パンチの独り言

(2022年6月27日〜7月3日)
(操作済、懲りぬ業界、無駄の極み、自分で、誰の安全、偽者、役立たず)



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7月3日(日)−役立たず

 何度も取り上げたのは、強い違和感を、覚えたからだ。理由は、簡単なことだ。不快に思う、の一言だ。宴席で、音頭を取らせていただく、とか、会合で、挨拶とさせていただく、とか、取ります、します、で何がいけないのか。丁寧の風を装う、単なる押し付けだけなのに。
 だが、この説明で、満足しない人が、居るようだ。だからこそ、専門家と称する人が、それについての書籍を、出している。でも、決定打は無く、あれこれ、言い訳じみた論説を、展開するだけで、役に立たない。ただ、言葉の誤用に関しては、例年、国立の研究所から、出されるように、本来の意味とは、かけ離れた使い方が、広がっている。先月、読んだ本で取り上げたものは、その中で、「納得&絶賛」などと、帯に記され、期待を持って、読んでみたものの、敬語の扱いも、この表現の扱いも、どれもこれも、中途半端な解釈を、施すだけで、説明にも何も、なっていなかった。唯一、著者が頼りとしたのは、独自調査の結果だったが、それは、例文を示し、それに対する違和感の大きさを、尋ねたものだった。例文を見ても、解釈はそれぞれに、大きく異なるだけでなく、調査対象が、年齢層に偏りがあり、十分な母数に、なっておらず、意味を成し得ない、と思えたのだ。これは、研究所の調査でも、同様の偏りが見られ、その上、こんな設問では、その背後にある、原因を突き止めることは、できそうにない。また、著者が指摘したように、使われると、違和感を覚えるのに、いざという時に、使っているのは、何故かという疑問には、答えられる筈が無い。書名にあるように、「使い方」を標榜するなら、時と場合、場面による、使い分けを、厳密に示すべきだが、その気配は、最後まで、見えてこなかった。最悪だったのは、この表現が、西の方から伝わったとしながら、ある歴史小説家の指摘を、終章で取り上げる姿勢で、語源を無視して、ただ、自説を展開するが、承知の助の態度なのだろう。

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7月2日(土)−偽者

 トンデモ、と括ることで、偽物を、糾弾することが、盛んに行われ始めたのも、四半世紀程前だろうか。次々に、それに関する書籍が、出版されているが、ということは、一向に、撲滅できず、懲りない連中は、騙され易い人々を相手に、今でも、大活躍しているのだ。
 その原因は、何処にあるのか、確実なことは、何も言えそうに無い。要するに、詐欺事件同様、騙される人が、居ることが、一番の要因であり、それが無くならない限り、騙す人間も、彼らが使う、奇想天外な論理も、消えることは無い。始まった頃に比べ、状況を、悪化させているのは、おそらく、人々が手にする端末が、深く関わっていることだ。誰もが、発信源になるだけでなく、無責任に、嘘や出鱈目を、流布する役を、担っているのは、こんな人々であり、自身が騙されて、損をするだけでなく、他人を巻き込み、損を広げるだけでなく、騙す側に、利益を供与しているのだ。実しやかな論説を、満載した書籍が、人気図書として、紹介されたり、分かり易いと評判の、評論家として、人気を博す人物が、実は、トンデモ科学の伝道者だったり、と、当初から、話題に事欠かなかったが、今では、そんな存在は、皆無と言っていい程だが、半面、SNS上で、人気を博し、膨大な数の支援者を誇る。馬鹿げた騒動でも、彼らの活躍は凄まじく、マスクやワクチンの害を、盛んに喧伝するが、その殆どは、トンデモの代表と思える、非科学的な調査の結果に基づく。反対する為には、害悪を、強調するのが一番、という戦略が、この世界では、最適とされるらしく、被害の数々を、喧伝し続ける。だが、科学的な根拠を、示したいのなら、別の方法が、あることに、無知な人々は気付かない。マスクが、感染を防ぐか否か、ワクチンが、感染を抑えるか否か、そんな疑問を、確かめてこそ、意味のある議論が、行えるのではないか。科学の本質を、見失った世界では、こんな茶番が、繰り返され、騒がれる。

