パンチの独り言

(2022年7月11日〜7月17日)
(明々白々、褒め合う、何方も何方、社会規範、明らか、狭い了見、児戯とて)



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7月17日(日)−児戯とて

 人間が、理想を抱くことには、何の問題も無い。誰もが、自分の目指す所として、理想を抱き、それに向かって、努力を積み重ねるのは、古今東西、普通に行われたことだ。だが、その理想を、公にする形で、掲げることが、誰にも、可能となって、少し様子が、変わったのではないか。
 掲げるにしても、理想と目標を、世に示すことで、自らを鼓舞する、という意図なら、これもまた、何の問題も無かった。ところが、一部の人々の欲望は、掲げるだけでは、満足できず、世に問うだけでなく、他の人々にも、同じ目標を、強いることとする。昔なら、独裁者だけが、こんな理想を、描くことができたが、今では、何処の誰とも知れぬ、市井の人が、ある日突然、その立場に、なることさえできる、と言われる。現実には、依然として、そんな夢物語は、実現しそうにない。だが、世の中に、自らの意見を投げかけ、それに対して、多くの支持者を、得ることができると、軽率な人間の多くは、夢が実現した、と思い込むようだ。そんな人々の、満足を達成する、便利な道具が、手にした端末にある。そんなことに、一切、興味を抱かず、昔通りに、自分なりの生活を、続けている人には、思いも寄らぬことだが、せっせと、発信し続ける人の一部には、自己満足に浸り、支持者の数や、同意する意見に、意を強くする人が、増えている。確かに、多くの同意を得られれば、そこに、確固たる論理や、常識的な考えが、あると考えるのが、普通なのだろうが、何しろ、支持者も同意も、何ともあやふやな心の持ち主から、発せられるものであり、社会的な認知を、得たと思うのは、早計だろう。これが、子供の遊びの範疇なら、たわいもない話、と片付けれるが、この手の多くは、大の大人が、大見得を切って、行うものばかりで、その一方で、社会媒体の匿名性が、自らの権利を、保護してくれる、と信じている。大真面目な遊びに、付き合っても、仕方ないが、間違いは、正す必要があると思う。

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7月16日(土)−狭い了見

 事故の直後から、人類の危機を、招くものとして、様々な分野の人々から、徹底糾弾され、国内では、残される見込みさえ、見えなくなっていた。一方で、同様の将来への負債で、温暖化の元凶として、燃料問題にも、批判の矢が、飛ばされていた。そこに、軍事侵攻が起きた。
 この批判や糾弾では、その主達は、まるで、自分達が、被害者かの如く、振舞っているが、実態は、正反対だと思う。軍事侵攻は、関係する民族を、救う為との、お題目が、掲げられたが、多くの国々から、徹底批判され、それに与しない国でも、賛同する訳でもない。単に、自国への利害を、優先させただけのことだ。ただ、この対立が招いた、燃料問題は、先進国に、暗い影を落とした。近代化した社会では、電力供給をはじめとして、燃料の問題が、大きな役割を果たす。その上、原子力との決別という、ある意味、馬鹿げた決断を、下した国々は、二重三重の難問を、抱えることとなった。一方、何を燃やすにしても、燃焼を主体とすれば、元凶と言われる、ガスの排出を、止めることはできない。現代は、こんな形で、様々な制限を、自分達に課せば、その結果として、自らの活動に、厳しい制約が、下される。どの立場でも、正義の名の下に、あるべき姿を、提示してくるが、その実、それによって、生じることとなる、問題を、取り上げようとせず、まるで、それこそが、唯一解の如く、扱われる。だが、何事も、長所があれば、短所があり、両立しないのが、自然の摂理だろう。それを、見ることなく、長所ばかりを、喧伝して、一方で、起きるだろう、問題の多くを、覆い隠してきたことが、今になって、大きな課題となって、目の前に、立ちはだかっている。元々、均衡を、崩すようなことが、人類の繁栄には、不可欠であるなら、その中で、如何に、大崩れせず、ある程度の範囲内で、保ち続けられるかを、考えるべきなのだが、最近の考え方は、全く違っている。馬鹿げた論理を、押し通そうとして、極端な方に向かうのが、正しいと思い込むのは、愚の骨頂でしかない。全体を見ない、典型なのだ。

