パンチの独り言

(2022年8月1日〜8月7日)
(末路、無駄口、恥知らず、自滅への道、やーめた、違いはある、駄々っ子)



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8月7日(日)−駄々っ子

 人間は、成長過程において、徐々に、考え方を変える、と言われる。子供の、未熟な考え方から、大人の、成熟した考え方へと、変化させるのだ。その過程で、狭い世界しか見ない、狭量な考え方から、様々な要素や、多様な見方を、採り入れた、視野の広い考え方へと。
 その一方で、三つ子の魂百まで、とも言われる。人格や性格は、三歳の頃までに、形成されて、それが終生保たれる、という意味だろう。何方が、正しいのか、を論じても、詮無いことだろう。時と場合により、人それぞれに、違った様相を呈し、その一方で、他人の行状に、あれこれと、文句を言う。ただ、他人への注文は、厳しくなり、自分のことは、棚に上げることとなる。最近も、国の間の戦いが、一方的な形で、始められたことで、攻め入った国に対し、多くの国が、制裁を提案し、実行した。当事国は、それぞれに、主張があるのだろうが、誰が、どう見ても、他国に攻め入ることは、正当化できる筈も無い。ただ、それに対して、更に別の国が、何らかの罰を、与えることについても、正当化は、できないとある。この点に関して、国際政治の世界では、様々な考えがあり、互いに、独立した国家は、互いの権利を、尊重する必要から、一方的な、力の行使は、罷りならぬ、とする見方もある。だが、この過程で、国により、対応が異なったことは、そこに、根本的な考え方の違い、があるとも言える。ただ、その中で、制裁に反対した国の一つは、常に、内政干渉を、忌み嫌っており、自分も含め、他国に対しても、それを、律する必要を説く。そこで、大人の態度の必要性を、強調する訳だ。ところが、敵対する国の、指導者が、一国二制度の地域に、訪問したことで、彼らの、ご都合主義が、露呈した。火の粉さえ、かからねば、大人でいられただろうが、土足で、踏み込まれたとの思いは、過剰反応を示し、餓鬼の喧嘩の様相を、呈している。それも、一方的となれば、ごねるだけの。

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8月6日(土)−違いはある

 今の時代、男と女の間には、歴然とした違いがある、などと書いたら、途端に、強い反対の声が上がる。だが、生物学的には、この考えには、何の間違いも無い。にも拘らず、社会的には、違いは無いものとして、扱わねばならぬ、と言われるし、違いを、排除せよとも。
 そんな風潮が、始まってから、既に、半世紀以上、経過している。落選した時、「ガラスの天井」と評して、目に見えぬ障壁の存在を、強調したのは、海の向こうの、前の女性大統領候補だったが、あの選挙では、対立候補の人気上昇に、今となっては、疑いの目が、向けられている。偽のニュースとして、既存の報道機関を、盛んに攻撃し、自らの主張を、恰も、正しいものかのように、振舞っていたが、その実、相手を、犯罪者の如く扱い、不確かな情報を、流し続けたのは、当の本人だったのだ。女性差別を、原因とする意見も、あっただろうが、単に、対立候補を侮蔑し、貶めようと、情報操作を、行った結果とも見える。一方、彼女が、解放運動に、参加した時代と違い、今は、更なる多様性が、求められる。少数派を保護し、権利を保障することが、社会の責務のように、言われる時代には、あらゆる違いを、理由として挙げ、差別解消に、運動が起きる。その結果、様々な手立てが、講じられているが、その一方で、基本となる男女差別は、依然として、残ったまま、と言われる。その上、多様性の問題は、根本だった筈の問題を、暈す作用を発揮し、多くの活動に、水を差している。確かに、少数派を、保護する考えは、人道的にも、重要に思えるのだが、その一方で、次々に登場する、新たな勢力に、強い違和感を、覚える人も多い。気になるのは、違いが、差別を産むという考えで、これに基づけば、相手が変われば、手も変わることとなる。男女と同じで、違いは、何処にでも、誰にでも、あるのだとすることで、差別を見直せば、別の解決法が、見つかる筈ではないか。

