画面に、グラフを示し、深刻な表情で、実情を伝える。陽性者数も、死者数も、これまでの波を超え、愈々、恐怖の極みが、迫ってきた、と報道も専門家も、盛んに伝える。もしかしたら、画面から、消えた途端に、専門家は、ほくそ笑んでいるのではないか。思い通りの展開と。
だが、こんな茶番は、田舎芝居でさえ、演じられない。何しろ、以前から、度々伝えるように、肺炎関連の死者は、毎年、国内で12万人以上、報告されているのだ。月当たり、1万人強の数は、日々、300人以上に上る。やっと、その3分の1に、到達したことを、喜んだとしても、所詮、その程度に過ぎない。恐るに足らず、と庶民が思うのも、当然のことだ。その上、この国では、確かな数値が、発表されないが、新薬の効果として、外からもたらされた数値では、重症と雖も、死亡率は3割程度に留まる。保険制度が、整備される中、十分な治療を、受けていれば、かなりの割合で、助かることが、見えているのだ。でも、後遺症の心配が、と思う人も居るだろう。これも、調査不十分で、実態を掴むことさえ、難しい。にも拘らず、僅かな例を、殊更に取り上げ、大事の如く扱う。これとて、どんなものか、実情を捉えることは、できそうにない。特に、これまでの、全ての病気において、どんな後遺症が、起きていたのかに、目を向けないまま、ただ、治癒のみを、目指してきた、医療体制では、何をか言わんや、でしかない。グラフを示すのは、調査の集計を、表現するだけでなく、それまでの推移を、示す目的が伴う。それによって、過去だけでなく、未来を見よう、とする意図もある。だが、これまでの専門家の言説は、自らの拙い知識に縛られ、推測も想像も、及ばぬものだけに、その提示と共に、付される説明の数々は、無意味なものでしかない。愈々、思い描いた展開が、訪れてきたと、喜び勇む感情を抑えながら、説明したとしても、所詮、こんなもの、でしかないからだ。
利己的な、という言葉が、流行ったことがあった。特に、実体が掴めぬもの、例えば、遺伝子に付せば、人は、何だろうという、疑問を抱く。それにより、流行本となった。ただ、内容は、単なる解釈の一つでしかなく、それがどうした、との読後感を、持っただけだった。
自己中心的な人間は、社会では、忌み嫌われる存在であり、そこから、利己的という言葉が、人の目を惹いたのだろう。だが、人間に当て嵌めるならまだしも、意思をもたぬ物質や存在に、当て嵌めたとして、何が言いたいのか。それとも、まるで、意思をもつが如く、その存在を、特殊なものと、したかったのか。一方、そういう時代に、自分勝手ではなく、他人の為に動く人々は、尊敬の対象となる。これを、利己的ではなく、利他的と呼ぶ。社会性の動物には、利己よりも、利他が多く見られ、その重要性を、取り上げる人が出てきた。ただ、自分を犠牲にするかどうかを、問題とするのは、異様に思えた。自分も他人も、同等に尊重し、皆が良くなればいい、として、何故駄目なのか。そこから生まれたのか、他人の為に、ということだけ、強調することで、社会性を保とうとする考えが、世間に広がったらしい。だが、そこでも、異常な状況が、作り出されている。自分の為でなく、他人の為にする、という考えでは、結局、自分を保つことが、できなくなったのだ。その典型とも思えるのが、今の接種の問題だろう。当初、感染拡大を、抑える為の方策として、最後の頼みとされ、接種拡大を目論んだ人々は、盛んに、家族や高齢者など、他人を引き合いに出して、彼らの為に、と掲げていた。しかし、その後の展開は、まさに、想定外となり、感染は防げず、重症化だけなら、と判明した。これでは、他人ではなく、自分にしか、為にならぬ。要するに、人間というものは、自分中心でしか、生きられぬもの、それで、いいではないか。まずは、自分を、優先してこそ、なのだから。
塵とか、糞とか、揶揄される報道機関は、自分達の役割を、どう考えているのか。独自の情報源を、有することで、公開された話の、真偽を確かめてきたのは、戦中の、大本営発表という、嘘ばかりで、世論誘導を目論んだ、情報操作に加担した、あの大きな反省が、あったからだ。
