パンチの独り言

(2022年5月16日〜5月22日)
(正しい報道、無駄騒ぎ、誤魔化し、不信拡大、不信の鍵、縛られず、効果無し)



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5月22日(日)−効果無し

 潮時、とばかりに、規制を緩め始めた。だが、一方で、懲りない連中は、相変わらず、詭弁を弄して、警戒の声を、緩める気配が無い。果たして、何方が、正しいのか。それとも、何方も、始めから、間違っていたのか。簡単なことだ、誰もが、誤謬を、繰り返してきたのだ。
 それでも、緩めて貰えば、国民に、安心が広がる。その一方で、減少の勢いは、期待程でなく、収束には程遠く、まして、終息は影さえ見えない。だからこそ、懲りないだけでなく、結果の精査を、行う能力も、その気さえも、持ち合わせぬ連中は、警戒の叫びを、発し続けている。ただ、流石の能無しも、気配を感じて、そろそろとばかり、重い腰を、上げ始めたようだ。その典型が、マスクに関する規制で、またも、実しやかな言説を、流布している。だが、一方で、ワクチン接種については、盲信が続き、再度の要請が、行われ始めた。何時果てるのか、こんな騒動が続き、人々の心は、疲れ果てており、日々の生活も、厳しさを極めているが、さて、どうしたものか。改めて、予防策の真偽を、取り上げてみよう。マスクについては、今や、屋外では、不要との見解が、出されるが、本来、何故、他人との接触も、危険性も無い、環境下で、着用を求めたのか、科学的根拠は、無いに等しい。着用の効果に、拘る人々は、飛沫防止に、最強の道具と、必死で訴えてきた。だが、彼らの、当初の解説を、思い出して欲しい。着脱の心得は、厳格な使用法を、強く推奨していた。だが、政府の高官も、委員会の面々も、会見での、不審な行動に、叫んだ人も居ただろう。確かに、医療関係者に、感染が拡大した時、厳重な防備で、何故かという声が、盛んに上がり、これこそが、原因と見定め、流布したのだろうが、灯台下暗し、であった。病原体の大きさと、マスクの構造から、防御性能は、期待できる筈も無く、何故、拘るのか、不思議でしかない。だが、洗脳された大衆は、手放しそうに無い。

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5月21日(土)−縛られず

 服従するのが、国民性の典型であり、それこそが、感染被害の抑制の、最大要因となっている、と信じる人は、居るだろうか。自由主義社会で、市民が、好き勝手に、行動したことが、今回の被害を、拡大させた、と仮定したとして、では、自由でなければ、拡大しなかったのか。
 隣の大国も、武力を誇示するだけの、独裁国家も、何方も、厳しい統制を敷き、社会全体を、制御している、と言われるが、果たして、被害は、小さく抑えられたか。そんな問いを、投げ掛ければ、返答は、否となる。だが、それについても、前者は、事が起きる度に、厳しい規制を敷き、更なる拡大を、防止したとの解釈が、施される。更に、今回の感染爆発は、国内でも、特に、自由度が高い地域で、起きたことであり、だからこそ、統制が必要、との結論が導かれる。一方、その国の支援を、今も、必要とする独裁国家は、武器開発に、全勢力を注ぎ、国民の生活水準も、衛生水準も、蔑ろにされており、厳しい統制だけでは、結局、不十分であることを、露呈した。それでも、自由を謳歌する国々と比べれば、遥かに、小さな被害であり、自由と命を、交換するようなもの、との主張もある。では、改めて、この国に関して、見渡してみると、何が見えてくるのか。中途半端と、度々糾弾されるように、統制は、不十分であり、効果を上げたとは、とても言えぬ状況だろう。一方で、自由についても、やはり、中途半端との指摘がある。国民性が、為せる技と言われるが、集団行動を、主体とする市民は、一見、自由を謳歌しているようだが、実際には、遠慮がちに、他人の行動を、眺めつつ、類似したものへと、流されていく。で、結局、こんな解釈は、無駄なものでしかない。原因を、突き止めようと、意図しているかさえ、定かではなく、ただ漫然と、同じ言説を、繰り返す人々にとり、自らの利益は、精査と追求を、行わないことで、得られると思っている、ように感じられる。

