パンチの独り言

(2022年4月25日〜5月1日)
(第一とは、迷惑千万、岐路に立つ、悲観論者、自制心、おちゃらけ、浅慮で十分)



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5月1日(日)−浅慮で十分

 過ちが、繰り返された挙句、今だに、危険性を、強く訴える意見に、呆れてものが言えない。そんな状況では、素人だろうが、玄人だろうが、専門家だろうが、非専門家だろうが、正しいと判断して、暮らすしかない。何故、こんなことになったのか。原因不明だからだ。
 そんな筈は無い。病原体が特定され、症状も、明らかとなっている、との反論が、すぐに返ってくる。だが、そう思う人は、大きな誤解をしている。確かに、発生国で、多くの陽性者が、特定され、その中から、重症化する人が出て、死者が、次々に出てきた。その経過から、原因は、明確である、と思うのだろう。だが、そこには、大いなる誤解がある。確かに、病原体は、特定された。だが、それに感染した時、人々に、何が起きるのか、については、不明な点が多くある。陽性と特定された人の内、ほんの一握りしか、発症しないだけでなく、発熱などだけで、回復する人が居る一方で、重症化と呼ばれる、重篤な症状を呈し、激しい炎症から、呼吸困難に陥り、結果として、死に至る人が居る。これらの違いは、特定されておらず、その観点から、原因不明と見ることができる。割合からすれば、一握りにも満たぬ人が、犠牲となる中、大規模な規制が、繰り返されたが、本質的な点から、何の解決も見当たらず、策の効果の有無さえ、検証されていない。そこに加わった、更なる謎は、ワクチン接種だろう。免疫反応で、従来、一般に認められたものと、全く異なる結果に、多くの人々は、戸惑っている。が、専門家は、一般大衆とは、全く異なる見解を示し、更なる混乱を、引き起こしている。その上、次々に襲いかかる、新たな脅威を、予想することで、恐怖を撒き散らす。だが、そちらの実態は、期待通りには膨らまず、不発続きとなる。今回は、規制もワクチンも、悉く不発となり、その中で、死の原因は、不明のままなのだ。これでは、茶番であり、噴飯物でしかない。素人考えで、十分かも。

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4月30日(土)−おちゃらけ

 近年、マスメディアが、厳しく批判される理由は、数え切れぬ程、あるだろう。もう、関心が無い、という人を除けば、様々に、声を上げている。中でも、多くの賛同を得るのは、どのテレビも、同じような番組ばかりで、面白くない、というものだ。確かに、と思う人も。
 視聴率だけが、指標とされ、それを獲得する為に、人気を追うのは、当然の策だろうが、それにしても、人真似ばかりでは、何の楽しみも無い。だから、離れていくのだ、という意見だ。それでも、同じような人々が、出演すれば、安心と思う人も居る。特に、その人物達を、好ましく思う人には、何度見ても、飽きないとなるのだ。そんなことから、いつの間にか、番組には、芸人と呼ばれる人が、溢れることとなった。お笑いなどの、芸を売る人々は、何を依頼しても、文句も言わずに、芸を演じる。意見を求めれば、仮令、それが台本そのままでも、自分のもののように、発言するのだ。編成者にとり、こんな便利なものはなく、気難しい専門家に、生で答えて貰うより、遥かに安全で、企画通りのものを流せる。だが、同じ企画で、同類の番組が、次々に現れては、飽きるのは当然だ。一方で、今回の騒動で、2年余りも、ほぼ毎日、画面に登場する専門家も、相変わらずの論調で、同じようなことを、喚き続けている。尤もらしい見解を、並べてきたが、それらは、悉く、的外れとなり、視聴者の多くは、聞く価値無し、と判断している。それでも、番組編成にとり、情報発信は、最大の役割であり、この姿勢を、崩すつもりは、全く無いだろう。こうなると、不謹慎でしかないが、いっその事、これら二つを組み合わせ、警戒、恐怖と、同じ言葉を繰り返す、専門家達に、お笑い芸人が、「馬鹿の一つ覚え」ですね、と意見をぶつけたらどうか。何方の価値も、認められないが、だったら、無価値同士、相手を、貶めることで、番組を盛り上げた方が、余程まし、と思えてくる。