だが、いつの頃からか、独自の調査を怠り、役所の発表を、鵜呑みにしただけでなく、そのまま伝えるようになった。これでは、伝達者に過ぎず、報道の権利や意義を、訴える資格を、失ったとしか思えぬ。にも拘らず、無知蒙昧の大衆に、重要な知識を、植え付けねばならぬ、と考えたのか、機関が発表した内容の、詳細な説明を、施しているが、内容の真偽そのものに、目が向くことは、決してない。死への恐怖を、撒き散らすことで、大衆を誘導する手法は、歴史上で、政府によって、何度も使われており、それが、民衆を、誤った方向に、導いたことも、明らかとなっている。少し考えれば、その典型と言えるやり方に、疑いを抱いてこそ、傍目八目の意義、と言えそうなのだが、肝心の関係者は、首から上を、失ったまま、走り続ける亡霊のようだ。病原体の危険性、感染の仕組み、変異の意味と結果、ワクチンの効果、集団免疫の意味、等々、異議を唱える対象が、次々に、登場してきたが、殆ど全てに対して、一部の専門家の見解と、機関や役所の判断に、与することしか、できていない。当初から、感染者という用語を、検査陽性者に使う無知を、何度も指摘してきたが、今度は、「みなし陽性」という造語が、登場し始めた。こちらは、症状を呈した患者を、そう呼ぶとされるが、検査なしでの判断で、陽性などという言葉が、当てはまる筈も無い。症状があるのなら、それこそ、感染者と呼ぶべきで、患者であることも確かだ。この決定が、何を意味するのかは、全く別の様相を呈する。何しろ、無症状陽性者が、排除されるのだ。当然、その数値は、小さくなる。誰に不都合となるか。
局面は、世界的に、最終盤の様相を、呈している。将棋や囲碁なら、投了という場面だが、別の見方をすれば、もう、とうの昔に、勝敗は決しており、いつ投げるか、といった状況だ。にも拘らず、体面の問題か、資金源を手放したくないか、あるいは、愚かなだけか。
どの国でも、中枢に居座る人々は、小手先のまやかしを、連発することで、時間稼ぎに精を出す。だが、その誤魔化しでさえ、通常の論理なら、完全な破綻を示し、自らの無能ぶりを、露呈するだけとなる。どこでも、せっせと行ってきた、検査に、破綻が生じ始めたのは、体制の不備によるものではない。単に、母数の増加が、余りに急激で、対応しきれなくなったことと、別の検査の導入が、薬剤の供給不足、という問題を生じたからだ。答えに窮した責任者達は、ついに、白旗を掲げ、発症して、診察を受けた際に、担当医が判断すれば、感染者と認定する、という「みなし」を導入した。従来の、検査でしか、確かめられぬとした制度を、根幹から破壊し、統計で扱えぬ状況を、自ら作り出したのだ。これで、更に、爆発的な増加が、起きると見る人が、居るのかも知れないが、無知によるものだ。元々、検査陽性者の多くが、無症状だったことから、発症者数は、陽性者数を、遙かに下回ることが、容易に推測できる。一方、この措置自体は、監督官庁をはじめとする、政府の誤魔化しだが、元々、検査を優先させるという、学界の指針を、蔑ろにするものだ。本来なら、反旗を翻すのが、学界の動きと思えるが、騒ぎを続け、資金を得たいと願う人々は、全く異なる反応を示す。当初から、自明のこととして、何度も指摘してきたが、これらの問題は、まさに、自作自演の芝居であり、マッチポンプの世界なのだ。これまでは、口先の嘘を繰り返し、死への恐怖を、煽ることで、製薬業界だけでなく、自分達の研究分野への、資金獲得を、目論んできたが、流石に、騒動の果てに、辿り着いた。
国際情勢に、不安が広がる、と伝えられる。隣の大国も、東側として、嘗ての冷戦時、敵対視された国も、南下政策が、繁栄を築く為に、不可欠とばかり、侵攻を伺っているが、現実となるかは、予断を許さぬ状況とされる。これを端緒に、世界大戦にとの懸念もある。
この国が、戦前に、世界の中で、どのように扱われ、どんな圧力を受けたか、戦後半世紀を超えた頃から、徐々に伝えられ、一般市民にも、事実が見えてきた。ただ、それと並行して、正当化の動きもあり、様々な面での紛争が、起こる度に、一触即発へと向かいかねない、動きへと繋がってきた。追い込まれたことで、止むを得ず、開戦という選択を、取ったという判断を、どう評価するかは、簡単なことではない。利害が入り混じり、どちらをどう優先するかで、正反対の方向に、歩み出していたからだ。だが、今も、進行中の紛争では、まだ、話し合いの余地は、残されており、連盟脱退などの、強引な動きには、向かっていない。ただ、国境付近で、睨み合いが続けば、交渉決裂が、起きるかもしれない。一方で、経済的な封じ込めが、現実のものとなれば、大国同士の諍いは、実力行使へと、繋がるだろう。これも、今の状況では、相互の利益を、優先させることが、当然とされるから、起こり得ないとの見方が強い。また、南下政策や、嘗ての共産主義との共通点でも、二つの大国は、当時も、協力体制にはなく、今も、共通の利害だけで、同意があるものの、いざ、事を起こすとなると、共同戦線は敷けない、との見方もあろうが、嘗ての大戦でも、枢軸国となった国々に、それ程の共感があった訳でもない。事を起こす場合、一部の利害のみが、急激に拡大し、それが、発端となる。その意味で、懸念が、現実のものとならぬよう、願うのみだ。一方、この論争の中で、進攻の気配を見せる国が、窮地に追い込まれるとの、懸念を伝えるのは、恰も、弱者を演じるようで、失笑を禁じ得ない。
