パンチの独り言

(11月1日〜11月7日)
(調査の意義、元通り、苦にせず、価値判断、終われない、蔑み、摂理)



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11月7日(日)−摂理

 人生は、山あり谷あり、楽しみも、苦しみも、様々あって当たり前、と思う人が、少なくなったのか。平和で安定した時代が、長く続いたことで、世の中には、傾向と対策が溢れ、誰もが、安全と安心を、手に入れようとする。たとえ、それが、その場限りとしても。
 こんな時代に、日々の変化を、楽しむのは、普通ではないのだろうか。そんなことを、思い悩むことは、決して無いのだが、このまま、突き進むことには、強い懸念を覚える。理由は、数え切れぬ程あるが、中でも、重要なのは、人の知恵の足りなさ、なのだと思う。傾向を確かめ、対策を講じる、というやり方が、最善の策として、提供されるのに対して、不十分な調査や、知識不足を、感じないままに、傾向を、確かなものとする、人間達の心理が、如何に、危ういものかと思うからだ。実例は、幾らでも挙げられるが、所詮、無駄なことだろう。一つだけ、紹介したいのは、ある番組で、観たからだ。出生前診断は、生まれてくる子供の、健康を思い、確かめたい、との欲求からだが、まずは、異常がある、とされた時に、どうするのか。何も考えないままに、行う人々が、沢山居ると言われる。それ自体は、確かに、大きな問題だが、診断が、全ての異常を、発見できる筈も無いことに、目を向けないことこそ、より大きな問題となる。人間は、完全無欠で、生まれてくる筈もなく、それぞれに、色んな欠陥を、抱えてくる。自分を、眺めてみれば、すぐに、気付くことだが、子供の将来を考えると、とされてしまう。番組では、制作者の妹が、ダウン症だという事実、と絡ませて、話を進めていたが、これとて、明暗入り混じった状況を、作り出してきたとある。多様性が、声高に訴えられる時代に、こんな傾向と対策が、何を意味するのか、人間の愚かさを、眺める想いがした。生殖医療には、欲望が溢れ出す。だが、摂理を無視して、立てられた対策に、意味などある筈も無い。

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11月6日(土)−蔑み

 教師が、尊敬されるのは、何故か。尊敬に値する、行為の数々が、生徒達に、向けられるからだろう。だが、その一方で、嫌悪の対象となり、軽蔑の眼差しを、向けられる教師も、居たのではないか。理由は、様々だが、多くは、威張り散らし、公平から、程遠い存在だった。
 もう、学校を離れて、長くなる人々にとり、それとよく似た状況が、目の前で展開される。威厳を保とうと、躍起になる人々は、未知の脅威に対して、様々な説明を、加えているが、その実、浅薄な考えばかりで、言い訳じみた言説を、撒き散らすだけだ。ご都合主義の、取捨選択により、築き上げた論理には、綻びばかりが、目立つだけで、お里が知れるとは、まさにこれかと、思わされる。但し、この状況は、騒動を煽動する、世界機関を頂点とする、専門家だけでなく、それに対抗する、反対勢力に与する、専門家にも、当てはまるのだ。待ち望んだ平穏も、一時のものと、盛んに喧伝し、心の油断だけでなく、次の方策をと、大衆への圧力を、強める推進派に対し、猛反対を繰り広げる人々は、推進派の根拠を、破り捨てようと、目くじらを立てて、必死に、綻びを探す。だが、何方の言説も、基礎知識に欠け、論理も破綻し、大衆は、戸惑うばかりだ。全ての元凶は、検査を優先させたことにあり、感染の定義を、再検討する必要が、あるに違いない。でなければ、ワクチンの効果も、患者の治療も、社会の秩序も、どれもこれも、望めない世界となる。効果を絶対視し、強制を断行するのは、愚かなだけで、社会の混乱を、招くのみだし、検査を続行し、いつまでも、数の増減に、腐心するのは、判断を誤るだけだし、過大評価に基づく、治療体制の整備は、現場の混乱と、被害者の増大を、招くだけなのだ。威厳と、金儲けに、目を奪われた、専門家達は、何方に与するにしても、本来の務めを、果たさぬばかりで、無用の長物でしかない。決して、尊敬に値しない、存在なのだ。

