パンチの独り言

(10月25日〜10月31日)
(測り違い、愚と愚、謙虚に、核心を、理解不能、正確に、老害)



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10月31日(日)−老害

 ある人々が、盛んに叫ぶように、一時のことかも知れないが、兎に角、騒ぎが収まり、人々は、大手を振って、街に出て来た。制限緩和を、余儀なくされ、人が集まることも、極端な場合を除き、忌み嫌われたり、暴力的に糾弾されたり、することが無くなった。
 催しの多くは、以前は、自粛と称する、圧力に屈した結果で、開けなかったが、今は、少しの対策を、講じさえすれば、問題なく開ける。結果として、街のあちこちで、見学会や講演会が、開かれており、人々は、恐々かも知れないが、知りたい欲を、満たせるようになった。誰かの話を、聴くことによって、新たな知識を、身に付けたり、刺激を受けて、新しいことを、考えたりする。喜ばしい状況に、違いないのだが、以前同様、その中身は、玉石混淆なままだ。慎重な体制の頃は、極端な場合が多く、宗教的なものや、詐欺紛いのものが、横行していたようだが、平和な時が戻り、これも以前同様、意義を感じられない、不思議な催しが、戻って来た。ある企業の社長が、自社製品の開発について、語った会では、まるで、教祖の如くの発言が、連続して、不快感を催した。だが、それは、講演そのものばかりか、参加者にも、感じられる。別の会で、ある歴史施設の成り立ちを、説明していたが、会場からの質問は、悪質なものだった。繊維業界の盛衰を、語った内容に対し、それが、企業戦略の過ちに、よるものとの指摘は、何も、間違っていないが、そこから不況の原因のみならず、今の惨状を、誰かの責任のように、論じる姿勢には、高齢者の質問が、まるで、他人事であり、我関せずという、責任転嫁の態度を、露骨に示す、人間の醜さを、眺める気分に、させられた。下の世代から見れば、お前達が、その原因を作り、何の手立ても講じなかったから、との反論が、出て当然なのだが、主題と違う戯言には、関わる意味が無い。ただ、さっさと退き、若い世代に、期待せよ、と罵倒したくなった。

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10月30日(土)−正確に

 情報社会において、最も重要なのは、情報の内容、特に、その確かさだろう。折角、情報収集しても、それが、誤りだったら、何にもならない。時に、誤報によって、混乱が起き、何の報せも無い方が、遥かにましな結果、となる場合さえある。だが、末端では、どうにもならない。
 だからこそ、発信源にも、その伝達者にも、大きな責任が、課されている。それにより、正確な情報しか、流布されないのなら、事は簡単なのだが、そうはならず、混乱が、度々起きてしまう。その度に、改善策が、講じられるが、鼬ごっこにしか、ならないようだ。何故、根本解決が、できないのか。人間が、関わるものに、間違いがあるのは、致し方無いこと、とする人々が居るが、もしそうなら、人間の関わりを、最小限に抑えることが、必要だろう。今の騒ぎで、起きる間違いの多くは、まさに、人が引き起こしたものだ。例えば、集計の誤りは、その多くが、転記の際に、起きている。では、何故、転記が必要なのか。それは、末端の組織から、中央に、情報伝達する際に、ファックスが、使われているから、だとされる。今時、何故、そちらの通信回線を、と思うのは、当然のことだが、依然として、なのである。要するに、ネット回線を用いた、情報収集が、整備されないのは、現場の人間の問題、というより、その仕組みの構築の問題、と言うべき状況だ。恐らく、コンピューターは、既に、整備されているだろうが、それらを繋ぐ仕組みを、構築することが、追いついていない。企業に、勤める人間には、まさか、と思えることだろうが、その程度の水準でしかなく、予算も人員も、不足している、と言われる。だが、一方で、ある銀行の頻繁な不祥事からは、企業と雖も、構築ができない、という事実が、見えてくる。便利な時代に、何故、対応し切れぬのか。それに関わる、企業や関係者の問題、としか思えない。これでは、情報社会の構築は、到底、及ばぬ状況であり、脱却できないままだ。

