パンチの独り言

(2022年2月28日〜3月6日)
(強欲者、検証の意義、屑、甘い汁、自業自得、普段通り、真偽の吟味)



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3月6日(日)−真偽の吟味

 以前も、取り上げた気がするが、今の国際紛争から、当時国だけで無く、他の国々までもが、自分の側の主張を、正当化する為に、様々に、事実を歪曲し、事実無根の情報を、意図的に、流していると、互いに、相手を批判することが、頻繁に、起きていると言われる。
 これは、海の向こうの前大統領が、自身に不利な情報を、全て、偽物と断じることで、自らの正当性を、盛んに喧伝したことから、始まったかの如く、思う人が居るが、現実には、人間が、この星の上に、現れた時から、盛んに、行われてきたに違いない。それを、恰も、自分が見つけたと、主張する人間には、敵対者を、批判する資格など、ある筈も無い。世界的な、情報伝達手段が、確保されたことと、誰もが、端末を手に、好き勝手に、発信できるようになったことが、現状においては、最も大きな要素だろう。今も、紛争の各地から、何処の誰か、分からぬ人々が、盛んに情報発信を、行っている。何方に与するかで、情報の内容は、全く異なってくるから、その正誤を判断したり、確認したりすることは、殆ど不可能だ。にも拘らず、世界中が、これらの情報に、振り回されている。一方で、片方の勢力は、独裁者により、情報統制が行われ、自国からの発信を、統一させようとする。以前なら、報道は、その場から行わなければ、事実を、伝えることができない、と言われたが、それでも、四半世紀前には、既に、全く別の場所から、伝えられた事実を、繋ぎ合わせて、報道する手法が、始まっていた。彼らの主張は、映像による報道も、撮影者の眼前では、同じことが起きていても、後ろでは、全く別のことが、起きている可能性がある、というもので、まさに、種種雑多な情報が、垂れ流される、今の時代を、予見したものと思える。情報氾濫の時代には、報道にも、それを受ける大衆にも、これらの情報を、吟味することが、必要となる。そこでは、利害ではなく、客観、中立が、不可欠となる。

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3月5日(土)−普段通り

 無知蒙昧な大衆を、啓蒙しようという、一部の専門家の目論見は、脆くも潰えた。感染を、防ぐ為の手立てや、ワクチンの効果や、その他、今回の騒動で、取り上げられた、専門知識の数々は、これまでの経過から、その殆どが、誤ったものだった、と思われている。
 専門家の発言として、鵜呑みにした人々は、何度も振り回され、何度も裏切られた。そのことから、学問の危機が、迫っていると説いたが、発言した当人達は、依然として、そのことに、気付く気配も無く、また、自らの過ちにも、気付かない。それこそが、危機である、と思うのだが、聞く耳を持たぬ、愚かな人々は、所詮、そんなものだ。では、頼りにならぬ情報に、振り回されず、今の時代を、生き抜くとしたら、何をすれば良いのか。実は、騒動の核心である、死への危険は、騒動前と変わらず、誰もが、同様の命の危機に、晒されている。そう書くと、如何にも、騒動の首謀者達と、同じ言説、と受け取られそうだが、現実には、正反対の主張となる。誰もが、いつかは、死ぬ運命にある、というだけの意味で、ごく当然のことなのだ。では、その中で、何か特別なことが、必要なのか。極端に言えば、何も必要無い、となる。普段から、自分の健康に、気を配っているなら、それだけで良い。たとえ、基礎疾患と呼ばれる、生活習慣病などに、悩まされる人々でも、これまで同様、体調の変化に、気をつけるだけで、大きな問題は起きない。では、何かしらの変化を、感じたらどうすれば良いのか。これも、基本的には、特別なことは、何も無い。疲れを感じたら、休めば良いし、変化を感じたら、休むかあるいは薬を飲む、または、栄養のある食事を、摂るようにする、ということだ。これも、特別では無い。突然、病院に向かったり、特効薬を探すより、安静が第一である。また、普段から、生活全般を、上質に保つ必要はある。少しの出費は、将来への出資なのだ。けちっても、始まらない。

