自分中心に、物事を考えるのが、忌み嫌われる時代だろうか。私利私欲に、走る人間には、温かい心も、労りの気持ちも、無いと言われる。多様性の議論でも、そんな考え方が、前面に出てくるが、果たして、そうなのか。他者を、押し退けて、自分のことを、考える。
確かに、他者に害を及ぼしても、自分の利益を、追求することは、憚られる。だが、自分の利益が、他者の利益へと、繋がるとしたら、どうだろう。利己主義の反語は、利他主義と言われ、辞書には、「自分以外の『他者だけの』利益・幸福を目指す」とあるが、自分から周囲に、利益が広がるのなら、自分中心な考え方も、問題ないように思う。自分のことだけ、という考えが、利己主義の中心となるが、人間は、誰しも、自分のことしか、見えていないのではないか。その上で、他人にも目を向け、全体の利益を追求するなら、当初の、自分しか見えぬ、ということに、何の問題も無い、となる。今の風潮では、兎にも角にも、自分より他者を、とする動きを、重視するだけに、こういった考えには、賛同は集まり難い。結果として、他人の利益になるかも知れないが、始まりが、自分だけのこと、となるのは、間違っている、とされる訳だ。でも、自分のことを、考えないようにして、他人の利益を、というのは、やはり無理があるように、感じられる。辞書にある、「他者だけの」という括りが、重くのし掛かり、窮屈な考えに、陥るように思うのだ。だが、自分から他人へ、という考えは、簡単には、受け容れられない。利己主義の人間や、そういう人々に、虐げられてきた人々にとり、自分を、第一と考えるのは、他人に、害を及ぼそうとする、考えと受け取られる。説明しても、疑いは払拭されず、協力は、得られない。でも、こういう考えの人は、多くが、他人に頼るより、自分で、自分中心に、物事を進めていくから、気にしない。ただ、邪魔をしないで欲しい、と思うだけなのだ。
今回の騒動で、話題になったことの一つに、情報弱者の問題がある。中でも、典型的だったのは、学校教育現場の混乱だろう。行動規制が、厳しくなると、多くの国々で、登校を禁止し、在宅のまま、授業を受ける、仕組みが導入された。だが、そこでは、貧富の格差が、影を落とした。
学校に来れば、金持ちの子供でも、貧乏人の子供でも、対等に、教育を受けられる。だが、それが、学校の外となると、事情は一変する。元々、塾や家庭教師という形で、付加的な教育を、受けられる機会は、貧富の差が、反映される。ところが、この混乱の中、肝心の学校教育でさえ、家庭の事情が、大きく反映することとなった。通信に依存する仕組みでは、誰もが、自由に、その機会を、得られる訳ではない。貧しい家庭では、それに必要となる設備が、存在しないからだ。最新の教育法として、導入が急がれていたが、まだ、確立しないままに、実施に踏み切りざるを得なかった面も、大きな問題だったが、貧富による差別は、情報弱者を産む、という点で、議論の的となった。ただ、機器の無償貸与などで、この手の問題は、呆気なく解決できる。実際に、そのような手立てを、講じた国も、多かったのではないか。では、情報弱者の問題は、それで解決となるか。実は、そうでもない。自分を、弱者と考える人の多くは、そんな事情より、もっと大きな問題を、抱えているからだ。彼らの大部分は、機会を奪われているのではなく、機会を、自ら捨てているのだ。情報の多くは、無償提供されるが、それに、目を向けるかどうかは、本人の心掛け次第となる。ところが、弱者を自覚する人間は、その克服より、それに甘んじる傾向が強い。つまり、与えられたとしても、その内容に、目を通さず、知らぬままにする。そんな弱者は、所詮、自業自得であり、救済の必要は、全く無い。にも拘らず、世間では、大事のように扱う。手を差し伸べるより、自覚を促すのが、先だと思う。
論理的な思考では、因果関係を、見つけることが、重要となる。何事にも、原因と結果を、置くことこそが、始まりとなる。だが、この手法には、危うさがある。結果は、目の前に、現れたものだが、その原因として、挙げたものには、偶然であり、必然とならぬものもある。