嘗ての実態に、目が向いたとしても、今の時代に、同じことを行うのは、容易なことではない。まず、人々の考え方に、大きな変化が起き、共産という考えに、同意を得ることが、難しくなった。更に、厳しくしているのは、政治家の劣悪化で、人気の為に、誤った道を突き進む。
大衆の考えは、経済成長の下、豊かになるにつれて、変化してきたもの、と見ることもできるが、実際には、停滞から急速に下落する、経済状況によって、行末に不安を抱き、これまでに歩んできた道筋に、同調できなくなったことが、最も大きな要因だろう。明るい未来が、描けぬ中で、自らの殻の中に、閉じ籠ろうとするのは、ある意味、止むを得ないことに思える。だが、その中でも、制度を改善することで、道筋を明確にすれば、誰もが、嘗ての栄光を、取り戻す為の術を、身に付けられる。そこに、大きな障害となるのが、制度を、改悪し続けてきた、政治家の無能ぶりだ。支持率を、高く保とうとし、選挙で、なるべく多くの得票を得る為に、分かり易く、即物的な施策を、講じてきた結果、大衆の負担は、表面上では、軽減されたとされる。だが、それによる歪みは、ここ四半世紀の間、積み重なっており、収支の均衡は、崩れたままとなる。そこに、拍車を掛けたのは、貧富の差を、埋め合わせる為の、高額所得に、高い税率を適用する、累進課税の制度が、緩められたことだろう。幼少時から、他人とは違う、所謂「変わった子供」だったタレントが、著した半生記が、爆発的に売れ、高額の印税を得ても、手元に残った金額が、予想外に少なかったことに、苦言を呈したことが、発端と言われるが、何れにしても、誤った判断だった。今も、世界で取り沙汰される、一握りにも満たない、大富豪達は、せっせと節税対策を、講じているが、様々な優遇は、差別的としか、思えない程だ。それを是正した上で、相当分の負担を、担うことでこそ、意識改革が行える。
そんなことが可能か、と思う人が、多いのかも知れない。昨日の経済の話は、空想でもないし、絵空事でもない。今の馬鹿げた騒動に比べたら、もっと現実的であり、嘗て、この国で起きていた、まさに現実なのだ。だが、停滞期から、40年近く経て、多くの人はその事実を知らない。
無知な人々に、嘗ての事実を見せず、今後の不安定を、心配と不安の種として、ばら撒き続ける。それこそが、人気商売にとり、最も重要なことだからだ。しかし、半世紀前、繁栄を誇った国は、世界からも、強い注目を浴び、中には、最高水準と、称賛を浴びせる学者も、居た程だった。だが、その後の政策を誤り、一度、道を外れてからは、更に、遠ざかるばかりの、愚策の連鎖が、今の事態を招いた。だが、その真の要因は、心配や不安に苛まれ、安心を求めて、一時の利益を差し出した、私利私欲に満ちた、政治家達を、支持した国民の、無知蒙昧にある。繁栄の最中には、何が良いのかに、気付くことなく、ただ、皆と同じ方に向かうことで、豊かになる生活を、享受していた。だが、崩壊が始まると、ほぼ同じ水準を、保っているにも関わらず、まるで、地獄に堕ちるかの如く、不安に苛まれ、蜘蛛の糸に、しがみつこうとした。その後の展開は、まさに、小説同様で、私利私欲では、救いを得られる筈も無い。嘗ての国の姿は、資本主義体制が、整備される中、働く人々は、上から下まで、共同作業に邁進し、まるで、共産主義の如く、互いの利益を、最優先としてきた。共産主義が、失敗したのは、その中で、互いではなく、自分だけの利益を求めた、中枢が原因だったが、この国では、全く異なる、まるで理想的な社会が、築かれていたのだ。その形に戻るのは、確かに不可能だろう。だが、制度として、嘗てと同様に、戻すことは、不可能ではない。税率の問題は、当然のことだし、こんな騒動で脅すのではなく、安心感を、高めることも、難しくはない。知ることこそが、重要だろう。