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3月4日(金)−自業自得

 学問の危機に関して、以前にも、書いたことだが、この所触れたことを、付け加えて、その実態を、示してみたいと思う。元々、社会的には、安直に、収入を得る話に、群がる人が増えており、学問などを含め、何かを究めることに、興味を示す人の数が、減っていた。
 そんな状況だからこそ、自分が携わるだけでなく、情報の源として、とか、頼るべき対象として、とかいった観点から、学問やその成果に対して、興味が失われつつあった。その中で、この騒動が起こされ、それに加担した人々から、様々に説明が、加えられてきたが、理不尽で強制的な制限が、課せられる中、非論理的な言説や、意味不明な主張が、度々繰り返され、専門家への信頼が、徐々に失われていった。当初は、正体不明の病原体と、それによって引き起こされる、死への恐怖が、大々的に取り上げられ、理解を求める大衆から、多くの疑問が寄せられ、それらに答えることで、学問の重要性を、示すとされたが、実態は、学問とは、似ても似つかぬ、事実誤認や非論理の塊で、常識を逸脱したものまで、登場するに至り、役立たずの烙印を、押されることとなった。感染症の専門家は、感染の仕組みを、説明できないばかりか、検査の意味も、発症後の進行についてさえ、殆ど口を閉ざしたままで、ただ、危険と繰り返す一つ覚えに、分類の再検討を、固辞し続ける。疫学や公衆衛生学でも、大規模調査を、常とする筈だったが、待てど暮らせど、何の成果も示せず、変異という言い訳に、しがみついたままだ。更に、ワクチン開発で、自画自賛の気分に浸った、免疫学では、その後の迷走ぶりに、後付けの説明に、終始している。これら全てが、学問の危機に結び付く訳では無いが、少なくとも、納税者の信頼を、失うきっかけと、なっているだろう。金次第、と言われる研究が、学問を支える屋台骨と見れば、この状況は、危うく見える。学問より私腹、と見れば、どうでもいいことだろう。

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3月3日(木)−甘い汁

 一度、手に入れた権利を、離したくない、との思いだけで、いつまでも、制限を続けようとする。市民にとり、ただの迷惑でしかない、馬鹿げた政策には、もう殆どの人が、何の期待も抱かず、止めて欲しい、とさえ思っているが、握られた権利は、またも、振り落とされそうだ。
 何度も、繰り返される、死の恐怖に関しても、実効性が見えず、手を替え品を替え、といった状況となり、恐怖を煽る言説も、論拠も論旨も、見えなくなっている。それでも、片棒を担いで、死の恐怖を撒き散らす、報道の人々は、政府からの発表を、ただ漫然と垂れ流し、その内容を、精査することさえ、出来ぬ程に無能らしい。この国では、厳しく批判されることは、殆ど無いが、本来、制限をかけるなら、それを解除する条件を、同時に定める必要がある。ところが、恐怖に、焦点を当てることに、躍起になる専門家達は、そんなことにさえ、目を向けずに、叫び続けることで、自らの権益の確保に、躍起となっている。今回も、減少傾向が、明らかとなる中、まだという掛け声を、発する人々からは、意味不明な主張が、出されている。相変わらずの、病床使用率の強調は、根拠薄弱なままで、意味をなさないし、死亡率の高さについては、根拠も示さずに、強調する姿勢には、藁をも掴む、という感しか浮かばない。何方も、今回の騒動での、道具となっているが、率は、あくまでも分母となる、母数の大小が、肝心となる。それも示さず、ただの一つ覚えに、終始する姿には、無能ぶりしか感じられない。一方、町医者のような、現場に居る人間には、今回の感染症の特徴が、徐々に、見えてきたとする向きもある。発熱や倦怠感が、どう起きるかで、その後の経過が異なる、と言われるものだが、これこそ、実は、専門家の中でも、疫学や公衆衛生学に、関わる人々が、調査しさえすれば、明らかにできることだ。一体全体、これらの人々は、何をしているのか。ただ、金に群がるだけか。

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3月2日(水)−屑

 緊急事態だから、今できることを、行っていく、という戦略が、通用したのは、おそらく、はじめの数ヶ月だけだった。作られた緊急事態では、本来なら、その筋書きも、記されていた筈だが、あまりに杜撰な台本では、誰も、芝居を続けられず、場当たりの連続となった。
 これでは、緊急も何も、全てが投げ出されて、思い付きの対策を、続けることしかできない。とする向きがあるが、本当だろうか。何の根拠もなく、無駄なことばかりを、続けるのは、単に無能だからであり、少し考えれば、別の選択肢を、検討する時間は、十分にあった。2年も経過したから、ではなく、その時その時の、その場凌ぎを続ける中で、思い付きを、多方面に、広げる位、誰でもできたことだ。にも拘らず、この為体が続くのは、やはり、中枢に居座る人間が、余りにも無能なだけでなく、私利私欲に、駆られていたからに違いない。では、一方で、誰もが端末を手に、好き勝手な意見を、発することが、可能となった時代に、そちらに関しては、どんな状況にあるのか。傍目八目の典型として、俯瞰的な見方から、別の可能性を検討し、それについての意見を、発することが、できているのだが、その内容は、批判の対象となる人々と、殆ど大差が無い位、狭量の典型と、思えている。政策の失敗を、一つひとつ上げて、糾弾するという手法は、当然のことだが、その内容は、大した検討も無く、自らの考えに、固執した結果でしかなく、まさに、目糞鼻糞を笑う、となる。マスクの効果より、悪影響を強調したり、ワクチンの副反応を、殊更に取り上げたり、それが及ぼす効果こそが、それぞれの対策で、目指されたことなのだから、その有無こそが、有効性を、論じる対象となる。それを、別の話題と掏り替え、持論を展開するのは、的外れも甚だしく、議論の価値は、全く無いに等しい。こういう論者の多くは、何にでも首を突っ込み、的外れを繰り返す。屑でしかない。

