パンチの独り言

(2022年1月17日〜1月23日)
(科学の崩壊、過誤その1、過誤その2、過誤その3、過誤その4、実数は、慢心)



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1月23日(日)−慢心

 自分だけは大丈夫、と思うことが、慢心へと繋がり、大きな失敗へと至る。子供の頃から、そして、大人になっても、何度も言われた戒めだ。多くに当てはまるからこそ、昔から、繰り返されてきた警句だが、今回は、どうか。馬鹿げた騒動に、皆、辟易としている。
 その中で、思うことが一つ。自分は違う、ということは、確かだが、大丈夫とは違い、あんなことは起きない、といった感覚だ。何しろ、あんなことが、余りにも突飛であり、交通事故より、稀なことだからだ。その一方で、昔から、万病の元と呼ばれたものに、何の変わりも無い。高齢になれば、少し体調を崩しても、自力で回復することは、困難となる。また、元気に働いていても、少しの無理が祟り、不安が過ぎる中で、風邪をひいた時、中々、体調が戻らぬことに、異常を感じたことは、誰にでも、起き得ることだ。こんな当たり前を、何故、これ程までに、過剰としか思えぬ程の、言説を繰り返すのか。不思議としか、思えない。恐怖が、2年も続けば、誰もが、洗脳されてしまう、とも言われるが、通常の理解力があれば、彼らが挙げる、恐怖の種の数々には、簡単に崩せる論理が、鏤められており、不安より安心が、手に入ると思える。何故、あんな誤魔化しや欺瞞に、多くの人が、惑わされるのか、理解に苦しむしか無い。今も、騒動は、膨らまされ続けるが、巷でも、疑いの声が高まり、流石に、気が付き始めたのか、とさえ、思えるようになった。だが、油断は禁物、慢心ではなく、細心の注意を払い、巻き込まれぬように、気を付けねばならない。特に、今の所は、強制的な措置が、回避されているものの、世界各地では、依然として、狂気に駆られた、暴挙が起こされており、この国でも、ちょっとしたことで、暴走が始まるとも限らない。何しろ、本来なら、権力の見張り役たる連中が、この騒動では、与する側に回り、怪しげな言説を、撒き散らしているのだ。これ、慢心ではない。

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1月22日(土)−実数は

 連日取り上げたように、ざっと上げても、多くの過ちが、世界各地で、犯されただけでなく、同じ間違いを、繰り返している。政府は、確かに、市民の為と、襲いくる脅威と、戦っているように見えるが、その実、一部業界、企業の利益を、産み出しているに過ぎない。
 その先頭に立つのは、諸悪の根源となる、世界保健機関、WHOである。彼らは、各国政府からの資金提供に基づき、世界の衛生状態を、保つことが務めとされ、今回の騒動も、その一環と目されている。しかし、これまでの経緯からは、全く異なる金の亡者たる姿が、はっきりと見える。資金を得る為に、企業の利を、優先させてはいない、と思う人も、社会には居るだろうが、医薬品や医療器具の無償提供は、立派な資金提供だ。無心に走るにしても、他の手は幾らでもある。懲りない連中は、この騒動に乗じて、可能な限りの支援を、かき集めている。同様に、各国政府も専門家も、同じ過ちを繰り返し、市民に不便を強いている。今も、国内では、急増する陽性者数を、さも大事の如く扱い、使い古された脅し文句を、吐き続けている。だが、その数さえ、同じ感冒の類の流行性感冒の、流行の状況と、比べることさえ無い。監督官庁のサイトには、ここ5年程の数値が、保存されており、それと比べると、週当たりの最大数が、20万から30万に及ぶことが、見えてくる。この時期には、毎日3万から4万人の感染者が、推測されるのだ。ただ、これは症状を示し、受診した上で、検査で確認された数から、推測したものであり、今の陽性者数とは、全く異なる。一方で、推測だけに、見落としも多くなる。これらを考えに入れると、今後、今の数倍から十数倍に増えても、発症者の数としては、遥かに小さいままと言えそうだ。こんな数字に、いつまで、振り回されるのか。いつまで、検査を含め、下らない作業を、続けるのか。まだまだ、過ちは、頻発しそうだ。愚かなのだから、仕方ない。

