パンチの独り言

(2022年5月2日〜5月8日)
(楽観で良い、言論の自由、元の木阿弥、論理必携、一顧だに、夢の跡、平平凡凡)



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5月8日(日)−平平凡凡

 外から、騒動前と、変わらぬ光景が、伝えられる。特に、野外の催しでは、人数の制限も、一時、強制された、マスクの着用も、何事も無かったの如き、光景が広がる。それに対し、隣の小国は、規制を廃しても、多くは、前と変わらず、何かを恐れ、外見を気にするようだ。
 では、こちらは、どうか。野外の催し、例えば、試合観戦では、声を上げての応援は、禁じられ、専ら、拍手で代用する。その上、マスク着用を、求める風潮は、そのままだ。だが、それでも、観光地などの人出は、徐々に、戻っていると伝えられる。報道では、規制の無い、久し振りの連休と、盛んに伝えるが、その意図も思惑も、さっぱり表に出ない。一つ覚えしか、主張できぬ専門家共は、この期に及んでも、なお、警戒を発するが、実際には、何をどうすべきか、指針を示すことさえ、できないままだ。所詮、知恵の無い、愚者共だから、致し方無いが、それにしても、下らぬ言説を、貴重な時間を割いてまで、伝える必要は、一切認められない。では、何をすべきか、せっせと出かける人々は、写された途端に、口を噤んだり、不安を語り始める。だが、彼らとて、何の策も持ち合わせない。怪しくなるばかりの、ワクチンの効果は、縋る意味が、見出せないし、待ち焦がれる、特効薬は、姿を現さない。その中で、何ができるのか。実は、簡単なことだ。他人に頼れぬのなら、自分で、どうにかせねばならぬ。最先端の科学が、頼りにならぬのなら、知識も技術も持ち合わせぬ、自分が、何をするのか、決めるのだ。不安や心配ばかり、口にする人にとり、これは、高い壁の如く、映るのだろう。尋ねられても、答えに窮するばかりだ。だが、今、外出して、楽しさに触れる人々は、その殆どが、自然に、行なっているのではないか。体調に気を配り、日々の生活を、豊かに過ごす。これまでと、何ら変わらぬことに、躊躇する必要は無い。絶対の安心は無いが、過度な心配も、不要なのだ。

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5月7日(土)−夢の跡

 当初から、馬鹿騒ぎと揶揄したように、一般の感染症との差は、殆ど無い。そういう解釈は、一部の人々から、出されてきたが、騒ぎを大きくしたい、世界機関や製薬会社、そして、感染症に関わる研究者は、正反対の解釈を、庶民に押し付けてきた。結果は、明らかだろう。
 愚かな論説や、繋がらない論理、そして、叫びにも似た、警告の数々は、何れも、下らないものばかりで、悲観論者や被害妄想者を除けば、皆、冷たい視線を送っていた。でも、集団の圧力は、洋の東西を問わず、庶民の頭上から、振り下ろされ、人々は、窮屈な生活を、強いられてきた。だが、専門家達は、決して、自分達の過ちを、認めようとせず、徐々に、騒ぎが鎮まるに従い、新たな言説を、振り翳して、自らの正しさを、最後まで訴えようとする。断末魔の叫び、としか思えぬものに、大衆の目や耳が集まる筈もなく、静けさを取り戻す。この騒ぎは、何の為のものだったのか。これも、当初から指摘したように、世界機関が、資金を稼ぐ為に起こし、製薬会社は、検査薬やワクチンにより、泡銭を稼いできた。誰もが、金に群がる亡者であり、大衆の懐を、あてにした騒動なのだ。静けさに、安心を感じる人も、多いだろうが、現実には、つけは、これから迫ってくる。その上、狂気の独裁者が、混乱に乗じて、始めた戦争が、誰もが予想するように、長期化すれば、そちらのツケも、今後迫ってくる。果たして、そんな負債を、返すことが、できるのか。そんな不安を、今抱く人は、多くは無い。だが、現実に、生活の窮屈さは、今度は、支出の急増という形で、襲ってきている。だとすれば、早晩、路頭に迷う人が、出てくるだろうか。それとも、それもこれも、何もかも、有耶無耶のうちに、忘れ去られるだろうか。実際には、悲観的になっても、何も始まらない。それより、目の前の、馬鹿げた問題を片付け、平穏な日々に、戻ることが大切だ。それには、一時の不便も、止むを得ない。