多くの人は、この考え方に、振り回される。特に、結果に対して、目を引いたものを、原因とすると、それが、仮令、独立事象であっても、何らかの結びつきを、設定したくなる。経験の中で、身に付けた、因果関係は、その後の場面でも、活用される。だが、それらが、無関係だったら、その経験は、何の役にも立たない。ところが、この関係に拘ると、外れたのは、偶々だと結論づけ、見方を改めようとしない。最近、軍事侵攻に対する制裁で、世界の経済状況に、大きな変化が起きている、と言われる。原油や小麦など、その地域で、生産されるものを、はじめとして、多くの原材料の、価格上昇が起き、不安定な状況が、生じている。そこに、因果関係を見つけ、制裁が、相手ではなく、自分に降りかかっている、と指摘するが、果たしてどうか。現時点で、判断を下すのは、まだ早いようだ。一方、国内では、物価上昇が、家計に、強い圧力を掛けている、と言われる。そこには、海の向こうのように、物価と収入が、連動しておらず、物価下落こそが、重要視されてきた、事情がある。ただ、今回は、どうだろう。物価上昇を、抑えきれぬまま、この流れが、続くとしたら、政府をはじめとして、大企業も、重い腰を、上げ始めるかもしれない。さもないと、コロナ禍から続く、生活への負担が、心理的なものだけでなく、経済的にも、重くのし掛かるだろう。そうなると、懸念されるような、経済破綻が、この国で、起きることとなりかねない。経済に弱い、宰相だけに、そうなっても、妙案が出せず、厳しい状況が、続くかも知れない。自然の流れとして、均衡が取れれば、良いのだろうが。
世論操作を、わざわざ、世論工作と呼んだのは、多分、共産主義、社会主義の国々が、他国に、送り込んだ工作員により、敵国の情勢を手に入れるだけでなく、自国の印象を、変えさせようとしてきた、という歴史があるからだろう。あの国の大統領は、元々、その任務に就いていた。
だが、この言葉を、使うことは、そういう背景を、強めるばかりで、情報の取捨選択という意味では、誤解を招くこととなる。敵対勢力での、そういった遣り取りは、庶民の日常生活には、一切、関係の無いものだから、我関せず、を決め込むこともできる。だが、こういった情報操作は、日常にも、深く入り込んでいる。例えば、日々の生活で、飲食店を選ぶのに、多くの人々は、評判を参考にする、と言われている。その為の場所が、簡単に接続できるようになり、最新の状況を、誰もが、手に入れることができる訳だ。これを、便利というかは、人それぞれだろう。ある旅行作家が、書いていたのは、地方都市を訪ねた時に、街に立つ呼び込みから、得た情報で、入った店が、良質の肴と酒を、出してくれたが、これを、検索で見つけていたら、その感動は、持てなかったという経験で、その見方からすれば、こんな情報は、不要と言える。一方で、失敗を恐れる人は、こんな情報に、振り回されても、確実な道を選ぶ、とも書いていた。何方が正しいのか、場合によるのだろう。何方も、失敗があるからだ。一方で、その情報源で、様々な操作が行われ、話題となったこともある。皆が、正直に書き記した情報なら、それなりに、信用できるだろうが、悪意を持ったり、思惑があって、書いたものは、操作の結果となる。それが、作為的となれば、詐欺という犯罪と同じ、と見做せるのだ。その意味で、世論操作も、情報操作の一つとして、常に、気を配る必要がある。そこでは、先入観を持たず、様々な情報に接し、自分なりの結論を導く、という作業が必要となる。転ばぬ先の杖、となるか。
まず、この報道を、読んで欲しい。荒唐無稽な話、と思う人も居るだろうが、有り得る、と思う人も居るだろう。根本の考え方では、何の利益が、となるのだが、黒幕が、軍事侵攻する国だとしたら、世論操作という意味で、確かな利益を、目的とする。国内外に限らず、だ。
批判や制裁を、繰り返す、西側諸国から見れば、国内の情報統制は、嘗ての連邦時代に、恐怖政治と呼ばれた政権が、盛んに行ったもので、何も珍しいことではない。だが、情報媒体が、印刷物や放送に、限られた時代と異なり、今は、国境の無い連絡網が、整備されており、統制は、役立たずと思われる。ただし、報道によれば、高齢者には、その道具は無く、情報弱者に対して、統制は、効果を持ち続けるとされる。一方、海の向こうの大統領選挙では、彼の国から、様々な妨害情報が、流されて、都合の悪い候補に、不利な状況を、作り出したと言われる。統制や操作は、彼らの得意とする所で、純粋無垢な人々ほど、扱いやすい対象となる。その背景で、はじめに取り上げた報道を、眺めてみると、数え切れぬ程の、操作の痕跡が、見えてくる。ここでも、何度か取り上げたが、SNSで発言を繰り返す人間が、西側の情報を、作為的と捉え、侵攻国に有利な情報を、挙って、取り上げることに、強い違和感を抱いた。その点を、この報道の視点から、眺めてみると、確かに、そんな傾向が、強く現れている。侵攻された国に駐在した人間の、意見として、如何に極端な政治が、行われているかを、紹介した人は、軍事侵攻も、防衛手段として、止むを得ないもの、と捉えていたが、他国侵攻は、決して許されるものでは無い。今、偽情報と、盛んに、反撃する話にも、そんな人々は、強く支援する。彼らにとって、事実が何方にあるかが、最重要なのだろうが、偏った見方では、そんなことは、できそうにない。大切なのは、多くの情報に触れ、総合的に判断することだ。先入観に縛られては、無理だろう。
