パンチの独り言

(2021年12月27日〜2022年1月2日)
(捌け口、違いは何、聞きたくない、無視、気付く、見当違い、終わる)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



1月2日(日)−終わる

 愚かな2年、馬鹿げた2年、人によっては、大切な時を、他人に奪われた、と感じているだろう。たとえ、そう感じなくとも、死への恐怖が、絶えること無く、叫びに近い形で訴えられる中、心穏やかに、居られる筈も無く、不安に苛まれて、ごく普通の日常が、奪われている。
 どうすれば、この危難を脱することが、できるのか。日々、悩む人も居るだろうが、答えは、見つかっただろうか。実は、ごく簡単なことで、日常は、取り戻せる。トンデモと揶揄される、似非科学が、安定な時代に、台頭してきたが、その助けとなったのは、身勝手な意見が、氾濫するSNSだった。怪しげな論理でも、常に、味方が居る訳で、多くの犠牲者を、出してきたが、今回の騒動は、権威ある筋が、先頭に立って、嘘や出鱈目を、科学的論理に包み、掲げてきた。世界機関が、警報を出して以来、犠牲者は、確かに増え続けている。しかし、その数値の推移を、追ってみると、かなり大きな変化が、起きていることが、容易に見えてくる。あるサイトが、これまでの推移を、示してくれるが、そこでは、グラフの縦軸が、実数ではなく、対数である為、より極端に見えるものの、既に、ある限界に、到達しつつあることが、示されている。当初の予想には、遠く及ばぬ数値には、世界機関の見込み違いが、はっきりと現れているが、限界は、ある意味、感受性の有無が、反映されていることを、示している。感染症が、引き起こすとされる、過剰免疫反応は、恐らく、人それぞれに、異なるとされ、これが感受性へと繋がり、死に至る病に、冒されると言われる。だとすれば、残る人々は、この病を恐れる必要は、無いと言えそうだ。となれば、生き残った大多数は、この病原体に感染しても、所謂風邪症状で、終わると思われる。ワクチンも、マスクも、所詮、役立たずとなり、個人の力で、越えることができれば、愚かで、馬鹿げた騒動も、終わることとなる。はじめから、そうだったように。

* * * * * * * *

2022年1月1日(土)−見当違い

 相場に関われば、基礎的な数値にせよ、変動の動きにせよ、分析的に、状況判断を下すことが、第一となる。だが、その観点から見て、昨年の動きは、全くの予想外だった。特に、世界的な混乱が、科学的な見地から、引き起こされたことから、正反対の状況に、納得が行かない。
 ただ、株式相場を、資産運用の一つとして、捉えてみれば、騒動によって、変化した金の流れが、好況のきっかけとして、考えられる。更に、混乱が、表面的なものに過ぎず、製造業にしろ、物流業にしろ、一時的な衝撃が、走ったものの、殆ど、悪影響を受けず、決算にしろ、見通しにしろ、好調を続けていることから、株価の上昇は、当然の結果、とも言える。騒動の中心からは、強い懸念が、出されたままだが、それぞれの現場の状況には、大きな変化は起きず、懸念は、何度も、杞憂なままで、通り過ぎてきた。各国政府が、市民への補助金や、窮状を訴える企業への資金供給など、社会への資金流入を、続けるのと同時に、貸し出しの利率を、極端に低い状態に、保っていることから、相場では、資金がタブつく状況となり、結果として、株価上昇に繋がった。ただ、懸念に目が奪われる人々からは、この上昇が、一時的なものに過ぎず、早晩、下落へと繋がる、との見方が出されるが、果たして、どうだろうか。多くの大企業は、観光や接客を除けば、殆ど影響を受けず、日々生産を続け、供給への不安は、殆ど無い。この状態で、以前の危機のように、経済的な損失が、広がると見るのは、かなり無理筋に思える。だからこそ、今年の見通しとして、乗り遅れが目立つ、この国の相場でさえ、上昇へと転じるとされるのは、ある意味、当然と見るべきかもしれない。所詮、人為的に作られた、感染症の厳戒態勢では、この程度の影響しか、及ぼせないのだろう。当初の見込みのように、一桁上の被害が、起きれば別だが、そうならねば、資金の流れが、招く結果は、こんなものなのだろう。

