パンチの独り言

(2022年2月21日〜2月27日)
(逸機、政治的発言、似た者同士、仲裁法、狂気の果て、駄目な論、学べない)



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2月27日(日)−学べない

 経済の世界では、歴史は繰り返す、とよく言われる。成長が続いた市場が、ある日突然、暴落に見舞われる。そんな悲劇に襲われると、人間は、2度と被害に、遭いたくないと思うものだ。そこで、暴落の前兆が、何処にあったかを調べ、似た事象を、歴史の中から見つけ出す。
 一度きりの出来事では、何処に、前兆があるかを、特定することは、できない。多くの要素を、並べることができても、その中のどれが、前兆と呼べるのか、決められないのだ。そこで、これまでの歴史で、起こった出来事の中で、よく似たものを並べ、そこに共通点を見つけるのだ。こんな作業の中から、歴史は繰り返す、と考えるようになった。今の市場経済が、築かれたのは、資本主義が台頭してからだから、長い人類の歴史の中では、ほんの短いものだが、それでも、同じことが、度々繰り返された、と言われる。だとしたら、他のことに関しても、同じ考えが適用できる、と思ったのだろう。多くの人々が、歴史に学ぶと主張している。ここ数日の破壊的な出来事も、歴史を振り返れば、同様のものが、見つかると言うのだ。彼らの意見では、先の大戦を、この国が始めた端緒は、連合国との対立であり、そこから、種々の制裁が下され、窮地に至った為、とされる。その過程では、始めた原因は、こちらではなく、あちらにあるとされ、当時の政府の決断を、正当化する意図がある。だが、そんな見方を、適用させたとしても、そこで起きた蛮行は、決して正当化できない。その点を、棚上げして、類似点を挙げることで、今回の侵攻を、正当化するのは、愚の骨頂でしかない。彼らの特徴は、歴史の一面を切り取り、その面からの解釈を、多くの事象に、施すことで、それを、正当化の根拠とする。だが、それは、恣意的な操作であり、歴史を俯瞰したとは、言えない。となれば、学ぶどころか、単に、冒涜しているだけだ。海の向こうの前大統領の解釈は、その典型であり、彼に与する人間も、だ。

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2月26日(土)−駄目な論

 市民の自由を、奪うという意味で、同じ行為との意見が、掲げられていた。だが、言葉による制限と、武力による制圧では、根本から、全く異なっている。恐怖を煽る、という戦略では、同じことだとの意見も、的外れも甚だしい、としか思えぬ。論でしか、物事を考えぬ、輩だ。
 権利を奪う、という意味では、自国の人民を、巻き込んだ、今回の馬鹿騒ぎは、後世には、一笑に付されるか、厳しい批判を、浴びせられるか、だろう。それ程までに、薄弱な根拠に基づき、暴走を続けた、世界機関、各国政府、そして、関わるべき専門家達は、稀代の詐欺師として、名を残す。あるいは、最悪の事態を、招いた張本人として、名を残すより、その事態の、余りの荒唐無稽ぶりに、記憶だけでなく、記録から、抹消されるかもしれない。一方、自国の混乱を、招きかねない火種を、揉み消すことを、常としてきた国は、凶暴な独裁者が、またも、隣国への侵攻を、始めてしまった。武力行使により、恐怖を煽ることで、支配下に置くという、使い古された戦略は、これまでに、何度も実行されたが、歴史上の汚点を残し、様々な歪みをも、その地域に残してきた。感染症の恐怖との、類似性を、指摘する人々は、恰も、正当な行動と、見做しているようだが、ありもしない、死の病という、作り物の恐怖は、徐々に薄れる、頼みとする根拠が、最終的には、消え去ることにより、忘れ去られるが、武力行使による、侵攻という行為は、その地の破壊を、伴うだけに、消え去ることも、忘れ去られることも、起こり得ない。対岸の火事だからこそ、こんな能天気なことを、言い放つ人の多くは、所謂、論に論を重ねる、評論家であり、自らの安泰は、常に確保した上で、好き勝手に、言葉を並べるだけだ。大衆にとり、自由の確保は、何よりも大切であり、それに向けて、努力すればいいのだが、今回の世界を巻き込んだ混乱では、無知を端とする、無理解こそが、主因となる。戦乱とは、違うのだ。

