パンチの独り言

(2022年3月14日〜3月20日)
(同意と拒絶、元鞘、諦観、見極め、自己正当化、我田引水、危険度)



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3月20日(日)−危険度

 爆撃の場面ばかりが、何度も繰り返され、人々に、不安を催させる。独裁者の狂気の果て、との見方が、広がる一方で、大真面目に、反論を展開する人々からは、論理の破綻や飛躍が、次々に、投げ掛けられ、自己満足でしかない、戯言の数々は、読む価値を失った。
 自由選択の時代に、多くの人々は、暴言や妄言に、触れることを避け、情報の受信を、遮断している。確かに、不安を強いられ、怒りを催すような、馬鹿げた意見を、見ることさえ、嫌だと思うのは、当然なのかも知れない。しかし、情報の遮断は、別の危険性を、高めることとなる。無価値なものでも、一瞥くらい、しておけば、いいのではないか。命の危険を、訴えることが、はじめに紹介した場面で、何度も行われ、それに加えて、避難する人々の窮状を、見せることで、行われている。迫り来る危険、という意味では、2年以上も続けられる、感染症騒動より、遥かに深刻なもの、との理解からか、陽性者や死者の数が、伝えられることは、殆ど無くなった。これは、危険度という意味で、判断されたことかも知れないし、一方で、現実的な意味で、感染症による命の危険が、取り上げる程、高くなくなった、のかも知れない。だが、この問題は、実際には、騒動が、始められた当初から、騒動の主達の主張とは、全く違った様相を、呈し続けており、その意味では、元々、取り上げる価値は、はじめから、無かったと断じるべきだろう。病原体に、感染することで、体が炎症反応を、示すことは、多くの場合に起き、だからこそ、風邪は万病の元、と言われてきた。今回の病原体は、感染力の大きさに、注目が集まるが、従来のものとの違いは、十分に解析されず、正しいとは言い切れない。一方で、重症化した例のみを、取り上げれば、深刻な事態と見えるが、これとて、従来のものとの比較は、殆ど全く無いままだ。だからこそ、従来通りに、気をつけて生活すれば良い、となる。違うだろうか。

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3月19日(土)−我田引水

 ここ2年程、世界中が、馬鹿げた騒動に巻き込まれ、その野放図ぶりに、問題点を、一つひとつ挙げて、糾弾してきた。騒動の主どもは、実しやかな理由を、上げることで、危機が迫ることを、強く訴えたが、その殆どが、科学的でも、論理的でもなく、戯言でしかなかったことを。
 その過程で、学問の破壊が、起きつつあることにも、警告を発してきた。これらのことは、まさに、馬鹿騒動が、招いたことと思ったが、実は、そうでもないらしい。何時頃からか、トンデモ、との呼称が、科学に冠され、科学の名を騙った、詐欺や欺瞞の数々が、一部の人に、告発されていた。今の状況は、その意味では、今更とも思え、既に、荒らされ続けてきた世界が、再び、この騒動で、混乱の度合いを、高めただけなのだ。この国では、特に、高度成長期に、科学への信頼が高まり、科学技術立国などという、呼称も盛んに使われた。だが、経済破綻が訪れ、その原因を、科学への盲信の結果と、結論づけた人々は、その学問への不信感を、露にしてきた。そこに、トンデモが登場し、その衰退の勢いを、加速したのではないか。そんな世相で、今回の騒動は、感染症の結末同様、まるで、息の根を止めるが如く、科学への信頼を、完全に失わせたのかも知れない。その一方で、非科学的で、非論理的な話でも、人々を、誘導できることが、明らかとなると、同じ手法を、多くの人々が、自らの主張を通す為に、使い始めたのではないか。端末を手に、日々、自分の意見を、世界に発信する人々は、同意のみに目を向け、反論は、悉く排除する。そこには、客観性は無く、ゴリゴリの自我しか、存在しない。批判に堪える必要が、全く無いのでは、何も気にせず、好き勝手に論じられる。同好の士が、集まる中では、それでも、話は閉じている。作られた騒動では、それが、当たり前のこととなる。だったら、自分も、となるのも当然か。困った時代になったものだ。