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4月29日(金)−自制心

 ネット上の発言の場には、公共性がある、と言われる。誰もが、接続でき、誰もが、意見を書き込める。となれば、公共の場で、意見を発するのと、同じことだ、という訳だろう。だとしたら、その内容に関して、何でも構わない、となるかどうか、微妙な所、と言われている。
 当初から、ネット上の特徴として、参加者自身の倫理観が、強調されてきた。自制心を持ち、社会秩序を、守ることが、前提となる、ということだった。だが、人間には、そういう感覚を、抱く人が居る一方、それとは無縁、という人も居る。特に、名を語らずに、好き放題に、発言できるとなれば、本性を露わにする人や、過激な意見で、人の注目を浴びよう、とする人が出てくる。その一方で、不安や心配に、取り憑かれる中、一種の救いを求めて、そういう場に参加する人も、居るようだ。彼らにとり、救いの言葉や応援は、歓迎するが、厳しい意見や批判は、受け容れ難いもの、と映るらしい。実は、何方も、自分中心にしか、物事を見られない、そんな性格の表れで、自分を、制御することが、できないことが、最大の問題となる。その結果、被害と呼ばれるものが、頻発するようになり、大きな社会問題、となっていった。確かに、人の心を、傷つけることは、良くないことかもしれない。だが、何方の側も、同じように考え、自分勝手に振る舞った結果、こんなことが、起きている。だとしたら、こういう事故を、防ぐ術は、あるのだろうか。一部には、法整備により、罰則を設ければ、何とかなる、との意見がある。だが、現状を眺める限り、成果が、上がっているようには見えない。確かに、犯罪として、取り締まられ、違法行為を、行った者は、罰せられる。だが、そんな輩は、次々に現れ、増えることはあっても、減ることは無い。だとしたら、他にできることは、無いのだろうか。ネットの特徴という原点に、戻ることは、考えられないか。所詮、人間には、そんなものは、備わっていない、のか。

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4月28日(木)−悲観論者

 今の人類の繁栄を、築いた要因は、と問われても、確かな答えが、示せる訳では無い。だが、それでも、一部からは、危機回避の能力を、挙げる声がある。本能だけで、動き回る生き物と違い、様々な考えを巡らし、そこから、結論を導いて、行動へと結び付ける。そこで、発揮される能力だ。
 大きく分ければ、楽観論と悲観論、とすることができる。何事も、都合良く運ぶ、とする考えと、悪い可能性を、考えるという違いだろうか。身近な例で言えば、大震災の後に、襲ってきた津波に、どう対処したのか、という違いだろう。可能性を考え、危険性を検討するより、その前に、逃避行動を起こしたことで、助かった人々が居た一方、誰かに、注意されてもなお、動きを起こさずに、波にのまれた人々が居た。その違いは、危機回避の常として、悲観的な展開を、思い浮かべるかにある、という訳だ。この論理には、多くの人々が、首肯するだろうが、何事にも、通用するとは限らない。例えば、感染症騒動や軍事侵攻に関して、様々な悲観論が、展開されているが、どれもこれも、不確かなばかりか、思惑に満ちたもので、自らの利益を、求めた結果と思える。感染症では、膨大な数の死者が、出ることが、予想されたが、現実には、遥かに及ばぬ程度しか、被害が出なかった。にも拘らず、依然として、同様の論調が、世界に蔓延るのは、悲観論が、優先されるからだろう。同様に、軍事侵攻に対する、世界的な制裁の動きが、燃料市場に対して、甚大な悪影響を、及ぼしかねない、とする悲観論は、風船を膨らませるように、因果関係へと結び付け、庶民の生活を、脅かすに違いない、と結んでいる。だが、誰もが、無い袖は振れない、とばかりに、厳しい情勢となれば、それに適応するし、依存が、続けられないなら、他の手段に、訴えるしかない。実は、悲観論が、繁栄に繋がったというより、そこから、適応へと転換したことに、意味がある。悲観だけの論者は、それが見えていないだけだ。

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4月27日(水)−岐路に立つ

 女性宰相が、退いた時、彼女が、築き上げた、国の繁栄を、評価し、感謝する声が、国の内外から、上がっていた。様々な歪みが、生じる中、国を率い、連合を率いる政治力に、高い評価が集まるのは、当然と思われ、彼女の退任に、落胆と共に、労いの声が、集まっていた。
 だが、その後の地域の迷走に、後継政権は、右往左往を強いられている。中でも、繁栄の源とされた、大国からのガス供給が、その国の軍事侵攻と、それに対抗する制裁から、困難な問題となったことに、彼女の功績が、崩れ始めたと思う人が、多いのではないか。ただ、それとて、独裁者の狂気の末、との解釈から、失政との指摘は、まだ起きていない。だが、本当に、そうだろうか。以前にも、指摘したことだが、彼女の大きな決断の一つに、原子力発電との決別がある。大震災後に襲った、津波により、冷却設備を失い、原子炉の暴走に繋がったとされる、あの事故により、原発の危険性を、痛感することで、全てを廃止するとの判断は、その一方で、別の発電方式と、それに必要な資源への、転換へと繋がった。それが、冷戦期には、母国を支配していた、厳しい制限の源となった、社会主義の国々への、依存へと結び付き、今振り返れば、異常な程の親密さを、二つの大国に、表すこととなった。平穏と繁栄が、そのまま続けば、良かったのだろうが、被害者意識からの狂気で、武力行使に踏み切った国との決別は、日常生活を、脅かす危機に、直面することとなった。だが、この状況は、彼女の国に、限ったことではない。こちらでも、同様の危機が迫り、生活を脅かす気配が、押し寄せてくる。そこになされた、宰相の発言は、原子力発電の再開であり、その重要性を、掲げるものだ。安全を、過剰に求める民衆から、反対の声が上がるのは、当然と見做されるが、何が、正しい道なのか、議論するまでも無い。多様性からも、安全性からも、重要な発電方式を、投げ捨てるのは、愚かでしかない。

