陰謀論に、飛び付く人々にとり、感染症騒動は、格好の餌食となっている。病原体が、人為的に作り出された、という与太話に始まり、ワクチンが、供給され始めると、その副反応を、専ら話題とする、反対論が、展開される。どちらも、科学の名を借りた、妄想に見える。
今も、生物兵器の話が、軍事侵攻を続ける大国と、攻め込まれた小国の、両方から、使用の懸念が、取り沙汰されるが、毒性をもつ病原体は、誰もが感染する危険性を有するから、普通の神経なら、保有を誇ったとしても、使用できないものだ。これは、冷戦期から、核兵器の保有を、大国同士が、競い合うことで、目に見えぬ均衡が、保たれていたことと、似た状況にある。違いは、自滅に繋がる行為か、国同士の相互作用か、という点だろう。陰謀論者にとり、病原体は、人種による発症の違いを、仕組んだものとされたが、机上の空論に過ぎない。一方、ワクチンの副反応に関しては、確かに、それと思える症状を、呈した人が特定され、それ自体を、荒唐無稽とする訳には行かない。だが、異物を、体内に送り込む、ワクチン接種の常として、目的とする反応ではなく、何かしらの副作用が起きる可能性は、あるに違いない。その意味で、これらの報告は、驚くにあたらない。だが、陰謀論者は、それを、恰も、害悪のように扱う。その上、接種者の多くが、感染症に冒され、死に至った事実をも、殊更に、大事と捉える。この二つに関して、統計的な考えを、適用すれば、彼らの主張が、空騒ぎに過ぎないことが、明らかとなる。どちらも、今回の騒動のように、大多数を対象に、行われたことが、見かけの数値に、影響した訳だ。既に、8割を超える人口に、施された接種で、死者の中に占める、接種者の割合が、大きくなるのは当然だし、対象を選ばずに、接種を繰り返すやり方で、被害者が出るのは、同様に、当然と思える。陰謀論では、統計が、都合よく使われるから、注意を要する。
当初から、言い出しっぺが、撤回しない限り、この騒動は、終わらない、と書き続けてきた。しかし、人間とは、強いのか、弱いのか、定かではないが、皆が、もう勝手気儘に、暮らし始めている。制限を、続ける国や地域でも、市民達は、自分なりの判断を、下している。
感染爆発は、人の命を脅かすものとして、確かに、注意を払わねばならぬ事象だ。だが、今回の騒動の成り行きを、強い懸念を抱きつつ、眺めてきた人は、その多くが、実態を理解し、対処可能と判断した。ただ、政府や役所が、依然として、陽性者数の報告と共に、重症者や死者の数も、発表している。だが、それは、法律上の縛りの為であり、本来の目的は、感染抑制を、講じる為のものだった。ところが、多くの市民は、もう既に、これらの数値に、目を奪われることなく、ただ、日々の生活を、自らの判断で送っている。理由は、ほぼ明らかだろう。安心か不安か、という区別ではなく、単に、これらの数字が、自分の生活に、何の影響も及ぼさず、その変動に従って、行動様式を、変えることさえ、無意味であると気付いたのだ。この話は、独り言では、当初から、強く主張しており、ほぼ全ての規制が、無意味であると断じてきた。その中で、発信源である、世界機関自らが、当初の見込みが、大きく外れたことと、この感染症が、通常の風邪と同様に、治療現場での対応で、十分であることを、発表することで、終息を宣言する必要がある、と書き綴ってきた。だが、現状は、緊急事態とは、全く異なる様相となり、人々は、振り回されずに、自己判断で、生活できるとの見込みを、手に入れることとなった。狼少年の寓話の如く、村人達は、少年の嘘に気付き、無視するようになる。世界機関や政府の、脅し文句も、それと同じ運命を、辿りつつある訳だ。それでも、一部の人は、ワクチンのお陰、と思うだろうが、それは、勝手にすればいい。感謝したければ、すればいい。次の接種さえ。
片仮名言葉は、好きではない。頻繁に使う人は、まるで、その言葉こそが、意図を的確に、伝えることができる、と信じて疑わないようだが、どうだろう。多くの片仮名言葉は、ある意味を、伝えているが、原語とは、違ったものに、なっている。安易に使うべきでは、ないようだ。
