パンチの独り言

(10月18日〜10月24日)
(科学の暴走、安直政治、一長一短、呉越同舟、貴賤の差、吟味力、使いよう)



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10月24日(日)−使いよう

 情報社会、誰もが、手にした端末で、時時刻刻の情報を、手に入れようとする。時事問題は、その典型だろうが、日常から、遠ざかるにつれ、その重要性は、急速の減退する。それに対して、誰もが触れ、その多くが、頼りにするのは、食べる場所に、関するものだろう。
 当初は、それぞれの情報源が、独立しており、相互の繋がりが、殆ど無かったので、的確な結果を、引き出すことが、難しかった。しかし、今では、多種多様な情報が、互いに連結され、別の入り口からも、目的の情報に、辿り着けるようになった。今、自分が居る場所から、近くの食堂を、探し出すのが、容易になり、それらの中で、評価の高いものに、出かけてみる。評判だけでなく、噂も手に入れられ、賛否両論でも、様々な観点に、触れることができれば、事前調査は、十分となる。だが、その重要性が、高まるにつれ、情報操作が、盛んに行われ、その結果、偽物ばかりが、目立つようになり、評判を、落とすこととなった。情報の信頼性は、明らかな間違いを除けば、それを、事前に確かめる方法はなく、単に、多数意見か否かで、測るくらいしか、できないものだ。好悪により、評価を変えれば、そこにあるのは、客観的ではなく、ごく主観的な意見となり、どちらに属するかで、全く異なる感覚となる。情報とは、所詮、そのようなもの、と思っていれば、評判通りでも、外れたとしても、それで構わぬこととなる。だが、この仕組みが、適用された時に、問題が起きるものも、あるだろう。選挙で、誰に投票するか、迷った時に、役立つとして、自分の感覚を、入力すれば、それに見合う候補を、選び出してくれる、というものが、登場したとの報道があった。成る程、便利だと思う人も、居るだろうが、その危険性は、少し考えれば、容易に思い当たる。どう入力しても、同じ候補を、示すようなことが、簡単にできるからだ。所詮、情報は、鵜呑みにするものでなく、参考にしかならない。

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10月23日(土)−吟味力

 皆が、自分の意見を、発する場を得て、喜ばしいこと、と思っているのだろう。実名、匿名、問わずに、思う所を、書き記すことに、喜びを、覚える訳だ。でも、と思うのは、素直で無いのかも知れないが、やはり、気をつけるべきこと、と思う。玉石混淆、と言い難いのだ。
 多くの人は、自分の考えを、書き記すだけでなく、賛否両論、自らの考えと、合致する意見を、見つけ出して、納得を得たり、正反対の意見に、触れることで、嫌な思いを、抱いている。だが、表面的な、賛否ばかりに、目を奪われていないだろうか。考えの信頼度は、誰が発したものか、でもなく、賛同者の多寡による、訳でもなく、単純に、そこにある事実と論理が、正当なものか、による筈だ。にも拘らず、気軽に、読み書きができる場では、何故か、敵か味方かの違いで、信頼度を、決める人が、多いようだ。元々、仲間かどうかで、信じるか、信じないかを、区別してきた人間に、相手の言葉の、信頼度を測れ、と促しても、容易なことではない。その行為が、相手を、値踏みするようだ、と思う人が多く、信頼を、裏切る行為と、見做すからだろう。だが、それ位のことで、友情が壊れたり、怒りをぶつけられたり、そんな関係は、真の人間関係、とは言えないだろう。相手の意見の、間違いを指摘し、それを正してこそ、互いの関係が、高められる、とならないのなら、その関係は、所詮、それだけのことで、見せかけのもの、に過ぎないのだ。そんな不安定な関係を、保とうとすることが、精神的な不安定を、招くことが多く、結果的に、損をしてしまう。今の感染症騒動でも、多種多様な意見が、日々、掲げられており、それに、賛否を表明する意見が、加えられている。だが、それらの多くは、未熟な思考に基づき、身勝手な論理を、組み立てたものに過ぎず、参考に値しないものばかりだ。自分の意見を、磨く為にも、他人の意見を、吟味する習慣が、必要となっている。