* * * * * * * *

2021年12月31日(金)−気付く

 この2年、個人的には、激動の期間だった。「馬鹿げた」としか、言い表し様のない、騒動が、降りかかる中、人生の節目を、迎えたことと、新たな旅立ちが、起きたことだ。しかし、本来なら、これまでと、これからを、見つめるべき時を、騒動に、奪われてしまった。
 所詮、個人の人生なぞ、社会にとっては、取るに足らないものだ。だが、その個人にとり、人生は、唯一無二のものであり、誰から、文句を言われようが、自身のものである。それが、他人の都合で、様々な妨害を受け、蔑ろにされる。これまでに、何度も、そんな仕打ちを受けてきたが、今回のものは、特定の誰か、ではなく、ただ単に、世界全体が、愚の骨頂としか、表現の仕様が無い程、「馬鹿げた」騒ぎに、巻き込まれることで、大切な時期を、台無しにされたのだ。その意味で、所詮、そんな人生なのさ、と諦めるのも、一つなのだろうが、ふざけるな、と言いたくなる。恐らく、世界中で、そんな思いを抱きつつ、この2年を、無事に過ごしてきた人は、かなりの数に上るだろう。でも、何もかもが、思い通りになる、なんてことは、あり得ないのだ。これもまた、人生なのだ、と諦めるしかない。だが、社会的な圧力が、高まる中で、何をすべきかは、常に明らかだ。自分のしたいように、自分の人生を、歩むことしか、できないのだから。そういう意味では、この場で、その時々の思いを、書き連ねてきたことは、大きな意味を、持っている。大衆が、多くの出鱈目に、巻き込まれて、振り回される中、こういう場で、書くことは、気持ちを鎮め、冷静な判断を、下す機会を得る、良いきっかけとなった。そんなつもりで、独り言を、書いている訳では、決してないのだが、結果論としては、そんなこととなる。残念なのは、世界中で、そんな姿勢を、持ってきた人の数が、余りにも少ないことだ。何故、これほど明白なことに、気付かないのだろう。

* * * * * * * *

12月30日(木)−無視

 論理の重要性を、何度も強調してきた。平時なら、出鱈目な話も、一笑に付されるだけで、話題にもならずに、済まされるが、この騒動では、どんな出鱈目も、死の恐怖を加えれば、まるで、正しい論理のように、通用する。だが、出鱈目は、所詮、出鱈目なのだ。
 SNSで、一時、話題となったとしても、大衆の愚論は、早晩、論理の破綻を、見破られることで、打ち捨てられる。だが、同程度の出鱈目でも、権威ある筋からのものは、正しい論理の如く、扱われて、報道までが加担して、その確かさが、証明されたように扱われる。だが、出鱈目は、所詮、出鱈目だ。権威があろうが、権力があろうが、嘘は、所詮、嘘でしかなく、論理の破綻は、明らかなのだ。何故、それを見破れないのか、論理的な見方からすると、不思議で仕方ない。だが、大衆とは、所詮、そんなものなのだろう。結局、馬鹿げたことに、巻き込まれて、右往左往する。彼らの姿を眺め、自己満足に浸る、報道は、悦に入って、盛んに取り上げる。これまでに、何度も指摘したように、この騒動では、根本的な論理破綻が、繰り返されている。今回も、変異株への警戒を、最重要と掲げ、過剰でしかない体制を、築き始めた。失敗を繰り返さぬ、との思いが、この決断を、下したのだろうが、全世界が、横並びなのも、彼らの安心を、作り出した。しかし、受験への対応が、発表された途端、愚民の大反対が起き、宰相の判断は、厳戒態勢を、崩す端緒となった。現場からの窮状は、まだ届かないが、医療現場の戸惑いは、起き始めている。何しろ、監督官庁が提案した、封じ込め策は、医療も受験も、同等となっていたのに、突然の指令は、使い分けを命じた。これでは、現場は混乱する。医療では、封じ込めを、諦めざるを得ず、受験では、監督者の健康を、蔑ろにしかねない。これに限らず、何度も繰り返される論理破綻に、冷静な対処は、一つしか無い。無視して、できることをする、のだ。

* * * * * * * *

12月29日(水)−聞きたくない

 匿名の独り言では、世間に、伝えられることは、殆ど無い。20年近く、書いてきて、一向に増えない読者は、それを、如実に物語っている。一方、書き始めた頃には、世の中に、姿を見せていなかったものに、社会的連絡網がある。所謂、SNSと呼ばれるものだ。
 SNSには、大きく分けて、2種類あると言われる。匿名性の有無の違いだ。囀りと呼ばれる、仕組みの場合、利用者の多くは、匿名で発言している。同様に、写真を掲げることが、常となっている仕組みも、匿名が許される。一方で、最近、社名を変えた企業が、始めた仕組みは、基本的に、実名での登録が、求められている。そんな事情と、広告的な動機で、囀りに、独り言で使う匿名で、登録して、利用し始めた。そちらでも、感染症騒動について、度々、書き記したが、一向に、興味を抱く人は、訪問してこない。それ以外にも、ネット上で、小説を書いたり、読んだりする場所で、活躍する人への、返信を書くことで、幾つかの賛同を、得てきたが、訪問者となる人は、増えていない。囀りでは、書き込みとそれへの返信が、主体となっており、話題は、多岐に渡る。その中で、興味を抱いたものが、あったので、その主を、フォローしていた。この手続きで、その人物の書き込みを、常に確認できるようになる。その結果、科学研究の教育面での充実を、目論むという人物の、発言を確認できたが、その中の研究解説に、気になる記述があり、そこに意見として返信したら、意味を問い質された。ごく常識的な、意見と思ったのだが、数日後、阻止手続きをされ、情報が得られなくなった。囀りをはじめ、SNSは意見交換の場として、評価を受けているが、その実、一方的な書き込みでしかなく、反論などを受け付けない、そんな空気を、作り出しているようだ。現実社会なら、反論を、拒むことは難しいが、仮想社会なら、できるという話は、宰相候補とされた人物の発言で、有名となった。一方で、誹謗中傷が、暴走することが、専ら、話題とされる。仕組みの不備が、これら全てを、招いたようだ。