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10月29日(金)−理解不能

 ネタばらしで、無二の親友を、失ったという話が、あるくらいに、物語や映画の筋書きを、事前に知らされることは、忌み嫌われる。と思っていたら、最近は、それが、違うという話が、あるらしい。事前に、種明かしをされてから、読んだり、観たりしたいのだそうだ。
 若者に多いらしいが、その理由を、尋ねる程、理解不能と映る。彼らの主張は、怖い話や、複雑な話は、筋を知ってからでないと、落ち着いて、読んだり、観たりできない、からだそうだ。理解不能は、解けることなく、依然として、闇の中のまま、だった。犯人が誰か、結末はどうか、仕掛けは、などと、全てを知って、安心してから、臨みたいとの意見に、同意する気は、全く起きない。更に、ネタが分かれば、面白いかどうかも、判るので、良いとまで言われると、どうでも良くなる。そう言えば、昔から、同じ本を、何度も読んだり、映画も、何度も鑑賞したり、そんな人が、居るには居たが、彼らは、安心の為ではなく、より詳しく知りたいから、という理由で、繰り返していた。最初から、詳細を知ることで、楽しめるという心持ちは、理解し難く映る。確かに、今の感染騒動も、筋書き通りに運ぶことで、安心を得る、という人が居るようだが、あんな劣悪なもので、振り回される方が、どうかと思う。では、何故、安心が必要とか、保証が必要とか、そんな気になるのか。恐らく、平和な時代が、長く続く中で、傾向と対策が、通用するようになったことから、予想通りに、事が運び、予定通りに、実現する、という考えが、頭にこびり付き、拭い去ることが、できなくなったからだろう。この背景にも、弱者保護の考えが、ありそうだ。精神的な弱さが、受け入れられ、認められる中、想定外、予想外、予定外を、尽く排除し、安定を手に入れられれば、それが一番、という訳だ。だが、人生は、そうならない。ただ、この贅沢を、手にした人々は、その心配さえ、したくないのだろう。

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10月28日(木)−核心を

 冷静に見れば、綻びが明らかなのに、それを、突けないのでは、議論相手を、言い負かすことは、難しいだろう。ただ、闇雲に、矛盾を指摘しても、的を外しては、徒労に終わる。そこに、格好の材料が、飛び込んできたが、果たして、朗報となるのだろうか。
 恐らく、今回も、核心を突くことなく、自己矛盾を、露呈するだろうが、参考の為ではなく、こちらから見た、問題点を、指摘しておこう。海の向こうで、若年層対象の接種を、認可したとの報道が、あった。そこでは、9割以上の、感染を抑える効果が、あったとあったが、さて、この「感染」は、何を指すのか。念のため、原文の報道を、確かめてみた。一つでは、90.7% effective in preventing symptomatic COVID-19とあり、やはり発症を抑える、という意味と分かった。ただ、そこには、成人対象の接種で、示されていた、重症化という文言は、見当たらない。一方、もう一つでは、委員会の誰も、反対しなかったものの、I see this as a personal choice and equity question and not a mandate for allと委員の一人が、発言したとある。認可するが、強制ではない、と明言したが、果たしてどうなるのか。気になったのは、その後の記述で、若年層では、重症化の危険性が、殆ど無いとある。この点こそが、反対派にとって、格好の餌、となる筈だが、どうだろうか。自身に、死の危険が、迫っていないのに、何故、副反応の危険を、犯す必要があるのか。多くの委員が、指摘する所で、これこそが、今回の認可と、その後の国々の対応に、深く関係する。その理由は、死の危険が、迫っている、老人達を、守る為に、子供達の感染を、防ぐ必要がある、というものだ。一部の人々が、盛んに用いた、愛する人を守る為に、という掛け声は、接種を、呼びかける為に、使われた。だが、その効果は、今では、大いに疑われている。発症を防げても、感染は駄目だからだ。

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10月27日(水)−謙虚に

 議論にならない議論を、連日、取り上げてきたが、その原因は、今起きたことではなく、騒動が起きた当初から、続いているものだ。科学的、と見せかけて、何の根拠も示さず、勝手に設定した仮説を、ただ述べるだけの、姿勢が続き、結果的に、破綻へと向かった結果だ。
 感染症の仕組みに関して、2年近くの世界的混乱は、様々な知見を、与えてきたのだが、それらを受け止め、解析する筈の、肝心な人々が、自らの信じる所に、頑なに固執して、思い込みと異なる話に、耳を傾けない為、何も活かされること無く、方針が、転換されることが無い。その為、議論も、当然の如く、無理難題の遣り取りにしかならず、無駄な時間が、続くのみとなっている。長く存続してきた生物には、身を守る仕組みが、備わっていることが、様々な研究から、明らかにされてきたが、科学の力は、全てを明らかにするには、不十分なままだ。それを、見かけの数字から、論じるのが、確率や統計が、適用される分野だが、何故、その確率となるかについて、未だ、明らかになっていないことが、恐らく、数多くあると思われる。分からないことを、分からないままに、説明することは、科学に携わる人間にとり、一種の恥となるからか、彼らの多くは、まるで、全てを知っており、分かっているかのように、振舞うようで、結果として、誤った解釈を、施し続けてきた。これでは、議論をしようにも、材料が、余りにも足らないから、まともなことが、できる筈も無い。だったら、全てが無駄なのか。そうでは無い。これまでの考えと、異なる報告に対して、ゼロから、解析することこそが、まずは必要であり、従来とは、異なる可能性をも、検討することが、必要となっている。真摯に取り組むことは、勿論のこと、不遜傲慢な態度を改め、謙虚に、取り組まなければ、何も解決できない。科学の基本は、自分の考えに固執せず、あらゆる可能性を、検討することにある、のだから。

