パンチの独り言

(2022年3月7日〜3月13日)
(分かり易さ、自他意識、仇となる、人それぞれ、人災、忘れない、非科学的)



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3月13日(日)−非科学的

 神や仏に、縋ることを、馬鹿にする人が居る。古いとか、下らないとか、そんな揶揄と共に、非科学的だ、と断じることもある。確かに、科学的な根拠は無く、何の頼りにも、ならないと見える。だが、科学的な説明が、できないからと言って、無駄と断じられるのか。
 古い、との一言から、誰もが分かるように、昔から、多くの人々が、窮地に陥る度に、神に祈り、仏に縋ってきた。それぞれに、何かしらの対処を、試みたものの、展望が開けず、困り果てた末に、神仏を頼ったのだ。そこには、科学的な根拠など、ある筈も無く、ただ、信じることのみが、最後の望み、となった訳だ。しかし、それによって、何かしらの安心が、生まれる。だからこそ、多くの人々が、それを行なってきた。この効果を、どう考えるかは、人それぞれだろう。だが、安心感が、生きる糧となるなら、それこそが、重要となるし、科学的根拠、となり得る。こんな話を、改めて取り上げるのは、最近の騒動で、神事や仏事が、取り止められた、という話が伝わるからだ。ある国での、初期の被害拡大では、神父に、被害が広がった、と伝えられた。それとの関係は、定かではないが、兎に角、人が集まる行事が、徹底的に排除された。縋ることさえ、奪われた人々は、不安を解消する手立てを失い、途方に暮れた。一方で、その圧力を、行使した科学は、この騒動を、収束することも、できないままに、長い期間の抑圧を、庶民に強いてきた。そこにあった、科学的根拠は、殆どが、祈りに、遠く及ばぬ程に、信頼を失い、馬鹿げた騒ぎとさえ、揶揄されている。こんなものは、悪霊退散のお札と、何の違いも無い、どころか、害悪の方が、遥かに大きく、人々の心に、深い傷を負わせた。同じ無力なら、何か、信じられるものを、手に入れた方が、遥かに良い。と言うより、科学の名を借りた、欺瞞の数々に、呆れ果てるしか無く、人々は、普段の生活に、戻りつつある。

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3月12日(土)−忘れない

「忘れない!」の連呼に、皆は、何を感じるのだろう。素直に、忘れないようにしよう、と思うのか、それとも。災害から、身を守る為に、必要なことは何か。この問題に、正面から取り組む姿勢を、表している、と言われるが、何故、そう断言できるのか、全く理解できない。
 こんなことを書くと、すぐに、反論が返ってくるだろう。曰く、津波で被害に遭ったのは、そんなものは、来ないと信じ込んだからだ、とか、大雨で被害に遭ったのは、大丈夫だと思ったからだ、とか、そんな意見が、殆どだろうと思う。だが、これら二つの事柄では、覚えているか否かではなく、単純に、危機回避の心掛けに、欠けていたからなのだ。でも、津波被害の石碑の存在を、忘れていたではないか、との反論もあるだろう。だが、いつかは無くなるものの存在を、覚えていたとしても、肝心なことを、忘れてしまっては、いけない。と書くと、ほら、忘れないことが、と反応する。ここに、大きな違いがあることに、気付くことがない人々ほど、こんな反応を示す。肝心なこととは、襲い来る災害を、如何に回避するか、という手立てであり、どれ程の被害が、起きたかという点ではない。「忘れない!」の連呼では、執拗に、津波襲来の映像が、流されるし、堤防決壊による、洪水の被害の映像が、流される。その悲惨な状況を、突きつけることで、忘れさせない、との思いを伝えようとするが、現実には、そんなものは、恐怖を催すだけで、危機回避の役には立たない。こんな災害の記憶は、単に、そこから何を学ぶべきか、ということに繋がるだけで、その悲惨さを覚えていても、意味がないのだ。なのに、何故、人々は、的外れの提言を、続けるのか。実は、その愚かさが、こういう災害への対処を、見失うことへと繋がり、被害を広げてしまう。学ぶことの大切さを、忘れてしまい、失ったものは、非常に大きい。

