認知症の命名者の訃報が、飛び込んできた。それまで、痴呆症とか、老人呆けとか、呼ばれることで、差別的な表現が、日常となる中で、その症状の、核心は何かを考え、阿呆でも、白痴でもない、新たな名前を、付けたと言われる。ただ、その思いが果たせたかは、不明だ。
実際には、名を付けたことより、症状の診断に使う、指標を示したことの方が、遥かに重要な功績だろう。それまで、不確かな基準から、医師それぞれに、異なる診断を下していたものが、一定の基準を設け、白黒を、明確にしたからだ。確かに、医療行為として、診断は、最優先の課題であり、治療方針を決める、手立てとなると言われる。だが、認知症に限っては、治療の手立ては見つからず、単に、本人と家族にとっての、慰めの一種のように、扱われてきたようだ。それを、自ら確かめたのは、命名者本人であり、自身が、認知症となったことで、患者や家族が、どんな感覚を、抱くのかを、知ることとなった。記憶の不確かさは、徐々に深刻となるが、その場その場の判断は、それなりの能力が、残っている。その現実に、向き合うと、病気の名前が、どうあろうとも、現実に、立ち向かわねばならない、と思ったのだろう。その一方で、依然として、見つからぬ治療法に、医師の立場からではなく、患者の立場で、関わることとなった。だが、その発見の前に、寿命が尽きてしまった訳だ。現代病の如く、扱われるようだが、実際には、古くから知られており、周囲の皆が、それぞれに、対応してきた病であり、薬が無くとも、何かしらの解決策を、講じてきたものだ。若年性のものでは、そこから、寿命が尽きるまでの、期間の長さが、問題となるが、老人性のものでは、症状に合わせて、見守ることこそ、重要となる。気になるのは、この機に乗じて、認知症関連の話題を、振り撒く組織が、目に付くことだ。まるで、特効性の手立てが、あるかの如くの宣伝に、呆れてしまう。
心配の種は尽きない。そんな状況なのか、と訝る向きもあろう。不安に苛まれ、救いの神に、一縷の望みを託す。という気分でも、落ち着きを取り戻すと、どうも、様子がおかしい。神の御加護が、有ったのか、無かったのか、定かにならぬまま、新たな脅威が、現れる。
元凶の世界機関は、懲りもせず、救いの神の儚さを、伝え始めた。製造企業の主張と、全く異なる展開に、原因究明より、単なる思いつきで、対処しようとするのは、あの組織の腐敗が、修復不能な段階にまで、進んだことを、如実に表している。どれだけ、接種を進めても、目標となる状況に、到達できない事態に、過信は禁物、とまで言うのは、何事かと思う。所詮、その程度のものと思えば、切り捨てもできるが、依存体質の学界は、誰も決められない状態を、離脱することができない。ならば、初心に帰り、原因を詳らかにする為に、地道な調査を、進めればいいのだが、重い腰は、上がりそうに無い。この問題さえ、答えが見出せない中、新たな脅威が、登場したとの報道があり、市場の混乱が、再燃したと伝えられる。だが、目に見えぬ脅威に、ここでもまた、推測を重ねるだけで、何の根拠も無く、騒ぎ立てるのは、止めて欲しい。心配の種は、本来は、自らの中で播かれ、芽を出すものだが、この種は、外から撒かれ、次々に、芽を出すように、肥やしを施される。自分が起こすのなら、自分が止めれば、それで済むが、外からでは、手の施しようが無い、と訴える人もいるが、実は、間違った考えでしかない。自分なりに、状況を確かめ、把握していれば、数々の間違いや誤り、果ては、誤魔化しや嘘まで、暴くことは、簡単にできる。恐れを優先し、備えを怠らず、という構えでは、この過ちを繰り返し、窮地を脱することは、決して叶わない。折角、落ち着きを取り戻したのなら、冷静に眺めて、間違い探しに、精を出したらどうか。騒ぎたいだけの連中を、叩きのめすのだ。
帯には、知識人達の推薦文が、並んでいる。先日、読み終わった本は、まさに、知識人が待ち望んだもの、との売り文句だ。読み始めは、確かに、今の大衆が抱える、問題を提起しており、成る程、と思わされる部分もあった。だが、読み進むと、その印象は、蜃気楼と化した。
