとり、大きな影響を、及ぼすからでもある。実際には、民にとり、重要なのは、国の行く末より、日々の生活であり、政府が変わっても、国が変わっても、生活さえ、確保できれば、それで十分だろう。
その上、政の影響は、良い方より、悪い方が、多いに決まっている。政治情勢が、不安定なことで、争いが絶えない、という状況でなければ、日々の生活にとり、政治の影響は、殆ど無いに等しい。だが、昔から言われるように、年貢に苦しめられ、酷税に苦しめられるのは、常に、民衆なのだ。国の事情は、ある意味、どうでも良く、こちらの生活が、難なく過ごせれば、それで十分なのだ。さて、そんなことを、思い描きつつ、今の世界を、眺め回すと、政が、悪影響を及ぼしている、と見えるのは、感染への恐怖を、考慮に入れると、致し方ないことだろうか。否、と思うからこそ、何度も同じことを、書き連ねる。感染を、押さえ込むことを、目的として、様々な規制を、繰り返してきて、早2年を、迎えようとしているが、一向に、光の見えない状況に、民衆の怒りが、爆発し始めた。自由の無い、奴隷のような時代なら、このような強制措置も、受け入れる以外に、選択が無かったが、自由世界が、確立した中、恐怖を、解消する為として、強いられた生活や、権利の剥奪が、日常化し始めると、どうにも、鬱憤が溜まってくる。特に、制限の多くが、科学を根拠として、課せられるのに対し、肝心の科学が、確かな根拠を、見出せないままに、強行されているのは、我慢の限界を、超えてしまう。世界中で、不確かなままに、様々なことが、実行される中、その措置により、確かなことが、増すのなら理解できるが、ただ、不確かさだけが、増すのでは、どうにもならない。政治家が、無知なのは、周知の事実だが、それが、取り沙汰されるのは、民衆が、甚大な被害を、受けた時に限る。今の状況は、まさに、それなのかもしれない。
まだ公開していないが、今月の読んだ本は、不作だった。特に、初めに読んだ2冊は、昭和史、中でも戦争までの時代に、力を入れてきた著者が、死ぬ間際に著した、と言われるものと、遺された妻が、思いを込めて書いた、と言われるものだけに、期待を裏切られた。
活字離れが、言われてから久しいが、本来、読者側の問題として、取り上げられた筈が、最近は、事情が大きく、変わったと言われる。不況が続く中、出版界は、購読者を取り戻そうと、努力している、と思いがちだが、現実には、その努力が、空回りとなり、業界自体が、その実力を失いつつある、とまで言われるのだ。読んだ本は、その殆どが、新聞書評に、掲載されたものであり、一部の本好きのように、立ち読みしたり、本屋で、お勧めを確かめることは無い。識者の推薦という、ある程度、確実な方法を、採っていても、期待外れが起きるのは、ある程度、仕方ないことと思う。が、最近の書評は、単純に、本としての面白さを、紹介するのではなく、出版社の販促の一つ、でしかない場合が、多くなっている。この2冊も、そんなものだった、と思うが、亡くなった人の、最後の一冊は、くどさばかりが、残ってしまい、後味が良くなかった。一方、明治の大作家の孫である、妻の作品は、大部分が随筆であり、日々の思いが、綴られたものだが、好印象は、残らなかった。中でも、業界の荒廃ぶりを、表すのでは、と思えたのは、明らかな間違いが、残されたことで、生前、夫が受けた賞を、知り合いが、間違えた話が、綴られていたが、話題の続きで、ノーベル賞に触れる部分で、授賞式の舞台の国を、間違えた件に、唖然とした。本人の間違い、だとしても、それが、出版物に残るのは、明らかに、編集者の責任でもある。荒廃ぶり、と言いたくなるのは、こういうことが、度々起きるからで、大手でさえ、この状況では、努力も水の泡、あるいは、努力不足、と思いたくなる。
人間は、未知の事柄に、接した時、どんな反応を示すのか。誰もが思う通り、その反応は、人それぞれであり、決まったものではない。なのに、何故、今、世界中で、厳しい規制が、強制されたり、望まぬことを、強いられるのか、不思議に思うのではないか。まるで、決まり事のように。