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2月25日(金)−狂気の果て

 仲裁するなら、との提案を書いたつもりだったが、狂気に満ちた独裁者は、さっさと、他人の庭に、汚い足を踏み入れた。この事態になり、考えてみると、対抗勢力も、本気で、蛮行を食い止めようとは、思っていなかった、と思えてくる。制裁を、ちらつかせたのも、無駄を承知で。
 海の向こうの大統領は、就任以来、数々の外交の失敗を、繰り返してきた、と言われる。今回も、その一つと断じられるが、果たして、そうなのか。もし、食い止めを、目指していなかったとしたら、失策でも何でも無い。単に、戦略だっただけだ。それも、選ばれたとして、正当化を繰り返しつつ、独裁政権を、握り続ける、狂気の独裁者を、排除する為の、手段の一つとして、相手の敗着を、狙ったものだとしたら、この展開は、まさに想定通りとなる。その意味では、戦前の軍部が、狂気に満ちた暴走を続け、権利拡大を狙って、侵略を正当化したことと、やはり、酷似した状況となった。結局、暴走は、完膚なきまでに、叩きのめされるまで、続いたから、国民の疲弊は、回復不能とまで、思われた。だが、敵国の占領により、体制が一新され、国民性の何が、大きく影響したのかは、今も明らかで無いものの、急速な回復を見たことは、当時の連合国に、属していた国々には、成果の一つとして、記憶に刻まれている。その頃とは、全く異なる構成となった、現状の敵対する国々でも、一部は、同じ構成で、維持されているから、同様の展開を、思い描いたとしても、不思議では無い。だが、あれ程の大規模な戦争に、これから、突入することは、誰も、歓迎しないし、あってはならぬこと、という共通理解があるだろう。その中で、一人の狂気が、どこまで突っ走るかは、世界から、注目されることに違いない。制裁を、小出しにすることで、様子を窺うにしても、これ以上の侵攻は、あらゆる面から、否定される。あの狂人は、満足できる成果さえ、手にすれば、満足するだろうが、それは、何か。

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2月24日(木)−仲裁法

 冷戦時代には、制裁が、取り沙汰されることは、決してなかった。二つの、敵対する勢力が、睨み合う中では、互いに、制裁を加えても、それは、自分達の領分の中に、限られたこととなるからだ。しかし、片方の体制が、瓦解することで、利益を、享受し合う環境となった。
 となれば、制裁は、効果を示すようになる。但し、圧倒的な力の差が、存在すれば、有効だろうが、拮抗する状況では、掛けた制裁が、自分達にも降りかかり、時に、自業自得の事態を、招きかねない、と言われる。それを、懸念する声が、今は、最も大きいようだが、何度も繰り返すように、舞い戻る被害を、心配するよりも、最悪の事態を、招きかねない、という点を、考慮する必要が、あるのではないだろうか。先の大戦において、先進国の仲間入りをして、更なる発展を、目論んだ、嘗てのこの国は、周辺国の混乱を、他の先進国の介入ではなく、周辺において、解決に導こうとして、内政干渉の為に、傀儡政権を樹立させ、侵攻へと突き進んだ。その際に、それまで圧力をかけていた国々から、更なる制裁を、下されたことで、連盟を脱退し、開戦へと駒を進めた。これと、似た現象が、今起こりつつある。連盟時代には、平和維持という観点は、殆ど存在せず、当事国同士で、交渉するしか、手段は無かったようだが、連合時代となり、その観点が、前面に押し出され、世界各地で、実行に移されている。それに関する質問集が、機関から出されており、そこには、誰がどう決定するかも、明記されている。近年の混乱で、機能しないとされた委員会も、こういう決定であれば、同意を得ることも、可能なのではないか。制裁を、主な手段として、委員会の運営が、行われてきたにしても、拒否権という切り札で、頓挫するばかりでは、存在意義さえ、失われつつある。だからこそ、全く別の観点で、収集を図ることが、必要なのではないだろうか。その為の世界機関なのだから。

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2月23日(水)−似た者同士

 3週間前に、弱者を演じる異様さに、失笑を禁じ得ず、と断じた人物は、本人は、民主的選挙で、選ばれたとしているが、まさに、独裁者そのものであり、先の大戦で、疲弊に苦しむ国を、戦争へと導いた、人物と酷似する。ただ、後者の主張は、疲弊打開であり、強者を演じていた。
 弱者を演じ、危機を演出していたが、遂に、一線を越えようとしている。その姿に、世界中が、注目する一方で、厳しい批判を浴びせる。この国でも、宰相が、他国への同調を、表明することで、決断を下した、と言われている。だが、その一方で、この国なりの分析に、目を向ける気配は、見えていない。先の大戦で、開戦を決断したのは、一人では無く、軍部と呼ばれる組織と、それに同調した政治家達だった。今回との違いは、独裁者が、独断専行を、進めるのに対し、ある集団が、自分達の利益を、求めた結果という点だろう。但し、ここまでの道筋は、酷似している、とも思える。他国への侵攻を、進める為の手立てとして、そちらの混乱に乗ずることが、一つのきっかけとなる。80年程前、嘗て滅ぼされた国の王を、担ぎ出すことで、傀儡政権を、樹立したと言われたが、その後の統治を、確実とする為に、内戦を引き起こし、軍を派遣した上で、攻撃を受けたとして、戦争を引き起こした道筋は、今現在の、あの国の混乱地帯の状況が、その途上にあるように、見えている。そこに、手を差し伸べるとして、隣国の大統領が、描いた筋書きは、そっくりそのまま、と言えないだろうか。当時も、制裁と称して、経済的な圧力が、掛けられたものの、走り出した軍部は、窮鼠猫を噛むが如く、一気に突進していった。同じことが、今行われつつあり、世界的懸念が、市場へも、影響を及ぼす。同じ道を、歩まぬ為に、何が必要か。一つあるとしたら、国際機関が、介入することであり、安保理でなく、機関が組織した軍隊を、派遣することだろう。国同士の問題で無く、国際的な仲裁に、乗り出す為に。

