パンチの独り言

(2022年1月3日〜1月9日)
(何が違う、大から小へ、好機、実感無く、決断の時、矛と盾、がら空き)



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1月9日(日)−がら空き

 心にぽっかりと、穴が空いた気分だ。四半世紀程前、職場を変えた時に、思うように動けず、暇潰しにと始めた読書は、今も続いており、月に5、6冊の調子で、続いている。読んだ本に、掲げているように、種種雑多な部類で、所謂乱読の類だが、千冊近くあった。
 人生の区切りで、棚に並んだ本を、殆ど全て、処分したのだ。興味の有る無しに関わらず、一文を拾い上げる以外には、二度と読まぬ習慣だから、無くなって困る、ということは無い。だが、あれ程膨大に、並んでいたものが、すっかり姿を消すと、何となく、隙間風が吹くような、感覚に陥っている。本好きでは、決してなかったのだが、仕事の停滞に、余儀無くされる中、他にやることも見えず、一種の逃避のように、日々、活字を追うこととなった。本から、何かを学ぼう、と思った訳でもなく、楽しみの一つ、として捉えた訳でもなかった。ただ、長く続ければ、当然、習慣となった。独り言では、何度も取り上げたが、活字離れの深刻さが、社会全体に広がり、出版業界の窮状が、盛んに取り上げられる中、然もありなん、と思えるような、質の悪いものが目立ち、業界の劣化が招いた、まさに、自業自得の状況と思えた。今の騒動は、様々な被害を、社会に蔓延させているが、救われたものも、少なからずあると言われる。その一つが、書籍への帰還であり、町の書店が、息を吹き返した、とも言われる。だが、良質なものを除き、これ程に劣悪なものが、店頭に並ぶのでは、真の復権には、程遠いと思える。一方で、読書の仕方にも、多くの問題がある。教科書を除き、多くの本は、知識を押し付けるものではない。単に、読者が持つ知識を、強化させるものであり、無から有が、生まれる訳ではない。人と、面と向かって話す機会が、極端に減る中、読書を、対話の機会と捉え、穴埋めに使うことが、増えたのではないか。だとしても、無価値な相手では、意味を為さない。良い本を、増やさねば。

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1月8日(土)−矛と盾

 世界的に、騒動が盛り上がり、思う壺と、ほくそ笑む人が、居るだろう。何しろ、濡れ手に粟の状態に、陰りが見え始め、不安を抱いた所に、期待通りの騒ぎが、降って湧いたのだ。だが、この騒動の始まりの国では、もう終息が見えた、と言われている。7割方が、陽性となったのだ。
 とは言え、情報操作の果てでは、その中の発症者や重症者の割合を、伝えることは、決して無い。ただ、脅迫に必要な、数値のみを発し、全体の把握を、させずに置くのだ。それでこそ、脅し文句が、際立つのだろう。だが、今回もまた、論理破綻が、横行しており、早晩、誤魔化しに走らねば、ならなくなる。あるいは、騒動自体が、空騒ぎと終わり、期待外れとして、胸を撫で下ろすのだろうか。驚異の感染症として、世界が、渦に巻き込まれたが、その様相は、急速に変貌している。冷静な目には、当初から、何の変化も無く、ただの風邪と、そこから引き起こされる、爆発的な免疫反応による、致死的な結果でしかなく、ほんの一握りの人々が、犠牲となったに過ぎない。だが、騒動の中心では、次々に姿を変えて、襲い来る病原体に、為す術無しではなく、矢鱈に、騒ぎ立てて、無益どころか、害ともなる措置を、拡散し続けてきた。何度目の襲来か、流石に、今回は、各国共、横並びではなく、独自の方策を、講じ始めているが、何処も、既に綻びが目立つ。この国も、方針転換をせず、役立たずの方策を、講じるばかりで、崖っぷちに立たされたままだが、水際戦略として、相も変わらぬ愚策を、講じ始めた。だが、論理破綻を指摘されると、付け焼き刃の変更を、余儀無くされて、現場は混乱を極めている。人生一度の一大事、と称することで、圧力を強めたのはいいが、機会均等とばかり、受験生を優遇するのは、被害意識を強調し、救済を訴える風潮に、乗せたことだ。だが、それが、監督者を危険に晒し、現場を大混乱に陥らせるとは、誰も考えないのか。全容を眺めず、一面しか捉えぬ、愚策の極致と思える。