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5月6日(金)−一顧だに

 論理絶対主義、と見做せるような、何事にも、因果関係を結び付け、全てに、繋がりがある、とする考え方には、多くの場合、致命的な欠陥がある。それは、因果に縛られることで、多くの要素を、無理矢理繋ぐことで、論理を展開するが、所詮、無関係となるからだ。
 彼らは、自画自賛するかの如く、自ら見つけ出した関係を、誇示するが、その時点での関係が、そのまま発展するなら、あり得た筈の関係が、いつの間にか、薄れ始め、遂には、無関係となれば、その主張は、誤ったものとなり、論理が破綻する。元々、論理には、様々な可能性があり、それらを検証しつつ、その後の経過を、注視することで、徐々に、可能性の数を、減らす必要がある。ところが、因果関係にしか、目を向けない人の多くは、自分の論を、押し通す為の論理を、築くことに心を奪われ、結果として、他の可能性には、目もくれず、俯瞰的な見方を、投げ出してしまう。そこが、論理絶対主義の、致命的な欠陥となる。同じように、論理を優先させ、それらを、詳細に検討する姿勢では、全く異なる展開が、進められる。軽率な判断は、忌み嫌われ、拙速な断定は、排除される。他人を、教え諭そうと、躍起になることはなく、ただ、冷静沈着に、状況判断を示すことで、徐々に、論理を組み立てていく。こういう態度は、軽率な人々から、揶揄されることが、多いのだが、どちらが、正しい結論を導くかは、明らかだろう。一方で、間違いを繰り返す人々は、実は、それらの誤りを、再検討することなく、無かったこととする。それにより、自らの正当性を、主張し続けるが、文字という証拠が、残る中では、無駄なものとなる。その為に、修正機能を、備えないことが、重視されてきたが、今、それを、改めようとする動きが、あるとされる。慎重に、考えを進める人々には、そんなものは無用だが、軽率で、反省の無い人々には、大きな支援となる。嘘を、消し去れるのだから。

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5月5日(木)−論理必携

 何故、折角の機会を、逃してしまうのか。言論の場として、市民権を得たのは、賛同を得る仕組みだが、それが、仇となったようだ。権威に頼らず、市井の人々が、自由に意見を、交換できる場は、それだけなら、従来のブログと呼ばれる、落書きの場所と、変わらなかっただろう。
 そこに、加えられたのが、「いいね」という意思表示で、それが、その後に、参入してきたものでも、踏襲されたから、大きな要因だったのだろう。だが、それに拘り、賛同を得る為に、施した工夫は、皆が、好ましく思う意見となり、最大の要素だった、実力勝負の要となる、論理性を、失わせることとなった。異常な盛り上がりは、極端な意見に、集まるけれど、そこには、論理も倫理も、欠片さえ無い、ものばかりが、山積みとされた。社会問題となり、法規制が、喫緊の課題とまで、言われるようになり、状況は、悪化の一途を辿った。その中で、前大統領が、不規則発言を、繰り返すことで、社会からの、措置を待つことなく、管理企業自体が、最終判断を下した。悪影響が、これ以上広がれば、管理責任を、負わされるとの判断は、妥当なものであり、営利企業として、当然のものだった。しかし、狂信的な支持者は、自らの言動を、反省するどころか、肝心の指導者を、失ったと思い込み、声を上げ続けている。だが、論理もへったくれも、何も無い、ただの話題作りの発言に、公共性は、微塵も無く、言論の自由と、かけ離れた状況は、正すべきものだ。一方で、論理の主張を、貫く姿勢は、多くの発言にも、見られている。但し、発言者の多くは、固定した支持者を持たず、大絶賛されたと思えば、罵倒される。そんな不安定では、賛同を、得続けることは叶わず、注目を浴び続けられる筈も無い。だが、発言者本人は、何より、論理を重視し、それを失うなら、意見を発することも、止めるだろう。独り言は、まさに、その典型と自負するが、やはり、読者は、増えそうに無い。

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5月4日(水)−元の木阿弥

 新たに築かれた、言論の場は、まさに、実力勝負の戦いを、実現すると言われていた。それまでの、権威主義を廃し、真の言葉の力が、発揮できる場所が、提供されたことで、老若男女、貴賤の別なく、議論を戦わせ、正当な結論を、導き出す可能性が、手に入った。
 そんな思いを、抱く人々が、次々に参入して、意見の交換が、盛んに行われると、議論の重要性が、再認識され、論理性の有無が、肝心との考えが、大衆にも広がった。その意味で、社会性の確立に、不可欠な道具として、市民権を得てきたが、その状況を、一変させたのが、前大統領の登場だ。非公式な発言に、触れることができる、という特殊性から、人々の耳目を集め、話題の中心となったが、それは、まさに、権威主義の復権であり、力を持つ人間こそが、発揮できる影響力だった。その後、同様に、新興企業の主として、巨万の富を、築きつつある人間が、同様に、盛んに発言することで、引き寄せられた人々は、彼の発言から、儲け話の糸口を、掴もうと躍起になり、こちらの影響力も、拡大し続ける。どちらの人物も、不確実な発言が、頻発することで、規制をかけられ、前者が追放となったことから、言論の自由との関係が、取り沙汰されている。関連は、確かでは無いが、それが、買収の理由、とも言われている。言葉の力を、発揮できる場となり、参加者が、急増した時期と異なり、こんな事態となったのは、結局、権威が優先され、支持者が増えたことで、本来の姿が、失われつつある。だが、これは、権威を持つ人間の問題ではなく、単純に、それに近づき、利益を得ようと、群がる愚民にこそ、問題がある。現状も、盛んに、発言する人間の多くに、権威を、批判する一方で、別の力を、利用する傾向が、見られるのも、懸念を強めることへと、繋がるだろう。実力主義が、弱められ、権威に縋る姿は、情けないものだし、支持ばかりで、論理を放棄するのは、愚かでしかない。