こんなことを、投げ掛けると、多くの人々から、明らかな危険があり、命を守る為に、必要なことを、するのが当然、との返答が、投げ返されるだろう。命を守る為、という掛け声は、今に始まったことではないが、いつの頃からか、盛んに使われ始め、多くの人々が、不快感を抱きつつ、従わざるを得ない状況に、追い込まれてきた。特に、この国では、この傾向が著しく、自由を謳歌したい人にとり、何とも、生き難い時代、と感じられる。改めて、考えて欲しいのは、この国に限らず、世界各地の政府が、市民に強制したり、要請した措置が、対策として必要不可欠なもの、と見做されたことだ。その実、何度も襲う、感染の波に、対策の効果を、疑う声も、多く聞かれる。国によっては、地域により、政府の政治姿勢が異なり、それに従って、対策も変わる事情に、科学に基づく対策、という考えに、疑いを抱く人は多い。政治の関わり自体が、物事を、複雑にし、真実を、隠蔽する傾向を、高めてきたが、まさに、その典型なのだ。一方で、北欧の一国では、他国とは異なる、対策が講じられ、成功を収めてきた、との解釈もある。人口密度の違いや、当初の高齢者の高死亡率に、目が集まったが、結果として、収束したように見える点が、評価を受けている。ただ、接種は、他国同様に済まされ、若年層にも、及び始めた。これら全てが、実は、不確かなままで、進んできたことに、もう一度、目を向けるべき、と思える。人それぞれで、構わぬものなら、たとえ、被害が大きくとも、許容できると思える。逆に、強いられた挙げ句、悲劇に見舞われては、許しようがないのだ。心の問題も、重要だ。
統計に関して、様々な問題がある、と訴えてきたが、さて、伝わっただろうか。独り言は、元々、答えを示すのではなく、問題点を指摘して、そこから、考えられることに、気付いて貰う、というものだ。だったら、今回は、どうしたらいいのか。答えは、見つからない。
だが、いつまでも、煮え切らぬ状況では、苛立ちさえ、覚えるかも知れない。一つだけ、答えかも知れぬ、と思うのは、感染の波が来る度に、ある一定の数が、陽性者となるのでは、という点だ。これまでも、世界各地、また、国内の各地で、陽性者の数が、急激に増え始め、それが、突然、減り始めるという現象が、見られてきた。多くの人が、この増減それぞれに、原因を、見つけようとし、解釈を施してきたが、この考え方に、大きな誤りがある、と見るべきではないか。つまり、増減を合わせて、全体としての総数が、決まっており、その中で、徐々に増えたものが、徐々に減ることになる。増加の時期には、陽性者が増え、彼らとの接触から、陽性となる人の数が、更に増える。だが、陽性にならない人の割合が、ある水準に達すると、それ以上の増加はなく、減少へと転じるのだ。増加と減少は、陽性者数と接触確率などで、決まるとの仮説が、流布されているが、現実には、確率の部分に、抵抗性の有無が、関わると考えるのだ。危険度を、高める為とは言え、明らかに誤った仮説を、立てた上で、仮想計算を行ったことで、これまでの間違いが、繰り返されたとすれば、理解し易いだろう。国ごとの違いを、考える時にも、感染しない集団の割合、を採り入れれば、納得できそうだ。原因は、未だ不明でも、こういう仮説を立て、これまでの経過を、解析することで、実際の様子が、見えてくるのではないか。専門家と呼ばれる人々が、不確かな知識と、狭い視野に基づき、世界の人々を、混乱に陥れてきたか。改めて、検証する必要があることは、こんな所から、明らかとなるだろう。
日々の数値が、盛んに、伝えられる中、徐々に、加工が施されるのに、気付いているだろうか。日々の変動には、様々な要因が、関わるため、それを単純に、グラフにすると、細かな変動が、気になるのだ。そこで、より長い期間の平均を、表示するように、した訳だ。
だが、それとて、変動は、滑らかになっても、波が上下する傾向は、保たれてしまう。本来なら、その要因を、突き詰める必要が、あるのだが、それを専門とする筈の人々からは、何の解析報告も無く、提案さえ無いのは、情けない限りだ。そこには、多種多様な検討と、多面的な視野からの、分析が必要だが、能力が無いのでは、とさえ思える程、動きが感じられない。要するに、これまでの事象さえ、先人達が、決め付けた解釈を、盲信するだけで、違う見方を、試みようとする、科学の心得さえ、持ち合わせていないのだ。それどころか、先人同様、思い付いた解釈に、拘泥する余り、一つ覚えを、繰り返すだけの、役立たずぶりが、目に余る。余りの頼りなさに、呆れるばかりでは、打開出来ぬと、多くの人々が、独自の解釈を、試み始めた。数値の比較により、解釈を試みるのだが、どうも、怪しげなものが、流布されている。接種反対を、主張する為に、益より害が、強いことを、示そうとした人の中には、一年前との比較を、使う人が居るが、多くの変量を、無視しての強引さには、科学は、微塵も感じられない。統計の誤用は、混乱の中、増加の一途を、辿っているが、その原因は、科学界の怠慢、にあることは、間違い無いだろう。だが、その一方で、欺瞞の蔓延に、力を貸しているのは、情報伝達の仕組みに起きた、大きな変化だろう。ただ、これも、情報伝達を、専ら引き受けていた、報道業界の劣悪化が、初期要因となる。最近は、SNSの情報を、マスメディアが、垂れ流すなど、自らの劣化に、改善を図ろうともしない、腐った体質を、露呈している。どうしたものか。
