殆どの国民が、疑いを抱いているだろう。それとも、政治家や専門家と同様に、記憶喪失に、陥っているか。それにしても、この騒動の茶番ぶりには、政治や科学への不信を、強める働きしか、無いように感じる。それ程、杜撰な状況把握と、二転三転する言説に、価値は無い。
覚えている人も、いない人も、一年前の連休中の、慌てぶりを、思い出して欲しい。ある県の首長は、国政から転じた人物として、首都の首長同様、お山の大将ぶりを、発揮している。彼の無謀ぶりは、国政だろうが、県政だろうが、変わること無く、当時の臨時記者会見も、その際たるものだった。県民の為、と連呼する態度には、傲慢さを、少しでも隠蔽しようとする、思惑が溢れていたが、規制を強め、公的施設を閉鎖したことは、連休を楽しみにしてきた、子供達の夢を、潰したに違いない。当時の数字から、前日には、新規陽性者数が、全国で5880、この県で80だった。急増を理由に、規制に踏み切ったようだが、では、今年の連休の同じ日には、どうだったのか。全国で19267、この県は204だ。機関の休みもあり、検査数が減る中で、騒いだ一年前の、全国で4倍弱、この県で2倍強となる。だが、今年は、何事もなく過ぎ去り、人々は、街へと繰り出した。こう記すと、いや死者数が、と指摘する向きもあろう。昨年のデータでは、こちらは前日比で、全国で6、この県は0で、今年は、全国で3、この県は1とある。何処に、根拠があるのか、全く理解できない。政治家は、宰相も内閣も、変わったから、政策変更を、理由とできるかもだが、枢要な委員会や、連日画面に登場する、専門家の顔は、殆ど変わっていない。にも拘らず、納得できる説明を、施すことなく、規制の有無を、操作する。一方で、感染予防の手段にも、意味不明な言説を、繰り返す。無知蒙昧な市民からも、無能ぶりが、盛んに糾弾されるが、知恵の遅れでもあるまいに、こんな阿呆共に、目を向ける必要は、一切無い。
中流意識が薄れ、自らを、下流と見做すことに、何の抵抗も覚えない。そんな考え方が、国中に広がり、異様な状況が、生まれてきた。一億総弱者、とでも言いたくなるが、権利を主張する人達は、何の疑いも、抱いていないようだ。だが、それを助長するのは、誰なのか。
全国民が、本当に貧しいのなら、致し方ないことだが、現状を、普通に眺めれば、そんな筈は無い。皆、それなりの暮らしをして、日々の生活を、楽しんでいる、ように見える。にも拘らず、報道は、盛んに、伝え続ける。日々の生活に、窮する人々や、将来に、不安を抱く人々が、次々と、画面に登場し、紙面を賑わす。身の回りの光景との乖離に、首を傾げるしかないが、大真面目に、解説する識者には、全く別の景色が、見えているらしい。人間社会では、支え合いが、重要な要素となるが、この状態は、一方的な依存でしかなく、相互扶助の状態には、なっていない。だが、身近な人々からは、そんな様子が、見えてこない。一体全体、どこの世界の話か、と意見を出せば、何処かの惚け者が、戯言を発している、とでも言われるのが、精々だろう。だが、この違いは、何処から来るのか。弱者保護の話は、何度も、紹介したように、一部の勢力が、盛んに喧伝する、極端な事例の、収集物にしか思えない、今も、成人年齢の改正で、急に、大人扱いされ始めた、年代の人々に、手を差し伸べる動きが、盛んとなるが、その意図は、全く見えてこない。ただ、ここでも、弱者が中心に据えられ、保護の対象の如く、扱うように思える。成人という、一つの独立した存在、と見ることとは、かけ離れた考えに、異常を感じる。一方で、そんなこととは無関係に、昔から、若者の扱いは、総じて、冷徹なものだったが、何でも助けようとするのは、彼らの成長にとり、支援どころか、妨害でしかない。お節介は、個人的なものは、勝手だろうが、社会全体で、となると、害悪となり、邪魔なものとなる。
十日程前、経済紙の一面トップに、「低学歴国」という文字が、踊っていた。見出しは、記事の内容を、一瞬で想像させ、読み進める役を負うが、この言葉から、経済人だけでなく、一般庶民は、どんな印象を抱いただろう。普通、低学歴とは、義務教育のみ、と思うのでは。
