何を信じるべきか、今、社会を取り巻く、喫緊の課題と言われる。軍事侵攻を、始めた国では、国家を挙げて、情報操作が行われ、反体制の情報源を、排除すると共に、社会媒体の伝播を、妨げる動きを、高めることで、国民全体を、洗脳している、と言われる。何が正しいのか。
一方で、大衆を対象とした報道機関は、体制に与した、情報操作を、行っているとして、海の向こうの前大統領は、偽報道と、盛んに批判し続ける。彼の支持者や、同調する人々は、最近、偽報道を、批判する為として、別の情報を、SNSを通じて、流し続けるが、こちらも、劣悪さは否めない。反論の種を、せっせと見つけ出し、それらを、意図的に流す行為は、結局、偽物を掴まされ、情報撹乱に、手を貸すだけとなる。どの情報も、信じるに値するかは、裏を取ることで、判断するしかない。前大統領は、結局、自分への利害を、基準として、正誤の判断を、下していたから、問題外だが、一般市民にとっては、利害よりも、まずは、正しいのか、間違っているのか、そちらを優先して、扱うべきものとなる。権力者にとっては、自分への利害が、最優先となるのは、歴史的にも、ごく当然のことだが、大衆にとっては、社会を優先させ、個人は、それに属するもの、と考えるのが当然だ。そこで、判断基準を、考えるとしたら、まずは、多種多様な情報源に、当たることだろう。その上で、玉石混淆の中から、正しくて、意味のある情報を、選び出す必要がある。その為には、情報それぞれの正誤を、判断する為の一次情報に、当たる必要がある。媒体への接続が、誰でも、可能となった社会では、この手間は、大したものでなく、また、情報の専門家だけが、手に入れられるものは、格段に少なくなった。だとしたら、何事も、鵜呑みにせず、情報の源に向かって、少し遡れば、確証が得られるのだ。情報社会では、流れに身を任せるのではなく、時に、逆らうことも、必要なのだ。
馬鹿騒ぎが、混迷を極め、これ程に長期化したのは、専ら、世界機関や各国研究機関に、属する専門家や、それ以外の専門家達の、責任だろう。病原体の正体を、見極められず、例の如く、過剰反応を、繰り返した結果、特に、先進国では、大混乱が、広がった。
確かに、未知の病原体に対し、万全の対応を、行うのが、これらの機関の役割で、市民は、篤い信頼を、寄せてきた。だからこそ、今回の騒動でも、各国政府が、疑いも挟まず、ある範囲とは言え、指示に従ったのだ。だが、その後の展開は、信頼を失墜させ、政府への不信は、当然の如く、機関への不信へと、移っていった。確かに、彼らの無知ぶりは、驚愕の一言でしか、言い表せない。まるで、予想屋の如く、甚大な被害を、高らかに宣言したり、様々な予防策が、さも特効薬の如く、効果を表すと、喧伝したり、枚挙に遑がない。その流れで、検査やワクチンなど、製薬業界には、嘗てない程の、活況が訪れ、濡れ手に粟の状況に、笑いが止まらないだろう。金に群がるのは、世界機関も、製薬会社も、当然の権利となるが、専門家と呼ばれる人々にも、かなりの恩恵が、降っている。解説者として、日銭を稼ぐ人も居れば、研究者として、新たな研究費を、稼ぐ機会を、逃さぬように、躍起となる人も居る。醜い姿を、世に曝け出すが、私利私欲に走れば、厚顔無恥は、当たり前となる。倫理や道徳など、とうの昔に、捨て去ったのだろう。彼らの無軌道ぶりに、呆れるばかりだが、それと同等、あるいは、遥かに凌ぐ程に、呆れるのは、塵と化した、報道機関だろう。権力に反発し、批判を続けることで、民主主義を、守る存在などと、言われたのは、遥か昔か、今や、騒動を煽る為に、権力に与し、情報操作に加担する。情けない存在に、成り果てている。確かに、事実を、部分的に伝えても、全体を見渡せば、全く違う様相で、嘘でしかないものを、流し続ける。市民は、何を信じるべきか。
そろそろ、店仕舞いか、という意見が、世界各地から、出ているようだ。一方で、この国は、相変わらず、無意味な政策が、蔓延っており、閉めようにも、扉の周りに、邪魔な荷物が、散乱している。初めから、作られた騒ぎだが、それだけに、幕引きは、容易ではない。
