パンチの独り言

(2022年6月13日〜6月19日)
(何の御蔭、多様性、森を見ず、山師、覚醒、悲観へ、人道的)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



6月19日(日)−人道的

 統計処理された数値には、注意を要する。一見、そのままの数値、と見えて、実は、様々な処理を施し、主張を、強化する為のもの、となることも多い。とは言え、全くの的外れ、とはならず、それなりに、意味を持つから、そちらにも、注意を要する。統計の難しさ、だろうか。
 だが、どんな背景があるにせよ、その推移に関しては、同じ処理を施したのであれば、同一基準によるもの、と見做すことができる。例えば、昨日の世界各国の値も、その下にある、この国のここ40年程の推移を、眺めるのであれば、誰が見ても、明らかとなることがある。それは、低下してきたことであり、その途上で、一旦、かなり低い値になったものの、今は、それなりの値に、保たれている、ということだ。もう一つは、実は、他の先進国同様に、低い値であることだろう。定義からすれば、一人の女性が、一生の間に産むとされる子供の数、とあり、男性の数を、加えて考えると、どう見ても、人口減少に繋がる、となる。但し、その傾向が、明らかとしても、長い期間を経ねば、その兆候は、明らかとならない。では、その中で、世界各国の値から、見えてくるのは、何か。上位は、殆ど、ある大陸の国々となり、多産であることが、明らかだ。だが、その一方で、医療水準と生活水準の低さから、出生直後や、幼い期間に、失われる命が、多いことから、急激な人口増加には、直接結びつかない。だが、半世紀前と比べれば、世界人口は、倍以上に増えており、それを支えているのは、これらの国々と理解できる。その中で、世界機関は、これらの水準を、更に向上させようと、資金提供などの支援を、盛んに進めている。人道的に、当然のことと、理解されているが、その成果が、上がったとしたら、どうなるのか。これもまた、当然のこととして、明らかだ。どうすべきか、について、答えは無いだろうが、にしても、備えは、必要では無いか。人道とは何か、という問題も含めて。

* * * * * * * *

6月18日(土)−悲観へ

 将来への不安が、鍵言葉となる中、重要な要素は、悲観の筋書きだろう。何事も、悪い方に向かうと、考えることで、不安に苛まれたり、不安を煽ったりする。何を、好き好んで、そんなことを、と思うのは、何事も、冷静に見極め、分析を繰り返すからだが、そうでない人は。
 今、世界を覆う不安要素の一つは、軍事侵攻と、それに対する制裁が、引き起こしたと言われる、物価上昇であり、食糧不足だろう。原因が、狂った独裁者の、蛮行であることは、明白だが、それにより、次々に起こる、状況変化も、その殆どが、人為的なものだ。それまで、好況を呈していた、市場の状況も、一変したと言われるが、そちらも、物価高への対抗として、金利を操作したことが、端緒と言われる。何れにしても、資産を増やし、将来への不安を、解消しようとする動きは、別の問題を、生じることで、彼らのとっても、その他の人々にとっても、強い圧力を及ぼす。不安だからこそ、解消の手立てを、講じるべきという考えが、間違っている、とは言えないだろうが、そこに、常に存在する、悲観の筋書きに、強い違和感を覚える。少し前に、同様に、暗い闇を広げたのは、感染症騒ぎだが、こちらも、人の手によって、過剰反応が繰り返され、一部には、濡れ手に粟の好況を、もたらしてきた。そこでの悲観は、犠牲者の予測であり、膨大な数に及ぶとする考えが、世界に広がった。しかし、実態は、大外れとなり、無駄な対応が、今も続いている。こういう悲観を、好む人種は、騒ぎを広げ、利益を貪るだけで、本当の解決に、向かおうとは、決してしない。何度も、使われた材料で、将来への不安を、膨らませるものの一つに、出生率という数値がある。少子高齢化が、深刻になる中、この数値に注目させようと、ある人々は、躍起になるが、その実態はどうか。世界の数値を眺めれば、何か見えてくるかもしれない。嘗て、問題視された国も、今、問題視される国も、それぞれに。