だが、記事の内容は、全く異なるものだった。一部の識者には、当然とされるが、この国の企業は、博士号取得者を、雇うのを、殊更に避けている、と言われる。学問を極めることで、手に入れた称号は、深いけれども、狭い知識を印象付け、その上、拘りの強い人物像を、作り上げてきた。確かに、少数精鋭だった時代には、そんな傾向が強く、研究ではなく、陳腐な開発に、携わることに、抵抗を覚える博士と、そんな人材を、どう活かせば良いのか、戸惑う企業の間で、溝が埋まることは、決して無かった。だが、監督官庁が、欧米並みという、決まり文句を持ち出し、大量生産へと、歩み始めると、二つの問題が、表面化することとなった。一つは、当然だが、質の低下が、現場から、盛んに訴えられ、問題提起がなされた。もう一つは、多数の博士の、次の行先が、見つからないことで、折角、何年もかけて、念願の称号を手にしても、役に立たないことが、明らかとなった。前者の問題は、対象を広げた結果であり、止むを得ぬが、後者の問題は、需要の問題であり、そこに関わる職場の問題だ。若年層の人口減少が、続く中では、大学という職場は、縮小の憂き目に遭う。となれば、以前から、忌み嫌っていた、企業に活路を見出す必要がある。だが、官庁の縦割りは、監督対象の違いを産み、解決の糸口さえ、見つかっていない。その問題を、取り上げた記事のようだが、見出しは、過剰表現でしかない。海の向こうでは、一般企業でも、博士が活躍するが、こちらでは、幹部でさえ、博士を持たない。これも、悲観論の一つで、「低学歴国」とすれば、皆の注目を浴びる。看板に偽り有りでも。
正しいと信じたら、間違っていても、主張をし続ける。矛盾しているが、こんなことが、罷り通るのが、社会というものだ。正誤は、はじめは定かでなくとも、徐々に、明らかとなる。よくあることだが、当初から、同じ主張を続けると、いつの間にか、誤りを犯すことになる。
自分も、それに含まれる、と当然思うが、今回の感染騒動は、そうなっていない。一方で、騒動を先導した人々は、徐々に、状況が明らかになるにつれ、自らの過ちが、露呈することとなった。だが、そうなってもなお、大前提を見直すこと無く、ただ漫然と、同じ弁を繰り返す。時に、正反対のことを、言い始めたとしても、そこにある前提は、同じだと主張する。自らの正しさを、信じて疑わない。これは、専門家の多くが、携わってきた研究において、重要な事柄、と言われている。新しい発見は、それまでの通説を疑い、自分の考えを、正しいと信じて、追究し続けることで、達成できるとされる。確かに、そんな事例は、枚挙に遑がない。但し、その裏側にある、主張が誤っていた、という数は、それを遥かに上回る。成功物語を、読む人々は、まさに、前者を信じており、貫くことの大切さを、学んだ気持ちになる。だが、彼らが、失敗物語を、読む機会は、永遠に訪れない。そこに、問題があるのだ。教育において、失敗を紹介することの大切さは、最近、見直されているが、それだけでは、不十分だろう。正しいと信じたことが、誤りだと分かった後、そこから、新たな考えを、導き出すという過程を、示さねば、教育とはならない。この経緯が、まさに、今、世の中を席巻する、騒動の本質を、突いているように思う。当事者が、頑なに、同じ論説を繰り返し、新たな情報も、歪曲してしまう。その後、さらに事態が進展し、過ちが明らかとなると、全てを忘れたように、新たな路線に、舵を切る。「屋外で、会話が無ければ、マスク無しは当然です。」もう、茶番は、真っ平御免だ。
悲観論を、展開する論者にとり、世論は、強い味方となる。確かに、全てが、悪い方に向かう、という主張に対して、弱者優先の風潮は、味方を増やし、恰も、その論理が、正しいように思わせる。だが、この図式は、大きな誤りに、基づいている。都合が良いだけ、なのだ。
悲観論にとり、弱者は、格好の標的となる。一方で、弱者にとり、悲観論は、まるで、自分達を支え、手を差し伸べる意見、のように見える。だが、この関係は、単に、自分達の都合でしかない。論理は、主観という一部のものではなく、客観という全体をも、満足させるものである。その観点から、今の状況は、弱い立場を主張する、一部の人々に、都合良くできており、彼らに、手を差し伸べねばならぬ、とする風潮が、後押ししている。しかし、弱いかどうかは、殆ど主観的判断であり、客観的に見て、その通りであることは、無い場合が多い。経済成長が、鈍くなってきた時、大衆の考え方に、徐々に変化が起きた。成長期には、大多数が、中流という意識を、持っていたのに、いつの間にか、大半が、下流を自認する、という状況となった。だが、実態に、大きな変化は、実は無い。厳しい生活を、強いられている人間の、割合は、殆ど変化しておらず、その一方で、支援を要求する人の数は、増え続けている。以前なら、社会全体を、優先させる考えから、少しくらい、苦しさを感じても、我慢を続け、好転するのを、待つのが普通だったが、今は、少し困ると、すぐに声を上げ、また、彼らの窮状を、殊更に取り上げる風潮が、強まった。弱者保護、という大看板は、悲観論者にとり、格好の標的となり、それを謳うことで、自らの主張の正当性が、高まると信じる。弱者を自認する人々は、悲観論こそ、救いの神とばかり、縋り付くことで、権利の主張を、高めている。この悪循環を、断ち切らない限り、この国の将来は、明るくならない。何も、難しいことではない。中流意識を、取り戻すだけだ。
