パンチの独り言

(2022年7月25日〜7月31日)
(取るに足らぬ、自分から、厳罰を下す、恥を知れ、双方向、笑えぬ、もう無い)



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7月31日(日)−もう無い

 意図的に、作られた偽情報が、社会に蔓延している、と警告を出した、海の向こうの前大統領は、自らに、不都合な話に、偽物の札を付け、社会から、抹殺しようと、躍起になった。だが、彼の言葉そのものが、都合の良し悪しで、変化する嘘に溢れ、自分で、自分の首を、締めた。
 それでも、根本が、都合の良し悪しだから、味方と信じる、支持者達は、依然として、盲信し続け、まるで、宗教と化している。だが、そんな状況だからこそ、気を鎮めることで、別の判断を、下すことが、できるようになり、離れる人は、日々増え続け、一時の狂信的な盛り上がりは、過ぎ去っていった。ただ、情報操作は、個人だろうが、団体だろうが、果ては、それを生業とする人々さえ、懲りもせず、繰り返し続ける。科学とは、全く異なる世界の、出来事と見る向きもあるが、現実には、科学を、便利な道具として、活用することで、嘘を、実しやかに飾ることさえ、いとも容易く、行う連中が居る。感染騒動は、当初から、科学の装飾で、鏤められた、偽情報でしか、無かったものだが、大衆の恐怖を、煽ることで、その妥当性さえ、作れることを、社会に明示してきた。単なる風邪を、拗らせた結果が、死という恐怖に、縁取られれば、誰もが、戦くことを、余儀なくされる。実態は、何度も指摘したように、当初から、明白なものだが、それさえ、隠し通そうと、世界機関を始め、あらゆる国の政府も、専門家も、挙って嘘に嘘を、塗り重ねている。ただ、世界的には、既に、多くの国々が、無駄遣いを、辞め始め、流行性のものと、見做している。その結果、前にも指摘したが、日々の感染状況を、伝え続けたサイトも、その役を、終えたようで、様相が一変していた。だが、この国の報道は、未だ騒ぎを、止めようともせず、批判の対象さえ、見失う始末だ。世界での、最流行地域などと、嬉々として伝えるが、その根拠は、皆無となる。何しろ、世界の動向は、既に、更新終了したのだ。

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7月30日(土)−笑えぬ

 互いの意見を、理解することなく、意思の疎通が、行われたと信じる。そんな状況が、実しやかに、作られることで、現代社会の意見交換は、行われたとされる。これ程、馬鹿げた状態も、ふざけた話も、無いと思うが、皆、大真面目で、満足を得て、事が、進められていく。
 当然、何の理解も無いままに、事が、進む筈もなく、その殆どは、中途で頓挫し、原因や理由が、検討もされず、明らかにならぬまま、忘れ去られる。成長期には、こんなことが、起きたとしても、結果が良好と判断され、無理解さえも、問題無しとして、片付けられてきた。しかし、一旦、停滞期に入ると、未解決の問題が、次々に山積みとなり、その解決策が、講じられるどころか、ただ、放置され、整理も整頓も、なされぬままとなってきた。そんな中で、意思の疎通の問題が、課題として、若い世代に突きつけられ、その能力の獲得が、最重要として、掲げられた訳だ。だが、何の解決も図らず、問題を放置した社会が、解決法を、編み出せるはずもなく、単純に、やった振りを繰り返し、儀式としての、一区切りさせて、能力獲得を、保証してきた。当然ながら、身に付けていない人間が、次代を担っても、何の変化も、起きない。となれば、お茶濁しが、繰り返され、相互理解どころか、お互いに、意味不明な用語を、濫用することで、知ったかぶりを、繰り返して、誤魔化し続ける。その典型が、カタカナ言葉と、イニシャル語の、羅列となって、飛び交ってきた。最近も、巷では、SDGsやAIなる言葉が、乱発されるが、無理解のまま、使うことは、相互理解どころか、戯言の連鎖しか、招いていない。国際機関が、定めた基準とされる、循環社会の確立も、各国の置かれた環境の違いを、完全に無視した、妄論でしかなく、目標さえ、定められぬ劣悪の権化、でしかない。AIも、魔法の杖の如く、不可能を、可能とする道具として、紹介されるが、実体も無い、夢幻に過ぎない。言葉遊びが、意思の疎通とは、笑うに笑えぬ話だ。