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8月5日(金)−やーめた

 死への恐怖以外に、使える道具は無く、その為に、意味不明な数字を、連日発表して、皆を不安に陥れる。市民の権利を、守る筈の役所や機関が、挙って起こした、この暴挙は、誰も予想しない、長い期間に渡り、世界を、暗闇へと追いやった。で、何が起きたのか。
 実は、何も、起きていないのだ。人間も、生き物である以上、日々、命を失うものだし、その一方で、生まれる命もある。この摂理には、何の変化もなく、誰が、どんなに、危険を訴え、どんなに、死への恐怖を、突き付けようとも、誰もが、日々の生活を、送るだけで、その流れには、騒動の前も後も、何の違いも無い。ただ単に、騒ぐ連中が、それを種に、金を動かしたに、過ぎないのだろう。論理の基本となる、摂理には、こんな瑣末な出来事は、何の影響も、与えられず、結果として、数字に表れる、犠牲者の数は、日々増え続けたが、全体として、何の違いも生じていない。一方、人の営みである、金の流れは、明らかな違いを、現し始め、莫大な利益を、上げた人々と、その一方で、巨額の損失を、被った人々が居る。経済活動では、これもまた、摂理同様に、決まり切った流れだが、そこには、一部の人々の思惑が、強く影を落とし、彼らの資産を、膨らませただけ、となっている。そんな中、徐々に疲弊する社会は、その歪みに耐え切れず、崩壊の勢いが、増すばかりとなる。でも、その原因は、感染症という、外的な要因ではなく、それへの対応という、ほぼ全てが、人為的な要因だった。当初から、指摘し続けたように、人が作り出した恐怖と、それへの緊急対応という、馬鹿げた措置が、積み重ねられた結果、誰が見ても、異常な事態に、陥っただけのことだ。そこからの脱却には、単に、暴挙でしかない措置を、止めればいいだけで、容易いことだろう。ただ、権益に、しがみつく人々は、飽く迄も、自らの正当性を、主張するだけだ。彼らを排除し、措置を止めれば、全てが解決する。

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8月4日(木)−自滅への道

 穿った見方、に過ぎないかも知れないし、杞憂に過ぎない、かも知れない。だが、軍事侵攻を決め、隣国に攻め込んだ、指導者は、元々、諜報活動を、行うことで、今の地位に上り詰め、同様に、外相も、同じ路線を、歩んできた。彼らの戦略は、情報操作と、人心の誘導だ。
 大義名分は、彼らの思惑を、覆い隠す為のもので、どんなに、言葉を尽くしても、真意は、全く別の所にあり、その達成の為に、あらゆる手段を、講じるのが、彼らのやり方だ。それに対して、政治家でしかない、他の国の首脳達は、様々な形での牽制により、窮地に陥っている。だが、所詮、見せかけの嘘は、何の意味も成さず、情報社会では、すぐに、嘘でしかない話は、否定されてしまう。それでも、他国への侵攻を、常道としてきた国も、遠い国へのものと、全く違う形で、隣国に攻め入った。その理由の第一は、同じ民族を、救い出すという、人道に関わるもの、と主張しているが、所詮、他人の庭に、どかどかと、踏み込んだだけだ。そこに、正当な理由は、全く無く、無関係な国へのものと比べ、余りに多い目論見が、見え隠れするだけに、彼ら指導者達の、欲の表れでしかない。それを、満たす為に、言葉を弄して、自国の大衆だけで無く、敵対する国の人々にまで、悪影響を、及ぼしている状況は、明らかに、異常なものでしかない。今後、どんな形で、解決の糸口が、見出せるのか、誰にも、見えていないが、何れにしても、このような緊張状態と、それに伴う、国家間の綱引きは、どちらにとっても、利益にならず、単に、無駄な、経済的な損失と、精神的な不安を、産み出すだけとなる。では、どうすれば、良い方に向かえるのか。情報操作に、取り合わず、過剰な推測を、行うことは、やめておくべきだ。所詮、あの国とて、いつまでも、好き勝手に、振る舞える訳でも無い。既に、息切れが、始まっているが、それ以上に、国情の悪化が、露呈すれば、流れは、一気に変わってしまうものだ。結局、怪物は、自滅するしかない。どうだろうか。

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8月3日(水)−恥知らず

 流行り言葉だから、何の抵抗も無く、使うという風潮は、やはり、地位ある人々の、非常識が、発端となっている。まるで、その言葉の意味を、熟知しているかの如くの、言動には、虚栄心が、はっきりと現れ、見せかけの態度は、中身の無さを、表すだけとなる。情けない。
 だが、そんなことは、この手の人々には、どうでもいい。人気商売では、見た目が重要であり、それが、輝いて見えれば、十分とする考えがある。だが、そんな、大の大人の愚行が、自信の無い人々には、まるで、実力の高さを、見せつけるように、受け止められる。だからこそ、若者達は、愚かな大人同様に、知りもしない言葉を、連発することで、知識の高さを、誇ろうと躍起となる。そんな中、仲間達は、自分らの無知を、曝け出すことを恐れ、その言葉を、自分も知っており、十分に理解している、といった態度を示す。だから、意志の疎通は、全く起こらず、単に、言葉遊びに過ぎない、下らない遣り取りが、教育現場で、繰り返される。学ぶとは、真似をすることとは、よく言われるが、その模範として、馬鹿げた行為が、引き合いに出されては、無駄となるだけだ。では、そんな過ちを、犯さずに済ませるには、何が、肝要となるか。恥を恐れずに、相手の真意を、確かめることで、議論が進むとなれば、それが、最も適切な行為、となるだろう。使う時も、使われた時も、そんな確認を、怠らずに行い、相手の考えを、確認すると共に、自分の考えも、整理していく。単純なことだが、空気を読めと言われる社会では、忌み嫌われるものとなる。だが、自分を、高めようとするなら、一生の恥と、ならぬ行為を、優先させる必要が、あるのではないか。確かに、はじめのうちは、罵声を浴びせられるのでは、とか、馬鹿にされるのでは、とか、そんな懸念ばかりが、心を圧迫させるが、すぐに慣れるものだ。そんなことを、注意することで、周囲から、煙たがられたら、それこそ、適切な行為と言えそうだ。

