パンチの独り言

(2022年6月20日〜6月26日)
(扇動者、臭い物に蓋、風が吹けば、窮したか、期待は、素読、無駄じゃない)



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6月26日(日)−無駄じゃない

 音読の意義が、失われつつある、という状況に、危機感を覚えた訳だが、これとて、ある世代以上でないと、理解されないのかも。漢籍が、教養だった時代、幼少期から、意味も分からず、声に上げて読むことで、何かが身に付く筈、と行われたのが、素読と呼ばれる方法だった。
 それは、単に、入り口でしかなく、その後、研鑽を積むことで、教養が、身に付いたとされる。だが、効率ばかりを、追い求める時代に、そんな悠長さは、失われてしまい、素読は無駄、と断じる意見が出ている。一方で、思い出した如く、それを、採り入れる現場もあり、教育の多様性を、表しているようだ。素読とは違い、音読の場合、義務教育課程で、実施されており、その効用は、意味を掴むことと、言葉の流れが身に付くこと、にあると言われてきた。だが、それ自体が、崩れ始めており、声に出したとて、何の意味も無い、という事態に、危うさを感じたのは、昔気質の頑固さが、表に出ただけだろう。だが、このままでは、伝達能力は、低下を続け、理解力も、著しく減退しかねない。最近の傾向として、気になる点を、これまでにも、何度か、指摘してきたが、数学の解法でも、身に付ける為に、同じことを繰り返す、という手法が、盛んに用いられる。確かに、一時期、身に付けるべき能力を、限定する施策が、取られていた。数少ないものを、確実に、身に付けさせて、最低限の能力を、確保させようという算段だったが、その結果は、ある意味、惨憺たるものだった。数を減らしても、獲得できる割合は、一向に変化せず、駄目なものは、駄目なままで、達成度は、以前と変わらない。明らかな過ちだったが、それを認めるより、他の方法に、目を向けるのは、教育に携わる人々の、悪い癖だが、ここでも、同じことが起きた。その代わり、重要性に、差をつけて、学習に反映させる。それで、一件落着のつもりが、重要以外には、目を向けぬこととなった。無駄こそ、肝要なのに。

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6月25日(土)−素読

 情報社会では、誰もが、日々、数々の情報を、受け取っている。重要なものも、些末なものも、入り混じって、洪水のように、押し寄せるが、人は、どうやって、それを理解しているのか。取捨選択は、不可欠な手段と言われるが、内容を、把握せずには、できないことだ。
 種種雑多な情報の中から、必要なものを、選び出すことが、肝心と言われるが、実は、その前に、内容を把握しないことには、選びようが無い。だけでなく、不可欠な情報を、内容理解が追い付かず、手にすることができず、権利を失い、義務を果たせずに、日常生活に、支障が出る。洪水のように、押し寄せる情報は、その大部分が、文字によるものであり、そこにある、意味を掴まねばならない。だが、その手順は、人によって、大きく違うようだ。例えば、文字が並んだ文面を、ざっと見渡すことで、情報の質を、見極める人が居て、重要と判断すれば、精読する。こんな人は、処理能力が高く、瞬時に、取捨選択ができる。だが、多くの人々には、そんなことは、手品でしかない。まず、それぞれを、熟読して、内容を理解し、判断を下す。それでも、答えに行き着ければ、間違いを犯さずに済む。この次に来る人は、時に、間違いを犯す。熟読するが、内容理解が、不十分なままで、次の段階に進む。偶々、選ぶ方に、選り分ければ、結果として、問題は起きないが、それは、偶然の産物でしかない。逆の目が出れば、肝心の情報を、受け取らなかったとなり、権利も義務も、無いものとなる。最悪は、読むことさえせず、つまり、気付かぬに終わる人間だが、こんな人に、効く薬は無い。酷い目に遭っても、変わらないのであれば、尚更だ。可能性は、読み間違いが、原因の人にしかない。黙読では、そんな過ちを犯すから、という訳で、音読を、推奨してきた。だが、最近の傾向では、音読でも、理解が進まぬという。自分の声を、聞いても、何も起きない。重要な回路が、失われたのか。

