パンチの独り言

(2022年8月8日〜8月14日)
(遊び場、能無し、最大の過ち、冷害か、語り部、多様な情報、終わらせる)



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8月14日(日)−終わらせる

 今朝の日経に、田辺聖子の日記の話が、掲載されていた。戦争末期、数え18歳の彼女が、空襲で、実家の写真館を、失った話や、軍国少女の思いを、綴ったもので、死後、遺品の中から、発見されたという。書籍化されたので、内容は、そちらを見れば、分かることなのだが。
 空襲で、学校からの帰り道、不自由な足で、歩き続ける中、生まれ育った街が、どう変貌したかを、少女とは思えぬ筆致で、書き綴っていたのは、元々、書くことも読むことも、好きだった人間が、書くことを、職業とする為の才能を、悲惨な光景を、描くことによって、身に付けていったから、との解釈が、施されていた。一方、現物には、万年筆で綴られた、彼女自身の筆跡が、記されているが、これもまた、戦前の人らしく、達筆で、日々綴られたものとは、思えぬ程だ。大成後も、戦時中の話題を、取り上げる時には、あの時代の記述を、忠実に引用したとのことだが、それだけ、強い印象と、忘れ得ぬ思いが、あったからだろうか。取り上げられた話題の一つは、終戦時の、軍国少女の感想で、玉砕を免れた、喜びどころか、その情けなさに、檄を飛ばす姿の、晩年の風貌との、余りの違いに、驚かされる。あの戦争を、始めた理由などに、最近も、盛んに正当化の意見を、飛ばすと共に、今起きている侵攻をも、正当化する姿勢を、明らかにする人々に、こんな記録は、どう映るのか。また、始めたものを、辞める難しさが、少女の目に、どう映ったのかを、こういう人々は、どう受け止めるのか。などと、考えさせられた。今でも、敗戦を認めることへの、抵抗を引きずる人々が、居るようだが、何事も、終わらせることの難しさは、感染症騒動を、眺めていても、強く感じる。何でも、始めた人間が、終わらせなければ、どうにもならない。とすれば、騒動も侵攻も、そうなるのだ。誰が、決断すべきは、明白だろう。にも拘らず、正当化に、腐心するばかりでは、何ともならぬ話だ。

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8月13日(土)−多様な情報

 以前も、書いたことだが、ある催しに参加した時、講演者の一人が、新しい報道の仕方を、紹介していた。それまでの、報道の基本と言えば、現地に赴き、現場を確認すると共に、その空気を感じることこそが、重要と思われたが、それを、根本的に、見直そうというものだ。
 だからと言って、現場からの情報を、一切入れぬままに、何かを伝えることは、できる筈も無い。彼の手法は、現場から送られた、数多の情報を、眺めることで、見えてくるものを、総合的な見地から、伝えるべき、というものだった。映像が、仮令、レンズの前で、展開される事実を、伝えていたとしても、撮影者の後ろに、何が見えているかを、伝えるものではない。また、言葉として、伝えられるものは、殆どが、報道者の見解を、表したもので、飽くまでも、主観的なものに過ぎない。それから考えれば、多くの素材を、掻き集めて、それらを総合して、見えてくるものこそ、事実と言えるのではないか、という主張だった。今思うと、これは、まさに、SNSなどで展開される、論争の根本に見える。感染症騒動で、両極端の意見は、互いに、相容れないものだが、実際には、どちらも事実であり、騒動の主達は、重症化して、死に行く人々の、悲惨な姿を伝え、重大な病気との見解を、示しているが、批判者達は、実際には、検査陽性に過ぎない、感染者と呼ばれた人々の、大多数が、何の症状も示さず、発症さえしないことを、声高に訴える。嘘とか無理解とか、互いに、罵詈雑言を、浴びせているが、何方も事実なのだ。問題は、疫学者や公衆衛生学者が、浅薄な考えに基づき、出鱈目な解析と解釈を重ね、感染の全貌を、明らかにできないことと、免疫学者が、保身の為か、ワクチンの効果を、過大評価することで、ここでも、本質を見誤り、全体の理解を、妨げるだけでなく、詳細な解析さえ、投げ出していることだ。多種多様な見方を、寄せ集めて、理解を進めようにも、端緒さえ掴めない。

