パンチの独り言

(11月8日〜11月14日)
(データ消去、恐慌、自制心、正しい順、目眩し、正義とは、張本人)



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11月14日(日)−張本人

 研究を行う、学問の危機が、叫ばれ始めてから、既に、四半世紀を、経過しただろうか。高度成長の最中、あらゆるものに、莫大な資金が、注ぎ込まれる中、研究も、ご多分に漏れず、潤っており、巨大科学をはじめとして、多くの資金と、多くの人材が、注ぎ込まれた。
 だが、成長が止まり、衰退へと流れると、財布の紐は、一気に、固く締まってしまい、人々の気持ちは、無駄遣いを、厳しく見る方に、傾いて来た。確かに、社会情勢は、大きな影響を、与えて来た。だが、きっかけが、そうだとしても、現状は、全く異なる様相を、呈している。研究資金を、集めることの難しさは、嘗て無い程に強まり、携わる人間は、注目を集めることに、腐心するようになった。研究の成果を、声高に訴え、その業績を、高々と掲げる。それが、確固たるものなら、当然のこととなるが、こんな時代が続くと、良からぬ思いを、抱く人々が、増えてくることとなる。それに乗じて、暗躍する人も、登場するが、報道機関は、その片棒を担ぐことと、なっているようだ。姿を消した、女性研究者の成果を、一面トップに、取り上げたのも、何かしらの思惑が、あったからだろうが、当人と取り巻きが、大々的な会見を、開いたのは、それとは別の、思惑があったのだろう。この辺りから、科学や研究への、信頼が、失われ始めた。だが、それでも、原因は、社会情勢にある、と思う人が、多かったろう。ところが、そこに、この騒動が始まり、連日、画面に登場する、専門家達の叫びに、人々の注目が、集まった。兎に角、命に関わるもの、と信じ込まされ、世界中が、厳戒態勢を、敷いたのだから、助かるかどうかは、科学頼み、となる筈だった。だが、どうだろう。様子がおかしい。騒ぎは、依然として、収まっていないが、それより、気になるのは、叫んだ専門家達の言説が、信頼に値せず、との考えが、社会に広がったことだ。理由は簡単、正しくなかったからだ。これこそ、学問の危機、ではないか。

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11月13日(土)−正義とは

 正義で盛り上がる、大学の講義風景を映した、白熱教室が、持て囃されて、もう一昔を過ぎたか。正義という尺度が、時と場合、そして場所により、様々に変わることを、将来ある若者達に伝え、学ばせる場だったが、まさに、それと同じことが、世界で起きている。
 異常気象をはじめとする、気候変動の原因が、人間の活動によるもの、との解釈が、一部の人から出され、正義という名の下に、対策を講じる必要が、議論され始めた時、環境問題の活動家達は、餌に群がる野獣の如く、それに飛び付いた。だが、同時に、何事も、経済活動と結び付け、利益を貪る人々にも、格好の餌を、与えることとなった。正義を振り翳し、未来へ向けての活動と、元凶と見做された、炭酸ガスの削減を、訴えた迄は、まだ良かったろうが、それを、経済と結び、排出権の売買などという、不可思議な取引が、提案された時点で、この活動は、既に、金儲けの手段、と化していた。それでも、正当化に躍起となる人々は、自らの利益追求を、表に出さぬよう、気を配りつつ、活動家の手を借りて、大々的な対策を、講じるように、仕向けて行った。人間の欲は、止まる所を知らず、あらゆる浪費が、尊ばれる中、拡大路線を改め、縮小路線に移った、と当初は見えたが、この取引の導入は、富める者と貧しい者の間で、互いの利得を、もたらすものとして、多くの国々が、飛び付いたのだ。その結果、本来の目的とは、全く異なる目標が、定められただけでなく、金銭に群がる、さもしい人々をも、呼び込むこととなり、混乱は、強まるばかりとなった。一方、異常気象は、様々な形で、世界各地で起き、被害が甚大となるにつれ、事態を深刻と捉える動きは、更に強まった。だからこそ、正義を、声高に訴える人間が、登場するに至り、それをまた、持て囃す人々が、加わることで、混乱は、最高潮となった。でも、この原因と結果の図式は、未だ確証が無く、不確かなままだ。所詮、踊りたい人が、踊っているだけで、何の意味も無い。だとしたら、この正義とは、何なのだろうか。