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6月24日(金)−期待は

 一昨日、取り上げた朗報では、大企業に限られており、それが、今後、中小に広がるか、更には、賞与だけでなく、基本給へと広がるか、という課題がある、と論じた。それに対して、一つの県内に、限られたとは言え、中小にも、好況が広がっている、とする結果が、報じられた。
 これらが、全て、庶民にとっての、朗報になるかは、まだ不明だろう。だが、泡が弾けてから、四半世紀以上、続いた状況が、徐々にとは言え、変わり始めた、との期待を、抱かせる。ただ、文字通りに、受け取ることは、できない。細かく捉えれば、大企業の話と、中小企業の話には、かなりの格差があるからだ。大企業の報道では、16業種105社の実績で、93万円弱、前年比較で14%弱の増加とあったが、中小の報道は、ある県内の167社の回答から、31万円強、1.5%の上昇とあった。確かに、どちらも、増加しており、労働者にとり、久しぶりの朗報となった。大企業では、上昇幅が、泡が弾ける以前の、1981年以降の調査で、最大だったとあるし、中小では、3年ぶりの増加とある。好転したことは、確かなようだが、その様相には、かなりの開きがあるし、一時的なもの、とも思えてくる。今後、どんな変化が起きるか、楽しみでもあり、不安でもあり、といった心境ではないか。特に、感染騒動で、世界中に、ばら撒かれた資金が、根源となったとされる、好景気が、軍事侵攻への制裁から、世界に広がった、物価上昇から、それを抑える為とされる、金利上昇が、どの程度、景気を冷やすのか、警戒を強める動きが、市場に広がっている。ここでも、感染症同様、例外的な動きを示す、この国の中央銀行の戦略が、功を奏するのか、はたまた、的外れとなるか、それもまた、今後の変化に、大きく影響を及ぼす。特に、物価と金利が、反対の動きを、示すという考えに、異論を唱えることが、為替の状況も含め、どんな結果を導くのか、庶民には、見守るしかない、期待を込めて。

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6月23日(木)−窮したか

 窮すれば通ず、とは、易経にある言葉で、諺でもあるが、その意味は、「事態が行き詰まり、二進も三進もいかぬ状況に陥ると、却って、思いがけない活路が、開ける」とある。今回の感染症に、そんな状況を、思い浮かべる人が、居るかも知れないが、如何にも違う気がする。
 困り果てる、とも言われる状況に、あったと思う人が、居るのだとしたら、それは、単に、騙されただけ、なのではないか。確かに、被害者の数は、膨大に及び、それが、世界各地に、広がったのだから、それこそが、窮地だったのだ、とする意見も、あるにはあるが、その不確かさに、目を向けるべき、と思う。例えば、人は、必ず死ぬものであり、その原因は、様々あるものの、ある程度の数が死に、別の数が生まれる、ということが、繰り返されてきた。真の危機なら、その被害は、膨大なものとなり、それまでとは、大きく異なる数値が、見つかる筈だ。だが、例外的とは言え、この国では、感染症そのものによる、死者数は、膨大とならず、却って、同様の原因で、起きるとされる肺炎の死者数が、減ったとも言われる。これは、以前なら、死に至る症状でも、この混乱下では、更なる治療が施され、その結果として、延命どころか、回復にまで至った、という事例が、かなりの数、出てきたためだろう。こんな状況では、窮すれば、などと宣うことさえ、憚られる。にも拘らず、騒動の主共は、依然として、妄言を繰り返し、人心を操ろうと、躍起になっている。この期に及んでは、断末魔の叫び、にも似た状況で、以前なら、耳を傾けた人々さえ、もう、目を向けない。では、この先、どんな展開が、起きるのだろう。これまでの騒ぎ同様、徐々に、関心が薄れ、早晩、情報さえ、流されなくなる。収束とは、全く別の事柄だが、社会現象としては、それを、収束と言い、見えなくなれば、終息となる。人々の関心は、その程度のものだ。理解力とは、全く異なる、別の力が働いた結果なのだ。

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6月22日(水)−風が吹けば

 悲観的な情報ばかりが、意図的と思える程に、流される中、明るい情報が、流れてきた。大企業が組織する団体が、夏の賞与が、大幅に、増額されたとの、調査結果を、発表したのだ。政権から見れば、選挙前の朗報、となるのだろうが、世間は、それ程甘くは無い。すぐに文句がついた。
 騒動の中でも、為替の不均衡の中でも、大企業には、大きな悪影響どころか、却って、好業績が、訪れたと言われる。確かに、感染症によって、社会が、大混乱に陥っても、観光に関わるような、一部の産業を除けば、その他大勢は、殆ど影響を受けていない。庶民達は、強い制限を、受けたとしても、日々の生活に、大きな変化は起きず、政府主導で、窮乏解決とされる、給付金が、市中に行き渡ると、経済的には、好転してきた。その結果が、企業業績に、反映したのだろうが、これでは、不十分との批判の、大合唱が起きた。曰く、中小企業には、まだ、何も起きておらず、手立てを講じる必要が、あるとされる。だが、それを、先にすることは、不可能では無いか。以前、指摘したように、殆どの中小は、大企業への供給を、生業としており、大企業が、好況を呈して、収益を確保することから、供給源への還元が、起きると見るのが、筋だろう。となれば、今回の朗報は、端緒にすぎず、そこから、次の段階へと、結びつくか否かが、肝心となる。次は、賞与だけでなく、基本給の上昇が、起きるべきだし、更には、中小企業で、働く人々にも、好影響が及ぶことが、起きねばならない。悲観を、常とする考えでは、こういう流れが、起き始めた時にも、その時点の欠点を、指摘することが、優先されるが、そこに、継時的な変化を、見ることなく、批判する姿勢には、呆れるしかない。急激な変化に、過剰な期待を、抱くことは、避けるべきだが、その一方で、これを、一時的な現象と、見ることも、変だろう。やっと、始まったことなら、暫く、様子を見てはどうか。その位の余裕は、あるだろう。

