パンチの独り言

(12月13日〜12月19日)
(正視せよ、勝算は?、疑心暗鬼、我田引水、偽薬、気休め、騙されぬ)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



12月19日(日)−騙されぬ

 日々、伝えられる数値に、一喜一憂を繰り返す。日常と化した、営みなのだろうが、では、何を喜び、何を憂うのか。そんな問い掛けをされたら、どう答えるだろう。本来なら、そこに、確かな根拠がある筈だが、今の世、そんなものは、ありそうに無い。では、何故。
 根拠は、無いのかも知れないが、原因は、はっきりしている。日々、伝えられる数値には、脚色が施されている。単に、数値を掲げるだけでは、報道の意図や意味が、伝わらない。と考える人々は、生の数値ではなく、何かしらの処理を、施したものを、盛んに伝える。例えば、ある数値以上か、以下か、を付け加えたり、百分率や倍率で、表現したりする。何かしらの基点を、示されることで、人々は、大小関係を理解し、全体の把握が、容易となる、と言われる。百分率や倍率は、相対関係を、明らかにする為に、用いられる。ごく単純な統計処理であり、複雑な理論も、数学的な理解も、必要では無い、と思える。だが、提示する側には、常に、ある思惑が蠢く。これらの処理により、情報を受ける側に、ある考えを、植え付けようというものだ。以上と言えば、大きいとの印象を、以下と言えば、小さいとの印象を、抱かせようとする。百分率は、割合を表し、その多少により、多い少ないの印象を、誘導するし、倍率は、増減の状況を、誘導する。何の場合も、以上以下には、何処に基準を設けるかが、重要になるが、その根拠は、殆ど示されず、率の場合は、分母にあたる数値が、どれ程なのかで、絶対数は、全く違ってくる。簡単な統計でさえ、こんな状況にあり、鵜呑みは禁物、と言われる所以は、そこにある。だが、一喜一憂を繰り返す人々の、大部分は、こういう数字に、振り回される。まさに、思う壺に見えるが、どうだろう。こんな状況だからこそ、基礎教育での、統計教育が肝要、と言われるのだろう。だが、そんなに大仰なものか。構えずとも、身に付くのでは、と思う。

* * * * * * * *

12月18日(土)−気休め

 騒動が、作られる前から、この国の特徴として、世界中から、奇異な目を向けられたのは、マスクだろう。冬になると、街で擦れ違う人々の、顔の真ん中に、鎮座する白いあれだ。異様とか、無意味とか、散々揶揄されたが、この騒動で、世界情勢は、一変してしまった。
 死への恐怖を、表現する為に、使われた手法は、医療現場の混乱を、伝えることだった。感染力が、非常に強く、一度感染してしまうと、死を免れることが、殆ど不可能である、と当初の報道は、本気で伝えていた。重装備の医療関係者が、患者と接する姿を映し、その恐怖を伝えることで、死の病との認識が、広がった。だが、今、その後の数値の推移を、眺めてみると、過剰反応でしかなく、誤認識の極みであったことが、明らかとなる。当然ながら、マスクの着用に関しても、当初は、非常に厳格な方法が、紹介されていた。着脱の方法などの、取り扱い方に始まり、再利用の為の、洗浄法まで、あらゆることに、細心の注意が、必要であるとされた。直後には、マスク不足が深刻となり、政府による、布マスクの供給があったが、その実用性の無さから、当時の宰相名を冠して、揶揄したことは、今、余剰分の再配分が、話題となることで、無策の極致として、紹介される。その後、世界を巻き込み、習慣化された着用は、日常的となったが、当初の厳格な扱い方から、余りにもかけ離れたもので、効果は、精々、無いよりまし、程度のものと思われる。それでも、皆がするからと、続ける意味があるかについては、心理的な効果として、という程度だろう。元々、性能でも、濾過能力は、病原体を阻止できないから、感染防止という目的は、達成できそうにない。にも拘らず、こんな暴挙が横行するのは、まさに、愚の骨頂でしかない。では、何故、いつまでも続けるのか。気休めでも、心に響くから、としか言えそうにない。馬鹿げていても、それなら、ということになる。