寄り添う、という言葉に、どんな印象を抱くだろう。何か、温かみを感じる、だろうか。では、自己責任は、どうか。こちらは、冷たいだろうか。こんな言葉が、盛んに取り沙汰される。特に、若者達を、標的とした話題の中で、これらの賛否が、論じられるが、どうも変だ。
嘗て、田舎の生活は、鬱陶しいと言われた。都会に出たのは、その拘束感に、耐え切れず、という話題もあった。一方で、都会の孤独死が、問題視され始めたのは、所謂、経済成長が、弾け飛んだ頃からだ。これらは、どれも、自分を中心に据えた考え方で、時に、身勝手な考えとなる。それに対して、寄り添うのは、周囲の人間であり、他人の為、という考え方からだ。自己責任をはじめとして、自分中心ではなく、孤立させるような、言葉遣いに、強い反発を抱いた人々から、寄り添うことの大切さが、提示されてきた。だが、どれもこれも、程度の問題であり、過ぎたるは、及ばざるが如し、となる。お節介は、飽く迄も、程度の問題であり、寄り添いが、転じることは、簡単に起きる。その中、若者との関わりで、一部の大人が示す、理解はどうだろう。若者達が、不安を抱くのに対し、理解を示し、支援の手を、差し伸べる。いい話として、度々紹介されるが、寄り添いどころか、お節介でしかないものもあり、更には、迷惑へと発展する。それも、困りものだが、声を上げれば、助けて貰える、という状態は、次代を担う人には、妨げとならないか。そちらの方が、心配になる。若い頃、反発を感じ、自分で動けば、時に、失敗もあるが、功を奏することもある。その経験が、今を築き上げた、と見たら、そんな支援は、お節介どころか、邪魔でしかない。物分かりのいい大人は、実は、障害物なのだ。誤りを正し、善悪を諭す、そんなことの繰り返しは、迷惑だろうが、反発は、自分で考え、解決する道を作る。極端な悲観論同様、若者の道を、閉ざすことにしかならない。
囀りにも書いたが、感染症対策は、崩壊した。検査により、感染者を特定し、隔離することで、拡大を防ぎ、収束へと向かわせる、という戦略は、世界機関や多くの専門家が、唯一の方策として、強く推奨し、多くの国々が、その指示に従った。しかし、結果は、惨憺たるものだ。
今更、書くまでも無いが、検査により、特定できたのは、所謂陽性者であり、従来認識による、発症者とは異なる。これが、感染者という言葉を用いて、盛んに、伝え続けられた事柄が、当初から、そして、事のはじめから、誤解を重ねることとなった。それでも、発生国では、急速な拡大の後に、徹底的な管理下で、陽性者の数を、零としたことで、ゼロコロナという国家戦略が、成立するものと、受け取られてきた。あの国の、徹底した抑圧政策は、これまでも、有効な手段と見做され、今回も、高い評価を受けたが、自由が当然の他国では、一つとして成立できず、綻びだけが、見つかっていた。特殊な例とは言え、徹底すれば可能となる、という結果は、世界機関も専門家も、歓迎して受け入れ、一つ覚えの論説が、繰り返された。だが、世界祭典を終え、緊張が解けたからでもあるまいが、ここに来て、大都市の破綻が、伝えられている。自由云々ではなく、規模の違いからか、こういう結果が起きたのは、国家戦略の破綻となりつつある。唯一の成功例が、幻と化せば、陽性者特定で、収束を目指すことは、不可能となる。当初から、糾弾してきたが、ここに来て、改めて書くべきと判断したのは、そういう背景からだ。となれば、特に、PCR検査による、陽性者特定は、無意味なものであり、従来の流行性感冒同様、発症者の抗原検査に、絞る必要がある。膨大な数の検査は、関係機関の業務圧迫しか招かず、多くの問題を、起こしてきた。もし、この検査が無駄となれば、別の業務に、注力することも可能となる。改めて、戦略変更を検討し、騒動以前の状態に、戻る必要がある。