パンチの独り言

(9月27日〜10月3日)
(繰り返す、教育破綻、終われない、守銭奴、乱心、回りもの、批判姿勢)



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10月3日(日)−批判姿勢

 囀りの中で、この所、盛んに、書き込まれる話題がある。ネット上には、様々な場所があり、ここと同様に、一人が、好き勝手な意見を、書き込む所もあれば、同好の士が、集まる場所で、同じ趣味を、披露するものもある。その中での出来事が、捉えられたようだ。
 こちらも、書き込みの応酬に、参加しているが、実際には、同好の士の場を、覗いたことは、一度も無い。嘗てなら、同人誌と呼ばれる媒体を、発行して、発表した作品を、互いに批判するのが、常だったのだが、世の中の進歩で、見ず知らずの人間が、互いに、作品を披露し合い、褒め合うことが、主体のようだ。人気が出れば、多くの関心を集め、時に、出版に至り、実社会での披露となる。同人誌の時代と、少し異なる、と映るのは、批判中心でなく、褒めることが、主となっていることだろうか。現実世界では、顔を突き合わせ、口角泡を飛ばすが如く、意見を交わしたものだが、仮想世界では、姿の見えぬ相手に、罵声を飛ばせば、一方的な展開となり、場が白けるからか、批判を控える人が、多いのだそうだ。だが、そこに、徹底批判を常とする輩が、登場したらしく、それも、別の場所での批判を、繰り返す。その姿勢に、疑問を呈した人が、広告を糧とする、卑しい態度も、引き合いに出して、盛んに、意見を掲げている。特に、批判する側が、反論を拒絶することを、厳しく指摘し、意見の応酬にならぬことを、否定しているようだ。仮想世界とは言え、現実世界を映し出すようで、何も知らずに、意見を出すが、的外れとは思わぬ。感染症の騒動でも、この人物は、真っ当な意見を、出すだけでなく、そこへの批判に、真摯に答えていた。但し、相手が、無理解なまま、批判を続けると、無視に移る。おそらく、現実社会との違いは、ここにあり、顔を見せずに、罵り合うのは、無駄と理解しているのだ。でも、批判の場では、面と向かい、徹底した、意見交換が、鍵となると思う。

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10月2日(土)−回りもの

 武士は食わねど高楊枝、と言えば、武士ではない、と答えるに違いない。また、戦後の混乱期に、闇と呼ばれた、不正な取引で、供給された食料を、一切拒否して、餓死した裁判官、と言えば、馬鹿げた話、と一笑に付すか。貧しても、窮しても、保つべきものがある。
 何故、この話が、時代錯誤にも関わらず、今だに、伝えられ続けるのか。そこに、伝えたい何かが、あるからに違いない。だが、今に始まったことではなく、今も昔も、こんな話を持ち出して、歓迎される筈も無い。何を今更、と思われるだろうが、書いておきたいのは、施しの話だ。この騒動が、始められてから、お上は、世界中で、厳しい制限と引き換えに、何かしらの施しを、配ってきた。日々の糧を、奪い取る措置に、対価が必要、と考えるのは当然、と言われるからだ。それも、如何に素早く、措置をしたかで、評価が変わるなど、まるで、世界中の人々が、日々の生活に、四苦八苦する程、貧しており、窮しておる、かの如くに、見做されている。その一方で、施しを受けるのは、権利との主張も、度々耳にした。だが、それまでの生活で、これらの人々は、権利を得る為に、対価を、支払ってきたのか。豊かな時代、そして、安定した時代には、傾向と対策が、必須とばかり、様々に講じられるが、その多くに、対価は要求されず、それが当然、と見做されている。教育現場は、その典型だが、生涯教育と呼ばれる、社会活動にも似たものが、世に溢れるにつれ、そちらにも、無料化の波が、押し寄せていた。その中で、有料の催しは、敬遠されたり、批判される、と言われる。公的な催しは、税金を注ぎ込んで、実施されるから、無料では無い。だから、と言う話も、違うように感じる。何しろ、納税者全てが、その恩恵を受けた、訳ではないのだ。些細なことだが、こんな類の話を、屡々耳にする。では、施しはどうか。税の使い道にも、最近は、変な論理が、横行している。何様、と思えてくる。