* * * * * * * *

6月17日(金)−覚醒

 将来への不安を、口にする人の多くは、長期的な対策が、講じられることを、望んでいるようだ。そこで、施策者達は、先を見通した政策を、提示することで、支援を得ようとする。ごく当然の図式だが、これまでの事例を、眺める限り、どうも、様子が、違うように感じられる。
 先を見通すことを、最優先とする場合、現状の問題点を、整理することで、そこから、長期に渡って通用する、新たな方策を、講じるべきと説く。深慮の上で、定められたもので、先を読んだからには、問題解決に、繋がる筈となる。だが、これまでに、講じられたものの多くは、肝心の予想が、大きく外れ、結果として、全くの無駄を、行ってきた。先行きへの不安を、解消する為には、将来の問題を、解決する必要がある、との考えに、実は、誤りがあるのだ。そこでは、将来予想が、行われており、その成否が、全てを決定づける。ところが、肝心の予想に、用いられる筈の資料が、不十分なままでは、無力どころか、無駄や、害さえ及ぼすこととなる。確かに、将来への不安が、はじめにあったのだが、それが生じるのは、実は、今の状況に、何かしらの不安を、抱いているからではないか。そう考えると、解決すべきは、将来起きる問題ではなく、今、目の前にある問題なのだ。これに気付かず、将来を口にする人々は、実は、今現在の問題への、責任を果たそうとせず、逃げ回る為の、一手段として、将来を持ち出している。まずは、現状を見つめ、そこにある問題を、解決することこそが、将来の安定を、導く最善の策となる。当然、現状の問題を、解決することこそが、最優先となるが、その際に、考えるべきことが、もう一つある。それは、どの方向に解決するか、なのだ。これこそが、将来を決める手立てとなり、そこに、将来への不安を、解消する秘訣が、含まれている。進むべき道筋を、見極めることなく、見えもしない、遠い未来を、見通せると思い込む。目を覚せ。

* * * * * * * *

6月16日(木)−山師

 金鉱を、掘り当てる、という目標は、大量解析により、ある程度、達成された。だが、その後の経過は、事前想定とは、全く異なる。希少とはいえ、多くの人々の手に渡る、貴金属と異なり、希少の余り、殆ど流通しないものに、好奇心の目が、集まったのだ。傾向、とは違う。
 集団の中に、埋もれる傾向を、掘り出す手法では、それを使えば、全体の動向を、見通せるとされた。だが、傾向と呼べない、極低確率の事象では、興味を惹いても、動向には反映されず、目的は果たせない。まさに、この状況が、今ある。世界の陽性者数や死者は、同一の感染症では、十分に多数の事例となる。それと並行して、接種が、対象人数も、回数も、膨大な数となっている。何方にも、大量解析が適用でき、その結果に、注目が集まる筈だった。ところが、そこに、異常事態が生じた。統計処理を、施す以前に、感染の症状や、副反応の症状に、注目が集まり、特に、特異な例に、目が集まった。だが、それらの起きる確率に、目を向ければ、ごく稀なことで、当てはまることは、殆ど皆無に等しい。にも拘らず、光が当てられたのは、それぞれの思惑に、好都合なものだったからで、統計解析が、掘り当てたものとは、全く違っている。そのあざとさには、呆れるばかりだが、権力に与する側も、それに対抗する側も、同じやり方で、都合の良い事例を、拾い上げているのだから、どうしようもない。本来は、統計処理により、傾向を見出すことが、最優先にされるべきだが、どうにも、動こうとしないのは、この騒動を起こした人々が、その気を持たないからだろう。宰相が、半年程前に、期限として示した時期は、遠過ぎる余り、厳しい批判の対象と、されていたが、いつの間にか、その時期が来ている。だが、忘却の彼方に、追いやられたのか、誰も、それを、思い出そうとしない。これこそが、今の社会が抱える、大きな問題であり、科学の力が、失われている証左なのではないか。

* * * * * * * *

6月15日(水)−森を見ず

 いつの頃からか、大量の数値から、意味のある傾向を、見出すことの重要性が、訴えられ始めた。元々は、大規模の母集団から、一部を抽出して、解析する手法が、盛んに行われ、その妥当性を、統計学の立場から、立証することが、重視されていた。手間を省くのを、優先させたのだ。
 ところが、ある研究の進展から、大量の解析結果を、得ることが可能となり、その解析に、適した手法の開発が、必要と考えられたのだ。それが、まるで、金脈を掘り当てるのと、同じとの感覚から、データマイニング、と呼ばれる手法が、確立され始めた。本来なら、集団全体でも、抽出物でも、同じ傾向を示す、という考えがあり、その妥当性こそが、重要だったのだが、大量だからこそ、見つけ出せる、僅かな傾向も、無視できないとの立場から、そちらに注力する人が、増えてきた。これはこれで、隠れた傾向を、見出すことで、危機回避などに、役立つとされており、著しく低い確率でも、解析対象が、大規模となれば、発見できるとされ、研究だけでなく、実証的なものへも、応用されている。だが、その先の扱いは、まだ、未熟と思える状況にある。低確率でも、該当例が見つかれば、それを、論じることが可能となる。だが、集団全体で見れば、殆どに当てはまらず、例外と扱うべきで、注目する必要は、殆ど無いに等しい。にも拘らず、一度取り上げられると、その事例が、歴とした存在であり、確かにあるものと、扱われることで、無視できず、社会全体として、対処せねばならぬものとなる。さて、どうしたものか。今回の感染症騒動では、こんな事例が、山程出ており、副反応しかり、後遺症しかり、となっている。被害者は、確かに、深刻な状況にあろうが、社会全体として、どう扱うかは、全く別の話だろう。確率を基本として、選別すること無く、ただ、闇雲に話題とすれば、全体の利益は、失われ続ける。大量を扱うことの、本来の意味を、見失っているのだ。