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1月21日(金)−過誤その4

 確率で話すと、必ず、それが自分に当てはまるか、と尋ねられる。だが、世の中には、絶対がある。生き物である以上、死は誰にも訪れる。逃れられぬことに、何故、多くの人々が、死への恐怖に戦くのか。いつか訪れるとしても、なるべく先延ばししたい、ということだ。
 ということで、この騒動では、死の恐怖が、盛んに煽られてきた。世界機関が、恐怖の病原体の感染拡大を、警告した当初、ある国の研究機関が、4千万人の死者予測を、発表したが、この国では、40万人との予測を、出した研究者が居た。世界では、今の所、約10分の1でしかなく、国内に至っては、最新の数値でも、20分の1にも満たない。予想屋として、どちらも役立たずだが、所詮、研究の世界では、過ちとは捉えられない。初期値を操作し、計算式の係数を操作すれば、自在に導き出せる。にしても、これ程の大外れを、世界が、真剣に受け止め、当初の、過剰反応を誘発したとしたら、何と迷惑なことか。国内でも、肺炎で亡くなる人は、毎月1万人を超えている。世界では、確実ではないが、年300万人が、類似の死因で、亡くなっている。それと比べても、現状が、恐怖の対象と、成り得ていないことが、誰の目にも明らかだ。この数値も、もし死因の多くが、免疫の過剰反応であり、遺伝的形質によるものとなれば、当てはまる人の数は、減り続けることとなる。死の病としての、肺炎と比べることが、適切かどうかさえ、あやふやなものとなる。高齢者が、免疫機能を低下し、病原体への抵抗力を、失った結果としての肺炎と、健常者が、突然の反応として、重篤な肺炎症状を示すのとは、大きく違っている。その中で、特に国内では、被害者数が、小さく収まっていることは、大きな疑問と捉えられるが、果たして、その原因や理由を、見つけようとする動きは、起きているのだろうか。日々の数値では、捉え難いものを、見出す為には、精査が必要だがどうか。初期の過ちを、正すべきだ。

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1月20日(木)−過誤その3

 外圧でしか、動き出さない。と何度も揶揄された国だが、今回の騒動では、他国と全く異なる様相を、呈し続けている。騒ぐだけで、研究しようともしない、専門家から、その分析が届くことは、永遠に無いのかも知れないが、何かが、異なっている。人種か、遺伝子か、はたまた。
 騒動が盛り上がった当初、検査を徹底することが、唯一の解決法と、世界各地が躍起になったのに、一向に盛り上がらぬ国内事情を、多くの人々が、糾弾していた。だが、今、恥を晒し続ける世界機関に、嘗て属し、SARSの蔓延を、防いだと言われた研究者は、検査より治療現場の秩序を、優先させるべきとの指摘をした。もう忘れ去られただろうが、多様な考えが、紹介されたこともあったのだ。今や、そんなことは、放り出した上で、治療体制の不安を、声高に訴えるのは、やはり愚かでしかない。その中、救世主と目された、ワクチンの効果も、過ちの連続を、反映するものとなった。不可能を可能とした、技術革新について、文句を並べるつもりはないが、効果については、怪しげな数値の扱いと、非論理的な解釈が、罷り通ってきた。常識では、感染を防ぐと思われたが、感染基準が、変えられた中、そこには触れず、発症と重症化を、対象とすると変更され、その効果の程が、高く掲げられた。この時点で、作為に満ちた、数値の選別に、疑問が呈されたが、恐怖に陥った全世界から、諸手を挙げた歓迎を受け、一気に、接種の波が広がった。しかし、変異株の登場で、陰りが見え始めた上に、効果の持続が、想定外に短く、予定通りの2度では済まず、再度の要請となるに至り、鍍金が剥がれたようだ。その上、各国政府要請に含まれた、接種証明の効用が、想定通りとならず、論理の欠如を、露呈する始末に、信頼の失墜は、極まるばかりとなった。この過程で、何度の過ちが、犯されたのか、数え切れぬ程だ。だが、懲りない連中は、相変わらずの論法で、大衆を惑わせる。まだまだ、続く。

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1月19日(水)−過誤その2

 失敗が明白でも、それを認める気の無い人々は、同じことを、繰り返すしかない。各国政府は、無知だから、致し方無いのかも知れないが、専門家と呼ばれる人々の、同様の行動は、本人の無恥だけでなく、こんな連中を、中枢とする学会の、恥でもある。科学の危うさも、だ。
 封鎖による封じ込めが、無駄となる中、次の手段は、医療現場に託された。当初の判断として、最新の検査が、大々的に始まったのは、発生源とされた国だが、これ自体も、今となっては、大きな過ちとされる。学界の指針では、確かに、発症よりも、検査での病原体の特定こそが、感染の確認とされていたが、感染と検査陽性の一致が、確かめられずに、突き進んだことが、世界各地の混乱を、極めることに繋がった。更に、状況を悪化させたのは、感染者の隔離であり、発症の有無に関わらず、隔離、観察をする体制は、各国の医療を、混乱に陥らせた。初期段階で、大量の死者を出した国では、病状判断をせずに、隔離を優先させた為に、重症者と軽症者を混在させ、被害を広げた。そこに、死者の弔いに対する、習慣からの拡大が、拍車を掛けた。がしかし、この辺りからは、肺炎という病気に対する、治療の問題が、重大となっていた。死に至る病として、毎年、多くの死者を出す病気は、手の施しようが無い、として、医師から家族に、伝えられてきたように、致死率の高いものだ。今回の場合は、死者の多くは、過剰免疫反応の結果、死に至ったと言われるように、治療手段が、無いものとされた。だが、重症者の多くは、実は、通常の肺炎症状であり、抗炎症薬と酸素吸入により、軽快する。その割合を無視して、的確な治療をせずに、放置された結果、死に至ったのは、医療過誤と思われる。要するに、発症したとしても、治療を施せば、多くの患者は、助かるのだ。現場での判断と、医療体制の整備こそが、重要なものと言える。一方で、無謀な隔離政策は、愚の骨頂と断ずるべきだ。続く。