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7月15日(金)−明らか

 何度も、書いてきたことだから、当然と思うが、やっと重い腰を、上げたらしい。暫く前から、再稼働を、行うとのお触れが、出されていたが、多分、強硬な反対派からは、厳しい意見が、飛んでいただろう。選挙に向け、反対を標榜する勢力が、どんな成果を、上げるかが肝心だった。
 しかし、有権者にとって、そんな問題は、瑣末だったのだろう。つい先日も、企業の経営者の、責任を問う判決が、出されたばかりだが、それとこれとは、全く別の問題、との受け止めなのだ。危機管理が、企業にとって、重大な責務であることは、周知の事実だろう。しかし、政府が、こういう政策を、どう扱うかについては、全く別の問題、とされることが多い。あの事故でさえ、企業の責任を、問う声が高まるだけでなく、監督する立場の、政府の責任を問う声も、高まったのだが、そちらに関しては、厳しい意見が、出されることは、殆ど無い。一つには、事故が起きた当時、今とは、別の勢力が、政府を率いており、彼らなりの、対応が行われたものの、不十分な対策と、認識の欠如などが、直後から、厳しく糾弾されていた。でも、今の政権が、同じことを、経験したとして、果たして、どれ程のことが、できただろう。最終決定は、確かに、宰相が下すべきだし、今も、あの時も、そのように、行われている。しかし、その判断基準を、示すのは、官僚であり、専門家と呼ばれる人々だ。そこには、今も、嘗ても、何の違いも無い。だとして、何故、今、重い腰を上げたのか。安全確保が、保証された訳でも、新たな対策が、講じられた訳でも無い。それより、様々な事情から、発電量が、不十分となり、それを補う為に、必要なものとして、原子力が、再稼働されるというだけだ。これでは、また、状況が変化すれば、悪者扱いをされ、舞台から、降ろされることになる。でも、本当なら、様々な影響を、考慮すれば、それぞれに、一長一短があり、それを鑑みれば、結論は、明らかなのだ。

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7月14日(木)−社会規範

 皆が、臆することなく、自分の意見を、堂々と、発表できる場ができた。その意味で、この仕組みの登場は、多くの人々に、朗報となっただろう。しかし、その一方で、意見の食い違いから、論争が高まり、誹謗中傷や、毀誉褒貶、果ては、罵詈雑言を、浴びせられた。
 人々が、それぞれに、異なる考えを、持つことは当然と見做される。多様性の尊重、という括りで、様々に取り上げられ、自分の意見だけでなく、他人の意見をも、重視する必要がある、と言われるのだ。だが、現実は、そうなっていない。多くの人々は、自分の意見に、反対する人に対して、拒否反応を示し、時には、人格否定にまで、盛り上がることさえある。多様性の基本は、自分の意見を、掲げることではなく、他人の意見を、尊重することの筈だが、分断の時代には、そんな余裕さえ無く、ただ、全面的に否定をし、自らの立場を、護ろうとする。それも、権利主張の一つであり、人権という括りに、入れられるもの、との解釈さえある。だが、自分のことは、そうだとしても、他人の権利を、侵害するのは、明らかな過ちだ。特に、高い地位にある人が、既に、手にした権利を、更に拡大しようと、躍起になる態度には、怒りさえ覚える。ここまで、書いてきたように、意見の尊重という観点からは、互いを、尊重する姿勢が、最優先となる必要があり、それができなければ、社会体制は、崩壊することとなる。もっと、冷静になって、自分の行状を、振り返れば、この類の欠陥は、すぐに、明らかとなるのだが、こういう人間にとって、そんなことは、自らの誇りを傷つけ、自分の権利を、放棄するものと映るらしい。困った世の中だが、そういう場が、作られてしまい、それを使う側に、十分な能力が、備わっていないのだから、致し方がない。特に、そんな道具の無い時代に、育った人に、そんな傾向が強く現れる。成長期で、社会性を学ぶ時以外、この感覚は、養えないのだろうか。情けない。

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7月13日(水)−何方も何方

 分断を招いた元凶が、何処にあるのか、意見は様々だろうが、一つ、注目され続けているのは、海の向こうの前大統領の動向だ。対抗馬を、犯罪者呼ばわりしたり、落選を、陰謀と断言したり、その言動は、過激であり、そこが魅力と言われる。だが、その言動の根拠は、薄弱だ。
 その点を、彼を批判する人々は、論理的に、糾弾している。ところが、それに対する反論は、根拠の無い、偽情報や恣意的操作を、主体とするもので、常に、論破され続ける。しかし、彼自身も、その支持者達も、自らの信じる所に、固執して、主張を、曲げたり、引っ込めたりすることが無い。結果、分断は、深まるばかりで、解消の兆候は、全く見えていない。この情勢に関しては、論争の余地は無く、決着済みとの判断を、下すべきだろう。だが、こういう論争に、加わってきた人々は、その多くが、他の話題に関しても、同様の態度を、示しており、全体の混乱は、沈静化する気配が無い。その原因の一つが、誰もが、発言する権利を持つ、新たな社会媒体の存在だが、極論を発し、論理的な思考を、強く批判する人々が、同じ思想を持つ人同士、集まることで、意を強くしたことが、悪影響を及ぼしている。だが、一方で、論理で、多くの問題を、解決に導こうとする人々も、この混乱の中、危ういことを、繰り返し始めた。本来、論理には、根拠となるものが、不可欠であり、その為に、科学論文や、専門家の意見が、引き合いに出される。科学への信頼が、揺らぐ前には、この状況は、堅固なものだったが、感染症騒動が、始まった頃から、大きく揺らぎ始め、不信に近い感覚を、大衆が抱くようになることで、論理自体が、脆弱なものとなり始めた。例えば、免疫獲得に、不可欠と言われる、ワクチン接種も、当初の目論見と、大きく異なる結果が、出続けているにも関わらず、次を求める意見に、固執し続ける。元来、科学は、絶対ではなく、間違っても、修正することで、成立するのに、だ。

