意見交換の場は、確かに、有用なもののように、映っていた。それまで、社会的に、発言権を持つのは、一部の権力者や、有識者に限られ、市井の人々には、何の権利も、何の機会も、与えられず、仮令、役に立つ意見を、持ち合わせても、それを、発することが、できなかった。
となれば、意見交換など、起きる筈も無い。広い見識を持つ、一部の人々が、社会の意見を、代弁していたが、その実、狭い了見で、無益なばかりか、有害なものを、押し付けることも、多々あったのだ。それが、誰もが、書き込める場が、提供され、多くの人々が、手にした端末から、意見発信が、できるようになると、玉石混淆だが、種々雑多な意見に、その他の人々も、触れることができ、議論が、盛り上がるようになり、少なくとも、権威からの暴論を、食い止める端緒を、与えることとなった。一見、いいこと尽くめに、思える状況だが、そこに、権威が参入すると、事態は、一変した。度々、取り上げるように、海の向こうの前大統領は、この仕組みを、好んで多用し、その上、大手の情報媒体を、自らに不都合なものとして、偽情報源と、断じることで、支援者から始まり、ついには、信者と呼ばれる集団を、作り上げていた。そこでは、一方的な、情報統制がなされ、教祖と信者の関係と、そっくりな状況が、形成されたのだ。これは、つまり、科学的な根拠や、確かな証拠、更には、論理的な説明が、判断基準として、重視されるのではなく、ただ一人の、独裁的な人間の、言説のみが、正当なものとして、扱われ、信者には、事実や真実と、受け止められる。ところが、その状況を、眺めていた人々の中には、この仕組みを、悪用する人間が、多数居り、いつの間にか、議論の場に、根拠の有無や、その確かさに関わらず、主張のみが、掲げられるようになった。これでは、議論は成立しない。反論は、常に却下でき、共通理解が、成り立たないからだ。折角の仕組みも、台無しとなりつつある。
独り言では、当初から、この騒動は、人為的なものであり、騒ぎを起こした人間が、幕引きを行うしか、終わらせることが、できないとしていた。その予想は、徐々に、現実化し始め、先日、発端となった、世界機関の事務局長が、思わせぶりな、発表を行った。
「終わりが視野に」という表現は、翻訳後のものだが、会見で、語られたのは、ある長距離走の、終わりに例えた、比喩のようだった。何れにしても、始まり同様に、非科学的な証拠から、その見通しを、語り始めたことは、何が何でも、終わりとする、という理解不能な戦略の、果てなのだろう。死者数が、減り始めた、と言っても、事態が深刻化しつつある、としていた時期と比べて、遥かに多数が、依然として、犠牲になっているから、何を根拠に、と思えてくる。更に、疑いを深めるのは、接種の効果を、示そうとして、現状の接種割合を、提示したのだが、何と、一回以上のものを、対象としている。製造者や専門家から、少なくとも、複数回の必要性が、示される一方で、この論拠は、何処にあるのか。単に、数字を、弄くり回して、さも、確かなように、振る舞い続ける、あの世界機関の方針が、如実に表れている、としか思えない。一方、この報道に接し、愈々危機感を、露わにしたのは、日々、画面を賑わす、専門家と呼ばれる人々で、食い扶持を、失うまいとの態度を、露骨に、示している。例えば、「終わり」と言っても、この感染症が、姿を消すのではなく、次々に襲いかかる、新種への対処として、これまでの対策は、続ける必要がある、と言い募る。確かに、彼らが頼みとする、死への恐怖は、生き物の定めだから、消し去ることは、できる筈も無い。だからこそ、降って湧いた好機を、逃さぬよう、しがみつくのだ。だが、所詮、非科学的な論理に過ぎないものに、これ以上、縛られる必要は無い。以前同様、体調管理に努めれば、普通の生活が、送れるのだから。
立憲君主、前にも書いたが、この仕組みが、揺らいでいるのではないか。長きに渡り、女王として、国の内外から、尊敬を集めてきた、人物が、亡くなったことで、新しい時代の幕開け、などと言われるが、新国王への期待は、入り混じったもの、と言われている。