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3月1日(火)−検証の意義

 大規模な制限が、実行された理由は何か。この質問に、答えられる人は、どれ位居るだろう。実は、この2年間では、唯一の正解が、ある訳ではない。数々の失敗が、繰り返される中で、制限を下す組織が、次々に、違う理由を当て嵌め、恰も、それが妥当だと、してきたのだ。
 この点が、この場で、彼らを詐欺師呼ばわりする、理由の一つだ。当初、世界機関をはじめとして、感染の封じ込めが、この病原体への、唯一の対抗法とされ、実行に移されたが、蔓延を食い止めることも、犠牲者の増加を防ぐことも、全くできなかった。感染者との接触が、最大の要因だが、それが、物理的な直接接触ではなく、空気や接触物を、介したものだけに、何処かに漏れが出てしまう。だからこそ、完全防備の病院内で、多くの医療関係者が、犠牲となった。この失策を、恥じることなく、反省へと結びつければ、まだ、救いはあった。その典型が、北欧の一国で、他とは異なる思惑で、策を講じ始めた。それ自体は、ある意味、思惑通りとなったが、それでも、死者数の急増で、世論に抗えなかった。他国は、あのままなら、手の施しよう無し、という事態に陥ったろうが、そこに、ワクチンという救世主が、登場したことで、接種による集団免疫を、目指すこととなった。だが、2度の接種後も、一向に減らない、陽性者数に対して、その戦略を放棄し、重症化予防という、別の効果を、前面に押し出してきた。ここでも、全員接種を、強制する動きもあり、別の制限と見ることができる。ただ、これらの方策は、悉く効果を失い、その後の迷走は、記憶どころか、現在進行形として、今も、大衆に圧力をかけ続ける。これ以外にも、多くの妄論が、世界機関、各国政府、研究所、専門家等々から、発せられており、その害悪だけでも、世界に与えた悪影響は、計り知れないものとなる。これらの過ちの、最大要因は、無検証のまま、進めたことであり、それを看過した、報道などの責任も重い。

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2月28日(月)−強欲者

 陰謀論では、今回の狂気の沙汰も、暗躍する組織によるもの、と受け取るらしい。海の向こうでは、前大統領の時代に、彼が、好んで使ったことから、熱狂的な支持者達が、取り憑かれている。彼らには、歴史上の紛争が、全て、その組織の思惑、によるとされる。
 笑止千万、と断じるのも、手段の一つだが、今の時代、大真面目で対応することが、優先されている。理由の一つは、誰もが手にする端末から、どんな意見も、審査無しで、世界中に、ばら撒かれるからだ。玉石混淆となれば、総じて、石ころの方が、数的有利となる。その環境では、これまで、統制された情報に、慣らされた人々は、鵜呑みを繰り返し、その中で、極論へと、誘き出される。それが、魅力的な政策を、講じてくれると、期待した人物からのものであれば、引き寄せられるのも、当然かも知れない。しかし、生き抜く術を、身に付けた人々には、こんな暴論は、奇奇怪怪としか映らず、論理は成り立たない。ただ、純粋無垢な人々は、騙され易いもので、今回の侵略行為も、正当化されれば、そうと受け取るのだ。一方で、依然として、騒ぎの収まらぬ、感染症騒動については、同様の傾向が、見て取れる。世界機関、政府、専門家などが、徒党を組んで、一方的な情報のみを、流し続ける中、多くの人々は、恐怖に駆られて、服従している。だが、何度も繰り返される、失策の数々は、一目瞭然であり、言い訳は通用しない。だからこそ、彼らは、目を逸らすことに、終始しており、数々の方策を、検証することは、決して行わない。自らの過ちを、認めぬ為の、唯一の手立てと、しがみ付いており、感染拡大抑制、ワクチン接種、病床確保、水際対策、これら全てで、何をどう誤り、市民を、混乱に陥れたか、省みることは、決して無い。暴言を吐く連中も、妄想に駆られる政府も、名誉より金に群がる専門家も、何も、欲に目が眩んだ、下劣な人間なのだ。

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