知っているつもり、とは、よく言われることで、揶揄する際には、知ったかぶりなどとも、称される。若気の至りなら、目を瞑るだろうが、いい大人が、そんな状況では、と思った人も多いだろう。その絡繰りに、迫ったと言われる、推薦文から、多くの人々が、手に取ったのだろう。ネット上の評判も、上々となっていた。だが、読んでみると、その内容が、表面的なものしか、取り上げておらず、更には、途中から、論旨が右往左往して、まとまりのないものとなっていた。特に、著者らの主張が、強く出てくるに従い、論拠は脆弱となり、首尾一貫性も失われ、単なる戯言となっていった。実は、読み始めから、違和感を覚えて、首を傾げていたが、もしかしたら、本質に、導く為の序章かも、と思って我慢した。だが、結局は、浅薄さばかりが、目立ち始め、強引な論理を、押し付けられると、知っているつもり、という大衆の無知を、指摘することで、満足を得るだけの、傲慢な認知科学者の、無知を曝け出したもの、との思いを強くした。確かに、現状を眺めると、大衆の無知は、目に余るものとなっている。その原因は、知っているつもり、という心理にあるとする、著者の主張には、ある程度の納得はできる。だが、そこから導いた、問題点やその解決法には、何の意味も無く、ただ単なる思い込みで、非論理的な説明で、終わってしまった。実は、この点にこそ、現代社会が抱える問題が、現れているのではないか。知っているつもりは、専門家にも蔓延する、心理的な病との指摘は、彼らにも当てはまり、その解決の糸口さえ、見つけていないのだから。
皆と同じであることを、第一と考える国民感情、現状について、どんな思いが過るのか。混乱の波が、押し寄せる中、様々な対策が、講じられたことで、安心と思ったのも束の間、世界では、再び襲いくる恐怖の波に、人々の懸念が高まる一方、責任を被せる狂気も出てきた。
安心と心配を繰り返し、その度に、ある意味極端な反応を、繰り返すのは、大衆の常とは言え、目に余るものがある。愚民政治では、そのぐらつく大衆の心を、掴む必要があるから、政治家達は、更なる極端な選択を、決断するようだ。だが、世界各地の混乱が、押し寄せる中、国内の状況は、全く異なる様相を、呈している。横並びを、常と考えてきたのに、何が違うのか、思い当たる節も無く、ただ、戸惑うばかりだが、現状を目の当たりにして、受け入れるしかない。次の波の襲来を、懲りもせずに、訴える人々には、この違いを説明する気持ちも、更には、それに必要となる能力も、持ち合わされておらず、一つ覚えの繰り返しとなる。だが、もしかしたら、この違いこそが、これまでの常識とは異なる、感染症対策の一つ、となる可能性がある。日銭を稼ぐことに、躍起となる人々は、無視するしかないが、本当に、学問に取り組み、その成果によって、手柄を上げたいと願う人々は、今こそ、地道な調査に乗り出し、この違いを、明らかにしたらどうか。皆と同じ、という願いを、成長する中で、何度も持ち続けた人間が、世界とは異なる結果を、手にしたとしたら、何とも皮肉なものだが、そんな偶然を、必然とする要因が、あるのだとしたら、逃す手は無い。多様性が、声高に訴えられる中、類似性ばかりを、追った人間が、何を得たのか。はたまた、人為的なものではなく、単純に、遺伝性のものだとしたら、その要因を、定めることこそ、重要なものだろう。研究に取り組まず、日銭稼ぎに精を出す、似非学者達には、そろそろ、舞台を去る時が、来ているのかも知れない。
毎月、読んだ本を、報告している。暇潰しに、本を読んでいるが、何度か報告してきたように、期待外れが多い。本を選ぶのは、本来なら、書店に赴き、探すのが本筋だろうが、街の本屋が、減り続ける中、それ自体が難しい。そこで、頼りにするのが、新聞書評となる。
とは言え、全てを従う程、金と暇がある訳では無い。だから、紹介された中から、興味を惹いたものを選び、注文するのだ。そこで、かなりの偏りが出てくるが、それでも、一度選ばれたものなら、という期待がある。しかし、どうにも、解せないものが、増えているように思う。昔から、書評子が、本当に読んだのか、疑う声があり、書評文にも、それが現れることも、あったようだが、こちらの選び方は、書評に掲げられたか否かであり、紹介文は、一切読んでいない。だから、称賛の声は、影響を及ぼさない。読んでいようが、いまいが、また、出版社からの強い推薦が、あっただろうが、なかろうが、確かめるのは、こちらの読む力だ。そんな目で眺めると、評判倒れが、多いことにがっかりする。読む力の違いか、はたまた、考え方の違いか、理由は判らぬが、それでも、結果は結果である。だが、世の中では、そんな評判に、左右される人々が、多いと聞く。書店員の推薦を、頼りにする人も、書評子よりは、ずっと参考になる、と言っていると伝わるが、果たして、どんな感覚で、読んだのか。お薦めの文に、あった指摘に引きずられ、そこが面白い、と感じる。これは、どうかと思う。感覚は、人それぞれであり、著者も、それを踏まえて、書いているのではないか。読書を強制された、苦い思い出を、抱く人もおり、試験で出題される、著作の読み方に、従わされ、様々な影響で、自己流を失った、とも言われる。だが、そんな時代は、過去になったのだ。好き勝手に、読んで感じれば、いいのではないか。ということで、読んだ本の感想は、個人のものでしかない。