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3月11日(金)−人災

 自然災害は、避け難いものであり、襲われた時に、どう対処するかが、肝心とされる。一方で、今回の二つの騒動は、それぞれに、庶民に襲い掛かったが、現実には、自然からではなく、人間が作り出したもので、力の行使という意味で、指弾すべきものだ。無力としてはならぬ。
 これまでの2年余り、振り回された人々は、こちらの騒動は、まさに、自然災害の一つ、と思わされているが、現実には、そうでは無い。と言っても、一部の陰謀論者のように、何処かの国が、作り出した生物兵器、などという馬鹿げた見方を、している訳では無い。原因となったのは、病原体という、自然発生のものだが、それへの対処として、様々に繰り出された、対策の殆ど全てが、人間が作り出したもので、その多くが、目論見だらけの、恣意的なものなのだ。検査、ワクチンなどの、製薬関連の事柄は、明らかにされつつあるように、一部の業種、企業が、莫大な利益を、上げ続けている。命を守る為、と称するには、余りに極端な依怙贔屓に、呆れるばかりであり、医療現場や、一部の接客業の混乱との違いは、目に余るものだ。もう一つの騒動は、まさに、一国の独裁者が、引き起こしたものであり、他国への武力侵攻は、どんな理由があるにせよ、許されるものでは無い。依然として、所期の目的達成に向け、降りかかる経済制裁を、物ともせずに、突き進んでいるが、果たして、何処まで行けるのか。現実には、たとえ、手に入れたとしても、その後の展開は、これ程大規模に、影響が及んでしまえば、勝利には、遠く及ばぬものとなる。その上、その付けは、独裁者ではなく、庶民に降りかかるに違いない。ただ、独裁へと向かう道筋には、それを支援した人々の存在が、大きいことから、庶民と雖も、責任の一端は、あるに違いない。同様に、感染症騒動も、世界機関をはじめとして、騒動の首謀者を、盲信したことに、責任がある。人間が作り出す害悪は、人間にしか、取り除けない。

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3月10日(木)−人それぞれ

 日々、平穏無事に暮らすことを、第一と考えて、過ごしていた時代には、思いもよらぬことだったろう。将来への不安が、殊更に取り上げられ、それを解消するには、今に、働きかける必要がある、というのだ。今を、どうにかというのは、理解できるが、将来を、とは。
 安定した時代には、同じことが繰り返され、それに対して、傾向を探り、対策を講じれば、無事に過ごせる、という考えが、確立してきたが、その一方で、同じことが続くかに対し、不安を抱く声が上がり、それを取り上げ、今までの傾向ではなく、将来の傾向を、見極めることが、次に必要なこととなった。だが、過去に起きたことを、探ることで、そこにある傾向を、見つけ出すのは、簡単だろうが、将来に、何が起きるのかを、予測することは、簡単ではない。にも拘らず、そんな方に舵を切ったのは、おそらく、今は何とかなるから、将来を、と考えたからだろう。そこから、持続可能という掛け声が、出てきた訳だが、そこに、今の問題を、解決する為の手立てとして、多様性という考えも、掲げられた。持続可能が、大した中身が無い、と指摘したが、一方で、多様性に関しては、自己矛盾の連続で、浅慮によるもの、と思われる。例えば、持続可能とする為には、ある方針を出し、それに従って行動することが、重要であるとされるが、そこには、人それぞれに、異なるやり方を、実行するのではなく、同じ方に向くことが、不可欠とされる。これは、多様性とは反する考えで、二律背反のように、なっているのだろう。当然のことでも、どう行うかには、様々な選択肢がある。にも拘らず、一つに絞り込み、それを実行するとするのは、やはり、無理筋に思える。一方で、多様性という言葉には、誰もが、異なって良い、という魅力的な考えが、含まれるようだが、現実は、そうなり得ない。所詮、目標を掲げ、それに向かうのには、矛盾だらけとなる。個々でやれば、良いのに、集団では、となる。

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3月9日(水)−仇となる

 持続可能な開発目標、この字面を見ても、何のことやら、と思う人でも、SDGsと聞いた途端に、あああれか、と答える。今や、老いも若いも、何か大切なことのように、この掛け声を発し、企業や役所の人々は、これを象ったピンバッジを、胸に着けている。
 17の目標を掲げ、それを達成する為に、必要となる手立てを、講じることが、今の時代に、最優先の事柄、としているが、何処か絵空事のように、感じるのは何故か。一つには、「勿体無い」が、世界共通語となったように、この国では、昔から、この目標に掲げられた事柄の、多くについて、実践してきた歴史がある。そこに、世界基準として、掲げられたからと、殆どの組織が、挙って飛びつく姿勢に、強い違和感を、抱くからだ。自分達が、主体的に取り組んできたものに対し、まるで、新たに導入されたように、扱うのは、如何にも解せない。その意味では、改めて、取り上げるまでも無く、ごく当たり前のこととして、普段から意識してきたものを、まるで、特別なもののように、扱うことに、嫌悪さえ覚えるのだ。更に、深刻な公害を経験し、それへの抜本的な対策を、講じてきた国として、何を今更、との思いも過ぎる。その経験から、一部の先進国や発展途上国とは、大きく異なる対策を、徹底整備した立場として、更なる対策を、という呼び掛けには、賛同しかねる面もある。汚れた水や空気を、如何に清浄化するかについても、工夫を重ねたことから、最近は、行き過ぎを、指摘する声さえある。例えば、一部の海産物は、枯渇などの問題が、指摘されるが、温暖化ではなく、清浄化こそが、原因とする声もある。確かに、汚染対策は、基本的にゼロを目標とし、原因物質を、無くすことを目指してきた。自然物質に、起き得ないことであり、如何に下げるかが、目標とされたが、ここに来て、公害以前より、遥かに低いのでは、と指摘されたのだ。努力の結果が、仇となったのだろうか。