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10月22日(金)−貴賤の差

 下下の者達には、何の関わりも、無いことなのに、何を、騒いでいるのか、と思う。尋ねれば、おそらく、税金の使い方に、触れる人が多いだろうが、さて、彼らのどれ程が、全ての税金の使いようを、知っているのか。偶々、目が向いたものに、文句を言うのは、どうか。
 問題は、特別扱いをされている、人々の処遇に、あるのではないだろう。扱われたことの、無い人間にとり、特別は、あくまでも特別であり、そんな憧れが、ある幻滅により、汚された、とでも言いたいのか。だが、扱いは、特別だとしても、人間の質として、何ら変わりは無く、なのに、という思いこそが、不満の根底にある。肝心なことは、今の制度では、嫁いだ人間には、その後の特別扱いは、全く無いということで、それを貫けるかが、問題なのだ。これは、世界各地の、特別扱いでも、同じことであり、以前取り上げた、ある王子の暴挙は、あるまじき行為、と映ったものだ。彼の祖母は、今、その地位にあり、高齢にも関わらず、激務に、追われている、と伝えられる。だが、彼女の映像が、映される度に、伝わるのは、それを、熱心にこなす姿で、相手の話に、耳を傾ける時の、目の輝きには、その意欲の表れが、感じられる。とは言え、暫くの休息の、必要性が議論されるのは、当然のことであり、その中で、地位に留まるのも、やはり当然だろう。ただ、世界で、その地位にある、高貴な人の中には、自ら、身を引く人もあり、庶民と同じに、振る舞おうとする人も、居るようだ。だが、特別扱いは、庶民と同じを、受け入れ難く、身勝手の現れとしか、映らない。今回の騒動は、目を向ける価値もなく、ただ単なる、婚礼の一つとして、遠くから、見守ればいいだけのことだ。但し、特別扱いを、離れてしまえば、ただの人、となることには、何の変わりもないことも、当たり前のことだ。下下とは、違うことに、ある責任が伴うが、一方で、下りてしまえば、普通の権利しか、無いのだから。

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10月21日(木)−呉越同舟

 迫り来る恐怖が、真に迫るものなら、人々は、警告に、耳を傾けただろう。数字は、確かに示され、日々、増す値に、不安を抱いた人も、居たに違いない。だが、そんな雑音に惑わされず、冷静に、周囲を見回した人には、それらの数値が、まるで、幻のように映っただろう。
 中でも、50人に一人が、亡くなったという、海の向こうからの便りは、煽動者達の思惑を、強く支持するものに、思えた。だが、これとて、海を挟んだ二国の、医療体制の違いに、目を向けると、鵜呑みにできなくなる。あちらが、最新医療の国、との印象に、何の誤りも無いが、問題は、それを、受けられるかどうか、という点にある。こちら側の、皆保険の制度下では、誰もが、同じ水準の医療を、受ける権利があるが、あちら側は、何でもかんでも、自由の国なのだ。貧富の差が、こういう時に、一段と大きく現れ、犠牲者の多くは、まさに、自己責任の結果として、延命治療を、受けられなかった、と思えるのだ。単に、感染のし易さでさえ、大きな違いがある上に、このような事情の違いは、単純に、病原体の威力だけを、考えることの、大きな過ちを、示している。さらに、劣悪な医療体制でも、現状の致死率を、考えてみれば、恐るに足らず、は言い過ぎとしても、正しく怖れることの、重要性が、見えてくる筈だ。その中、唯一の頼みとした、数字が小さくなり、思慮なく鵜呑みにする人々までもが、離れ始めている。軽率な人々が、どんな行動を、とるかについて、目を向ける必要は、決してないものの、多数派は、そちらなのだ。誘導に、必須の要素として、盛んに煽り、見かけの数字で、騙し続け、嘘の情報で、惑わしてきたが、もう、限界に達しようとしている。だが、懲りない連中は、手を替え品を替え、詐欺そのものの行為を、続けている。本来なら、賠償責任を、問われる筈の言動に、何の責任も、問わないのは、世論を操作する、連中までもが、加担するからか。

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10月20日(水)−一長一短

 混乱が続く現場は、別として、社会全体に、一時の静寂が、訪れている。となれば、次は、と人々の心は、先のことへと、向かい始める。悲観は、相変わらず、次の波への警戒を、怠るなと訴えるが、一方で、楽観は、日常を取り戻し、安全・安心を、手に入れようとする。
 喉元過ぎれば、との格言もあるが、今の状況は、そんな甘いものではない。ぎゅうぎゅうと、喉を締め付けられ、死の恐怖を、味合わされ続けたのだ。喉の詰まりを、やっとのことで、取り除いても、悲観は、懲りもせず、叫び続けているが、一方で、日々の生活でさえ、厳しい状態に、追い込まれた人間には、次の手が、差し伸べられるかが、肝心となる。思い起こせば、騒動の最中、様々な支援が、届いていた。特に、人の行き来を、制限することで、甚大な被害を、受けてきた業界は、直接的な補助金より、客への支援という、旅行や外食への、補助金の方が、効果的だったことから、その復活を、願う声が大きい、と言われる。だが、騒動の悪影響は、別の形で、及んでおり、接種証明の要求という、不確定な保証を、引き合いに出すなど、怪しげな空気が、漂っている。ところが、既に、現場では、支援が始まり、実施している、と言われる。ただ、中身は、微妙な状況らしく、接種者と未接種者を、区別することで、補助額を変えているようだ。何れにしても、制度の実行には、素早い動きを、示す首長も、肝心の補助金支給では、動きが鈍い、とも言われる。愚民政治の中心となる、各自治体の首長は、今回の騒動の中、数々の権限を、手に入れていた。その結果、現場の混乱は、酷くなる一方で、特に、一貫性の無い施策を、実行するという、小さな政府の欠点が、露呈することとなった。真の問題は、別の所にあるものの、こんな騒動に、付き合わされるのは、御免蒙りたい。選挙への期待も、本来なら、そこに向くが、今の様相では、何方に転んでも、に見えてしまう。