統計に騙されるな、という掛け声が、飛び交っている。不思議なのは、自らの主張に、都合の良い結果を、どちらの側も、掲げていることだ。同じ事象を、論じているのに、何故、正反対の結論が、導けるのか、不思議に思う人が、多いだろう。そこに、タネがある。
同じ事象でも、選択の仕方により、それぞれに、都合の良いデータを、収集することが、できるのだ。そんな馬鹿な、と思うのが、当然だろう。同じことが起きているのに、何故、逆の結果を、導けるのか、不思議に思わない方が、おかしい。だが、統計とは、所詮、そんなものだ。騙されるな、との指摘の主眼は、実は、処理の仕方により、全く異なる結論が、導けることを、表していたが、実際には、同じ事象でも、どの数値を、拾い上げるかで、自在に操ることが、できるのだ。これにより、先に立てた主張を、支える為の事実を、打ち立てられる。こんな状況では、事実に基づく解釈も、自由自在に、操れるとなる。では、何を、どう信じたら良いのか。これは、簡単では無い。判断して信じるより、信じる所に、与する話を、拾い出す方が、簡単だろう。だが、それでは、真実を、見誤ってしまう。そう思うのも、当然のことだが、現実には、そんな経過を辿り、自分なりの結論を、導いているのだろう。ただ、普通の感覚の持ち主であれば、軌道修正を、繰り返すことで、自分の考えを、研ぎ澄ましていく。これができなければ、固執した挙げ句に、事実誤認や、誤判断を、繰り返すことになる。それを避ける為に、必要なのは、情報源を限定せず、様々な視点を、採り入れることだ。例えば、日々伝えられる数値も、これまでの総計として、眺めてみるのも、方法の一つだ。これまでに紹介した、海の向こうの大学が、纏めたものは、その視点が無いが、少し探せば、総計を示すサイトが、簡単に見つかる。それを眺めると、陽性者も死者も、各国で増加の一途ではなく、波の繰り返し、と解るのだ。
4年に一度、海の向こうでは、大々的な選挙が、行われる。その度に、資金力が、話題となり、政党内の選出を経て、一騎討ちに乗り出すと、その問題が、更に重大となる、と言われてきた。だが、その様相に、大きな変化が、起き始めている。資金が、何処に流れるか、の変化だ。
選挙対策において、最も重要なのは、勝つことなのは、当然のことだが、勝敗を決するのは、何も、相手より、優れているかどうか、とは限らない。そこで、使われた戦術が、相手の欠点を、指摘することだ。自陣の優れた点を、国民に伝えようと、広告を打つのが、主要な運動だったが、いつ頃からか、相手の欠点を、指摘する方が、遥かに効果的、との評価があり、専ら、その路線を辿り始めた。広告は、新聞やテレビなどの、マスメディアに、掲載するのが、嘗ての常識だった。それには、莫大な資金が、必要となり、単なる選挙運動だけでなく、そちらに、どれだけの金を、注ぎ込めるかが、勝敗を決するとも言われた。ところが、その状況に、大きな変化が、訪れた。人々は、新聞もテレビも、眺めることが、少なくなり、その代わりに、手にした端末で、情報を収集するのが、常となったのだ。当然、マスメディアも、参入しているが、この媒体では、広告の様式も、全く異なるものとなり、一つひとつは、僅かな広告料で、済むこととなるが、積み重なれば、莫大なものとなる、という図式に、変化していった。これ自体は、総額として見れば、何の変化も無く、資金力の差が、やはり大きく影響する。だが、公共性の違いが、内容の違いに、影響したことが、大きな変化を、招いたようだ。公共性が有れば、内容も、確実性を求められるが、無ければ、その必要が無い。審査の有無が、大きな違いなのだ。結果として、嘘や欺瞞が、垂れ流され、欠点の指摘には、最適な条件が、揃ったとなる。結果、国民を騙した人間が、勝利を収めることとなる。これで、良い筈がない。