* * * * * * * *

12月17日(金)−偽薬

 では、肝心のワクチンの効果は、どうなのだろう。専門家は、誰も彼もが、強く推薦しているように、報道を中心に、扱われている。だが、科学の常として、諸説芬芬、様々な意見があり、それぞれに、論理的根拠がある。単なる噂話とは、大きく違い、耳を傾ける価値がある。
 その観点から、眺め回してみると、製造企業の主張は、ある偏った見方に、よるものであることが判る。効果を調べる過程で、多くの人々に、本物の接種と、何も含まれていない接種が、行われて、その後の感染状況が、調べられたとされる。そこでは、被験者のほんの一握りしか、感染しなかった。本物だろうが、なかろうが、どちらにしても、1割にも満たない人しか、発症しなかったのだ。ここに、第一の鍵がありそうに思える。被害を、過大評価する人々は、日々、死者の数を報告し、その数値が、如何に大きなものかを、強調してきた。しかし、それとて、集団から見れば、ほんの一握りに過ぎず、当初、言われた程の感染力が、実は、病原体に備わっていないことが、見えてくる。最も強いと言われた、変異株でさえ、検査陽性となる人の割合は、高率を示した国でさえ、3割程度に留まった。新規の数のみだから、真の感染力、とは見做せないだろうが、にしてもなのだ。にも拘らず、世界機関を先頭に、各国政府も保健機関も、接種の必要性を、口を極めて、訴えていた。当初、目論まれた、集団免疫が、幻と化したのも、免疫の仕組みの問題だけでなく、抗体産生に結びつく、効果の程にも、問題があることを、示しているように思える。これまでの、多くの病気に対する、ワクチンの効果は、精々、3割から5割止まりだったのに、集団としては、十分な成果を上げたことと比べ、何が違うのか、触れられることが無い。流行性感冒では、流行株の違いを、理由の一つとして、毎年、理解されてきたが、この手の感染症では、何かが異なるのだろう。何れにしても、接種を迫る根拠は、薄弱だ。

* * * * * * * *

12月16日(木)−我田引水

 死への恐怖を掲げ、世界中を巻き込んだ騒動に、批判的な意見を、何度も投げ掛けてきた。科学を語りながら、科学的な論理が、全く通用しない、出鱈目に対して、その欠陥の数々を、並べているが、耳目を集められず、社会的影響は皆無だ。まあ、こんな場では、致し方ない。
 だが、仮令無駄となっても、指摘し続けることが、大切だと思う。感染症自体への理解も、杜撰なものであり、何の役にも立たないばかりか、害悪を撒き散らしているが、その対策の数々も、死を免れる為に、緊急性を優先し、科学的検証が、蔑ろにされている。例えば、ワクチンの効果について、昨日触れたが、その数値の大部分は、製造した企業が、調べたものであり、中立的、客観的な立場にある、組織が出したものは、殆ど無い。本来なら、認可を申請する上で、治験という作業が行われ、企業からの依頼でも、多くの医療機関が関わることで、中立性、客観性が保たれる。だが、その段階を素っ飛ばし、緊急を理由に、大々的に接種が始まった。その後、多くの国から、散発的に、経過が伝えられるが、その総括が行われないままに、次々と問題が噴出してきた。そこでも、対応は、企業が中心となり、彼らが集めたデータに基づき、彼らの解釈が発表される。不可解なのは、政府や公的機関から、データも解釈も、出されて来ないことで、収集も分析も、相変わらず、整わないままなのか、と呆れるしかない。一方で、専制政治の中心と、厳しく批判した国から、持ち込まれたワクチンに関しては、効果の無さを、示すデータや解釈が、こちら側で盛んに持ち出される。この感覚の違いは、何処から来るのか。何度も指摘するように、金絡みの思惑が、世界機関にも、各国政府にも、企業にも、満ち溢れているからに違いない。資本主義である限り、それは当然、と見る向きもあるが、それが、大衆にとって、どんな害悪を及ぼすかは、火を見るより明らかだ。もうやめてくれ!

* * * * * * * *

12月15日(水)−疑心暗鬼

 ワクチンの疑問は、多くの人々が、抱いているだろう。無理強いは、まだされていないものの、早晩、そんな事態に、陥る可能性もある。もう、一部の国では、そんな方に向け、法整備を始めたとある。疑問より、疑義と言った方が、適すると思えるものに、何故と思う。
 救世主の登場当初から、疑問は膨らみ始めた。第一には、効果の問題だ。有効性という数値が、認可の段階から、何度も取り上げられ、驚く程高い数値に、多くの人々の期待は、膨らんだのだ。だが、そこには、言葉の綾のようなものが、鏤められていた。この国の言葉は、西洋の人々から、散々批判されたように、あやふやで、玉虫色と揶揄される、不明確なものだが、肝心の西洋の言葉で、そんな不明確さを、込めた形で伝えられては、何ともはやだ。そこでは、発症を抑える、という効果が、謳われていた。それまで、皆の目や耳に届いた数値は、検査陽性であり、発症する人の割合は、かなり少なかった。その数値を、更に下げた、との説明には、たとえその割合が高くとも、絶対数として、問題にすべきかは、別物と思えた。逆に見れば、陽性になる可能性は、下がっていない、とも見える。その後、それ自体も下がる、との調査結果が出たと言われたが、定かではないし、現状を眺めると、怪しげな話と思える。更に、疑いを強めたのは、効果の継続が、期待した程ではない、との言説だ。時間経過と共に、陽性者数が増え、発症者も増えていった。その説明には、中和抗体の減少が、使われたが、従来の免疫への理解と、かけ離れたもので、首を傾げた。そこに、変異株が登場し、状況を複雑にした。付け焼き刃の説明に、終始する専門家に、信頼は失われ、方策自体にも、疑いの声が、続出している。だが、依然として、同様の戦略を、押し通そうとする政府に、住民の疑義は、高まり続けている。戦略優先で、それに与する説明だけでは、誰も満足しない。種種雑多な考えが、出て来なければ。