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7月12日(火)−褒め合う

 大衆文化の世界では、これまでも、人気を博すことが、第一と考えられてきた。好調な売れ行きを、誇ることが、その指標とされ、売り上げの数が、記録となって行った。本なら冊数、レコードなら枚数、それぞれに、百万の桁が、目標の一つ、となっており、勲章などとされてきた。
 商取引である限り、経済効果が、そのまま現れる。ところが、今、世の中に溢れる、社会媒体と呼ばれる、ものの中では、どうだろうか。大衆は、手にした端末に、表示されたものを、楽しむだけでなく、自らも、独自の内容を、発信し続ける。それぞれに、支援者なる存在があり、その数が、人気の指標とされる。また、支援者でなくとも、「いいね」という態度を、表明することで、その記事に対する、人気の程度も、表示される。これら全てが、数の論理で、成り立つものとされるが、はじめに取り上げた、話とは異なり、経済効果には、結びつかない。それでも、広告が関連すれば、という意見もあり、供給する企業は、それを糧に、利益を上げるとも言われる。だが、実態は、ほんの一部に、限られたものだ。映像を提供する、仕組みの多くは、そこからの広告収入で、提供者も、供給企業も、利益を、上げていると言われる。しかし、社会媒体の多くには、そんな仕組みは無く、単純に、支援者の数や、「いいね」の数を、楽しみとして、使っているだけだ。経済効果と、無縁だからこそ、広告収入に、依存する媒体とは異なり、独自の路線を、築けるとされるが、実態は、我田引水の典型で、自画自賛の意見と、それに加わる支援者が、自己満足の場を、手に入れたに過ぎない。それを、正当化する為に、従来の報道は、偏ったもので、中立でないと決めつけ、自らの、意見の妥当性を、主張しているが、所詮、一部の切り取りで、局所的な見地であり、中立には程遠い。ここでも、分断の悪影響が、色濃く出ており、仲間内の賛美しか、通用しない。客観とは何か、考えたことも無い人間の集まりだ。

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7月11日(月)−明々白々

 この独り言を、読んできた人にとって、歴然としているが、その他の多くの人々には、全く見えていないのが、この騒動の実態だろう。科学的な見方の、大切さを説いてきたが、その一方で、それが、通じない人が、余りにも多いことも、指摘してきた。今回も、懲りずに、示してみる。
 毎年、監督官庁は、統計調査の発表を、行っている。騒動を、激化させる一方で、こちらには、恣意的操作が、加わっていないから、真の実態が、示されているのだ。半年程前だったか、一昨年の結果を引用して、この騒動が、如何に馬鹿げたもので、科学的根拠に、欠けているかを、明言した。その後も、騒動を、牽引する人々は、あれこれと、新たな要素を、打ち出すことで、大衆を、縛り付けたままに、しようとしている。だが、統計からは、明らかな実態が、露となり、空騒ぎに過ぎないことが、明白となる。今回は、最新の資料として、昨年の統計を、引用してみたい。資料の11ページでは、新型コロナウイルスが、引き起こす病状と、同様の症状で、死亡した人の数が、明記されている。数年前から、突然、「誤嚥性」のものが、別分類とされたが、それらを足し合わせると、それぞれ増減があるが、大体12万人強が、肺炎を死因として、亡くなっている。では、騒動の対象は、どうだろうか。実は、別の形で発表された、今回の分類表には、その括りは無く、35ページに「その他の特殊目的用コード」なる分類が、見つかるだけだ。数字は一致しないものの、かなり近い値なので、おそらく、これが、騒動で亡くなった人の数、を含むものと、推測される。一昨年は、3千人余り、に対して、昨年は、1万6千人余りとなっている。報道資料からは、昨年で、15人少ない数値が、「新型コロナウイルス感染症」と明記されているので、何か別の要素が、加わっているが、詳細は見つからない。何れにしても、この違いは、今後も、保たれそうで、騒動は、空騒動でしかない。これだけで、十分と思うが、如何か。

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