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11月12日(金)−目眩し

 先日、断末魔と揶揄した人物も、長が付く前は、簡明な説明で、人気があったが、責任を負った途端、言動が怪しくなり、論理を失い、感情に訴えるなど、自ら失墜を招いた。前回の波の中では、分科会を上げて、信頼を失い、長も、頑迷ぶりだけが、目立っていた。
 騒動が去り、誰も、説明を求めず、会見にも、集まらなくなると、新指標として、切迫度なるものを、掲げたのは、結局、自分達の失敗を、隠蔽する目的で、居座りを目論んだのだろう。過去の人に、目を向けても、無駄でしかなく、功績は、負のもの位しか、思い当たらないが、一方で、平穏を取り戻し、一息ついたのは、振り回された庶民だけでなく、騒動を煽った人々も、同様ではないか。依然として、画面に登場し、意味不明な説明を、続けているのは、甘い汁を、吸い続けたいだけだろうが、そんなことより、本来の業務に戻り、データ収集と解析を、したらどうか。これもまた、自らの過ちを、証明することにしか、ならないことに、手を付けるのは御免、との気持ちだろうが、専門家としての矜持は、微塵も感じられない。SNSも、大衆も専門家も、あれだけ騒いだのに、静かになった。これも、不思議の一つだろうか。だが、と思うことは、沢山あるが、その一つは、感染症法による分類の問題だ。現場から、誤分類が、混乱を招いたと、度々指摘されたが、あれは、どうなったのか。調べてみると、いつの間にか、改正されたとある。分類変更は、要望からすれば、混乱を、抑える為のものだったが、どうも、様子が違う。改正前の分類の説明の、2ページ目に、その比較があり、何の変化も無いことが、わかるのだ。要望は、感染性や致死率の低さから、5類相当としたが、新型インフルエンザ相当とは、何の変化も無い。小手先の誤魔化しは、この国の官庁の、得意技の一つだが、またもや、有耶無耶にした。どこまで、大衆を、愚弄するのか。

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11月11日(木)−正しい順

 値上げの声が、聞こえ始め、不安を感じる人が、いるだろう。だが、そのカラクリに気付かず、これまで、騙されて来たことを、何とも思っていないのか。物の値段が、上がることは、生活を、苦しくさせる、と信じる人は多いが、では、何故、世界各国が、その政策をとるのか。
 こちらの質問に、正しく答えられる人は、殆ど居ない。経済成長が、生活の向上と、国の存続にとり、不可欠である、との考えから、一定の率で、物の値段が、上がることが、条件となっている。各国の経済政策は、これを目標と定め、達成に、努力して来たが、中でも、この国だけが、例外的な経過を、辿っていると言われる。値上げを、忌み嫌う人々は、安売り合戦に、群がり、少しでも、安い物を、有り難いと思う。だが、それが、経済の停滞の主原因となっていることに、目を向けることは無い。高度成長に、関わって来た世代は、ある一定の額を、年金として受け取るから、値上げのないことは、大歓迎に違いないが、今働く世代にとり、物の値段だけでなく、給料までもが、上がらないことは、歓迎できる筈も無い。だが、このカラクリを、続ける限り、打開の可能性は、見えてこない。何度も、取り上げて来たが、法人税を、引き上げることで、企業の儲けを、社員に還元すれば、給料が上がる筈だが、そちらに向かわず、何もかも、下げることに腐心すると、この状況を、脱することは、難しくなる。この問題は、中小企業で、特に重大であり、それを改善することが、最優先との主張が、聞こえて来たが、順序として、間違っていると思う。まずは、大企業に梃入れし、給料を上げさせ、その上で、物の値段を上げれば、こちらの循環は、思惑通りに動く。それに、社員の数は、大企業の方が、遥かに多いから、まずは、そちらに手を付け、その後に、中小へと波及させれば、結果的には、全体へと広がる。何しろ、中小が苦しいのは、最終製品の価格上昇が起きず、下請け製品が、高く売れないのが、一番の原因だからだ。

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11月10日(水)−自制心

 研究は、嘗て、道楽でしかなかった。時間を、持て余した、金持ちが、暇潰しに、と言われたが、運動方程式が、解かれた時代くらいから、職業として、研究を行う人が、出て来たと言われる。だが、この国では、あの戦争の前までは、道楽の域を、出なかったと言われる。
 大きな変化は、教育水準の向上だろう。戦後、高度な教育こそ、平和に必要とばかり、全国で、高等教育機関が、建てられ、学生数の増加が、図られた。それ自体も、大きな影響を、与えただろうが、それ以上に、大きかったのは、教育者の急増だろう。特に、初等中等教育と異なり、高等教育では、研究が必須とされ、教育より研究を、第一と考える人も、多かった。道楽の研究では、興味本位でよく、地道な活動が、当然だったのだが、興味ではなく、何かの目的を持って、研究を行う人が増え、状況は徐々に変わって来た。上昇志向も、知識欲ではなく、地位に対して、抱かれるようになり、活発な活動には、先立つものが、必要となった。膨らむ予算に、組織も国も、悲鳴を上げ始め、縮小を目論む一方で、世界的な賞を、受けることこそ、究極の目標と定め、大々的に取り上げることで、手柄を狙うことが、研究の目的とされた。とは言え、研究の基本は、地道な活動であり、仮説と証明の繰り返しだ。そこに、派手な展開が、入る余地は、無い筈だった。ところが、手柄優先は、性急な考えに繋がり、乱暴な論理をも、正当化し始めた。その上、予算縮小が、過剰な競争を招き、研究を、人気商売へと、変えてしまった。研究に基づく教育は、当然、確固たる地盤を失い、高等教育の荒廃が、懸念されるが、この状況では、回復は難しい。そこに、怪しげな科学が、登場したのは、当然の展開だろう。感染症も、温暖化も、検証抜きの妄言ばかりで、反吐が出る程だ。だが、肝心の学界は、それを矯めす力さえ、失っている。政治家が、愚かなのは、自明としても、科学者、お前もか。