* * * * * * * *

12月14日(火)−勝算は?

 何故、執拗に過ちを、指摘し続けるのか。答えは、簡単なのだ。明らかな間違いを、犯し続けているのに、いつまでも、放置し続けるばかりか、更なる過ちを、重ねているからだ。その上、そんな指摘が為されても、素知らぬ顔で、自分の主張をし続ける。愚の骨頂でしかない。
 では、何が間違いか。一つは、病原体による感染を、厳密に規定することなく、一つ覚えの検査を、し続けていることだ。病原体が、体内から発見されれば、それは、感染と同じとなる。だが、ある人間から、別の人間に、感染が広がる時には、病原体は、体液の飛沫に含まれ、周囲に飛散すると言われる。飛沫には、病原体が含まれるが、それは、感染する前の状態である。にも拘らず、その状態を、感染と見做している。厳密には、検査陽性であるのに、感染者と呼ぶのは、その為だ。同様に、ワクチンの効果についても、怪しげな言説が、繰り返されている。接種により、感染しても発症せず、更には、重症化を妨げる、との説明は、上の感染の話同様、どの段階も、厳密に規定されておらず、不確かなものを、あたかも峻別できるか如く、扱っている。接種により、抗体を獲得したとしても、それが、長期間保たれない、という説明に関しても、先程の説明のどの段階に、この抗体が作用するのか、明確に示されず、拙い説明は、誤解や懸念を生じさせる。変異が起きる度に、前とは違う姿を示せば、抗体による攻撃を、避けられるかもしれない、という懸念は、新たな脅威が、登場する度に、大きく膨らまされる。だが、何を恐れ、何に備えているのか、現実には、何も見えぬままに、見えない敵と戦っている。まともな思考力を、備えた人間なら、こんな馬鹿げた話に、付き合う必要は、全く感じない。だが、思考力を失い、自主性を投げ出し、施しを待つ人々には、こんな戯言も、神の啓示の如く、響くのかも知れない。何を指摘すれば、彼らは正気を取り戻すのか。もう、狂気の彼方に旅立ったのか。

* * * * * * * *

12月13日(月)−正視せよ

 学問の危機。当てはまるかどうか、判らない点が多々あるが、その気配が感じられたことから、何度か取り上げてきた。学問とは、それを専門とする人々にとっては、営みであり、生業であるが、そうでない人々には、情報源であり、判断の基準を与えるもの、と思われる。
 その観点からすると、現状は、まさに危機状態と思える。恐怖が広がる中、怪しげな情報が流布され、専門家は、不確かな分析しか持たず、何の根拠もなく、出鱈目な言説を撒き散らす。そんな風に見えるのは、恐怖が高まる中で、何の解決策も、示せなかった人々が、突如収まった結果に対し、講じたとする策が、功を奏したと主張することで、信頼を裏切るだけでなく、信用を失したからで、それに加え、落ち着く中では、次の恐怖を拾い上げることに、躍起になるのでは、知識どころか、人間性さえも、失ったと思えてくる。その典型と思えるのは、依然として、連日伝えられる、感染者数の動向で、検査による陽性者には、発症の有無により、大きな違いがあるにも関わらず、一つ覚えで、他の策が見えない為に、続けているだけ、となっているからだ。病原体を保有することを、検査で確認するのが、学界の見解であることは、わかってきたものの、その集団の中で、発症と重症化という観点で、どれ程の人々が、分類されるのか、相も変わらず、解き明かそうとしない。これでは、何を追跡しているのか、全く判らない。一方、救世主として登場したワクチンに関しても、その効果を、分析する手法が、数の魔術の如く、不可思議な数値の選択と、偏った統計に基づき、都合よく演出されており、こちらにも、多くの作為が、施されているようだ。もう、検査のみを、判断基準として、使うことは無駄でしかなく、判断を誤る原因としか、ならないことも明らかだ。少なくとも、その他の要因を、分析してこそ、明確な判断を、下すことができる筈だろう。考えるのを止めては、もう駄目だ。

(since 2002/4/3)