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1月7日(金)−決断の時

 首相の思い付きは、就任当時そのままで、自身が罹患し、重篤な状態に陥ったとは言え、そこから、重責の執務に、戻ることができたが、信頼度を、戻すことができないままだ。その中で、理路整然とした国民性を、反映する方策を、打ち出したことは、評価できる。
 だが、全体として、正しい方に踏み出したとは言え、足枷となっている、病態の過大評価を、辞めない限り、状況は好転しない。例えば、彼の国が離脱した、連合に属する国が、検討に入ったと伝えられる、感染状況把握の為の、数値の対象の変更も、その一つだが、たとえ、発症者の追跡を、徹底するにしても、現状の如く、隔離を基本としていては、医療現場での、感染拡大に備えるには、不十分となる。発症を、幾つかの段階に分け、発熱、悪寒などの、風邪特有の軽症であれば、隔離も不要で、マスク着用で、業務を行えるとするなど、騒動前の状態に、戻す必要がある。その上で、酸素吸入や、重い炎症への投薬など、入院しての治療が、必要な患者に対し、十分な体制を整えるべきだ。これも、従来と同じであり、一部の危篤状態の患者への、特殊な治療を除けば、通常通りの診療を、続けられるように、戻せば済むことだろう。ここまで、体制を整えてこそ、現場の混乱を、抑えることができる。ただ、逆に言えば、元に戻せばいい、というだけだろう。だが、この国の場合、動きが鈍い役所に、強い圧力をかけ、不要な分類を、再検討させる必要がある。批判を躱す為だけに、分類に手を入れたのは、前にも触れたが、何も変わらず、恥の上塗りでしかなかったが、今度こそ、流行性感冒と同様の類に、入れ替える必要がある。弱毒化を、きっかけとして、という呼び掛けも、実は的外れで、これまでの死者が、体質として、過剰反応を起こした、と見ておけば、その他大勢が、風邪症状で済んだことも、当然となる。重症化への備えのみで、殆ど全てが、片付くに違いない。

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1月6日(木)−実感無く

 はじめから、実感が湧かない。対岸の火事どころか、宇宙の何処か、遥か彼方の話、としか思えぬ。身近に、重症者が居り、九死に一生を得た、としたら、少しは違うかも、だが、居ないものは、どうにもならぬ。そんなつもりで、世界的騒動を、冷ややかに眺めてきた。
 しかし、私利私欲の為もあり、騒ぎを大きくしたい人々は、今回も、過剰宣伝を、続けている。当初、多くの犠牲者を出した国々は、冷静な対応を、始めており、却って、被害の小さな国程、過敏になっている。ある国は、陽性者数の発表は、無駄であり、害でしかないと、今後は、重症者数のみを、発表しようと、方向転換を検討している。同様に、社会実験を、盛んに繰り返した国は、今回の経過を、冷静に見る限り、社会全体への規制を、控える方針を出した。ただ、前者に倣えば、現場対応をも、検討すべきと思える。後者の状況は、政府のサイトに、発表されており、確かに、ここ2週間程、どの数値も、急増している。だが、これも、長期に渡る推移を、眺めてみると、陽性者数だけが、極端に増加しており、死者数入院患者数は、増加はしているものの、実数としては、問題とならぬ程、少なくなっている。これが、政府の判断として、規制の不要を、決めた理由となる。だが、上にも書いたが、現場の混乱は、深刻となっており、その解決を、図る必要がある。最大の要因は、陽性者の隔離、という規則であり、急増が、医療現場で働く人々にも、起きていることから、人手不足が、深刻となったのだ。毒性と呼ばれる、病原体への感染から、重症化する性質が、今回の騒動の主で、更に、弱くなっているのなら、陽性即隔離、という考えをも、改める必要がある。これは、つまり、発症者のみを、対象として、治療を施すという、従来の風邪、感冒と、同等の扱いで、構わないことを意味する。実感が、湧かなかったのも当然、とも思える事態に、やっと近付いてきた。

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1月5日(水)−好機

 給与さえ上がれば、楽な生活に戻れる。という話に、簡単には、乗ってこないだろう。収入は、あればある程良く、切りが無いから、ということだ。だが、中小企業に雇われた人や、年金暮らしの人にとって、昇給や受給額の上昇は、後回しの話題で、やってきそうにない。
 確かに、これまでの経験も含め、社会的弱者にとり、どんな時代にも、優先的に扱われたことは無い。だから、期待しても無駄、と考えては、どうしようもない。廻り巡れば、少しずつかもしれないが、徐々に、環境が良くなる、と考えるべきだ。少子高齢化が、著しくなり、多数の年寄りを、少数の若者が、支えねばならぬ時代が、続くだろう。その中で、この国として、どんな方策を、講じるべきなのか。まず、物価上昇は、避けられぬことだ。国内だけで、需給が、整うのなら、物価への懸念は、無用だろうが、近代的な生活を、維持する為には、SDGsがあろうがなかろうが、輸入に頼る部分が、残ってくる。となれば、国内の経済状況とは異なる、成長を目指す国との関わりが、不可欠となるから、物価上昇を、避けることは不可能だ。その動きに従い、国内産業も、ゆっくりだが、価格への転換を図り、経済活動を継続すれば、大企業から中小企業に、昇給の波は、これもまた、ゆっくりと伝わっていく。その広がりが、ある割合を越せば、年金受給額にも、それが反映されるだろう。ただ、この図式には、時間的な感覚が、盛り込まれておらず、単なる流れとして、上流に位置する大企業から、最下流の年金受給者へと、進むことだけが、示されている。確かに、下流が、後回しとされるが、それでも、こうやって進めば、全体の均衡が、保たれる。問題は、最上流で、物価上昇を発端として、昇給へと繋がるかが、肝心なのだ。今の所、施政者達は、そのつもりと、表明しているが、経営者達は、その気配さえ、示さぬままに、窮状を訴える。一種の衝撃が、必要なのでは、と思われるのだ。