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6月21日(火)−臭い物に蓋

 データを、取ることは、無駄では無い。だが、日々の数値で、大衆を、一喜一憂させる為だけなら、無駄だろう。その状況が、これ程まで、長く続くと、もう、どうでもいい、と思う人が殆どだ。だが、その中で、その数値を、引き合いに出して、何事かを、決めるとなると。
 馬鹿げた騒ぎは、終わる気配を、見せてこない。その理由は、ごく単純なもので、何の根拠もないのに、騒ぎを起こしたからだ。その上、今回の騒動では、実際の数値として、陽性者数の推移を、明示し続けている。これにより、確かな根拠が、得られるものと、警告を出し、警戒を解かない人々は、主張し続ける。だが、その解析は、すっかり忘れ去られ、誰も、そのことに、目を向けることが無い。となると、せっせと、掻き集めるのは、何の目的が、あってのことだろう。ここでも、単純に、騒ぎを続ける為、としか言いようが無い。その目的には、精査は、どちらに転ぶか判らぬ、諸刃の剣、ということになる。都合良く運べば、確固たる証拠が、得られることとなり、その後の政策立案にも、大いに役立つものとなる。だが、逆の目が出れば、これまでのことも含め、全てが水泡に帰する。無駄が、本当の無駄となり、あらゆる所から、厳しい批判を浴び、実質的なものも、心理的なものも、どちらの被害も、補償を要求される。それこそが、結論を導かない、最も大きな理由だろう。半年前の、宰相の発言は、所詮、口約束である、との言い訳が、その内、出されるかも知れない。それとも、既に、忘れ去られたと、触らぬ神に、となるだろうか。寝た子を、起こさぬように、慎重に、事を運ぶのか、はたまた、それ自体に、蓋をしてしまうのか、何れにしても、半年前の期待に、応えることは、決して無いのだろう。政治的判断とは、こんなものであり、このまま、選挙に突入し、結果が出たとしても、何の変化も起きない。ただ、今、解析結果が、出てくれば、別の展開が、必ず起きる。さあて。

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6月20日(月)−扇動者

 悲観的な筋書きを、悉く、糾弾する一方で、生物種として、悪い展開を、予測し、避けることで、繁栄を築いてきた、とする。矛盾に満ちた言説、と思う人が、多いのかも知れない。だが、この二つの話には、大きな違いがある。主体の違い、とでもすれば、分かり易いか。
 後者は、自分自身のこととして、目の前の展開を考え、最悪の事態を含め、様々な可能性を、思い浮かべて、検討する。あくまでも、主体は、自分であり、自分のこととして、検討するのだ。それに対して、前者は、どうだろうか。筋書きを、作り出し、それを、社会に流布する人々は、悲観の対象を、社会全体に、置いている。自身を含むかは、時と場合によるだろうが、その殆どは、自分を、枠外に置いており、ほぼ、他人事として、説明を施す。私の言う通りにしないと、こんなに酷いことが、起きるのだという流れだ。世論を、導くことを、自らの責務として、考えているから、などと思うのは、あまりに無垢で、愚かでしかない。彼らの動機は、他人の為ではなく、自分の為でしかないが、だからこそ、悲観の対象を、その他大勢に置き、自身はその輪に、含めないのが、重要となる。自分に戻ってくるのは、利害の問題であり、特に、利益が得られるかが、不可欠の要素となる。様々な障害を、設定することで、悲観の舞台を、整えるのは、それらの障害を、取り除く為の手立てを、講じることこそが、危機を回避する、唯一の手段と思わせ、その過程で、自身の利益が、得られるという筋書きとなる。ここ数年、世界を巻き込んだ騒動が、幾つも起きているが、その背景には、脚本書きが、暗躍しており、舞台に上がるかに関わらず、社会全体の考えを、悲劇へと導いている。ただ、その多くは、絵空事でしかなく、結果は、筋書き通りには、展開していない。ただ、その芝居の中で、ある人々が、利得を稼いでいる。大衆の心を、弄んだ上で、甘い汁を吸う人間が、確かに居るのだ。

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