* * * * * * * *

12月28日(火)−違いは何

 誰でも、一生の死亡率は、1である。不老不死を願っても、実現できないことは、これ程明らかなのに、何故、死への恐怖が、募るのか、不思議に思うのは、こちらの勝手な考えだろう。長い一生の果てに、死を迎えるのは、当然としても、できる限り、先延ばししたいのだ。
 少子高齢化が、深刻となるにつれ、人口動態は、人々の注目を集めている。毎年、発表される資料は、監督官庁のサイトに、掲げられており、昨年のものでは、幾つかの注目点があった。発表当初は、話題となったものの、すっかり忘れられたのは、死亡者数の減少だろう。前年比で、8千人余りの減少で、ある老年研究者が、SNSで喜びを語っていたが、問題の深刻化が、更に進むことを考えれば、見識を疑うものだ。もう一つは、煽りの対象となる感染症だが、p10と表7では、3466人とあり、同様の症状である、肺炎と誤嚥性肺炎を死因とするのが、78445人と42746人であることを見ると、余りの少なさに、驚かされる。ただ、注目すべきは、肺炎の死者が、前年比17073人減ったとあることで、現場での治療が、整えられたから、とも考えられる。以前なら、死の病として、諦められたものが、治療を施すことで、回復に至った場合も、ありそうなのだ。感染症災禍の、一種の副産物と、見做せるかも知れぬ。何れにしても、被害甚大な国と比べ、こちらの被害が、極端に少ないことに、注目すべきだろう。批判の的とされた、治療体制の不備も、この数値からは、逆に見えるのは、甚大と伝えられる、国々の、貧富の差と保険制度に、理由がありそうだが、それに加えて、医療制度と人種の違いが、挙げられるかも知れぬ。当初、指摘されたような、結核予防の免疫が、その一つだろうが、現状では、埒外に置かれている。一方、遺伝子の違い、という観点から、人種を持ち出す向きもあるが、被害甚大の国々では、こちらからの移民が、数多く暮らすから、調べる価値が、ありそうに見える。ただ、騒ぎを続けたい人々は、見て見ぬふりを、続けているようだ。何ともはやである。

* * * * * * * *

12月27日(月)−捌け口

 政策の問題点を、その場ではなく、全てが終わってから、指摘する。屡々、後出しジャンケン、などと揶揄されるが、卑怯な行為に、目が奪われて、総括自体を、忘れてはならない。その一方で、その場の状況を忘れ、結果論ばかりでは、それもまた、悪質なものだろう。
 元宰相の名が、冠せられたのは、出来上がった製品の、不格好な姿を、自ら着けて、誇らしげに示した、あの行為を、揶揄したいからだったのだろうが、その品のその後が、再び、脚光を浴びることとなった。市中での品不足が、深刻となり、隣国のみに頼る、供給網への懸念が、過剰生産となり、不格好な印象も手伝い、配布が思わしくなくなった結果、大量の余剰が、行き先を失い、保管との決定がなされた。直後は、不良品の多さに、批判が集中したが、それも、一時のことで、皆、すっかり忘れていた。だが、突然、保管経費に、注目が集まり、担当官庁が、保管場所の公開と、その実態の説明を、行ったとの報道が、あったのだが、それに対して、過剰とも思える批判が、集中していた。報道が、世論を味方に、横暴な批判を、繰り返すのは、いつも通りだが、そこに、端末を手にした大衆が、群がるのは、最近の傾向だろう。過剰な発言が、常軌を逸するまでに、達し始めると、擁護論が出てくるのも、常なのだろう。品不足を、打開しようと、講じられた政策が、直後は、功を奏したのに、それを忘れて、筋違いの批判を、繰り返す人々には、良識も理解も、感じられない、というものだ。だが、皆が、自由に発言する仕組みは、こんな事態を、招くことは当然で、その上で、妥当な意見を、受け入れる社会を、築く必要がある。欲求不満の捌け口や、暴力紛いの発言を、許すような社会は、自己崩壊へと、進みかねない。海の向こうの大国が、その最たるものだが、自由を履き違え、暴力へと繋がる行為を、助長することは、危険思想となりかねない。自ら律することを、改めて望む。

(since 2002/4/3)