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1月4日(火)−大から小へ

 日々の生活にとり、最も重要なのは、やはり、食料品だろう。だからこそ、その値上げが、問題視される。何度か、取り上げてきたが、経済成長にとり、物価上昇は、重要な一要素であり、生活必需品のものは、特に重要と言われる。でも、生活が苦しいと、困るとも。
 これも、取り上げたことだが、収入が増加するかと、物価の上昇は、直接的な結び付きが、あると言われる。だが、日々の支出の方は、先立つだけに、これまで、この国では、値上げは、禁とされていた。しかし、流通の各段階に、負担を強いてきた、この考えにも、そろそろ限界が近づいたと言われる。確かに、社会的な締め付けから、原料価格の上昇を、各段階で、被ることで、抑え込めるのだが、それにも限界がある。そろそろ、という訳で、限界を破る訳だが、消費者にとっては、害悪としか映らない。だが、経済成長の要として、物価と収入の動向を、問題と見るのならば、今回の動きに、収入の上昇が、伴ってくれば、それでいいのではないか。但し、この考え方では、原材料の価格が、様々な要因で、上昇することを、最終製品の所で、反映させることが必要なのだ。その結果、一時的な物価上昇が、家計を圧迫することとなるが、それが給与に反映されれば、均衡を保つことができる。ここでも、但書が必要で、この流れは、各業種に、同時に起こることは無く、それぞれに、遅れが出てくる。例えば、最終製品の価格上昇は、まずは、大企業のような、製造業が踏み切ることで、そこで働く人々の給与に、反映されるが、そこに原材料や部品を供給する、中小企業にとっては、すぐに、反映できるものではない。これは、企業に対する法人税に関しても、同様の経過を辿り、大から小への、伝達に必要となる期間は、数年に渡ると思われる。では、中小の人々は、その間、厳しい生活を、強いられるのか。その通りだろう。だが、その段階を経なければ、楽な生活は、手に入らない。

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1月3日(月)−何が違う

 世界では、多様性を重視し、尊重する動きが、急となっているが、本質的な過ちを、犯しているように思う。これらの運動の多くは、多様を謳いながら、その実、違いの中で、自分達が必要とするものだけに、目を向けることで、その他の違いを、無視するのだ。
 このやり方では、個々の違いを、挙げることに、力が向けられ、それらの違いが、あるのが当然という考えに、思いが至ることが無い。その為、一つひとつ、挙げていかねばならず、切りの無い戦いが、続くこととなる。実は、戦いを優先する人にとり、この戦略は、格好のものとなり、次々と、相手を見つけ出し、糾弾することにより、自らの存在意義をも、強調することとなる。だが、人間的な営みでなくとも、人はそれぞれ、生まれながらの違いを、有しているのだ。これは、生き物として、当然のものであり、遺伝的な性質として、種全体に、多様性を確保するものとなる。本来、全体として考える上で、この考え方が、重要であり、当然のものなのだ。それを忘れ、恰も、そこに多くの要因があり、それらを見つけることが、多様性を考える上で、不可欠となるとする考え方に、多くの人々は、取り憑かれている。確かに、後天的な要因も、あるに違いないが、その前に考えるべきなのは、先天的な違いだろう。病に襲われるのも、先天的な要因が、最も大きいが、そこに外的要因が、絡んでくると、まるで、違ったものとなると、誤解する傾向が、専門家の間でも見られる。だが、感染力の強さが、病原体によって違うのは、ありそうなこととは言え、そこから生じる、爆発的な免疫反応は、恐らく、先天的な要因が、強く絡んでくる。その結果が、今、世界を覆っているのだが、そちらに目を向けず、ただ、恐怖を撒き散らすのは、非科学的な見解としか、思えない。多様性という言葉が、市民権を得て、好んで使われる中、確かな見解が、出てこないことに、強い違和感を覚える。

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