パンチの独り言

(2022年2月7日〜2月13日)
(何とする、若者言葉、罪作り、悪手、専門馬鹿、食い潰す、恐怖の種)



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2月13日(日)−恐怖の種

 先日読んだ小説は、荒唐無稽な内容で、ただ楽しむだけのものだったが、その骨子となったのが、恐怖だった。幕府が治める時代に、庶民に恐怖を抱かせ、乱れた時代へと、導くことで、自らの利益を、手にしようとした勢力が、存在した、という筋だったが、黒幕は現れず仕舞いだった。
 おそらく、続編があるのだろう。それをも、手にするかは、分からないが、その筋書きが、恐怖を、主な武器として、人々を操ることだったのが、印象に残った。何しろ、もう2年もの間、その筋と似たことが、全く異なる論理で、世界を巻き込み、起きてきたのだ。誰もが、死を恐れるのは、当然のことだが、その恐怖感を、催させる為には、結果を見せるだけでなく、そこに至るまでの経過や、今後の成り行きを、推測して見せることが、重要となる。発生源と目される国で、起きた混乱は、日常生活が、完全に破壊されたことと、多数の患者が、即席の医療施設に、収容されることを、見せることで、異常事態を、認識させると共に、被害者の数を、連日伝えることで、恐怖を煽る手法が、とられていた。実数は、強い印象を残すが、それが、いつまで続くかは、どんな考え方を、適用するかにより、大きく異なってくる。今、思い返せば、過剰でしかなかった、異常な程の大きな数値を、炙り出したものが、盛んに流用されたのも、煽る為に、好都合だったからで、その真偽の程が、検証されることは、決してなかった。それどころか、誤った数値を、導いた人々は、その過ちを、検証することなく、別の数値を、導くことで、前の話は無かったこと、としている。恐怖さえ、保てれば、自分達の利権を、保てるとの考え方は、まさに、小説と同じで、荒唐無稽さは、ほぼ同程度のものだ。だからこそ、今回の騒動の、台本を書いた人々を、徹底的に糾弾し、どんな詐欺が、行われたかを、検証しておかねば、また、同じ騒動に、巻き込まれてしまう。騙されない為に、必要なものを、手に入れよう。

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2月12日(土)−食い潰す

 緊急事態だから、全国民が、接種を受けるべき、との声が高まり、昨年夏には、各地に大規模会場が、設置されて、一気に、接種率が高まった。だが、8割を超えたとは言え、全員とは、ならなかったようだ。ただ、集団免疫の目標が、海外で否定され、どうでも良くなった。
 この観点からは、他人の為という、勧誘文句が、盛んに使われたが、無意味となり、忘れ去られた。となれば、全て、自分の為となり、今度は、重症化、延いては、死なずに済ませる為に、接種が、絶対不可欠との言説が、巷に溢れてきた。だが、実態は、過大評価を入れても、2年近くかかって、やっと2万人に、到達したとされ、恐るに足らず、との見解に、軍配が上がっている。息の根を止める、肺炎の致死率は、従来のものでも、かなりの高さだけに、この感染症による致死率は、遥かに及ばず、過剰な騒動は、嘲笑の対象となる。にも拘らず、依然として、追加接種を求める声は、世界各国で、流されており、国内でも、懲りない人々が、一つ覚えの如く、繰り返している。理由は、ワクチンの効果が、長続きせず、抗体価が、低下した為、と言われるが、果たしてどうか。調査では、確かに、低い値が示され、それを問題とするが、その値で、どんな抵抗性を、現すのかが、全く示されない。また、個々人の変化についても、確かに示されず、疑惑は、大きく残ったままだ。それでも、一つの考えに、縛られた人々は、主張を変える気配を見せない。既に、様々な調査が、繰り返されており、それらを頼りに、検証を行うことも、難しくは無い。なのに、いつまで、こんな茶番を、繰り返すのか。都合の良い結果のみを、拾い上げ、持論を、押し付け続ける。確かな根拠として、操作した数値を、使うようでは、まさに、根拠薄弱となり、恥を晒すだけだ。だが、彼らには、恥よりも、利益が優先するのだろう。名声や地位だけでなく、金というものに、群がる人々が、世界経済を、食い潰している。