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10月19日(火)−安直政治

 公約という空手形が、乱発される事態に、混乱を、来たしている、と伝えられるが、この混乱は、乱発から起きたものではなく、単純に、横並びとなった約束に、優劣の差を、つけることが、できないことこそが、問題となっている。愚民政治は、世界の趨勢なのだが。
 ばら撒き自体は、庶民にとり、魅力的に映るのは、当然のことなのだが、根本的解決からは、程遠い提案に、将来展望は、開けてこない。一時金の分配は、既に、何度も行われ、その度に、問題点が、指摘されたが、改善の兆しは、見えていない。前回のものは、緊急事態の中で、準備されたことから、事前から、その効果を疑う声も、多くあった。結果として、消費ではなく、貯蓄に回され、経済活動を、活発化する効果は、無かったとされる。だが、困窮に苦しむ庶民には、貯蓄だろうが、消費だろうが、不安を解消できれば、それで良かったのでは、ないだろうか。ただ、もう一度、同じことを、との提案には、更に厳しい批判の声が、上がっている。多面的な効果も、その理由の一つだろうが、更に大きな問題は、財源にある。現政権が、公約に、含めなかったのも、そちらへの懸念が、あるからだろうが、他党の勢いに、押される形で、言及し始めた、とされる。となれば、何処から金を、調達するかが、問題となる。ここでも、横並びで、国債という借金で、賄うとされるが、これは、全党にとり、約束破りでしか、ないものとなる。借金を減らす、との約束を、実は、根拠無しに、訴えていたのは、平時だったから、なのかも知れず、緊急事態だから、との言い訳が、通用すると考えるのも、当然とされる。だが、その安易さが、政に関わる人々の、知恵足らずなのだ。長期に渡る、調達方法を、論じてこその、提案だろうが、一方で、その提案自体、安直な考え、でしかないことに、もっと目を向けるべきだ。不安や心配が、起こる原因を、取り除く為に、何が必要なのか、見せて欲しい。

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10月18日(月)−科学の暴走

 近年、世界に、混乱を起こしているのは、何か。テロなどの紛争を、挙げる人も、居るだろうが、対岸の火事、と思う人も、多いだろう。では、感染症と気候変動は、どうだろう。時と場所に、お構いなしに、世界各地が、混乱を来たし、大衆は、その渦に、巻き込まれている。
 前者は、人間が起こすものだが、後者は、自然が起こし、人間は、対応に追われる。と考える人が、居るのだが、本当だろうか。前者が、人間同士の、私利私欲の打つかり合いだったり、憎悪の結果であるのに対し、後者には、そんなものが、関わる余地は無い、と見れば、その通りだが、現実は、正反対で、私利私欲が表面化し、好悪が顕となり、人間の関わりが、強まり続けている。感染症では、病原体の起源に、目を向ける人が居て、彼らの懸念は、ある国へと向けられる。一方で、世界各地に、急速に拡散し、膨大な数の死者を、出したことで、予防や治療だけでなく、検査にまで、膨大な額が、注ぎ込まれたことは、まさに、利欲を、満たそうとする、人々が群がる、様相を呈している。気候変動は、その原因を、絞り込むことで、対策を、講じる必要性が、世界で認識された、とされるが、その過程で、排出権の売買や、技術開発に、異常な程の予算が、向けられ、利権に群がる人や企業が、表でも裏でも、活躍している。そう考えると、全ての混乱が、人の関わりによるものであり、後者では、科学の関わりが、大きいことが解る。科学の功罪が、近年、度々取り上げられ、ここでも、その気配が、広がっており、その様子を見ると、嘗て起きた、科学の暴走が、再び起き始めた、とも思えてくる。病気の原因として、害虫の存在が注目され、その駆除こそが、喫緊の課題となった頃、殺虫剤の開発が、進められて、画期的な薬剤の登場で、世界各地で、使われた。確かに、絶大な効果を、示したものの、その後、発覚した副作用は、人類の安全を、脅かすものとなり、使用禁止となった。科学の力は、何方にも作用し、それを見極めることは、非常に困難なのだ。今の様相は、制動の利かない車を、見るようだ。

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