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4月26日(火)−迷惑千万

 恐怖を煽る為の数字が、毎日、報じられる。だが、これ程長い期間、人々の恐怖は、続く筈が無い。しかし、専門家は、手を替え品を替え、次々と、新手を繰り出す。何としてでも、大衆を、恐怖の穴に、落とし続けねばならない、とでも、思っているかの如く、だ。
 だが、それとて、手詰まりとなり、人々は、街に繰り出す。世界の状況は、そんなものだ。日々、伝えられる数字には、もう、殆ど意味が無くなった。陽性となるか否かは、接種の有無に関わらず、時に、重症化し、時に、死に至る。それなら、何も違いは無い、となる訳だ。更に、副反応や、接種後の発熱など、障害は、様々にある。一方で、他の予防の措置は、どうだろう。この国では、この騒動より前から、マスク着用が、重要な手立て、とされてきた。だが、他の国では、邪魔なものでしかない。だから、散々、騒がれたものの、今では、誰も着用しない。強制し、罰金が科されれば、仕方なく従うが、そうでなければ、すぐに捨て去る。一方、こちらでは、様々な理由を付けて、続けようとする人も居る。でも、だからと言って、強制を続ける必要は、全く無い。研究の結果は、数多紹介されるが、実際には、それが、感染を防ぐか否かの、検証にはならない。信じる者は、救われるとばかり、せっせと着用する。だが、効果の程は、定かではない。以前から、その通りだし、手洗いなども、同様なのだ。下らない、と断じてしまえば、せいせいするのだが、その勇気さえ、集団の圧力下では、示せる筈も無い。でも、殆どの人にとり、この騒動は、他人事に終わりつつある。ただ、陽性や濃厚接触となれば、強い制限下に置かれる。そうなっては、堪らぬとばかり、予防に励むが、そうならずとも、害を被る。例えば、報告の義務はあるが、その後の経過は、当初から、いい加減なままだ。記録が杜撰なだけでなく、その伝達も、綻びが目立つ。傍迷惑、でしかないものだ。

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4月25日(月)−第一とは

 自国第一主義とは、どんなものか。強い批判を受ける、他国を侵略する国は、民族第一主義を、謳っており、まるで、80年近く前に、戦いで勝利を得た、敵国政府と、同じ路線を進んでいるように見える。一方、厳しい批判を、浴びせ続ける国の、前の政権も、極端な路線だった。
 海の向こうの、前の大統領は、被害者意識を、煽ることによって、当選を勝ち得たが、そのまま、自国第一と叫び、同じ政党の、半世紀前の大統領と、一見同じに見える、路線を進み始めた。だが、国内生産を、優先する政策も、前とは大きく異なる、第一主義が、掲げられていた。自国の利益を、第一と考え、その為には、国内生産を、優先させることこそ、重要であるとの考えには、違いが無いように見えたが、現実には、国内生産を、有利とする為に、関税を上げ、輸入を禁止するなど、極端な外交政策を、打ち出した結果、国際情勢に、歪みを作り出すと共に、市民生活に、インフレ圧力を、招くこととなった。それでも、職を失い、収入を断たれていた、人々にとっては、歓迎すべき状況に、見えただろう。だが、あのまま、二期目を勝ち得ていたら、現状を、遥かに上回る、厳しい生活を、国民に強いることとなっただろう。何方の大統領も、自分を優先させることで、それぞれの国民の利益を、手に入れられることを、主張するのだが、自国第一主義は、そんなものでは、決して無い。自国を、優先させることは、他国を不利にすることでは、あり得ない。輸入制限や、輸入禁止という措置しか、その手立てが無い、という状況は、単に、手詰まりでしかなく、自国の産業を、勧奨することには、結び付かないのだ。国内生産を、優先させ、消費に足るように、整備する為に、必要なことは、需要と供給の均衡だけでなく、価格の調整もある。廉価ばかりを、追い求めるのではなく、正当価格を設定し、受け容れることが、重要なのだ。人口増加や、経済成長が、見込めないからこそ、考えねばならぬ。

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