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10月1日(金)−乱心

 人間は、失敗を繰り返して、成長する。誰もが、何処かで、聞いたことが、ある話だろう。本能で、生きる生き物は、失敗は、即座に死に繋がり、学習しても、本能には影響を及ぼさない。そこに、大きな違いがある、と言われるが、今回の騒動は、その範疇では無い。
 自分の失敗が、自らの成長の糧、となるのはそうだが、他人の失敗は、あくまでも、迷惑であり、被害が及ばぬよう、願うだけだ。何度も、同じことを繰り返し、その度に、被害が広がり、責任を問う声が、上がるものの、あれこれと、言い訳を並べ、言い逃れを続ける。その様子からは、学習は、一欠片も感じられず、被害が及べば、自分の責任とは、無関係に、重荷を負わされる。それでも、外出を控えたり、働き方を変えるのなら、まだ、我慢すれば、済む話だった。ところが、まるで魔法の薬のように、当初扱われた、免疫機能を促す接種は、触れ込みとは違い、その効果の程が、凋落している、と映っており、天秤の片方に、載っている筈の、副作用の問題に、徐々に、傾き始めてしまった。それでも、当初の目標は、下されないまま、それに向かって、各国は、突き進んでおり、更なる歪みを、生じ始めた。国家として、公務員に義務付けたり、一般企業でさえ、職を奪う動きが、出ていることに、人権蹂躙の指摘が、強まっている。義務付ける為の、根拠自体が、揺らいでおり、政府や企業が、頑迷ぶりを、強めることは、危うさを、極限まで高めそうだ。副作用だけでも、義務という強制により、その被害を、受けた場合に、補償がなされるかが、最大の問題となる。確率が、低い筈だから、というのは、こういう場合には、通用しない筈だ。また、人権についても、訴訟が起きれば、社会秩序だけで、戦えるとは、とても思えない。人種差別が、最重要課題として、世界各地で、議論される中、今回の措置は、それとそっくりの図式を、描き出すものとなる。狂気の沙汰、でしかない。

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9月30日(木)−守銭奴

 本来の業務の目的を、見失った結果、仁術ではなく、算術に走る。厳しい批判の対象、となってきた人々だが、あの世界では、こんなのも、まだまだ、と見られるのか。今や、算術に走るのは、当然のことだが、それも、本来業務からではなく、補助金の算術なのだ。
 特に、批判が集中するのは、要職にある人々で、本来、鑑となるべきが、先頭を切って、甘い汁を、吸っていると伝えられる。医療体制の構築に、新たな資金が必要だとか、人員確保には、更なる支援が必要だとか、彼らの口からは、金を貪る、下品としか見えない、戯言が、飛び出してくる。死への恐怖を、消し去ろうと、湯水の如く、資金が注ぎ込まれるが、それが、何処へ行ったのか、不明になっている、と伝えられる。真相は、明らかではないが、世間の騒動を他所に、私服を肥やすとは、怪しからんとの声もある。だが、そんなことより、庶民にとり、ずっと重要なのは、自分らの命が、救われるか否か、である。様々な方策が、講じられ、最新治療の紹介も、予防措置の説明も、次々登場したが、どうにも、現実味が感じられず、何度も、変更を余儀なくされ、出口が見えてこない。だが、海の向こうからは、50人に一人の死者が、出たとの話が伝わり、身近に、死者が見当たらない、国内の状況との、余りの違いに、耳を疑った人が、多いだろう。実態が、その通りなら、この騒動は、何なのか、教えて欲しいと願っても、例の嘘吐きどもから、答えが届く筈も無い。世界を巻き込む創作劇も、国毎に、実態は、大きく異なる。にも拘らず、同じ筋書きで、演じられるのだから、国によっては、まさに空騒ぎでしかない。その一つでは、誰もが、この感染症を、死の病と断定し、その前提の下で、話を進める。既に、一年を超える騒動で、死者、重症者、発症者。陽性者全ての数が、明らかとなっており、その他の病気の状況との比較も、できる状態にある。だが、愚か者達は、そんな資料に、目を向けず、新たな波の到来を、叫び続ける。算術も、単に、金勘定しかできないのだろう。

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9月29日(水)−終われない

 世紀の創作劇は、杜撰な筋書きが、破綻を来し、終演を迎えられず、迷走を続けている。未熟な科学にとり、未知な事柄は、数多あり、軽率な判断で、書き綴られた台本は、日々、書き換えられ、当初の思惑は、原型を残さぬ程、捏ねくり回され、世界の混乱は、収まりそうにない。
 煽動者の大本営は、これまでに、何度も、前言撤回の無い、言い逃れに終始し、恥知らずの言動を、続けてきたが、騒動を盛り上げる、報道機関の劣悪さも、嘗て無い程に、極まっている。権力を糾弾し、別の見方を、紹介するという、肝心の役割も、死への恐怖から、簡単に投げ出し、横並びを続ける。政府も、多くの国で、世界機関が描いた、悲劇の台本を、読み込むこと無く、鵜呑みにした挙げ句、それぞれに、好都合の演出を、施すことで、自らの地位に、固執している。最近のNG、失敗の典型は、ワクチンパスポートと呼ばれる、証明書の運用だろう。接種を済ませれば、死への恐怖から、逃れられる、という直接的な効果より、社会として、集団免疫の獲得から、収束を迎える、という筋書きは、いつの間にか、破り捨てられた。集団免疫が、絵空事となっただけでなく、感染も防げず、果ては、死への恐怖が、再燃するとなり、物語としての、原型が失われたのだ。にも拘らず、一つ覚えの如く、証明書があれば、移動も、集団行動も、果ては、馬鹿騒ぎでさえ、可能とする話を、続けるのは、何故なのか。根拠とした、科学の未熟さばかりか、現状の把握さえ、覚束ない愚かさには、今更ながら、呆れるしかない。自己矛盾に、気付く気配もなく、更には、人権剥奪紛いの、暴挙さえ、打ち出す始末、末期的症状だろう。実は、証明書は、重症化しないとの確信を、表明するだけで、例え、発症したとしても、一切の治療を、要求しない、という意味でしかない。まさに、パロディにしかならないものが、世界で、演じられているのだ。