迷言、暴言、妄言の連続に、相手をする価値は無い、と思う人も多い。だが、その出鱈目に、国中どころか、世界中が、巻き込まれ、挙げ句に、更なる暴挙が、取り沙汰される事態に、無視や傍観は、意味を成さない。自ら判断することを、止めた大衆には、従うしかないのだ。
民主主義では、指導者が、狂気に走っても、それを止める仕組みが、働くと言われてきた。だが、狂気に魅力を感じ、共感を抱いた人が、多数を占めると、状況は一変した。歯止めが無くなり、暴走を続ける国家に、独立性が保証されれば、どんな事態に陥るか。まさに、その展開が、始まろうとしている。世界機関が、綴った台本には、自らの力で、危険な病原体を、封じ込める手立てが、描かれていたのだろうが、それらが悉く、当て外れとなり、窮地に追い込まれた、と言われる。だが、事態を、詳細に把握すること無く、ただ、漫然と、同じ考えに固執し、何の効果も得られなかった、同じ対策を、続けていては、誰が見ても、勝算は見込めない。その様子から、業を煮やした指導者は、狂気に満ちた強硬策を、講じ始めた。科学者の妄言を、味方につけた形で、全員に強制するのは、確かに、解決を導くかもしれない。しかし、現状を、普通の見方で眺めれば、世迷い言でしかない。感染を防げぬ、ワクチンの効果を、依然として、新規陽性者数で、確かめる馬鹿馬鹿しさは、いつまで続くのか。陽性者と発症者の違いは、確かめられたのか。そして、陽性と発症は、その後の感染に、違いを産むのか。ワクチン接種者の、抗体量の推移は、どうなっているのか。抗体量と、発症や重症化の関わりは、あるのか無いのか。重症者の治療成績は、どうなっているのか。専門家でなくとも、思いつく疑問は、幾らでもある。誰も、調べていないのか、それとも、騒ぐ連中が、誰も気付かぬのか。はたまた、気付かぬふりを、し続けているのか。これらを明らかにせずに、誰が、狂気を止められるのだろう。
愚民政治、と揶揄されるように、愚かな大衆を、味方にした政治が、世界中に蔓延している。人気商売であるからには、人気取りに徹することが、唯一無二の方法と言われるが、それでも、現実を目の当たりにして、約束を反故にして、正しい方向に、改めることが必要となる。
以前から、大衆を味方としても、現実論に走り、それなりの成果を上げたのが、政治の力だった。しかし、最近の傾向は、この図式が、崩壊したことを示す。愚かな考えを、改めること無く、更に極端に走り、暴走を続ける。世界の混乱は、まさに、この状況にある。海の向こうでは、その極端を脱しようと、反対勢力が結集し、成果を上げたのだが、結集した筈の力は、目的を達成した途端に、それぞれの道に戻り、勝手な論理を、展開し始めた。指導力の問題、との指摘もあるが、実際には、想定通りの展開であり、この混乱を経て、どんな現実論に収まるかが、肝心となる。別の混乱を、来してしまうのか、はたまた、ある一定の落ち着きを、取り戻すのか。それが、指導力の問題となるか、あるいは、別の力が働くのか。政治の混乱とは別に、感染症に関する人為的な混乱が、続いており、そちらの解決に関しては、新政権は、首謀者に与しており、解決への道を、歩み始めるとは思えない。収束が起きるとすれば、それは自然の成り行きでしかなく、いつまでも、不安を煽り続け、過ちを続けたとしても、肝心の病原体と人間の関わりが、何かしらの作用により、終わりを迎えて仕舞えば、騒ぎようが無くなる。世界機関も、各国の関係機関も、当初から、方針を変えること無く、その再検証さえ、行おうとする気配さえ見せない。自らの過ちを、認めぬ為の方策を、様々に講じるだけで無く、それが、暴露されるような、精査を始めないのは、まさに、そのことを、表しているのだろう。当初は、改心を期待したが、愚かさが上回ってしまった。なるようにしかならない、ということだろう。