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2月22日(火)−政治的発言

 政治にとって、好機となる筈が、相次ぐ失策の末、各国政府は、国民の信頼を失い、政治不安を、招いたと言われる。深刻な事態であり、打開と称して、新たな方策を、講じ始めた、と伝えられるが、明るくなる兆しは、全く見えてこない。その理由は、明確だ。
 打開として、全ての規制を、撤廃するとした、ある国の首相は、即座に、厳しい批判に晒された。それも、対抗勢力のみならず、身内からのものだけに、状況の悪化を、食い止められぬ、と伝えられる。同盟国の一つでは、鎖国政策を、徹底してきたが、ここにきて、解放政策へと移行する、と首相が発表した。ところが、そこに加えられた限定が、自縄自縛の典型、となりそうに思える。海外からの訪問を、全面的に受け入れる、との宣言には、2度の接種を、完了した人に限り、という制限が、加えられている。非科学的な論調で、これまでにも、世界的な大会への参加を、頂点に立つ選手に対して、拒否したことで、話題を提供してきたが、ここに来て、緩和に動く、他国の傾向に、同調する決定を、下したものだが、そこでも、これまでの頑なさを、捨てることが、できなかった。接種に関しては、これまでにも、散々批判されたように、感染抑制も、集団免疫も、防ぎ切れないもの、と断じられており、その上、発症どころか、重症化に関しても、効果を示せなくなったことで、有効期間という、別の指標を持ち出して、延命化が図られている。その中、この首相の発言は、俄には信じ難いもの、と映るのだ。接種制限を、施すのであれば、2度では駄目で、有効期間内との、追加事項が、必要となる。だが、肝心の情報は、誰の手にも無く、単に、仮説に過ぎないのだ。となれば、この制限自体が、無意味なものとなる。それを、一国の宰相が、大々的に宣言するとは、まさに、噴飯物なのだ。政治とは、所詮そんなもの、との世論がある中、絶好の機会を、逃した人々からは、妄言しか出てこない。

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2月21日(月)−逸機

 2年程前に、この騒動が、始まった時、指摘したのは、これが、政治にとって、格好の機会となる、という点だった。危機は、どんなものでも、それへの対処により、政府の評価が、急激に高まるからだ。仮令、それが、人の手により、作り上げられたものでも、だ。
 ところが、当初の甘い見込みは、脆くも崩れ去った。多くの政府が、横並びの政策を、講じたことは、それぞれが、同様の勝利を、手に入れる機会を、得るものと目されたが、全く逆の経過を、辿ったのだ。世界機関、自国の研究機関、更には、保健当局の指針に、従うことで、確実と思われた、制圧は、その達成に、程遠い状況に、止まっただけでなく、どの国も、国民からの反発が、徐々に高まり、そちらの制圧に、力を入れねばならない、想定外の状況に、陥っている。絶好の機会、と思われたにも関わらず、何故、こんな事態となったのかは、ほぼ明白となっている。それは、感染症、公衆衛生、疫学をはじめとする、今回の騒動の原因を、対象とする医学が、無知を晒した為で、それに加えて、切り札になる筈の、免疫学でさえ、画期的な技術改革と目された、ワクチン接種が、予想外の結果しか、出せなかったことで、全体として、役立たずの烙印を、押されてしまった。危機を回避する為には、少々の危険には、目を瞑るべき、との信念は、裏切られた結果により、厳しく糾弾されてしまい、効果が、期待に及ばず、更に、長続きせずでは、大衆の信頼は、失われて当然となった。元々、害悪への注目が、集まる中での、この失態は、学問への信頼をも、失墜させるものとなった。その一方で、一部企業の、収益急増は、政治の役割の、別の面を、民衆に示すこととなり、評価を、更に落とすこととなる。検査、ワクチン、特効薬、等々、医薬品製造にとり、近年の不況の兆しから、一気に、脱出する機会を、得たことは、何とも皮肉な結果と言えそうだ。

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