空中を浮遊する、病原体を、封じ込める手段は、無いと言われる。それも、感染経路も、その仕組みも、明らかでないものを、相手にしたら、お手上げなのだ。そう考えれば、感染そのものを、制御しようとする、戦略は、過ちでしかない。それよりも、発症者を対象とした、対症療法により、救える命を、救う努力こそが、肝心だったのだろう。また、死に瀕するか否かを、どう判断するかも、治療方針を、決める上では、重要だったに違いない。標的を、取り違えた上で、そこからの暴走を、食い止める為の、検討を怠ったことが、これ程の混乱を、招いたと言える。その元凶は、感染症対策に、携わる人々の、無知は勿論のこと、状況把握や分析といった、不可欠な手立てを、講じなかったことも、重大な過ちだった。これらの点については、依然として、何の知見も、発表されていないが、要するに、自らの不明を、詫びるつもりも、過ちを、認めるつもりも、毛頭無い連中には、新たな知見は、すべて抹殺対象、となっているのだろう。既得権益とは、少し違うようだが、今、湯水の如く、注ぎ込まれる金銭を、失いたくない人々が、要職にあり、その権限を、手放そうともしないのだから、どうにもならぬ。世界機関は、元より、各国の研究機関も、同じ穴の狢であり、居座ったままでは、解決の糸口は、見出せそうにない。それでも、徐々に、大衆の目は、別の方に向けられる。それも、世界機関が、懲りもせず、持ち出した、別の感染症ではなく、国と国の間の紛争へと、関心が移っている。但し、ここでも、金の切れ目が、縁の切れ目となる。何処で、気移りするか、誰にもわからぬ。
震災後の大事故は、世界の人々の心に、恐怖を植え付けた。今、紛争地となっている、地域での事故は、人為的なものだったが、こちらの事故は、人為的と訴える声があるものの、最終的な引き金は、天変地異によるもので、それを考えると、廃炉も止む無し、とされていた。
だが、世界情勢の変化に、一つの事への拘りでは、対応しきれない。以前から、指摘されたように、気候変動への、悪影響の源を、断つ為と称して、炭素燃料の削減は、喫緊の課題と言われる。そこで、各国が、検討に入ったのは、再生可能、と言われる、風力や太陽光を、源とする発電方式だ。だが、前者は、設置場所や効率などの問題で、導入が遅れており、後者は、発電に必要となる、装置の生産が、別の問題を招き、更に、設置場所の開発が、自然破壊と結び付くなど、いざ、導入となった途端に、数々の課題が、持ち込まれた。そこに、軍事侵攻への制裁から、世界全体の供給均衡が、崩れ始めたことで、対応に費やす時間は、一気に短縮され、手持ちの仕組みを、どう活用するかが、優先課題となっている。特に、興味深いのは、前宰相が、決断した、全面廃止が、強い足枷となる国は、侵攻国との関わりを、断ち切ることで、危機に瀕することとなり、決定撤回をも、視野に入れざるを得ない、状況に追い込まれた。大事故に、見舞われた国とて、他人事ではない。安全安心を、約束する為に、導入された規制は、現実から、程遠いものとなり、運用さえ、難しくなった。そこで、課題となった、地域の安全は、確かに、以前の考え方では、欠落しており、広範囲に渡り、影響を及ぼす事故への、対応策として必要だろうが、国家の安全が、脅かされかねない事態では、どう考えるべきか、視野を狭めた住民には、見えてくる筈も無い。そこに、比率を増すべきとの、考えを表明した、被爆地出身の宰相は、再稼働を含め、新たな設置さえ、提案している。この点については、妥当と思うが、どうか。
扇動に固執する、報道機関だけでなく、冷静さを装い、論理的展開に、固執しつつ、社会媒体に、意見を投げかける、人々もまた、同じ穴の狢、と化している。支離滅裂な言説が、飛び交う中で、大衆は、どう動けばいいのか。唯一の解は、振り回されず、落ち着くことだ。
世界機関、研究機関、それらの助言に従い、民衆を制御しようと、躍起になる政府、これらは全て、今回の騒動で、出鱈目で、無意味な方策を、講じ続けてきた。その結果、様々な過ちを犯し、その度に、付け焼き刃の変更を、繰り返した結果、論理は破綻し、民衆の期待は、裏切られた。それでもなお、報道機関は、死の恐怖を、撒き散らし続け、暴走は、止まりそうにない。一方、傍目八目とばかり、論理の矛盾を指摘し、誤った政策を、糾弾し続ける、社会媒体の俄論者達も、自らの論理の矛盾には、全く気付かず、批判に躍起となり、別の間違いを、犯している。人間の性として、何かに集中すると、視野が狭まるのは、仕方ないのだろう。何方に与しても、所詮、自らの狭量さを、曝け出すだけで、愚かさばかりが、目立ってしまう。今は、表に出ていないが、世の中には、中立的な立場の人も、居る筈だ。彼らからは、これまでの様々な矛盾が、はっきりと見え、その解決策も、思い当たるに違いない。これまでに、蓄積された数値から、統計解析を、行うことは、当然であり、そこから、導かれた結論を、次の提言に、結び付けるのも、容易なことだ。そこには、今回の作り出された、恐怖の感染症の、実態を明らかにする、事実があるに違いない。あらゆる可能性を、検討した上で、解析を進めれば、見えてくるものも、恐怖に駆られ、利欲に走る人々には、見えてこない。科学の本質が、客観性にあり、中立的な姿勢が、常に、重要なことを考えれば、現状の混迷は、当然の帰結であり、それを脱するには、本質に立つ必要が、あるのではないか。無能な専門家や政治家には、消えて貰う。