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7月29日(金)−双方向

 情報社会において、情報を、正確に伝えることが、最も大切とされる。だが、長年、指摘され続けているように、その道具として、使われるものを、正しく使えず、互いに、意思の疎通が、思い通りにならないことが、多いのは、何故だろうか。この疑問に、答えられぬ人が多い。
 彼らの多くは、コミュニケーション能力を、身に付けたい、と願っているが、実は、その能力自体、どんなものか、知らずに願っている。こんな大矛盾は、他には無い、のではないか。何を、身に付けるべきか、知らぬままに、念仏のように、唱え続ける。一方で、教える側も、何を、どうすべきか、知る由も無いのだから、始末に負えない。それでも、教わる側、教える側、双方に対して、同じ質問を、投げかけてみると、ほぼ同じ答えが、戻ってくる。つまり、コミュニケーション能力とは、自分の考えを、伝える能力だ、というのだ。おそらく、世の中の大部分の人が、そう思い込んでいる、あるいは、そう信じ込まされている、のではないか。自分の考えを、相手に伝えられれば、それで、意思の疎通が、できるというのだ。だが、もう一つ、肝心なことが、この考えには、抜け落ちている。疎通では、相手の考えが、理解できなければ、何も成立しない。だが、自分が、相手の考えを、理解できるか、そんなことは、疑問にさえ、思ったことがない、のが大多数の人々だろう。何しろ、自分が、理解できないのは、相手の説明が悪い、からだというのだ。こんな、一方的な考えで、能力を、鍛えることなど、出来はしない。何故、互いの考えを、理解し合えないのか、その原因を、突き詰めることなく、何を、どう鍛えようというのか、不思議でしかない。コミュニケーション能力を、とやかく言う人々に、是非、尋ねてみて欲しい。何を、問われているかさえ、分からぬ人ばかりだろう。こんな状況で、能力云々とは、何とも馬鹿げたことでしかない。表裏一体を、表か裏しか無いとする。愚かなことだ。

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7月28日(木)−恥を知れ

 罪と罰を扱う時、人間は、十分な理解を示し、許すことの大切さを、説くことが多い。だが、その大部分は、的外れとなり、悔い改めることの、無い人間には、都合良く利用され、大きな汚点を、残すこととなる。宗教では、そういう考えでも、より大きな心で、赦すとあるが。
 そんなことを、宗教史の中で、紹介された時、納得した人は、どれ位居たのだろう。厳しい罰を、与える一方で、赦しの心を、保つことの大切さを、強調し続ける。今、世界で、多くの信者を抱える、宗教の多くは、様々な暗い歴史を、辿った後に、そういう答えに、行き着いた、と言われている。仏の心は、何処か遠くの存在が、常に、見守ってくれる、という教えに思えるが、神の心は、かなり違ったものに、思える。西と東の考え方の、違いによるものなのか、それとも、宗教の成り立ちそのものの、違いによるものなのか、さっぱりわからないが、色々と説明を施して、神の御心に従うことの、大切さを伝える、と言われる。だが、彼らの暗い歴史は、ごく最近にも、その暗部を、曝け出すこととなった。文明の発達の違いを、前面に押し出し、自らの信教を、新たに開発した土地に、土着の人々に、押し付けてきた歴史は、大量虐殺を含め、多くの恥ずべき行為を、歴史上に、刻んできた。どの土地でも、人々は、独自の文化を、築き上げ、その中で、信心も発達してきた。そこに、略奪者が訪れ、信ずべき神を、変えさせ、全てを破壊した。大人への、強制的な行為は、残虐なものへと、繋がったが、その一方で、子供達へのものは、精神的優位を利用した、最も恥ずべき行為を、断行したとある。虐殺の極端は、別の見方をすれば、一時的なものだが、虐待は、その人間の人生全てに、悪影響を、及ぼすこととなる。実は、布教活動で、最も重要なのが、心への影響であり、それが、善悪、どちらに働きかけるかが、問題の筈だが、一部の宗教家は、恐怖を、その道具として、使ってきた。恥を知れ。

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7月27日(水)−厳罰を下す

 人が、人の罪を、罰するのは、傲慢さの表れ、と説く人々が居る。この一面だけを、捉えて論じると、そんな受け取り方も、できるのだろうが、法秩序を考え、法治国家として、成立する為に、その仕組みが必要となれば、随分、状況が違って、見えてくるのでは、ないだろうか。
 人を裁く時、罰を与えて、そこから、反省の後に、人間としての生活を、取り戻す、という考えがある。そこでは、厳罰は、無意味なものであり、人間を、取り戻す機会を奪う、非情なものと見る向きもある。それが、死刑廃止を、主張する主な理由の一つ、となる訳だが、これもまた、偏った考えに、過ぎないと思う。人の罪を、裁く時に、そこにある理由の、妥当性を検討して、罪の重さを、考えようとするようだが、果たして、全てが、そんな考え方で、裁けるものだろうか。今回、執行されたことで、再び、昔の罪状が、取り上げられ、そこにある理不尽を、盛んに強調する人が、登場していた。また、死刑廃止の原則から、罰を下すより、その背景を、徹底的に分析することで、別の道を、選ぶ必要を説く人も居る。だが、単なる残酷性を、正面から取り上げず、その背景のみに、目を向ける姿勢には、理解不能としか、思えない部分がある。彼らの主張の多くは、人間には、生まれながらの悪人はおらず、その大部分が、環境の悪化によって、理不尽な状況に、陥ることで、罪を犯したと考えるべき、とあるのだが、その一方で、今回のような、理不尽さには、理解不能という、感想のみが、施されている。元々、論理を重視する人の中には、それにより、全てのことが、可能となる、と信じる向きが強く、全てに適用しよう、と躍起になる。だが、それは、単なる傲慢さでしかなく、自らの不明を、反省することなく、同じ過ちさえ、繰り返し続ける。人間の本質を、見極めることは、確かに重要だが、誰にもわかる、と信じるのは、余りに軽率で、浅はかでしかない。あんな選択肢も、必要なのだ。