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5月3日(火)−言論の自由

 言論の場は、一昔前までは、マスメディアに限られていた。それが、囀りと呼ばれる場が、仮想空間に、登場すると、様相が一変した。誰もが、意見を発することができ、多くの賛同を得れば、それが、主流になることさえ、可能となった。権威は、時に、失墜したのだ。
 昨日まで、何処の馬の骨か、知れない存在が、突然、囀りの場で、脚光を浴びる。まるで、海の向こうの、成功物語を、地で行くような展開だ。権威ではなく、実力こそが、ものを言うという仕組みは、多くの人々に、希望を与えた。だが、それは、ほんの一握りにも満たない、僅かなものだ。その他大勢は、下らない意見を、撒き散らすだけでなく、他人の迷惑や、社会秩序を乱す、実社会であれば、違法行為でしかないものを、行い続けた。全体としては、後者に注目が集まり、批判の声が、高まっていった。それでも、一度手に入れた、便利さは、画期的なものであり、社会悪の存在に、目を瞑る空気が、満ちていた。この情勢に、変化が起きたのは、海の向こうの前大統領が、その権威を笠に着て、公式発表より、その場を優先させ、多くの人々の支援を得てからだ。公式でないから、無責任な発言や、根も葉もない主張を、繰り返していたが、それが、極端な意見を、好ましく思う人々の、賛同を得たのだ。大統領が、自分の側に立っている、との思いは、自己満足を得る、いい機会となった。だが、社会的地位の高い人物が、その権威を用いて、嘘や誤りを、撒き散らすことに、多くの人々が、懸念を表明し、結果、追放の措置が、取られた。言論統制と見る向きもあるが、社会秩序が、優先された訳だ。当然、支持者からは、強い反論が、押し寄せた。だが、私企業では、利益追求の観点から、当然の措置であり、問題とは思えない。ところが、そこに、別の権威が、金にものを言わせ、参入することで、状況は一変した。私企業だから、所有者の思惑で、決まる。とすれば、復権もある、との期待もある。さて、どうなるか。

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5月2日(月)−楽観で良い

 責任ある立場だからこそ、警戒を怠らない。その姿勢から、物事を、悪い方に考える、悲観論が生まれた、と言われる。前にも、触れたが、人類が、繁栄を築けたのは、この考え方が、本能的に、身に付いているから、とされる。だが、この考えに、危機が訪れている。
 責任があるからこそ、悲観論が必要、とするのは、当然のように思えるが、今の二つの騒動から、この考え方に、異論が生まれている。死の恐怖を、世界中に広げた、感染症の騒動は、今の所、専門家の予想が、大きく外れている。死者数は勿論、症状に関しても、あの訴えは、何だったのか、と思える程だ。一方で、治療に関しては、医学の進歩への期待は、大きく裏切られ、免疫についても、不可思議なことばかり、となっている。ただ、こちらは、騒動を広げる動きが、邪魔する形で、事態を大きく見せようとするから、と見えなくもない。また、軍事侵攻から、始まったとされる、制裁とそこからの経済不安も、まだ、拡大途上なだけに、予断を許さないが、にしても、当事国以外には、悲観論が、広がるだけとなる。確かに、物価上昇が続けば、日常生活は、圧迫を受ける。だが、それとて、即座に、露頭に迷う程ではない。なのに、明日にでも、死を迎えかねない、とする論理には、呆れるしかない。こんな暴挙が、続くのには、はじめに書いた、責任と警戒の関係が、あるように思える。そこから生まれた悲観論は、まるで、知識の高さに繋がる、とでも、言い出す勢いだ。しかし、ここまでの流れからは、その考えが、大きく外れたことが、見えてくる。専門家や有識者が、まさに、一つ覚えの如く、同じ警戒を、出し続けるからで、愚かさの表れ、と見えてくる。ただ、こんなことが続くと、それこそ、悲観論は駄目で、楽観論こそ、意味があるとなりかねない。好き勝手に振る舞い、他人の迷惑も、省みない。そうなれば、更なる混乱が、起きてしまう。それで、良い筈が無い。

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