ここで話題にするのは、元々、識字能力を表す、 literacy、リテラシーについてだ。今では、識字能力から、結び付けられる読み書きの能力として、専ら、使われている。特に、大学では、初年次に、大学での学習に、必要不可欠なものとして、最近、この手の講義が、行われている。というのも、学生の作文能力が、著しく低下し、自力で文章を書くより、何処かから、丸ごと拝借することが、目立っているからだ。以前なら、教科書をはじめとする、書籍からの拝借が、多かったが、今は、電子的な検索で、表示されたものから、拝借することが、殆どとなっている。両者に、違いは無い、と思う人がいるかもしれないが、そこには、大きな違いが、存在する。前者では、索引から見つけた文章を、一旦読み取ることで、どこをどう拝借するかを、決める必要がある。それに対し、後者は、検索で列挙された文章から、適当と思うものを、拝借する為、文章全体に、一瞥も呉れず、という場合が多い。ここでも、多くの人々は、何の違いも無い、と感じるかもしれない。が、読むかどうかは、書く能力にとって、非常に重要となる。読み書きとは、そういう意味であり、ひと繋がりの行為、と見るべきだろう。その上で、書く能力を高めることだけでなく、読む能力の向上を、目指すことが、大学教育において、重要となっているのだ。昔と、何が違うのか。それは、便利な道具を、手に入れることで、肝心の能力の発達が、阻害されているからだ。その為、改めて、読み方を含めての書き方の教授が、必要となった。それも、ただ漫然とではなく、疑いを持って。これは、SNSの世界にも、当てはまる。
逼迫と聞いて、不安を抱いた人が、多かったのではないか。それは、地震直後の、斑のような停電ではなく、大震災後の、計画停電を、思い出したからだろう。家庭生活が、如何に、電気に依存しているか、実感させられ、その不便さを、思い出されたからだ。
でも、あれから10年以上を経て、何故、今もまだ、こんな状況にあるのか、疑問に思ったのではないか。確かに、当時、様々な問題が提起され、対策を講じてきた、と聞いていたのに、どうしてと思う。主たる原因として、東西で異なる、交流の周波数を、挙げていたが、それは些末なことで、一方で、全国的な災害があれば、何の役にも立たない、ことなのだ。では、それぞれの地域で、解決するべき問題は、何か。こちらでも、電力供給の手立てを、多様化する必要が、論じられており、再生可能と呼ばれるものを、源とする発電方式を、整備する必要が、強調されている。だが、今回のような、天変地異によって、どの方式だろうが、被害を受けることは、ほぼ確実であり、今回、それが、大きく取り上げられなかったのは、まさに、整備が、不十分な状態で、被害が大きくなかったからだろう。これが、目標とされる水準まで、到達していたら、火力同様に、風力も、太陽光も、被害が大きくなり、同じ窮地に陥っていたに違いない。では、他に手立ては無いのか。あの大震災以来、皆が、挙って反対し、国によっては、廃止を決めた方式こそ、この状況を、少しでも解決に導くもの、と言えるのではないか。今も、反対運動は、盛んに行われ、補償問題も、裁判に持ち込まれている。更に、被害を受けた発電所の、廃炉に向けての道程は、まだまだ、遠いものと伝えられる。だが、事故の原因が、明らかにされ、解決への手立ては、十分に講じられるとされる。なのに、何故、何時迄も、嫌われ者扱いを、続けるのか。政府は、既に、方向転換を図り、推進し始めた。事情は、明らかなのだ。
信頼が失われ、学問の危機が、迫りつつある、と訴えてきたが、今回の騒動では、別の形でも、学問の危機が、起きている。こちらは、科学という限られた範囲ではなく、学問全般に渡るものだから、より深刻となる。何処に、そんなことが、起きているのか。分かるだろうか。
既に、明らかとなったことを、習い覚えることで、社会生活の基盤を築く、という意味で、初等中等教育は、位置付けられる。義務教育は、全ての人間が、受けるものとして、最低限の項目を、教え授けるが、その次に位置する高校も、最近は、かなりの割合が、進学する状況となり、大学への準備だけでなく、社会への準備という位置付けが、定着している。それに対して、高等教育である大学は、単純に、社会人としての資質を、身に付ける為の場としてだけでなく、最高学府として、学問の発展に、寄与する存在となる。戦後、多くの大学が作られ、国の発展に、貢献できる人材の育成を、続けてきたが、その中で、既存の知識を、学ぶことだけでなく、学問の発展にも、貢献できる人材を、育成する為の仕組みが、築かれてきた。その二つの間には、断絶があり、同じことを、続けるだけでは、成果が得られない。そこで、自学自習も含め、自立できる姿勢を、育成する為の体制が、整えられてきたが、この騒動で、そこに激震が走った。国民への行動制限は、当然、教育現場にも、強いられ、大学も、その大部分が、教室ではなく、端末を通しての教育を、余儀なくされた。その一方で、初等中等教育は、設備の問題もあったが、人間関係の構築という目的から、教室での授業を、優先させてきた。多くの進学者は、この恩恵に浴し、直接指導により、成績向上を、勝ち得てきた。が、大学は、依然として、混乱の中、端末への依存を、続けていると聞く。現場の人間が、何を考えているか、知る由も無いが、こんなことで、信頼を失うのは、愚の骨頂だろう。無知な専門家の集まりなのか。