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7月26日(火)−自分から

 神話を持ち出す輩は、手を替え品を替え、脅し文句を、連ねてくる。だが、所詮、実体の無いものを、大袈裟に、取り上げるだけで、何の役にも立たず、すぐに、忘れ去られる。だからこそ、次々と、思いつく限りの、嘘を並べる訳だ。その度に、嘘を暴き、糾弾するのは、面倒なだけだ。
 にも拘らず、何度も、同じことを、繰り返す。何故なら、社会的な責任を、伴う人間が、その一方で、何の根拠も無く、嘘を撒き散らすだけで、その悪影響は、計り知れないからだ。だが、安全とか安心を、与えてやるなどという、馬鹿げた考えに、縛られた人間に、冷静な判断が、できる筈も無い。更に、安全や安心が、与えられるものと、鵜呑みにする、愚かな人々には、判断も何も、一切合切、責任が伴うことは、する気も無いのだ。そんな蛮行が、罷り通る時代に、人々は、私利私欲に走り、少しでも、利欲が満たされるものに、飛び付こうとする。だからこそ、群衆を、煽り立て、人々の心に、波風を立てようとする人間にとって、今の時代は、全くの好都合と言える。自らの安全を、確保した上で、他人を貶めるような、そんな話を、作り上げさえすれば、全てが成り立つ訳だ。その典型が、今回の感染症騒動であり、以前にも、原発事故に伴う、放射性物質の汚染に関する、様々な出鱈目記事が、飛び交ってきた。これらの話題の中で、人々が、追い求めるのが、絶対の安全であり、安心できる世界となる。だが、どう考えても、そんなものが、存在する筈も無く、どんなに追い求めても、そんな時代が、来る筈も無い。身の回りの出来事を、少し、見回すだけで、それくらいのことは、子供でさえ、気付く筈が、大の大人が、大仰に、その実現を、高らかに謳っている。笑止千万とは、このことだが、心が乱れた時代には、そんなことにさえ、気付くことができない、愚か者が、大きな顔をして、自らの権利を、守ろうと躍起になる。自分を守るだけなら、何もせずとも、簡単にできるのに、だ。

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7月25日(月)−取るに足らぬ

 神話などという話は、所詮、信用ならぬものだ。にも拘らず、何の根拠も無く、ただ、闇雲に信じ込む、そんなものが、神話と呼ばれる。元々は、神々の存在を、信じる為のもので、信じたい者が、そうすればいいだけのことだが、いつの間にか、真実のように扱われ、信じ込まされる。
 正体が、知れてしまえば、これほど、たわいのないものもないが、それを、信じ込ませる人間には、思惑があり、時に、悪意に満ちたものとなる。絶対確実なもの、という存在が、ある筈も無いことは、誰の目にも、明らかなことだが、藁にもすがる人々や、兎に角、他力本願となる人々には、垂涎の存在、となる。安全の確保を、様々な面で、図ることの重要性は、今更、言うまでも無いことだが、どんなに努力しても、その限界はあるもので、ある程度、確保できれば、それでよしとする、というのが、昔からの習慣となっていた。ところが、いつ頃からか、その空気が、変わり始め、まるで、絶対確実なものがあり、安全や安心にも、それがある、とする考え方が、広がった。その主共は、総じて無責任の塊で、他人の責任を、問うことに、躍起となる一方で、自らの責任からは、徹底的に、逃れようとする。これでは、何も成立しないから、この時点で、単なる無駄にしか、ならない話だが、大真面目に、安全や安心を、論じ続けている。危険を、避ける為の備えが、必要なことは、言うまでも無いが、一方で、どんなに備えても、避けきれぬ危険が、あることは、誰もが、十分に承知していなければならない。それを、無視した挙句に、他人の責任を、問い質すばかりで、どこまでの、安全が図られるかや、どこまで、備えればいいのかを、論じようともしない。危機管理の基本が、理解できない人に、こんな傾向が強く現れ、社会での問題を、拡大する方に、動き続ける。ある意味、塵でしかない人間に、何かの役を、負わせるのは、こんな点からも、やめておいた方がいい。

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