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2月11日(金)−専門馬鹿

 まず、読みに来ることは、無いだろうが、もし来たら、笑止千万とばかり、嘲り笑うのだろう。それ程、自分達の考えに、自信を持ち、権威を感じているだろう、専門家や研究者は、この騒動のごたごたを、誰のせいだと言うのか。自らの不明を、感じることは、決して無い。
 だが、偉そうに、会見を開く専門家も、それぞれに、愚かな民衆に、教えてやろうと、SNSをはじめとして、書き込みを、繰り返す研究者も、自らの見解は、常に正しく、誤っているのは、いつまでも、従おうとしない大衆、と思い込んでいる。しかし、これ程長く続く混乱は、彼らの思惑が、大きく外れたままで、一向に、制御下になる気配さえ、見えてこない。一体全体、何を信じて、何に従えばいいのか、多くの人々は、戸惑っているのだ。にも拘らず、拉致のあかない言説を、繰り返すだけの、無知蒙昧と違わない、専門家や研究者の、どこをどうして、信じればいいのか。通常の感覚であれば、こんな思いを抱くのは、当然のことだ。だからこそ、彼らの思い込みに満ちた、過ちの数々を、逐一指摘して、根本的な問題を、掘り返している。しかし、頑なな研究者は、報告される論文の、解説に終始することで、自らの正しさを、証明しようと躍起になる。でも、一部の結果のみを、取り上げることで、辻褄合わせをしただけの、論文の内容は、今の状況を、正しく伝えられず、多くの歪曲を、施しただけだ。ワクチンの効果を、盲信する免疫学者は、効果が薄れたら、追加接種すればいい、との判断を支持するが、根拠薄弱なままでは、論理の袋小路へと、迷い込むだけだ。一見、矛盾なく、論じているつもりでも、そこには、数々の不明点が、放置されており、破綻しかかっている。どうしても、追加したいとしても、その必要性を、正しい論理で、明らかにしなければならない。例えば、抗体価の低下を、指標にするなど、検討余地は、幾らでもあるのだ。それさえ触れずでは、無知蒙昧だ。

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2月10日(木)−悪手

 制限さえ解除すれば、現場の混乱は、解消できる。こんなことを書き続けると、馬鹿の一つ覚え、と思う人も居るようだ。これ程の数の、陽性者が出ており、社会の大混乱の最中に、これまで、感染拡大の唯一の手立てとして、世界中で行われたことを、止めろとは。
 気が狂った、としか思えない、という訳だ。だが、冷静に見て欲しい。これまで、その手立てが、どんな効果を産み、どんな影響を与えたか、誰がどのように、検証したのか。例えば、世界各地で、同じような現象が、時期をずらして、起きてきた。その中で、それぞれの地域で、どんな措置が取られたか、確かめるだけで、何が起きていたか、見えてくる筈だ。研究者でも、専門家でも、ない人間にとり、全てを見渡すことは難しいが、一部を見ただけでも、制限の有無や、都市封鎖の有無で、違いが殆ど無いことが、理解できる。要するに、この類の感染症では、専門家が意図したような、封じ込めが、意味を成さないことが、判るのだ。だからこそ、制限よりも、現場対応を、優先させるべきであり、諸悪の根源である、隔離政策を、排除することが、最優先となるのだ。その上で、症状を呈した人々に、適切な治療を、施せる体制を築くべきなのだ。この言葉は、これまで、感染拡大を防ぐことだけに、目を向けてきた人々にとり、大きな負担を、感じさせるが、実際には、医療における基本を、表しているに過ぎない。こんな単純な論理さえ、理解できない状況に、陥る人が、沢山居るのは、愚民政治が、台頭する時代には、当然のことだろう。一方、ワクチン接種についても、検証不十分なまま、暴走を続けており、作用機序は兎も角、効果の程度を、精査しないままに、追加を促すなどは、更なる暴挙でしかない。検査と接種は、陰りの見えた医薬業界にとり、莫大な利益をもたらし、救いの手を差し伸べた。更に、治療薬開発も、大きな力を与える。世界規模という点が、従来に無い異常な点だ

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2月9日(水)−罪作り

 次々に繰り出される、変更の数々、この国では、本質的な意味が無く、無駄の一言で、断じられるべきものばかりだが、実は、世界各国で、同様のことが、行われている。現場の混乱を、解消する為と称して、種々の思い付きが、講じられるが、所詮、役立たずに過ぎない。
 病原体による災禍が、当初から、盛んに喧伝されてきたが、実態は、まさに、人為的な災害、人災となっている。多くの現場が、課せられた制限から、大混乱に陥っており、解決の道筋は、全く見えていない、と言われる。だが、本当だろうか。明らかに、人為的に起こされたものなら、その原因を、取り除くことは、難しくない。研究者や専門家の、無能ぶりから、どれだけ待っても、実態が明らかとならぬ、病原体によるものなら、まだ、解決の糸口さえ、見つからぬとなるが、混乱の原因は、過剰な対策と、改善を怠る体制に、その殆どがある。最大の要因は、二つあると思える。一つは、当初から行われてきた、検査による感染者の特定だ。実際には、発症もせず、体調に変化がないまま、感染源として、視線を浴びる対象となったが、その事実は、依然として明らかでなく、監視対象とすべきか、強い疑念を持たれている。もう一つは、隔離体制の構築だ。危険な伝染病に対して、歴史上では、様々な隔離対策が、講じられてきたから、今回のものも、その一つと見るのが、世界機関や各国の保健当局の方針だが、発症者の実態が、明らかになるにつれ、彼らの過大評価が、露呈している。そうなれば、従来の感冒と、何ら変わらぬ状況であり、肺炎などを併発した場合のみ、加療が必要となる。そこでも、感染の広がりを、過度に警戒する必要は無く、従来と同じ扱いで、問題無しとなる。その為には、各所から諸悪の根源と、糾弾される分類の過ちを、正す必要がある。おそらく、それだけで、医療現場でも、教育現場でも、混乱が解消できるに違いない。世界機関が、謝罪すればいいだけだ。