統計処理は、何の為に行うのか。普通の感覚では、集めた数値から、結論を導く為、と思われるが、それなら何故、統計に騙される、などという指摘があるのか。不思議に思う人が、多いだろう。数値を解析し、そこから、何らかの結論を、導くという解釈に、間違いは無い。
だが、正しい結論か否かは、そこでは、問われていないのだ。あまり知られていないが、統計処理の手法には、多種多様なものがあり、目的に応じて、使い分けられる。ここでも、常に同じ結果が、導かれるのなら、問題は無いのだが、目的に応じるとは、何を意味するのか、注意を要する。実は、同じ数値でも、処理の仕方により、全く異なる結論が、導かれるとされる。その理由は、本来なら、どんな数値の集め方をしたのか、それらが、理論的には、どんな分布を示すのか、などの設定により、処理法が異なるからだ。この点が、統計処理が、未だ学問の域に到達せず、発展途上にある、と言われる所以だ。逆に言えば、処理をする人間が、自分の仮説に合致する、都合の良い方法を、選び出せることとなる。同じ数値列から、正反対の結論さえ、導けるとなれば、どちらも、信用できないとなりかねない。そこが、騙されるな、と指摘する理由となる。上に書いたように、どう集めたのか、という点が、問題とされるから、様々に行われる、アンケート調査では、その項目の設定法に、目を向ける必要がある。想定した結論を、導く為の質問しか、行わなければ、導かれるものも、想定通りとなる。ここでは、処理法さえ、問題とならない。一方、調査項目が、多種多様となると、それら同士の関係が、問題となる。互いに、結び付きのある数値は、当然、同じ傾向を示すので、それらだけを抽出して、解析すれば、同じ結論を導ける。こんな事情から、恣意的な解析が、容易にできるので、注意を要する、と指摘するのだ。今も、世に溢れる統計は、玉石混淆であり、騙されぬように、気を付けるべきだ。
戦争を体験した人を、親に持つ世代にとり、当時の話を、殆どしないのは、何故なのか、疑問を持つ。だが、したくないものを、無理矢理聞き出すのは、憚られる、と思ってきた。ところが、何時の頃からか、それを確かめることが、重要だとの考えが、広がり始めた。
あまり、関心を抱かぬ人間には、首を傾げるしか、ない動きなのだが、当事者達は、大真面目に、記憶の伝承や、記録を残すことに、取り組んでいる。戦後、占領下を経て、徐々に、経済が回復し、高度成長期に至り、平和で安定な時代を、迎えた。そこで、これらの人々が、抱いたのは、この時代を、如何にして続けるか、という課題だろう。そこから、過去の暗い歴史を、記憶に留め、そこから学ぶことが、重要との考えに至った。悲惨な歴史から、目を背けることなく、直視することで、学べることが多い、とする考えに、強く反対するつもりは無い。だが、その中から、何時の間にか、戦争を始めた理由や、それを続けた背景などに、目を向けることで、当時の人々の判断が、正しかったとするのには、賛同できないし、そこから学べることは、殆ど無いと思う。正当化は、多くの人間にとり、自らの過ちを、認めることなく、致し方無かった、との結論を、導くだけのものだ。これでは、学ぶどころか、何の反省も無く、同じことを繰り返す、歴史上の過ちの反復となる。今の平和と安定を、失いたくない、との思いから、こんな妄想を抱くのは、所詮、人間の性かも知れないが、少しの考えで、気付けることだ。それに気付かず、持論を展開し、誤った結論を導くのは、浅慮でしかなく、愚かさの表れだろう。戦争を経験し、悲惨な現実を、目の当たりにした人々が、それを語らず、別の道を歩んだのは、まさに、反省の結果であり、同じ過ちを、繰り返さぬ為の、手段の一つだったのだろう。それを排して、歴史を直視すれば、反省できるとの思いは、未経験者の、驕った考えに過ぎない。