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5月20日(金)−不信の鍵

 事故の後、危険性を問われた、科学者達は、基本的に、強い危険性は無い、としていた。しかし、悲観論を、導こうとする人々は、更に追及し、絶対の安全安心を、保証させようとした。となれば、科学の基本から、絶対はなく、確率の大小となり、確定的な返答が、できない。
 これが、科学への不信へと、結び付いたとされるが、実際には、誘導尋問であり、その結果に対する、理解不足が原因であり、信じる気の無い人々に、付ける薬は無い。当時、真摯な態度で、地道に説明した、科学者の多くは、厳しい批判に、晒され続け、孤立感を深めた。拒絶する人に、論理は通じず、権力側に、与するとする、理不尽な罵声を、浴びされ続けた。無知蒙昧な大衆に、どう対応すればいいのか、正解は無さそうだ。ただ、今も、進行中である、騒動の中でも、歴然としているのは、専門家と大衆を、結び付ける役割の人々が、どう処するかが、肝心ということだろう。説明責任は、特に、当事者が負うもの、とされているが、実は、科学を、分かり易く伝えることも、説明責任の一端を、担っている。報道が、騒動の中で、盛んに糾弾されるのは、著しい偏向を、露骨としながら、誤った言説を、せっせと伝えるからで、客観的な解釈を、施すこと無く、単純に、妄言を撒き散らすからだ。一方で、専門家と呼ばれる、科学者達にも、事故の時とは、全く異なる姿勢が、表れている。不確実性が、何方の場合にも、適用されるのは、科学事象である以上、当然のことだが、それに対して、専ら、確定的な言説を、施す姿勢には、不信感を、強めることとしか、感じられない。予防手段に、言及し始めたが、その実態は、不確実なことの列挙でしか無く、それを、確定的な形で、説明しようとしても、論理破綻にしかならない。既に、自己矛盾の数々が、並び始めているが、論理構築より、誤った言説に、拘った結果でしかなく、当初からそうだったが、やはり、無駄でしかない。

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5月19日(木)−不信拡大

 何度も触れてきたように、論理には、根拠が必要となる。通常は、科学的な手法を用い、綿密な調査により、導き出した数値を、並べることで、根拠としたり、それだけでは、確かにならぬ場合には、統計処理を施し、そこから、算出された確実さなどを、根拠とする。
 ごく当たり前の、手順なのだが、立場により、扱い方が、全く異なってくる。調査を行う、当事者であれば、綿密に計画し、かき集めた数値を、そのままで、説明に使えるなら、論理を構築するし、足らないのなら、様々な統計手法を用い、明確な結論を、導ける解析結果を、提示することで、論理を強化する。一方、調査結果を、検証する立場は、全く異なる。調査の妥当性を、検証することから、手順を始めるが、調査項目が、妥当か否かだけでなく、当事者が、提示した主張に、行われた調査が、十分なものかを、検証する必要がある。実験などでは、対照群と呼ばれる、調査の対象とは、全く異なる集団を、調べることが、不可欠と言われる。例えば、医薬品の開発では、調べる薬剤を、投与した群と、偽薬と呼ばれる、対象となる成分が、一切含まれていないものを、投与した群を、比較する必要がある。特に、何方の群も、何が投与されたかを知らされず、心理的な効果は、同等の状況を、作り出す必要がある。その上で、調べた結果を、ただ並べるだけで、違いが出れば、幸いだろうが、そんなことは、殆ど起きず、結局、統計処理により、意味のある差を、見つけ出す必要が出てくる。ワクチンは、そうやって、有効性を証明した、と言われるが、多くの指摘があり、科学的に、証明できたとは、言えないようだ。更に、マスク着用が、話題となるが、そこで、引き合いにされる「科学的証明」については、どんなものかさえ、提示されておらず、怪しさ満載だろう。新薬開発と同じく、対照群を設け、調べた結果なら、世界各国の異なる対応は、不可思議だ。科学不信が、広がるだけとなる。

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5月18日(水)−誤魔化し

 論理の重要性は、何度強調しても、し過ぎることは無い。そう主張する人は、多いだろう。では、一方で、論理によって、大切な要素とは何か。こちらについても、多くの人が、正しい情報と答えそうだ。情報操作が、問題視されるのは、そんな見方が、大勢を占めるからだろう。
 国や世界機関が、自分達に、都合の良い情報のみを、流している、と批判されるのは、当然だろうし、戦争状態にある、敵対国が、お互いに、事実を歪曲し、情報工作をしている、と批判し合うのも、戦略の一つとして、当然のことだ。だが、こんなことは、平和な時代を過ごす、庶民達にも、起きている。データを、読み解く方法や、統計で、嘘を吐く方法が、盛んに紹介されるのは、逆に言えば、それらが、日常的に使われ、時に、市民が騙され、思わぬ出費を、強いられているからだ。仮令、被害を受けなくとも、日々伝えられる情報で、そんなものに、接していると、早晩、それらの数値に、反応し難くなる。これでは、肝心な時に、正しい判断を下すことも、反論をすることも、できなくなる。こんな例として、最近、特に目立つのは、広告の中で使われる、満足度という数値だ。不特定多数に、調査を行い、その結果として、算出された数値を、伝えるという手法だが、常に、最終結果の数値のみが、提示される。時に、画面の端に、ぎりぎり見える大きさの字で、注意書きが、加えられるが、注意を払わねば、気付かぬ程の存在だし、提示されても、読み終わらぬうちに、別の場面へと移る。何れにしても、高い数値だが、全員ではない、という数字には、作為しか感じられない。どんな調査で、誰が回答したのか、本来の統計では、重要となる手順は、全て省かれており、一切の追求を、拒絶している。だが、広告制作会社が、濫用することから、利用価値と思惑は、明確だろう。数字という情報は、統計処理を容易とさせ、算出手順を、覆い隠す。今や、情報発信の常道となりつつある。