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10月26日(火)−愚と愚

 的外れな指摘しか、できない大衆を相手に、優位に立っている、などと思っているとしたら、それこそ、大外れな人間共だろう。製造者と政府機関は、効果の程を、過剰に訴える為に、独自の指標を、用いてきた。数字のみを、素直に受け止めるのは、無理としか思えない。
 感染症を、深刻な問題として、取り上げておきながら、その実、感染の可能性は、異様に低いもので、その中で、措置の有無で、どんな違いが、起きるのかを、示していたが、全体の中での、可能性が低いことから、どうにも、受け入れ難く映った。だが、それでも、示された効果の数値は、元の可能性と無関係に、高いものだっただけに、期待は膨らんだのだ。ところが、現実に、世界中で接種が進み、その中で、抑えられぬ感染の渦が、広がってくると、頼りだったはずの高い効果も、分母となる母数が、膨大なものとなるにつれ、被害者の数は、増え続けていた。そこが、的外れとは言え、深刻な数字として、訴えられることとなった。だが、元々の効果は、証明できないが、依然として、確実なもの、と言えなくもない。だから、被害者数なんかを、持ち出したとしても、論破できる筈が無い。ただ、同じ連中が、大人達の安全を、図ろうとして、子供への接種を、進め始めた時、論理の綻びが、目立ち始めた。成人の効果と、同じ論法で、進めた結果は、おそらく、同じ有効性を、示したものと、結論づけられたが、そこには、大きな破綻が、起きていた。なぜなら、この感染症では、若年層では、陽性を示しても、そこから重症化する可能性も、ましてや、死に至る可能性も、皆無に近い為、大人で用いた、重症化を抑えるという指標は、ゼロをゼロにするだけで、何の違いも、示さぬこととなったのだ。これでは、接種する意味が、成り立たなくなる。だが、見かけの数字だけは、示せたように、思ったらしく、押し切ろうとしている。いやはや、人間、ここまで落ちるものなのか。

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10月25日(月)−測り違い

 卑下するのが、常である国民性は、議論下手を、自認してきた。だが、最近は、情勢に変化が起きている、とも言われる。自らの意見を、掲げる機会を得て、人々は、議論に参加し、勝利を得ている、と思っているようだ。だが、その実態は、程遠いものであり、議論は、皆無に近い。
 ネット上の議論には、欠けているものが、数多くある。例えば、同じ場所での、話し合いは、サイトという、ネット上の場所という、一見同じようで、その実、互いの存在が見えぬ状況で、行われている。これでは、互いの意見を、交換するという、議論に不可欠な条件が、満たされない。SNSが、確立される以前から、ネット上では、掲示板という仕組みが、設置されており、多くの人々が、そこでの議論に、参加していた。だが、その当時から、意見交換とは異なる、一方的な発言が、盛んに行われ、相手の意見を、理解することなく、自分の考えを、押し通すことだけが、行われていた。これは、今も変わらず、無理解と頑迷さのみが、蔓延している。最近話題となる、感染症の騒動も、その典型であり、接種に反対する人々は、その効果を、貶めようと、躍起になるが、肝心の指標は、的外れなものに終始し、無意味な攻撃が、行われている。製造者と政府機関は、その効果を、重症化抑制で、測っているが、反対者は、感染死亡者の中の、接種済者の割合で、効果無しを、主張している。互いに、異なる物差しを、使っても、同じ土俵での議論は、不可能でしかない。ただ、一方で、製造側の主張も、今の状況となっては、正しく評価する手立てを、無くしていることも事実だ。治験時は、接種の有無で、違いを評価したが、接種が進んでからは、未接種との比較は、事実上不可能であり、検証ができない。これが、議論の混乱を、強めており、解決への道は、見極められない。この事態に、本来なら、冷静に、分析を繰り返し、多面的な意見の交換が、必要なのだが、誰も、その能力を、持っていない。

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