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11月5日(金)−終われない

 マイクを向けられ、恐怖に歪む表情を、浮かべながら、警戒を解かない、と訴えていた人々は、今、何をしているのか。思惑通りの反応と、取り上げられても、顔の下半分を、隠しておける安心からか、そちらへの警戒は、怠っていたようだが、この状況に、何を思うか。
 激減した数から、見えてくるのは、ただ一つ。現時点では、警戒の必要は無い、ということだ。だが、相変わらず、恐怖を叫び続ける人は、画面に登場し、数々の理由を挙げて、専門家たる威厳を、保とうとする。こちら側では、嘲笑が漏れても、委細構わず然としている。ただ、挙げられた理由は、その多くが、使い古され、通用しないもので、当初からの一つ覚えに、終始する感がある。では、本当に、もう大丈夫なのか。有り体に言えば、初めから、大丈夫なのだ。風邪の一種、と言う度に、恐ろしさを、仔細に説明してきたが、感染率も死亡率も、然程高くなく、普段通りの注意で、十分に対処できるのだ。一方で、平穏となり始めると、途端に、後遺症の問題が、取り上げられたが、これとて、これまでの感染症と、大差ない状況であり、重度の肺炎では、同様のことが、起き得ると考えられる。高熱や炎症は、患部だけでなく、他の臓器にも、影響を与えるから、当然のものだが、従来、無視していただけのことだ。一方で、依然として、検査は継続され、無駄が続けられる。論理の無さは、この点に、著しく見られ、騒ぎを続けたい、との望みが、露骨に現れている。他にも、今回の騒動では、科学への信頼が、失われたと思える状況が、数々現れてきた。感染や発症の仕組みは、未だに明らかでなく、それに関わる免疫も、不確かな話ばかりが、流布されている。だが、肝心の専門家でさえ、後付けの話を、次々に繰り出すのだから、如何ともし難い。特に、注意を要するのは、不確定なままに、見切り発車を繰り返した、政治判断にある。収束を見ても、終息できないのは、その為なのだ。

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11月4日(木)−価値判断

 経済成長は、確保できる、と書いたが、多くの人は、これこそ、疑わしいと思うだろう。確かに、高度成長を、果たした国として、同じことが、起きるとは、誰も言っていない。そこではなく、今、皆が信じ込まされている、経済の停滞は、見方の違いでしかない、ということだ。
 この騒動の中、大打撃を受けた業界を、眺めてみれば、悲惨な状況は、すぐに理解できる。国を挙げての掛け声に、便乗しようとしたのに、あっさりと裏切られ、解決策を、見出せない状況が、長く続くと、もう、嘗ての栄光を、取り戻すことは、不可能とさえ思える。それも、ポスト、などという言葉が、冠されては、変える気のない世界に、こちらが、変わるしか無い、と思った筈だ。一時凌ぎは、様々に、講じたものの、転換は訪れない。結局、騒動の元凶と、同じ組織に属する、観光促進施策を、大々的に講じたことに、便乗したのが、間違いだったのだ。では、他の業界はどうか。様々な要素があるが、それでも、それなりの状況にある。一方で、業界内には、窮屈な雰囲気が、漂っている。これは、別の要素があるからだ。最大のものは、デフレという魔物だろう。安売りだけが、成長への頼み、との考えが、こびりついていることが、元凶となっているのだ。安いことが、価値として、論じられるが、物の価値は、それ相応の値段、となるべきことを、すっかり忘れて、安売り競争に、明け暮れ、それを追うのが、賢い消費者の常、と思わされている。これが、業界の衰退を、招くだけでなく、そこで働く人々の、生活を、苦しめる要因となっているのだ。だとしたら、それを解決するには、何が、大切となるか。要するに、物の価値を、妥当なものに、定める必要がある、ということだ。価値を理解せず、値段だけで、追いかけるのは、賢いことではなく、愚の骨頂だ。この問題を、解決するのは、宰相の一言も、あろうが、庶民それぞれの理解しか、あり得ない。

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11月3日(水)−苦にせず

 ばら撒き、という意味では、何方の勢力も、大同小異だった。だから、現実味で選べば、今、権力を握る方に、傾いたのだろう。だが、それと同時に、財布の中身を見ずに、好き勝手に言う連中と違い、財布の紐を握れば、出て行くものだけでなく、入るものに、目を向けねばならない。
 そんな感覚だからか、総裁に、立候補した時から、不得手な経済問題に、言及し続けてきた。ただ、日帰りの如く、星の反対側まで、出かけて行く姿は、得意分野に、繰り出すようで、現地でも、水を得た魚だったようだ。各国の首脳と、旧交を温め、本来の姿を、取り戻したように見える。しかし、とんぼ返りで、戻った国の経済は、様々な見方でも、悲惨な状況にある、と認めざるを得ない。その中で、世界各地と同様に、無駄な制限を、厳しく実施したことから、経済への悪影響は、深刻なものとなっている。それでも、世界を相手にする大企業は、旅客業などの一部を除けば、大した被害を、受けておらず、それより、遥かに深刻なのは、家計への打撃だろう。だからこそ、更なる支援の必要性を、誰もが、当然のこととして、訴えている。だが、単なるばら撒きでは、焼け石に水、でしかない。根本解決には、あの宰相が、提案するように、経済成長と分配が、行われることが、必要となる。成長自体は、悲観的な見方をせず、冷静に眺めれば、確保できると思えるが、バブル崩壊以降、滞っているのは、分配だろう。悪循環として、何度指摘されても、改善されないのは、痛みと称する、馬鹿げた扱いを、社員に行う企業体質で、人気を誇った宰相が、先頭に立ち推進した中で、学者出身の大臣が、歪んだ考えを、市場原理と称して、押し付けた結果が、そのまま反映されてきた。社会全体として、経済を保つ為には、循環が不可欠で、滞留を、企業が推し進めたことが、今の惨状を、招いたと言える。それを、打開する為の分配を、どう推進するか。苦手分野だが、宰相の手腕に、かかっている。