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5月17日(火)−無駄騒ぎ

 感染症、軍事侵攻、何方の騒動も、経済的には、世界中に、非常に大きな影響を、及ぼしている。だが、命を守る、という提言の下、何方の場合も、馬鹿げた政策が、行われており、経済の面から、正しい評価を、下すべきとの意見が、数多く聞かれる。誰を、どのように、守るか。
 値上がりや品薄が、続く中で、日々の生活が、苦しくなった、と感じる人は多いが、制裁を下さねば、暴君の野望を、打ち砕くことが、できないとばかり、敵対勢力は、次々に、厳しい措置を、繰り出している。嘗ての戦争では、戦費を捻出する為、多くの国が、様々な制約を、強いられてきた。ただ、今回の場合は、当事国を除き、その他の多くの国々は、直接参戦するのではなく、片方の支援のみに、留まっている。その為、それぞれの国民は、実感を抱けず、自らの生活のみ、考えるしかない。では、感染症はどうか。陽性者が、急増すれば、当然、身近な存在にも、及ぶ訳で、実感は、徐々に強まる。しかし、死亡者の状況は、それに比べると、遥かに弱いものでしかない。にも拘らず、日々の生活は、厳しく規制され、経済的な問題も、膨らむばかりとなる。その中、ある雑誌が、昨年末に、興味深い記事を、掲載した。死亡者の平均年齢が、首都の会議で、発表されたという内容で、それが平均寿命と、殆ど変わらぬ状況、となっていた。経済雑誌だからこそ、収支の問題を、取り上げたのは、当然のことで、更に、将来への負債も、考える必要がある。監督官庁の数値は、年齢層しか、示されておらず、平均値を、算出することはできないが、ここでも、グラフからは、平均寿命より、高い値を、示していることが、推測される。だから、もう十分だ、などと言うつもりは無いが、これと共に、肺炎や誤嚥性肺炎を、死因とする人の数が、毎月1万人を、上回ることも、言及すべきことと思う。世界各国が、明らかな過ちを、犯したことを、改めて、糾弾する必要は、明らかなのだ。

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5月16日(月)−正しい報道

 報道の責任が、問われるのは、何故か。事実を伝えるのが、責務なのに、それが、果たされておらず、厳しい批判に、晒されている。確かに、ただ漫然と、権力側の意向を、伝えるだけでは、番人の意味は、なさないし、時に、作為に満ちた、情報操作に、加担すれば、尚のことだ。
 当初から、数え切れぬ程、指摘し続けているが、感染症騒動では、誤った情報、恣意的な表現、等々を、重ねることで、世界機関や政府の意向に、沿う形での、情報工作を、繰り返してきた。以前なら、政治に対する批判を、繰り返すことで、番人を自任した態度を、築いてきたが、同じ政治でも、人の命がかかると、態度を一変させ、政府や自治体の発表を、鵜呑みにするばかりか、専門家を呼び、誤った情報を、蔓延する機会を、作り上げている。指摘すれば、きりの無い程多くの、矛盾に満ちた言説を、次々に、繰り出しており、自己矛盾に、気付かぬばかりか、権力の矛盾や歪曲を、批判する意欲さえ、失っているとさえ、思えてくる。軍事侵攻を、行なっている国では、社会主義の時代に、戻ったが如くの、情報統制が図られ、独裁者の思惑に、沿った形での報道が、行われている。あの時代との、大きな違いは、情報伝達に、認可が不要となり、反体制の情報に、誰もが接することができることだ。それにより、操作や工作は、目的を果たせず、独裁体制は、破綻を来し始めている。だが、同じ独裁体制の隣国では、厳しい情勢に、追い込まれるにつれ、兵器開発が、激しく進められ、周辺国の懸念を、高めている。そこに、情報統制下では、完全制圧を、謳っていたものの、被害者急増と、頼みとする大国の、情勢変化からか、突然、感染爆発の公表に、踏み切ったことに、驚いた人も居るだろう。だが、それより何より、あの国の動静だけを、せっせと伝えることに、違和感を覚え、一層の報道不信を、抱く人が多いのではないか。少なくとも、詳細な報告が、必要とは思えぬ。

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