彼自身に、その素質が、備わっているかを、論じる向きもあるが、この制度において、継承順位は、絶対的なものであり、選択の余地は無い。だからこそ、生まれたら、その運命を、受け容れる必要があり、将来に備えて、それぞれなりの準備を、進めていくしかない。ところが、その考え方に、変化が起きている、とも言われる。女王の孫の一人は、その務めを、果たすことを、放棄して、離婚経験のある女性と、結婚した。これは、女王の父が、王になるきっかけと、同じ図式だが、事情は、大きく異なる。それはそれとして、王族にある人間には、この務めは、義務であり、果たす必要がある。その辺りの考え方に、変化が生じている、と言われるが、どうだろうか。一方で、立場としての務めに関しても、変化が起きている。庶民に、近しい存在となり、直接的ではなくとも、国を治める力となる、ということだ。肝心なのは、女王が行ったように、近しい存在、を意識することだが、庶民と同じになる、という意味ではない。そこを、取り違えかねない状況に、あるのでは、という懸念がある。確かに、戦後、人間宣言をすることで、神という存在を、否定しただけでなく、国内を、隈無く行幸し、人々に、寄り添う姿を、見せたのは、あの天皇の決断だった。だが、その後の天皇が、同じことを、真似る必要が、あるだろうか。生前退位を、決断した理由の一つに、健康問題があり、象徴としての務めが、果たせなくなる、とした話には、全国を行幸することを、務めとする、見方があったようだが、どうだろう。君主である限り、寄り添うことはあっても、毅然とした存在で、あって欲しいのだ。
すぐに、復旧するもの、と考えていたが、今回は、長引いているようだ。この独り言は、無料で設置できる、という場所を、利用して開設した、新しい証券サイトに、作り上げたもので、この場所で、確か、4軒目にあたる、と思う。有料で、などと思わず、気楽に構えた。
だが、時に、ただより何とか、ということが、起きる。これまでに、設置した所も、そういう事故が、何度か起きていた。ただ、格納したデータが、全て消滅する、という事態は、一度も起きていない。また、予告なく閉鎖、という事態も、幸い、起きていない。見ず知らずの人間が、お互いに、助け合う仕組みは、今の時代には、珍しいものだろう。何しろ、全てを、金銭的な価値で、見積もるのが、常の時代だ。儲けにならないことを、何故続けるのか、という話題は、この手の場所の運営では、常に取り沙汰される。以前、世話になった所は、おそらく、何かしらの都合で、役目を終えた、サーバーの利用として、管理者が、考えた末に始めたようで、機器の老朽化が、撤退の理由となった。全てが無料、という場では、交換の経費が、捻出できるあては、全く無いのだから、当然の帰結だろう。だが、今、使っている場所は、有料と無料が混在し、それぞれに、利用者が居る状況だ。無料の場には、期待できるものは、唯一、接続数などの履歴であり、それが、高ければ、何かしらの評判を、手に入れられる可能性は、あるにはある。だが、所詮、そんなものは、仮想空間の、幻のようなもので、大して役には立たないだろう。と考えると、今起きていることは、確かに、困ったことには、違いないが、だからと言って、権利主張ができる筈も、また、迷惑を訴えることも、できないものだ。まあ、いつも通り、気長に待つしかない。こういう便利な社会で、偶々、何かしらのお零れを、受け取る身としては、復旧して、続けてくれると、ありがたい、と思うしかないのだ。
物価の上昇に、歯止めがかからず、深刻な問題となっている。原因として、挙げられるのは、第一に、軍事侵攻への制裁として、ある国を標的とした、様々な規制を、発端とする供給懸念だ。だが、それとは、無関係な部分でも、値上げが起こり、雪崩の如く、広がっている。
生活物資の値上げは、家計を直撃するとされ、多くの国々で、それに対抗する為、給与の上昇が、図られている。しかし、後追いでの措置は、結果的には、支出の増加率を、上回ることなく、徐々に、厳しさが、強まる趨勢は、収まりそうにない。そんなことから、労働争議が、起き始めていたが、最も深刻だった国は、女王の死去により、一時休戦状態となった。皮肉なものだが、世界情勢が、全体として、休戦に入る訳ではないから、今後、再び、問題化するだろう。その国を除き、他の国々は、依然として、問題が深刻化し、庶民の生活は、脅かされている。ただ、物価の上昇率が、発表される度に、首を傾げたくなるのは、その構成要素についてだ。日々の生活に、必要なもの、という感覚で、括ったものについては、変動の大きさが、家計に影響することは、容易に理解できるが、要素の中には、その感覚から、外れたものもある。例えば、住居費は、確かに、賃貸であれば、日々の生活に、関わるものだろうが、持ち家となると、話は、大きく変わる。元々、今回の物価上昇では、そこにまで、影響が及ぶのは、理解に苦しむ所だが、それにしても、上昇が急と言われる。この割合が、大きいとされ、課題と言われるが、さて、何がどうしたことか。一方、収入が増え、将来の展望も、ある程度、開けてくると、人は、大きな買い物を、したくなるようだ。最大は、住宅と言われ、その為に、借金をして、返済を続ける。展望があるからこそ、の決断だろうが、今の時代、この考え方に、問題が生じているようだ。経済成長が、鈍化した結果、全体の均衡が、崩れ始める。その中での、物価上昇は。