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7月1日(金)−誰の安全

 ヒトという種が、今の繁栄を、築いた要因は何か。学者達は、それぞれに、勝手な論理を、展開する。種の存続として、最も重要なのは、繁殖力だろう。だが、ただ増やせばいいのなら、膨大な数の子孫を、産み出すことで、十分となる。多くの動植物は、そうしているのだ。
 でも、繁栄できているか。そうでない場合が、余りに多く、絶滅や、その危機に瀕している種が、一杯ある。無数と思える程の卵や種子を、自然に撒き散らし、次々に、子供を産むような、動物も植物も、数を増やし続けている、とは言えない状況にある。それに対して、ヒトは、女が子供を宿し、一年近くの期間をかけて、体内で育てた上で、産み出しても、子供は、まだ成長過程にあり、その後、20年近くの時を経て、次の世代を、宿す時期を迎える。こんなに時間をかけても、ここ半世紀程の間に、倍以上の増加を、したことは、まさに繁栄を、表している。そこには、ただ増やすだけでなく、少ない数を確保し、維持する力が、働いている。この点で、働いているのが、危機回避の要素だろう。危機を見極め、それを避ける手立てを講じる。これはまさに、安全という考えだろう。種の繁栄に、役割を果たしたように、皆が、ある程度の安全意識を、持っていると考えれば、今の安全という権利の考え方は、暴論と言うべきものだ。確かに、安全を確保する環境を、整えることは、現代社会の務め、と見える。だが、その中で、個人の行動意識が、無視できると考えては、本末転倒となる。まずは、自分で、安全を確保する手立てを、日常的に、講じる意識が必要だろう。一方で、安全との組み合わせで、同時に議論される、安心に関しては、単に、人間の心理によるもので、その確保を、社会が保障するなどと、考えること自体、馬鹿げたものと見るべきだ。ホーム上で、スマホに精を出し、落下するのは、勿論のこと、横断禁止の道路を、堂々と渡る老人など、自己責任でしかなく、論じる価値も無い。

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6月30日(木)−自分で

 安全、安心を、声高に求める声に、皆さんは、どんな反応を示しますか。突然、そんなことを、尋ねられても、何もありません、という答えが、大半だろうか。人それぞれ、求めるのも、勝手だろうし、求めないのも、勝手なのだ。だが、今の風潮では、求めることが、権利となる。
 それぞれに、自分の行動を、決めるのは、ごく当然のことだが、誰かに、決めてもらうとか、誰かが、守ってくれるとか、そんな態度となると、当然とは言い難い。更に、それが、どんなに、異常な行動でも、安全を確保するのが、そちらの義務、とまで言われると、もうお手上げである。何も無い、との返答は、当然のことだが、答えの主が、そんな非常識な要求を、突きつけられる立場になく、何の義務も負わないからで、求められたら、返答は、大きく変化する。だが、今の風潮で、こんな要求が、突きつけられると、どの道、それは、社会全体に、大きな影響を及ぼし、金銭的な負担だけでなく、精神的な負担も、強くかかってくる。何故、こんな論理が、罷り通るのか、常識的な人間には、理解できる筈も無いが、大真面目に、その要求を、押し通そうとする人々には、当然の権利であり、社会こそが、自分も含む、そういう弱者を、保護するのが、当たり前となる。いやはや、恐ろしい時代に、なったものだ。彼らが、当然として求める、絶対の安全と、完全な安心は、全くあり得ないもので、そんなことは、ごく単純に考えても、理解できる。では、何故、彼らは、そんな愚論を、大真面目に展開するのか。全く想像が、つかないけれど、一つだけ、大切なことがある。耳を貸さない、彼らに届くとは、決して思わないが、常識が通じる人々には、その一言で、納得が得られるだろう。それは、安全、安心を、手に入れる為に、努力するのは、一人ひとりの人間で、彼らが、ほんの少しの注意を、払うだけで、ある程度のものは、手に入る。他人に頼らずとも、簡単にできることだ。できぬ人は、別だ。

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6月29日(水)−無駄の極み

 数値を、連日発表し、掲載することに、どんな意味があるのか。皆が、忘れ去る前に、今一度、書いておく。新聞が、せっせと、掲載し続けた数値は、最近の例では、二つある。一つは、事故後の、汚染状態を、知らせたもの、もう一つは、現在進行形の、陽性者数だ。
 前者は、汚染状況を、伝えることで、外出などで、被曝する危険を、知らせる、と言われたが、翌朝の新聞に、掲載される情報に、その意味があったのか、疑わしい。大国が、盛んに実験を繰り返し、その汚染拡散が、危惧された時代には、当日の放射能の値から、学校に、警報が流されていたが、速報値だからこそ、だった。前日の値が、どんな意味を、持っていたのか、改めて考えても、不思議でしかない。一方、後者はどうか。発生地では、ゼロを目指して、調査を繰り返し、終息するまで、続けていた。発生源の特定にも、この手法が、役立つとされ、全世界に、広がったが、その後の展開は、予想外となり、ゼロも目指せず、発生源もあやふやでは、ほぼ全ての意味を、失っただろう。その後、一時的な収束を、宣言した発生国では、同じことを、繰り返すが、当初と異なり、封鎖による、完全制圧は、不可能となり、自然減しか、頼るものがなく、発生源も、特定できず、独裁政府による、徹底的な施策さえ、無意味と断じられる。それに対し、多くの自由主義国では、行動制限が、徹底できず、日々の検査の結果も、意味を為していない。にも拘らず、政府を、批判するより、加担して、大衆を、脅すことを、選択した報道は、無意味でしかない数値を、相も変わらず、伝え続ける。無能な専門家と共に、この方針を、見直す気配を、見せない愚か者達は、日々、増減を繰り返す数値に、まるで、一喜一憂するが如く、解析結果と称して、何の意味も無いものを、発表しているが、無駄でしかない。本来の目的も、新たな目的も、何も果たせず、無駄を繰り返す。紛争地以外、ある意味、平和なのだ。