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11月9日(火)−恐慌

 何事も、論理的に考えれば、自ずと、答えが見えてくる。何度、この話を書いたか、覚えていない。だが、何度書いても、無駄なのだろうか。世の中は、誤った方向に、突き進んだまま、それに、気付く気配も無い。何故なら、論理より、感情を優先し、慌てふためくからだ。
 少しでも、立ち止まって、冷静に、周りを見渡せば、参考になることは、数え切れぬ程あった。だが、止まれば、病原体に、取り付かれ、不治の病に冒される、と信じ込まされ、冷静さを失い、唆された方に、走り続けてきた。息を切らせて、進んできたが、肝心の数は、一桁減り、二桁減りと、恐怖を煽る効果も、消え失せる程、となってしまった。でも、止まるのは、恐ろしいまま、なのだろう。街行く人々は、依然として、口を覆ったままで、其処彼処の出入り口では、液体を手につけ、せっせと擦り合わせる。その効果の程は、検証されることなく、盲信した人々は、藁にも縋る思いで、日に何度も、儀式を行い続けた。それでも、足らぬとばかり、救いの神と言われた、接種を受けたのも、どんな効果が、実際にあったのか、確かな検証は無い。それでも、嘘を撒き散らす専門家だけでなく、伝統的な手法として、最善の策との推奨を、謳い続けた研究者までもが、必死の形相で、訴えてきたことから、あれよあれよと、その割合が増加し、先行する国に、追いついたと言われる。だが、ここでも、冷静に眺めると、先行した国は、効果に陰りを見せ、こちらとの違いは、強まるばかりとなる。そこに、飛び込んだ情報は、奇奇怪怪なもので、病原体の、自殺にも似た現象が、確かめられたとある。杜撰な仮説も、答えに窮した人々には、魅力的と映ったのだろう。飛び付いた人々は、証明に、躍起となったのだろうが、何を、どう確かめれば、理解できるのか、判っているのか。何の証拠も見せずに、絵空事を、描いただけで、信じてしまうのも、冷静さが失われたからか、それとも、無能なだけなのか。

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11月8日(月)−データ消去

 もう、気を緩めても、いいのだろうか。そんな気持ちを、抱きながら、日々の数字を、追う人も多い。だが、油断大敵の声が、静まる気配は、そう簡単に、見えて来ない。何が、問題なのか。死に至る病だから、との説明は、聞き飽きたし、実態を伴っていない。
 となれば、元凶たる世界機関は元より、国内の方針を、諮問する分科会も、存在意義を、失い始めている。風前の灯の如く、見える情勢に、当人達の焦りは、想像に難くない。頼みの綱の数字が、減少傾向どころか、騒ぎが、それ程出なかった頃に、近づくに連れ、綱を手放す決断が、必要となったらしい。陽性者、重症者、死者の数を、日々伝えているが、最重要とされた、新規の死者数が、全国で0となり、捨てる覚悟も、決まったようだ。感染状況の指標を、これらの実数ではなく、病床の逼迫度に、変更するとの報道があった。小手先の変更に、所詮、変化無しと見る向きもあるが、騙されてはならない。実数と違い、度合いは、その決め方に、確かな基準が無く、定める人々の、思うがままに、操れるのだ。これまでも、答えに窮してくると、非科学的な表現を、多用してきた組織と、その代表なのだ。論理を打ち捨て、感情に訴える、意味不明な言説で、定めたものとして、逼迫度を、引き合いに出して、騒ぎを続けようとする思惑が、露骨に出ている。更に、今後、問題となるのは、統計に関することだ。変更後は、これまで蓄積したデータを、継続して収集せず、統計が、適用できない状況となる、可能性が十分に、考えられる。これまでも、統計に目を向けず、場当たり的な妄言を、吐き続けてきただけに、その重要性を、理解することさえ、できないのだろう。統計に携わり、データベースを、扱った人間なら、この変更が、何を意味するのか、容易に推測できる。崖っぷちに追い込まれ、断末魔の叫びを上げる、不実な輩に、耳を貸す必要は、全く無いのだ。

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