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11月2日(火)−元通り

 愚民政治が、大衆受けするのは、当然のことだ。だが、そこに、作られた騒動が、加わることで、行動制限が課され、経済打撃が、広がると、様相は、更に深刻となった。支援と称するばら撒きに、与党どころか、野党までもが、加わることで、差が見えなくなったのだ。
 その結果、政権交代どころか、数の確保さえ、難しくなり、地域での対策が、評価された政党だけが、一人勝ちとなった。だが、その対策でさえ、実効性に関して、検証されること無く、単に、好印象を与えた、だけのものであり、薄っぺらな鍍金は、すぐに剥がれるだろう。これこそが、愚民政治の典型、との見方が、研究者から、行われるだろうが、本来、対抗する勢力が、互いに、主張、批判することで、より良い結論を、導く筈の仕組みが、崩壊していることを、表しているようだ。実は、大衆を相手に、便宜を図る手法は、このような事態を、招くこととなり、国を保つ為の制度が、瓦解する可能性を、強めることとなる。その為、愚民政治の多くは、比較的短命に終わり、終焉では、国や経済の崩壊を、起こして来た。独裁政治へと、走ることも、初期は、愚民政治から、始まることが多く、そちらへの警戒も、必要となるだろう。特に、対抗勢力が、共に、類似した目標を、掲げることで、本来なら、競争原理が働く筈が、その制止弁が働かず、国を挙げての暴走が、起きることが、最も警戒される。大衆に魅力的な提案を、掲げることは、経済崩壊への道を、突き進むこととなるが、果たして、何時、どのようにして、資金回収を、始めるのか、全く見えていない。騒動の元となった、数の減少は、著しくなり、恐ろしさは、薄れるばかりなのに、依然として、警戒の必要を、説く姿勢には、逆に、状況を改善しようとする、気配さえ、見えていない。何が、正しい姿なのかは、ここまで破壊が進むと、見えてこないが、それにしても、経済の基本を、思い出す必要があるのだ。

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11月1日(月)−調査の意義

 投票がある度に、調査が行われる。世論調査と呼ばれる、大々的なものも、出口調査と呼ばれる、局所的なものも、動静を、見極める為に、不可欠と思われて来た。ところが、いつの頃からか、予想外の結果が、出ることとなり、調査の意味も意義も、疑われている。
 多くの人々が、その原因を、突き止めようと、躍起になっているが、確かなものは、出ていない。前世紀には、調査の徹底が、成されることで、開票を待たずとも、結果は明らか、という状態となったが、その後、何が、どのように、変化したのか。国内では、原因の一つとして、期日前投票制度の創設が、挙げられている。手続きが、簡素化され、事由も、大幅に緩和された、と言われる。これにより、不在者投票が、行われていた時代と異なり、投票日と比べて、半数を占めるまでとなり、当日の調査の、信頼度が、下がったとされる。だが、それは、国内に限ったことで、調査の意義が、疑われるきっかけとなった、連合離脱決定の投票には、当てはまる筈も無い。だとすれば、調査手法に、原因を求めるしか、無いこととなるのだが、これという、答えが導けていないようだ。大衆の正直さに、変化が起きた、と言われるのは、回答と異なる、投票行動を行なった人が、多いのではないか、との仮説からだが、真偽の程を、測る手立てが無い。何しろ、調査に対する回答で、嘘を吐くとなれば、何度やろうが、無意味となるからだ。いずれにしても、事前も事後も、調査の信頼度は、著しく下落している。だとすれば、もう、こんな面倒は、止めにした方が良い、と思う人が、多いだろう。出口で、尋ねられるのも、面倒だろうし、その姿を、他人に晒すことは、恥ずかしいと思える。電話が、かかってくるのも、やはり、面倒でしかない。結局、どっちつかずの回答を、返してしまえば、調査の意味は、無くなるからだ。ただ、今回は、どうだったか。概ね良好だったようだ。何故だろうか。

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