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1月18日(火)−過誤その1

 馬鹿げた世界的な空騒ぎで、世界機関、各国政府、より小さな公的組織、様々な研究機関、そして、政治家、専門家、報道機関までもが、数え切れぬ程の過ちを、犯してきた。だが、依然として、懲りることの無い愚か者達は、また、別の過ちを、犯そうとしている。
 彼らの愚行の数々を、度々、指摘して、批判し続けたが、一向に埒が明かず、収束の兆しが見えない。どころか、懲りない輩は、以前にも増して、その脅威を過大評価し、膨らみ続ける怪物の姿は、もう、全貌が窺えぬ程に、拡大した。この時点で、今散見される、数多の問題点を、一つひとつ取り上げ、その誤りを正しても、全てを列挙し、潰すことは不可能だ。なので、改めて、はじめの時点から、犯された過ちを、挙げてみようと思う。何時果てるとも知れぬが、思いつく限り、と思っている。まずは、発生国と目される、隣の大国での過ちは、初期段階での封じ込めに、失敗したことだ。大都市封鎖を断行し、成果を得たと、自画自賛するが、その実、初期段階では、その都市から世界各地に、多くの人々が、旅立ったことが、報告されていた。既に、政府機関では、懸念を抱いただろうが、様々な政治的判断が、多くの措置を断念させ、都市封鎖をするしか、手段が無い程に、被害者を出した。一方で、各地に伝播した後に、封鎖措置を断行した、各国政府の判断は、明らかな過ちだ。一点からの広がり、という初期段階と異なり、既に、各地に蔓延した後で、局所的な措置は、全く無効だったことが、今は明らかだ。それに対し、北欧の国では、異なる施策を講じて、発生そのものに、対応することなく、発症者への対応を、第一としたが、これもまた、高齢被害者を続出させ、厳しい批判に晒された。戦略の一つとして、評価すべきだろうが、結果が想定外となり、批判に抗うことが、難しくなった。0にするのも、共生するのも、無理解では、なし得ないことだ。明日も、続けたい。

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1月17日(月)−科学の崩壊

 論理の重要性を、説く立場として、その根拠となるものと、解釈の仕方には、特に、注意したい所だ。ところが、最近は、肝心な所を、すっ飛ばしたまま、自分の考えのみを、押し付ける風潮が、異常な程、高まっており、危機感を覚える。だが、重要性は、失われていない。
 というのも、私利私欲に走り、思惑に満ちた、話を展開する、不埒な連中が、世の中を席巻しており、大衆が、彼らの妄言に、惑わされるのは、まさに、論理の破れを、見抜けないからだからだ。少しの手間で、簡単にできることが、多くの人々にとって、難しいと映るのは、考えることを放棄し、頼れるものに、縋る姿勢が、強まった為だ。注意を要するのは、詐欺に走る犯罪者だけでなく、信頼に足ると言われる、公的機関や専門家と呼ばれるもので、実しやかな言説を、展開する為に、努力を要する詐欺師と違い、どんな言葉も、重みを持って、受け取られるという、絶対的な利点を、有しているからだ。だが、感染症騒動に、見られるように、彼らの説明は、多くの間違いや誤解に基づき、これまでの経緯から、何度も、破綻を来してきた。にも拘らず、今も、盛んに取り上げられるのは、彼らが持つ権威と共に、それに縋る報道機関の、能力不足によるものだ。少し考えれば、多くの間違いを、指摘できるのに、それをせずに、垂れ流すのでは、本来の役目さえ、果たせていない。未知なことが、数多あるから、との言い訳さえ、無知蒙昧の挙げ句と、断じるべきと思う。だが、もしかしたら、この傾向が、科学全体に、蔓延するのでは、との懸念が起きたのは、例の津波に関する、担当者達の誤判断からだ。大噴火から、暫くした時点で、危険なしとの判断を、下したのは、ある情報による、と述べていたが、それが何なのか、殆ど説明がない。一方で、不明なことが、との言い訳を、繰り返したことから、前の説明との齟齬が、露呈しているのだ。ここでも、論理の破綻が、起きている。

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