昔は、論客と呼ばれる人間が、居たそうだ。だが、今はどうか。論壇そのものも、草ばかりで、寂しい状態だが、それより、深刻なのは、俄論客が、闊歩している、SNSの世界だろう。賛同者以外には、罵声を浴びせ、議論の機会を、悉く、拒否する。議論なき論壇とは、何だ。
宗教への風当たりが、再び、強まりつつあるが、あの殺人教団が、急速に勢力を増し、社会問題となった頃、犯罪への疑いが、強まりつつある中、論壇と思しき番組で、議論を戦わせる、教団幹部が居た。論客と、呼ぶ人も居たが、世間の評判と違い、彼の論理は、単なる詭弁であり、前の週の論旨と、正反対なことでも、平気で主張した。だが、画面に登場する、論客と呼ばれる人々は、その綻びに、気付くことなく、ただ単に、その場限りの議論に、終始するばかりで、つまらぬものでしかなかった。その後、都心で、テロ行為を起こし、教団解体へと、堕ちていったが、教祖の教えは、依然として、信者の心に、刻まれたままとなっている。あの論争の、重大な欠陥は、記憶の欠如であり、口先だけの、議論だったことだ。それに比べると、今の流行の、社会媒体では、記録が、ほぼ確実に残り、それらを糧にして、他人の論理の、一貫性の欠如を、批判することさえある。だが、その一方で、はじめに書いたように、同好の士以外に、反論するだけで、議論を拒否する姿勢は、論壇とは呼べぬ舞台を、築いてきた。更に、左に属する人々が、好んできた、議論は、徐々に、机上の空論の、陳列棚と化し、一方で、右の人間達は、海の向こうの前大統領の如く、嘘つき呼ばわりで、切り捨てるだけで、そこには、論理も無く、議論の余地も、存在しない。ほぼ、打ち砕かれた、議論の機会も、当人達は、大真面目で、論争を戦わせている、気になっている。論客は、本来、何かしらの結論を、導いてこそ、存在意義があったろうが、この為体では、何も期待できない。自己満足は、無駄でしかない。
論理構築には、その背景となる事柄を、正しく理解する必要がある。その意味では、全数把握などという、馬鹿げた総体論に、しがみ付くのではなく、的確な情報抽出と、それらに、優先順位をつけることが、不可欠となる。現状は、誠に情けないもので、救いようが無い。
例えば、急増する陽性者数に、現場の混乱が、極まるばかりで、付け焼き刃の方策が、次々に、投げられ、その殆どが、効果を示せぬままに、打ち捨てられる。改めて、死者の内訳に、言及する意見が、出されるが、その程度のことは、当初から、明らかだった。特に、この国では、陽性者数や死者数の、人口比が、著しく低いことが、度々、指摘されており、人種の問題や、環境の違いなどに、目を向ける意見もあった。だが、移民の多い国で、人種格差を、検討する気配もなく、当然、環境の分析は、行われる筈も無い。そんな期待は、悉く裏切られ、専門家の分析能力は、皆無に等しい、と見るしかなかった。同様に、今回、改めて問題視された、死者数の動向では、手厚い治療を受け続ける、重症者よりも、殆ど治療を受けない、軽症者が、その症状を急変させ、死亡する例が、注目された。だが、そこでは、確かな数値が、提示されず、言葉だけの報告が、相次ぐことで、結局、何処にどんな問題があるのか、示されぬままだ。これでは、事態は、一向に変化しない。要するに、数値の収集や集計、その上での分析に、携わる人々が、肝心の結果を、示さぬままに、勝手な意見を提出し、それで、何かを始めようとする。論理の欠片も、無い状況は、変わらぬままなのだ。元々、当初の恐れ程に、死亡率は高まらず、その結果、経過観察と、治療の優先順位付けを、重視しなければならないのに、そちらに目を向けず、全数把握という、馬鹿げたことに、目を奪われた結果、この事態を招いた。今頃、方針転換を、訴えた所で、非論理的な言説では、何も変わらない。ものを考えねば、と思う。