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3月18日(金)−自己正当化

 旧体制下では、同じ国に属していた、国同士に、紛争が起き、軍事侵攻が始まっても、平和が続く遠い国からは、対岸の火事どころか、何処か遠くの騒動、としか映らない。だからか、議論好きの人々は、好き勝手な主張をし、この国の嘗ての姿を、重ね合わせたりする。
 その傾向は、外国に暮らす人に、目立つようで、四面楚歌から、愛国者であることを、誇示しているようにも見える。だが、仮令、国を愛しても、他国への侵攻は、決して正当化できない。それが、その他の国々からの、圧力の末としても、だ。同じように、大統領の独裁下で、保たれていた地域の均衡が、彼の死をきっかけとして、一気に崩れ、旧体制下の内戦が、始まった国は、その後、激しい戦闘の末、6つの国に分裂した。これに対して、今回の紛争は、内戦ではなく、国が分かれた後に、自国の危機を理由に、他国に軍事侵攻した訳で、全く異なる事情があり、同等に扱うことはできない。また、国という、互いに独立した単位に、危害を加えることは、決して許されない。にも拘らず、あの論者達は、嘗ての母国の暴挙さえ、圧力介入によるものと、正当化しており、それと同等と見做す為に、詭弁を弄するなど、下らないことに、精を出している。彼らには、嘗て、圧力介入した強国が、今の世界で、好き勝手に振る舞うことが、気に入らぬようで、よく似た事象を、中東で起こしたことや、同じ地域で、世界最大の産油国が、他国に攻撃を加えるのを、糾弾することで、議論のすり替えを、行っている。この姿勢は、一見、正義のように映るが、現実には、自己都合だけで、何事も考える、利己主義でしかない。利己が、他の利己を、批判するのは、愚の骨頂でしかなく、目糞鼻糞でしかない。既に、世界の警察を、自負することを、止めた国には、彼らなりの事情が、あるに違いない。それを、せせら笑い、狂信的な独裁者の、他国への侵攻を、正当と受け止めるのは、排他主義の典型だろう。

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3月17日(木)−見極め

 広告は、商品比較に、役立つと言われる。確かに、海の向こうでは、同種の商品で、どれが、最も売れているか、幾つかの広告を、眺めると分かる。二番手以下の広告で、比較対象として、紹介するからだ。その上で、こちらの優位点を、示すことで、売り込む訳だ。
 それに対して、こちら側の広告では、優劣を比べず、良い商品と紹介する。主張が不明確で、分かり難い、と指摘されるが、競合に拘らず、面白味がある、とする向きもある。だが、近年、様子が変わりつつあるようだ。特長を、列挙することで、利点を訴える手法が、増えてきた。しかし、確かめてみると、その多くは、同業他社の商品でも、同様であり、違いの無いことが判る。典型は、電化製品から、商社の如く、様々な業種に、展開してきた企業のもので、広告で謳う、保険商品の特徴には、独自なものは、殆ど無い。にも拘らず、何度も連呼すれば、引き寄せられる人は、必ず居る。それが、商法の秘訣なのか、定かではないが、同業者には、苦情が寄せられ、契約に訪れる人が居るらしい。企業の戦略なのだろうが、結局は、言葉巧みに、勧誘する訳だ。で、騙される人が、悪いとなる。これと同じことが、情報社会では、様々な場面で、起きていると思う。種種雑多な情報は、それぞれに、ある思惑に基づき、流されている。同じ事象でも、見方が異なれば、正反対の解釈ができる。それを、どう受け取るかは、受け手の問題であり、吟味の大切さが、強調される。最近は、偽情報と決め付け、糾弾する動きが盛んとなり、情報伝達の問題と、別の結論を、流す人々が居る。何方が正しいのか、吟味は難しく、軽率な判断は避けたい。ただ、この手の輩は、ある偏りに囚われ、それに終始するから、何処かで破綻を来す。少し待って、見極めれば、いいことだろう。その点では、広告の話と、よく似ている。また、伝達者だけでなく、情報源の思惑も、となれば、複雑だ。盲信は、禁物となる。

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3月16日(水)−諦観

 長く続く抑圧下、幾つかの国では、過激な活動が起きた、と伝えられた。一方で、この国では、人々は、以前程で無いにしろ、日常を取り戻しつつある。依然として、制限を掛け続ける、政府や自治体は、この兆候を、安心を広げることができた、と思うようだが、どうか。
 何度も触れてきたように、この国に限らず、世界の多くの国々が、ほぼ同じような対策を講じ、同じ経過と、これまでの結果を、導いてきた。それらを、客観的に見れば、ほぼ全てが失敗であり、制圧をすることも、死者を減らすことも、殆どできなかった。にも拘らず、目的が達成できぬと、何度も、同じことを繰り返し、効果が疑われる、ワクチン接種も、効果を確かにする為と称して、何度も行ってきた。そんな失策の数々も、検証さえ行わねば、露呈することは無く、行ったこと自体を、成果と謳うことで、正当性を、押し通してきた。だが、庶民にとり、これまでも、当然のことだが、これ以上の抑圧は、御免蒙ると思うのは、当然の状況であり、それが、過激な運動へと、結び付いた国もあれば、こちらのように、単に、行動の自由を、表明するだけの所もある。これは、安心とは異なり、国や自治体、研究機関や専門家、それら全てに対して、諦めを決めただけであり、これまで、推奨されてきた対策は、何の役にも立たず、単純に、これまで、ずっと付き合ってきた、風邪や流行性感冒と、同じように、対処するしかない、となりつつあるのだろう。一見、無謀とも思える判断だが、それは、この感染症を、死の病と見做し、感染そのものを、避けるしか、生き延びる手立てが無い、と散々伝えられた言説を、信じれば、そうなるが、これまでに見聞きした、余りにかけ離れた現実から、冷静に考えた結果なのだ。その見方では、これまでの対策の数々は、何の根拠も無く、極論に基づいたもので、無益でしかない。となれば、人それぞれに、予防策を、講じればいいとなる。当然の帰結だろう。