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9月28日(火)−教育破綻

 予想通り、あるいは、予定通りとも言えるだろうか、解除に向けて、事が進み始めた。だが、検討に入るか、入らないかの頃から、例の如く、叫び声を上げる人々が、目立っていた。減少傾向が、明らかになり、数さえも、小さくなると、再び増える、と喚く輩だ。
 知識、経験、調査、解析などに基づき、状況説明と共に、今後の対策を、論じるのが、専門家としての役割、なのは確かだが、今回の騒動では、当初から、これまでも、そして、触れたくもないが、これからも、根拠を示さず、論理も破綻したまま、好き勝手な発言を、繰り返すのが、専門家との認識が、広がっている。それも、国内に限らず、同じ混乱をきたした、世界各国でも、同じ狢達が、暴れ続けている。注目することも、取り上げることも、無駄でしかないが、根拠も論理も、無い連中でも、専門教育を受けたと、主張さえすれば、あるいは、それ相応の地位にあれば、専門家と呼ぶしか無い。だが、寄せては引く、波の如くの兆候は、教科書を、開かずとも、誰にでも、知れ渡ったものであり、素人と玄人の違いは、その原因を、見極めることに、ある筈なのだが、その欠片さえ、示されていない。拙い経験でも、大袈裟に取り上げれば、それなりの証拠と、見做せるかもしれないが、現実には、その脆弱さに、集中砲火を受ければ、微塵もなく砕けてしまう。例えば、接種を先行させた、他国の経緯を、引き合いに出し、再び増加が起きる、と論じる話も、彼我の国の比較が、不十分なままでは、学者としての矜持さえ、消し飛びそうだ。人口だけでも、15倍程の違いがあり、それを無視して、陽性者数や死者数の遷移を、比べても、無意味でしかない。学問をした人々が、本来、身につけていた筈の、統計処理能力を、こんな形で、投げ出すのを見ると、改めて、教育の重要性と、人格形成の難しさを、考えさせられる。正しい教育が、必ずしも、正しい人間を、形成する訳ではない。

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9月27日(月)−繰り返す

 感染症の恐怖が、広がり続ける中、華々しく登場した、救世主である、ワクチンは、当初の期待が、裏切られ始め、別の恐怖が、加えられることで、大衆の混乱が、再燃している。高い有効性という、触れ込みは、二度の接種後の、感染により、打ち消され、疑惑が広がる。
 推進者の口上は、コロコロと変わり、信頼の失墜の勢いは、増し続けている。感染ではなく、重症化を抑制する、という論理は、当初から、出されていたが、一方で、接種を推進しようと、集団免疫を含む、全体への寄与という、期待を持たせる為の、方便が、その後の展開に、暗い影を落とす。更に、免疫の複雑な仕組みが、説明不足を露呈させ、有効性の期限という、不思議な付け加えが、混乱を広げ、疑念を強めている。問題が、噴出する度に、専門家達は、解説を繰り返すが、前言撤回すること無く、別の解釈を、重ねることは、理解の及ばぬ大衆には、受け入れられぬばかりか、反発を招く。科学の不確かさは、今に始まったことでは無く、十分な吟味無しに、軽率な発言を、重ねてしまえば、信頼は、失われるばかりだ。それに加え、政の不穏当さは、選択の権利のみか、働く権利などの、基本的人権を、脅かすような政策を、軽々しく口にし、強い反発を、引き起こしている。この騒動は、所詮、この程度のもので、傍観しても、躍起になって、取り組んだとしても、結果が変わらず、多くの方策が、徒労に終わるように、見えている。個人で見れば、感染からの重症化から、命を失う場合もあり、危険極まりなく、思えるだろうが、その一方で、日々の生活が、脅かされ続けても、健康状態には、何の支障も無い人が、数え切れぬ程居る。この状況は、これまでの大流行でも、度々見られたことで、歴史を振り返れば、いつの間にか、終息を迎えた、という事実が残る。でなければ、とうの昔に、滅亡していた訳で、滅亡するまで、繰り返される、感染症の常に、過ぎないことだ。今回も、だろう。

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