騒動は、下火になっている。世界的には、その傾向だが、この国は、またも、蚊帳の外のようだ。当初、世界中が、恐怖に戦き、藁にも縋る思いで、予防薬や治療薬に、飛び付く中、こちらは、大きな変化も無く、騒動の大きさの割に、社会は、全体として、落ち着いていた。
だが、原因は不明だが、他の国が、急激な上昇の後、頂点を過ぎ、落ち着きを、取り戻し始めたのに、こちらでは、その後も、漸増を続け、今も、高止まりしたまま、となっている。死者数は、依然として、爆発的には増えず、精々、毎年、肺炎で亡くなる人の数と、同程度に、留まっているが、煽動者達は、この機を逃すまいと、躍起になって、警告を連発している。確かに、心配の種は、無くならず、膨らんだ風船が、弾ける気配も無いが、先行した国々の状況から、ある程度、今後の経過も、予測可能となる。それに加え、それらの経験を踏まえれば、今後の対策も、自ずと明らかとなり、心配よりも、安心が広がりそうなものだが、欲に駆られて、貪り続けようと、蠢く人々には、そんな方向に、大衆の目を向けることは、何としてでも、避けねばならない。こんな状況から、国の中枢は、一種、思考停止を装い、膠着状態に入り、二進も三進も行かぬ、停滞に留まっている。だからこそ、感染症の分類も、掛け声を上げたものの、結局、手付かずの状況で、何の変化も、起こせぬままだし、接種に関しても、手持ち札を、切り続けるだけで、治療薬に至っては、何の手立ても無いまま、放置状態に見える。個人主義が、当然の国では、既に、各自の判断に、任されており、以前の生活様式を、取り戻しつつある一方で、個人主義の台頭が、盛んに問題視された、こちらでは、批判に勤しむ人々だけが、馬鹿げた個人主義を、体現している。鬱憤ばらしの数々に、一部の賛同者以外、見て見ぬ振りを、しているが、これはまるで、海の向こうの前大統領の、支持者と同じだ。盲従では、何も起こせない。
強い精神的な衝撃を、受けると、人間は、心に傷を負う、と言われる。傷の程度は、人によるので、一概には、言えないとされるが、社会的には、被害者への配慮が、必要とされる。そんな背景から、大きな災害の後、それに関する情報には、操作が加えられるとされる。
ただ、その扱いには、国それぞれの事情の違いが、現れるようだ。大津波に襲われた時、当事国では、ほぼ全ての、映像に手が加えられ、被害を、受けたと想像されるものは、悉く削除された。しかし、海の向こうでは、これらの映像は、殆どが、そのまま流されていた。この違いは、経験の有無にもあるが、身近かと感じるかどうか、にも理由がある。一方、そのひと昔程前に、あちらで起きた、テロ事件では、現場からの中継では、衝突の瞬間も、その後の崩落の光景も、そのまま映し出された。このサイトでは、当時、数人の参加者が、会話できる仕組みを、使っており、同時中継を、眺めながらの、会話を続けていたが、とても現実とは思えぬ光景に、衝撃を受けていた。その場では、判断は、下されなかったが、その後、度々流される映像では、衝突も崩落も、どちらの衝撃的な映像も、含まれておらず、おそらく、配慮の結果、と思われた。今、ふた昔より過去の出来事となり、あちらでも、様々な記録が、公開されつつある。その中には、衝撃的な映像も、含まれており、正確な記録を、残す姿勢が、配慮を上回ったのか、それとも、配慮の必要性が、時間の経過と共に、薄れたのだろう、と思える。記録を残すことの大切さは、こういう災害では、強調されるが、その一方で、被害者への配慮が、取り沙汰される。本来、情報に、接するかどうかについては、選択の権利があり、不快だったり、耐えられなかったりするなら、拒絶すればいい、と言われる。としたら、何故、報道規制が行われるのか、解せない。やはり、正確な記録こそ、重要なものだろう。