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6月28日(火)−懲りぬ業界

 今回の騒動が、科学不信を、強めたのは、確かだろう。戦時中に、偽情報を、撒き散らした元凶として、戦後、同様な暴挙を、犯した組織を、大本営と呼ぶのは、皮肉でしかないが、今回も、まさに、そんな状況が続く。単なる、思いつきの嘘ではなく、科学を根拠として。
 そんなやり方だからこそ、科学の価値が、地に堕ちるのも、当然なのだが、その背景には、様々な要素が、横たわっている。例えば、もう一昔前のこととなり、忘却の彼方どころか、誰かの謀略などの、馬鹿げた妄論が、屡々、取り沙汰される、女性研究者による、新発見の報道は、その後、捏造とされ、自殺者まで出て、大騒動が続いた。そのきっかけは、研究所の広報が、仕掛けた大々的な記者会見と、それを報じた、全国紙の一面トップ扱いにあった。ただ、自殺者は、論文作成に関わり、捏造に基づく、業績への責任から、との指摘もある。報道の無責任を、問う声もあったが、一流誌への掲載という、確かな証拠のある中では、止むを得ない、とも言えるだろう。問題は、それまでにも、度々、指摘されたことだが、結果を捏造し、それを業績とする、一部の悪質な研究者の存在に、あることは確かで、その悪行を、防ぐ手立てを、持ち合わせぬ、業界の純粋無垢な仕組みにも、大きな問題がある。その後も、改善が図られ、暴挙を、未然に防ぐことは、科学の信頼を、取り戻す為に、重要なものとされる。だが、今回の騒動では、囀りをはじめとする、SNSで発言を繰り返す、俄評論家が、論文を頼りにし、内容理解より、話題提供を、優先する姿勢から、劣悪論文を、紹介することが、盛んに行われる。専門性を有しない人間が、実しやかに論じ、自論を、展開する姿には、嫌悪しか感じないが、その根源には、劣悪な論文が、審査を通り、発表された過ちが、あるに違いない。昨日の話題も、一流誌の論文で、信頼できると思ったのだろうが、その価値は、無いのでは。これでは、回復は遠いまま。

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6月27日(月)−操作済

 もうここまで来れば、選挙前に、大規模調査の結果が、公表されることは無い。何方にしても、選挙結果に、大きな影響を、及ぼすからだ。とは言え、そんな口約束は、とうの昔に、反故にされている、と見る向きもあろう。本来なら、これ程の大騒動に、総括は不可欠なのだが。
 一方で、科学不信の種も、この騒動で、大々的にばら撒かれた。騒動の原因に対する、科学的理解は、一切進まず、只只、恐怖を撒き散らし、不安を煽るばかりでは、不信が募るのも、当然のことだ。だからこそ、今更でも、大々的な調査が、科学の名誉を、挽回する為に、必要なこと、と思うのだが、こちらも、危うさばかりが、目立っている。数年前から、この場に、多くの人々を、誘う為の手立てとして、囀りにも参加し、今回の騒動では、彼方にも、度々批判的意見を、発してきた。だが、狭い考えしかなく、仲間を求める人々には、何方に対しても、厳しい科学的批判を、打つけてくる人物に、興味が湧く筈も無い。相変わらず、閑散とした独り言には、訪れる人も少ない。そんな中、囀りに、反ワクチン派にとり、朗報とも言える、論文が発表された、という話題が、登場した。予想通り、飛び付く人々の数は、日に日に増してくるが、彼らの吟味力に、やはりという思いが、過ぎる。発信元は、この国在住の外国人らしいが、論文の趣旨を、掲載された図と共に、紹介していた。その内容が、副反応を、忌み嫌う人々の、琴線に触れたのだ。念の為、原著論文を、眺めてみたが、その内容に、驚きを通り越し、呆れを感じたので、その点を、発信主に返信した。問題点は、発信主が、囀りの中に、貼ってくれた表にある。少しでも、調査に携われば、調査対象だけでなく、対照群を、同時に調べることが、必要であることは、承知しているだろう。だが、何方の群も、無作為に選び出し、比較することが、必須となる。では何故、この表にある、対照群は、調査対象の10倍なのか。疑惑だけが、膨らむ。

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