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8月12日(金)−語り部

 悲惨な出来事を、記憶に留めようと、活動を続ける人々が居る。確かに、その多くは、人間が引き起こしたもので、二度と起こしてはならぬと、働きかけるものだ。ただ、その方法については、様々なようで、これと言って、決まったものが、ある訳では無い。
 だが、一部の活動では、特に、語り部の存在が、不可欠とされる。経験者の言葉は、確かに、重いものであり、それを受け継ぐことが、必要とされる。しかし、一人の経験は、実体験とはいえ、ただ一つの見方に過ぎず、全体を見渡し、記憶に留める為に、重要と見ることに、異論もある。臨場感のある、話の内容に、惹きつけられ、自分も、未経験だが、語り部の一人として、活動に参加する、という話が、特に、戦後80年近くを経て、体験者が、鬼籍に入ると、盛んに、取り上げられている。確かに、体験者が残した内容を、臨場感を保ちつつ、伝えることに、意味があるのだが、ここまで来ると、如何なものか、という思いが、過ぎるようになる。記憶を伝えるために、語ることは、その一部に過ぎず、全てを、伝える為には、やはり、文字に起こして、伝えることの方が、遥かに、情報量が多くなる。確かに、文書では、臨場感が失われ、感情に、訴えるものは、減じられてしまう。だが、話では、その一端しか、伝えられず、更に、臨場感を優先させることで、正確さが、失われることは、記録にも、記憶にも、いい影響を、及ぼすとは考えにくい。流石に、多くの体験者が、登場できなくなると、語り部を、どう存続するかが、大問題となり、それぞれに、活動の伝承を、図っているようだが、そろそろ、記録を残すことを、本気で、考えるべきではないか。もし、人の声が、不可欠というなら、その文書を、誰かが朗読すれば、いいと思う。口伝でなければ、伝わらないものなら、それは、伝承者の感情に、左右される。一方で、無感情とは言えぬが、真実を、文字で伝えれば、間違いないのでは。

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8月11日(木)−冷害か

 あらゆる事柄に、変動が伴う。一見、不変に思えるものも、長期間に渡り、解析すると、その殆どが、何らかの変化を、伴っている。自然現象に、当てはまるものは、それ自体がもつ、性質によるものだし、人間が関わるものは、その多くが、心理的な変動から、生じている。
 変動がある、という点に関して、異論はないだろうが、その原因や推移に関しては、様々な意見があり、定まっていない。人間の知恵は、所詮、その程度のものであり、自分の理解の範囲で、思いつく限りのことを、さも真実の如く、論じているに過ぎない。些末なことであれば、そんな論争も、無視して、何の問題も生じない。しかし、地球規模の変化について、あれこれ、論じていることは、身近な変化に繋がるから、知らぬ顔もできない。その中の一つが、気象の変化だろう。当初、異常気象として、従来には無かった変化が、起き始めた時、その原因に、目を向ける人は、少なかった。そこに、地球規模の変化が、原因として、持ち込まれると、その元凶が、人間の活動にあるとされ、問題意識が、強調されていった。しかし、温暖化も、その元凶とされる、空気中の成分も、どちらの話も、実は、仮説に過ぎないものだ。それが、世界機関や一部の政府、更には、一部の報道機関が、挙って、取り上げた途端に、流れが、決まってしまった。依然として、不確定なものばかりが、関わることが、明確なのに、活動は、ある方向に邁進し、状況は、決め付けられる。多面的な見方は、ほぼ完全に失われ、恰も、真実の如く、論じられる話は、実際には、その大部分が、未確定のことで、怪しげな論理が、施される。最近も、国内では、局地的な豪雨が、頻繁に起こり、その被害が、伝えられるが、その範囲は、現実に起きたか、迫り来る危機に、留まっており、近視眼的な見解ばかりが、目立っている。農作物への被害は、洪水によるものだけでなく、日照不足も、大きい。特に、受粉期にある作物には。

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8月10日(水)−最大の過ち

 では、今回の騒動の、最大の過ちは何か。これ程、長期に渡り、世界中の人々が、巻き込まれた上、生活を、脅かされたり、生活の糧を、奪われたりして、散々な目に、遭わされたのだが、その最大の要因は、何と言っても、感染者を、特定する為の、検査を行ったことだ。
 それまで、流行性感冒などの、感染症については、来院した発症者について、病原体を特定する目的で、抗原検査が、行われてきたが、学界では、その方法では、感染の実態を、把握できないとの主張で、症状の有無に関わらず、検査を行うことで、病原体を、体内に保有する人々を、特定することこそ、感染予防に繋がる、と結論づけてきた。今回の騒動は、まさに、その主張の正しさを、証明する為のもの、との目論見もあり、膨大な数の検査が、行われたのだ。それも、精度を上げる為、という目的と、準備期間の短さから、核酸を増幅する手法が、選ばれたことが、更に、問題を拗らせる、原因となった。ここでの、最大の問題は、検査陽性が、検体の状態の、何を反映するのか、定められなかったことだ。陽性者でも、未発症の人は、無症状陽性者と呼ぶことで、陽性か否かが、重要な指標であり、病状とは無関係に、感染を拡大する要因、とされたのだが、あれから、随分の時間が、経過したにも拘らず、陽性という指標と、発症や伝播との相関は、殆ど明らかでなく、更に悪いことには、その中で、検討することなく、ただ漫然と、同じことを、繰り返すだけとなっている。感染経路を、明らかにできない、という現状に対して、濃厚接触者という言葉が、強い影響を及ぼし、多くの人々に、不自由を強いたのは、世界機関や政府の、重大な過ちだった。ワクチンによる免疫獲得も、目論見通りには、進まなかったから、過ちの一つに、数えられるだろうが、これは、当てはまらない。今回の騒動で、濡れ手に粟は、製薬業界だが、中でも、検査業界が、莫大な利益を得た。庶民には、損しか残らず。