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3月8日(火)−自他意識

 萎縮しているのか、それとも、笠に着て、自らの権力を、押し付けているのか。何れにしても、彼らの思惑は、悉く外れている。にも拘らず、相も変わらぬ、言説のばら撒きに、庶民は、呆れ果てており、もう、耳を貸す必要は、無いと考える。その中で、世界は、別の話題に。
 暗躍する組織が、あるか無いか、そんなことは、どうでもいい。庶民にとり、日々の生活が、平穏無事に、過ごせることが、最も重要なのだ。その為には、今、隣国からの武力侵攻に、これまで以上に、命の危機に、晒されている人々に、どんな支援が、必要なのだろう。遠くからの応援は、確かに、心理的には、少しの足しに、なるのかもしれないが、狂気の沙汰を、押し通そうとする、隣国の独裁者を、排除するには、何の足しにもならない。極論を、好んで使う人々は、非常識としか、思えない反論を、駆使することで、自らの自由は、確保しているが、紛争地の人々が、奪われた自由には、何の思いも、馳せていない。分断が、話題となったのは、これもまた、彼らの憧れの対象である、前大統領が、活躍した時代からだが、元々は、それ以前から、深刻な問題とされていた。それを、少しでも解消しようと、多くの指導者が、腐心してきたのに対し、あの人物は、それを、更に拡大させ、自分に有利に働かせようと、腐心していた。それが、差別の渦中にある人々に、救いの手のように、映ったのは、まさに、人間の性を見るようだった。自分が、差別されるのは、忌み嫌うが、他人を、差別するのは、好ましく思う、という考え方は、差別意識が、何故無くならないのか、についての答えを、示しているように思う。だが、他人の不幸を、喜んでも、何も手に入らないことに、何故気付かないのか。おそらく、そんな愚かさが、全ての根源と、なっているのだろう。自分は自分、他人は他人、というのは、違いを意識するだけで、差別の為では無い。何故、分からないのか。

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3月7日(月)−分かり易さ

 主張を通す為に、どんな論理を、展開するか。こんなことに、正解がある筈も無く、気にする必要さえ、無いのだが、今の世の中では、端末から発せられた、極端な意見に、同意を示す人の数が、急速に増えている。理由の一つは、分かり易さだろう。だが、危険極まりない。
 分かり易いから、と言って、大衆が飛び付くのは、まさに、愚民政治の典型と、酷似しており、その手法を用いて、多くの人の賛同を、得たのが、海の向こうの前大統領だろう。彼の弁は、常識的には、荒唐無稽でしかなく、無益どころか、百害あって一利なし、というものだが、大前提として、分かり易いことが、最優先となるから、その論理や主張の、妥当性は、計られることが無い。その結果、賛同が賛同を呼び、多くの支援を得て、勝利を勝ち取ったものの、その後は、彼が忌み嫌った、敵対勢力からの反撃により、再選が叶わなかった。それさえ、不正によるものとの、陰謀論も、彼の得意とする所で、ここでも、分かり易さから、飛び付いた人が、続出していた。その混乱は、今も続いており、そこからの展開として、国際紛争さえ、陰謀によるものとの解釈が、信望者達から、発せられている。取るに足らぬ、妄論に過ぎない、としても、数に任せた圧力を、高める動きには、警戒を要する。この傾向は、感染騒動においても、強まっており、騒動の首謀者達の、暴挙の数々も、呆れるものだが、それら全てに、反対を唱える輩の中には、極論を、使う傾向が強い。ワクチンの効果を、疑うよりも、その毒性に、焦点を当てるのも、マスクの効果に、疑問を呈するよりも、その害悪を、強調するのも、同じ批判姿勢から、来るものなのだ。本来、科学的に考えるなら、効果の有無を、その程度で考えるべきだが、それでは、理解が難しいとばかり、効果ではなく、害悪を、引き合いに出すことで、誰もが、反対を示し易くする。ここでも、軽率な判断により、肝心な議論を、排除する動きがある。

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