* * * * * * * *

6月14日(火)−多様性

 言論の場が、万人に開かれ、多くの人々が、自らの意見を、掲げる機会を、手に入れた、と言われる。だが、その多くは、好き勝手な妄言で、何の役にも立たないばかりか、悪影響さえ及ぼすと、厳しく批判される。無知なだけでなく、無謀なものばかりが、目立つからだ。
 その上、この悪影響は、仮想空間に留まらず、実社会にも、及び始めている。過激な意見に、大衆が飛び付くと、それまで、穏当な意見を、述べていた人々が、公共の場で、関心を集めようと、極論を展開し始める。一種、人気商売であることは、確かなのだろうが、それにしても、卑しさしか、感じられない愚論に、公共性は、皆無と思える。こんな傾向が、強まってきて、気付かされることに、悪い所、欠点や欠陥を、批判の的とする姿勢が、極端に強まったことがある。他人を批判する際にも、如何に、悪質かとか、時に、化け物のように、紹介することさえ起きる。発言者にとり、それこそが、自らの優位性を、確立する為の手段であり、比較対象こそが、重要との考えからだ。だが、誰にも、長所と短所があり、全体を見渡して、評価することの大切さは、誰もが、知る所だろう。にも拘らず、批判一辺倒の姿勢から、罵倒を繰り返し、貶める言説を、連ねることこそが、不可欠との考えが、見えてくる。実は、同じ事柄でも、見方により、長所にも短所にも、なり得ることは、当然なのだが、それさえも、欠点として糾弾し、徹底的に、攻撃を続ける。馬鹿げた態度だし、卑しい心情だが、それこそが、耳目を集め、支持を得られる、との世相は、広がり続けているらしい。世界では、多様性が重要との考えが、流布されているが、一方で、この考え方は、それを認めず、同好の士こそが、力となることを、目指しているようだ。人それぞれに、違いがあるのは、当然のことで、それを認めず、排除を繰り返せば、早晩、自らが、弾き出されることに、気付かぬのは、愚か以外の何物でも無い。

* * * * * * * *

6月13日(月)−何の御蔭

 科学への信頼が、揺れている話を、何度か書いた。今回の感染騒動は、当初、死への恐怖が、撒き散らされる一方で、科学の叡智を、結集させることで、制圧が可能となる、との期待が、表明され続けた。だが、現状は、絶滅なのか、撲滅なのか、定かでない、と映る。
 確かに、世界機関も、国の研究機関も、果ては、専門家達も、強気の意見を、表明している。その内容は、今回のウイルス感染症も、ワクチンの力で、制圧できる、というものだ。だが、現状では、その兆しさえ見えず、何度も出される見解で、効果の程を、伝えたとしても、決定的なものとは、受け取られておらず、却って、副反応などの、悪影響の大きさに、注目が集まる結果となる。どちらの立場に、与したとしても、実は、科学的には、確定的なことを、主張できる筈もなく、可能性を示すことで、自分達の主張の、正当性を訴える。だが、個人にとり、確率を掲げての説明は、確実な意見とは映らず、それが、科学不信を、深める結果となっている。ところが、これらの意見も、別の見方からは、妄論と見做すことが、できるのではないか。つまり、不信の前に、盲信があり、科学技術は、全てのことを、可能にすると、勝手に信じ込んでいる、という背景があるのだ。技術は、確かに、徐々に進歩しており、人生の中で、数々の発展を、経験することができる。だが、不可能なことは、数え切れぬ程残っており、これらが、実現するまでに、生き続けられるか、と問われれば、否と答えるしかない。にも拘らず、何事も、可能となり、あらゆる病気が、撲滅できると信じたい、という人が、殆どなのではないか。ここに、大きな誤謬がある。歴史を振り返っても、感染爆発は、度々起きており、多くの命が失われた。だが、今があるのは、その危機を生き残り、再び、繁栄を築いてきたからだ。それが、可能となったのは、一部には、科学技術の御蔭もあるが、生物としての能力が、最大要因なのだ。

(since 2002/4/3)