不安を煽る材料は、幾らでも転がっている。しかし、報道の役目は、それを拾い集めることでは、決してない。一方、批判する材料も、一杯ある。こちらを、拾い上げて、紹介することは、報道の得意とする所で、これまでは、盛んに行われていた。どちらが重要か、明白だ。
だが、最近は、批判の立場より、権力に与する如く、不安を煽る方が、専ら行われる。理由は、簡単だ。批判は、様々な背景を、調べ上げた上で、何処に問題があるのか、見つける必要がある。それに対して、煽動は、何も考えずとも、垂れ流すだけで、十分に役割を果たせる。ただ、批判の精神を、投げ捨てた訳でもあるまい。時に、思い出したように、政府批判を、繰り出してくる。先日も、SNSで、この話題が取り上げられた。公共放送の特集のようだが、その手法は、陳腐なものだ。感染症の騒動で、多くの資金が、政府から注ぎ込まれた。その中には、直接的なものから、間接的なものまである。ただ、間接的な項目は、冠の言葉として、感染症が、使われるものの、目的は不明確で、結果として、効果の程も、定かとならない。この手の話題であれば、報道としては、以前から、批判の対象としてきたもので、筋書きは、簡単に作れる。その多くは、元々、活性化の手法として、盛んに使われた予算化であり、そこに、時宜に見合う言葉を、付け足すことで、妥当性を高める、思惑がある。結果として、これらの不正と思える会計を、批判するのは、簡単なことだが、では、今年度の予算で、どんな絡繰りが、あるのかを、見つけるのは、どうだろうか。一部、同じ言葉が、冠されているものの、実態を、暴き出すことは、簡単ではない。実は、標的を、取り違えているのだ。妥当性の為に、その言葉を使った予算を、標的とするのではなく、直に、感染症対策として、立てられた予算を、標的としなければならない。とすると、SNSの話題は、的外れを、引き合いにした、的外れの意見となる。
一つ覚え、という意味では、対抗する勢力も、同じ穴の狢である。無駄な対策の数々に、その欠陥を、指摘することで、止めさせようとするのは、一見、当然の策と思えるが、その実、別の無駄を、産み出しているに過ぎない。論理で、打ち破ろうにも、脆弱なものでは。
論破することが、唯一の解決策、と思われているが、現実には、話の通じない、頑固者を相手に、異なる論理を展開しても、聞く耳持たず、となるだけなのだ。対抗勢力は、専ら、マスクとワクチンの害を、強調するようだが、それは、強制する場合にしか、通用しない論理であり、それぞれが、自由意志で、行動する場合には、何の効力も示せない。にも拘らず、この手の人々は、政府や専門家に、対抗する手立てとして、害を強調することで、それらの強制力を、失わせようとする。でも、この方法では、強制されずに、それぞれの選択となると、何の意味も持たない。何が、間違っているのか、彼らが気付く気配は、全く見えない。何故なら、彼らが標的とするのが、悪影響の部分だけであり、それらの措置が、本来示すとされる、効果自体に、目を向けないからだ。マスクもワクチンも、どの程度の効果を、示すかについて、既に、多くの分析結果が、出されている。だが、対抗勢力は、それ自体を、精査する能力に欠け、僅かな悪影響の可能性を、強調することで、反対意見を構成する。しかし、その出現確率が、僅少だった場合、多くには、当てはまらないので、結局、無視の対象としか、ならない。これが、論理が脆弱、とされる理由だ。では、何が、必要なのか。実は、もう、聞く耳を持たない連中を、説得することは、不可能と思える。では、諦めるしかないのか。そうではないだろう。議論下手な国民性では、これまでも、多くのことが、徹底議論ではなく、単に、忘却の彼方へと、押しやられることで、解決を見てきた。今回も、そんな具合に、どうでも良くなり、終わることになりそうだ。