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3月15日(火)−元鞘

 物価上昇への懸念が、盛んに伝えられている。家計を、直撃するものとして、警戒するのは、当然のことだが、その原因や、そこから起こる変化に、目を向けることなく、表面的なものだけを、捉えるのは、どうだろう。確かに、原材料の高騰や、輸送費の上昇が、あるのだが。
 その前に、考えるべきことが、あると思う。それは、2年余りも、続いている、感染症騒動の影響だ。何処が、繋がるのか、と思う人も、居るだろうが、思い出して欲しい。各国政府が、恐怖を煽り、様々な規制を、断行した時に、その引き換えとして、何が行われたか。制限をかけたことで、市民の生活は、様々な影響を受けた。中には、収入源を、断たれたり、職を、失ったりした人も居た。彼らを、納得させる為か、多くの支援が、政府から施され、ばら撒きと揶揄される、多額の資金の、社会への流出が起きた。一方で、制圧の為と称して、検査、治療、ワクチン接種などの、医療行為が、その殆どを無料として、市民への普及が図られた。ここでは、金銭のやり取りは、人々の間では、起きていないが、政府と製薬会社などの間では、盛んに行われた。この二つは、何方も、社会の資金流通を、大きく増すこととなり、それらの金が、何処に流れるかに、注目する必要がある。ただ、支援を受け取った人々は、貯蓄に回した人を除き、その場で、必要と思われるものを、手に入れてきた。場合によっては、困窮への対応ではなく、単に、思わぬ収入を、豊かな生活を、手に入れる為に、使った人も居る。これが、物の不足を招き、価格上昇を、導いたとも見える。物価上昇と、収入増は、繋がりを持つと言われるが、まさに、それが起きたようだ。あんな端金で、と思うかもしれないが、今の物価上昇で起きる、家計への影響は、あの額程度のものに過ぎない。と考えれば、市場に流出した金が、今後、騒動が終息した時に、回収されれば、元の鞘に戻るだけではないか。そんな見方もある。

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3月14日(月)−同意と拒絶

「No」と言える、という本を著した一人の、訃報が届いたが、出版から四半世紀を超えても、依然として、問題とされた国民性は、殆ど変わっていない。同意ばかりで、拒絶しないことを、指摘したのは、主張ができないことを、厳しく批判する為だが、大きな変化は無い。
 では、現状は、そうなのか。そうでない、とする人が、かなり増えているようだ。誰もが、発信できる端末を手に、様々な意見を、社会に送り出す。そんな状況は、主張することが、日常となった、と見ることができる、というのだ。確かに、意見は、並んでいる。だが、あの本の著者達が、言いたかったのは、闇雲に主張する、ということではない。正しいこと、誤ったこと、それらを区別して、肯定か否定かを、明確にすることが、大切である、としたのだ。その意味では、主張は、確かに、その第一歩となるが、それだけでは、結論には導けない。自分と他人の意見が、対立した時に、その違いを、比較することで、議論を導く必要がある。そこでは、対立だけでなく、時に、歩み寄りがあり、時に、決別がある。その際に、「Yes」と言うか、「No」と言うかが、決まるのだ。はじめから、肯定か否定かを、決めるのではなく、話し合いを経て、結論を導くことが、大切であり、その際に、否定するのなら、はっきりと、しなければならない。そう考えると、現状は、まだまだ未熟であり、単に、自分の意見を、発するだけでは、何事も、先に進まない。そこにも、国民性の欠点が、露になっている、とされる。議論下手は、誰もが実感し、問題視するが、上達の方法が、見出せないのだ。国民性という意味では、議論そのものが、苦手であり、それは、話すことだけでなく、聞くことにも、問題を抱えているからだ。好き嫌いの感情に、振り回され、理解の有無で、決めつけるのでは、そうなるのは自明だろう。まずは、何事も、論理的に行うことが、第一となる。そこに、問題の核心が、あるのだ。

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