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8月9日(火)−能無し

 今回の、世界規模の騒動が、如何に、常軌を逸していたかは、当初から、何度も、指摘してきた所だが、そろそろ、発信源も含め、騒動の主共が、知らぬ存ぜぬの末に、幕引きを、図るに至って、もう一度、並べ直して、指摘しておこう。如何に、馬鹿げたものか、確認の為に。
 発生直後、騒ぎを、最大限に拡大しようと、目論んだ世界機関は、その危険性を、過剰なまでに、膨らませた。その際に、頼りとしたのは、発生源の惨状であり、それを、他の地域に、拡大させない手立てとして、従来から、学界で定められた、新たな検査方法の導入が、決定された。国力を、誇りたいと願った、発生国は、当初の不手際を、隠蔽する為にも、撲滅を目指し、陽性者を、皆無にする為に、症状の有無に関わらず、全員検査を断行し、陽性者を、無くすことが、感染拡大を、防ぐ手立てと、定めていた。だが、既に、世界各地に、伝播した状況では、そんな方策が、功を奏する筈も無く、感染症への、本来の対策を、講じられぬまま、医療現場の窮状は、極まっていった。当時、急増する死者数に、目論見通りと、更なる対策の必要性を、強調した世界機関にとり、好都合な状況が、築かれていったが、この時点で、既に、検査方法の過ちが、露呈していた。封じ込めが、遂げられないばかりか、病原体保持のみを、見つけ出す方法では、発症の有無とは、無関係な図式が、描かれるばかりで、あるべき方針が、定められず、現場の混乱は、高まった。一方で、死を恐れる人々に、朗報とされた、ワクチンの登場も、その後の経過を辿れば、無意味に近いと、結論づけられそうだ。副反応をはじめとする、害の頻出に、躍起となる人々の主張も、その殆どが、的外れなのだが、一方で、依然として、効用を主張し続ける、業界と学界の論法も、破れ傘の如く、降り注ぐ災厄に、何の役にも立たない。結局の所、できることは、以前と変わらず、発症したら、対症療法を、講じるだけだ。風邪に効く薬は、無いと言われたように、症状を、軽減させるしか、手立ては無い。

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8月8日(月)−遊び場

 国の間でまで、餓鬼の喧嘩が、起きていることには、驚くばかりだが、周囲を、眺め回せば、同じような状況が、身近でも、起きていることに、気付かされる。特に、囀りをはじめとする、社会媒体、SNSと略されるものでは、その世界で、身勝手な言動が、撒き散らされている。
 このことを、強く感じるように、なったのは、やはり、海の向こうの前大統領が、盛んに、暴言を撒き散らし、敵対者を、排除する為に、都合のいい嘘や出鱈目を、多用するのが、報じられてからだ。彼自身と、その支持者達は、それらこそが、全て、真実であり、世間で通用するものは、作り出された嘘である、と信じて疑わないようだが、それこそが、餓鬼の典型であり、狭い視野と、理解力の低さが、如実に表れていた。しかし、狂信的な人々も含め、信じて疑わない人は、真偽の判断を、論理で行わず、単に、好き嫌いとか、都合のいい悪いで、行うことを、常としてきた。本来なら、論理破綻により、徹底的に糾弾される筈が、そんな指摘を、全て、嘘と片付け、断じることで、無敵を誇ることが、可能となれば、世界を相手に、意見を発する媒体も、狭い世界に、閉じ籠もるだけの、快適な空間と、変化してしまう。その上、同好の士が、集まるとなれば、子供の遊び場が、作り出され、そこで、互いを、認め合う行為が、行われる訳だ。一見、論理的な意見を、出すことで、議論を進めようと、しているように見えるが、その実、反対意見は、無視するか、完全否定するだけで、議論の機会を、奪おうとする。それでも、同好の士であれば、互いに認め合い、互いに褒め合えば、互いの満足が、得られる訳だ。自分で築いた、満足できる世界を、異論を排除し、同意見の者達だけで、満たせるのなら、これほど、確実なものは無い。大の大人が集まって、そんな下らない世界を、築く為に、これらの道具が、編み出されたとしたら、そんな無駄は、他には無い。大人の皮を被った、子供らの遊戯だ。

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