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2月8日(火)−若者言葉

 齢を重ねるに従い、若い世代の操る言葉に、違和感を覚えることが、多くなってくる。世間では、新しい言葉こそ、文化の変化の源泉であり、発展の原動力だ、とされるが、果たしてどうか。長く見守れば、解ってくるが、現れては消える、そんな類のものが、大部分なのだ。
 自分も、若い頃は、そんな言葉の数々を、追いかけてきた、という人が多いだろうが、今はどうか。新しいことを、理解することも、覚えることも、難しくなると、お手上げとなる。一方で、耳目を集めようとする業界では、せっせと、新情報を集めている。その典型は、広告業界だろう。一年程前から、解散した人気グループの一人が、主役となって、アプリ制作会社の、広告が流れ始めたが、違和感満載の状況だった。中年の彼が、若い人々が語る、その会社の紹介に、徐々に納得していく筋だが、そこでの若者達の言葉遣いに、首を傾げたのだ。「〜みたいですよ!」の連呼は、そのツールでアプリを作ることが、如何に簡単かを、伝えようとするものだったが、何故、断定しないのか、不思議だった。「とか」、「らしい」、「みたい」など、断定せずに、情報を伝えるのが、彼らの常なのだが、そんなあやふやな情報を、広告で流して、何とするのか。怒りを忘れかけた頃、同じ広告が、台詞を変えて、再開された。そこでは、全ての「みたい」が、削除されており、広告らしくなっていた。風潮に敏感な広告業界では、当然の企画だったのだろうが、依頼した企業から見ると、自分達の作ったものの性能が、蔑ろにされていると思えた、のではないだろうか。責任逃れの風潮は、大人が考える程、深刻なものではない。これでこそ、広告だと思ったのは、ほんの一握りだろう。だが、そんなに単純だろうか。実は、若者が、あの言葉達を多用するのは、自信の無さ、の方が優先されるから、との指摘もある。その一方で、責任逃れの問題は、中堅以上の、まさに中年より先の世代にある。ふと考えた。

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2月7日(月)−何とする

 騒ぎを、更に大きくしたい人々にとり、苛立つ状況が、続いている。陽性者は、予想通りに、増え続けており、思い描いた展開となったが、現場の混乱が、期待通りに膨らんでいない。世界的傾向から、そんなことは、簡単に予想できたが、一体、何を望んだのだろうか。
 ここでも、自縄自縛の典型が、起きている。陽性者の数に、庶民も、自治体も、驚くことを、やめてしまった。それは、先行する世界状況から、重症化の割合が低く、死者数も、抑えられているからだ。では、何が、縛り付けているのか。それは、重症者の定義なのだ。監督官庁のサイトには、専門家達が纏めた、診療の手引き、なるものが掲げられている。その34ページから、分類と扱いが、論じられており、重症とは、集中治療室、ICUに入室か、人工呼吸器が必要、という状態を指す。これが、如何に重い症状かは、別の資料を引くと、はっきりとわかってくる。ある公立病院のサイトには、類似した病気である、肺炎の治療法が、紹介されているが、そこには、対症療法と原因療法がある、とされている。原因療法では、病原体を特定し、退治する薬を使うが、今回の騒動では、特効薬はまだ無い。一方、対症療法では、症状緩和を目的として、咳止めや解熱剤を投与する、とされている。そこから、更に重篤な症状となると、という話は記載されていない。つまり、一般の肺炎では、ここまでの治療が、功を奏しなければ、死を迎える場合が多いのだ。今回の話題となる、重症患者の治療も、ましてや、最終手段として注目された、体外式人工肺、ECMOが使われることは、決して無かった。この違いを、どう考えるかは、患者、その家族、医療従事者、そしてその他の人々、それぞれの立場で、大きく違うだろう。どの国でも、同様の状況にあるかも、実は、はっきりしない。ただ、感染症分類で、隔離を定める中、これらの指針を定めたことが、混乱の要因であることは、確かなのだ。

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