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8月2日(火)−無駄口

 能力の有る無しも、確かに、大きな問題だが、それより、遥かに大きな、妨げとなっているものがある。表現は、様々だろうが、了解事項だったり、掴み言葉だったり、実は、内容の理解が、及んでいないのに、矢鱈と、その手の言葉を、乱発する人々が、居ることなのだ。
 意思の疎通で、最大の要因は、内容の共通理解が、行われるか、否かということだ。同じ言葉を、発するのであれば、お互いに、同じ意味で、使う必要があり、だからこそ、導かれた結論が、同じものである、という保証ができる。だが、どの国でも、政治家を代表として、その時の、流行り言葉を、発している時、如何にも、同じ理解に基づき、同じ意味で使っているように、見えたとしても、その実、それらの言葉には、流行以外には、何の要素も含まれず、当然、意味に関しては、何の要素も、含めていないこととなる。特に、先日取り上げたような、カタカナ言葉や、イニシャル言葉は、それ自体が、重要な意味を、含んでいるように見せて、その実、何の意味も成さず、時に、ただの掛け声としての、使い方に、終始する場合が、数多くある。こういう話し手の多くは、ちょっと聞いた時には、何か、非常に重要な内容を、発しているように、感じられるものの、議論を進めたり、話の展開を追ってみると、徐々に、馬脚を現し始め、遂には、何の意味も成さぬ、ただの戯言を、さも重要な如くに、発していただけ、となることが多い。世の中の、枢要な立場にある人々が、こんな無責任を、撒き散らすことから、大衆は、言葉の意味より、印象を重視し、それによって、耳目を集めることこそが、意思疎通において、重要となると考える。だが、実際には、こんなことでは、何も伝えられず、何も主張できないから、結局は、無駄口の連続としか、なっていないのだ。ただ、真似するだけの若者達は、ここでも、同じことを行い、自分も、それなりの能力を、身に付けたと、誤解する。無駄でしか、無い。

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8月1日(月)−末路

 世界機関の設立目的は、何だったのだろう。改めて、こんな愚問を、投げ掛けねば、ならない程、時代は、混迷を極め、人々は、振り回されている。最大の目的は、平和維持であり、また、先進国と、発展途上にある国とで、これ以上、格差を広げぬ為の、方策を講じるものだった。
 だが、先の大戦の際に、その役割を、果たせぬまま、世界を紛争の渦に、巻き込んだ反省は、全く活かされず、人間の欲望が、露わになるだけの、愚かな集まりに、成り果てている。欲望とは、所詮、その程度のものであり、私利私欲に走り、自己満足を、得るだけのものだが、その結果、多くの人々が、貧困に瀕するだけでなく、恐怖のどん底へと、突き落とされる。それも、他国による、軍事侵攻から、日々の現実的な恐怖に、晒されるだけでなく、一部の人々が、作り出した、偽の恐怖にさえ、晒されている。こんな矛盾に、満ち溢れた状況に、苦言を呈し、厳しい批判を、投げる人は、数多く居るが、彼らとて、その多くが、自らの利益を、最優先にして、他人への危害を、何とも思わぬ状況で、人間の卑しさを、突き付けられた気に、させられる。世界の人々が、健康に暮らせるように、との願いから、設立された機関は、今や、その為と称して、金を動かずだけの、営利機関に成り下がり、自らの利益を、最優先として、そのお零れに、様々な理由から、貧しさや危険に、晒された人々を、救う為との施しを、為している。だが、根本は、営利企業に、便益を図り、それによって、与えた富を、ほんの一握りだけ、分け与えさせるもので、人道も、へったくれも、あったものではない。その過程で、恐怖を産み出し、人々を、混乱の渦に巻き込めば、まるで、それが唯一の救いと、声高に訴えるのみで、根本の解決など、目指そうともしない。元々、ありもしない恐怖だから、解決は、必要も無いが、それにしても、次々と、作り出す姿には、反吐が出る。愚かで、卑しい人の、末路でしかない。

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