はい、いいえ、の問題だけでなく、交渉事が苦手、と言われた国民性だ。鎖国していた時代には、仲間内の遣り取りで、全ての事が、済んでいたが、開国を迫られ、圧力がかかる中、難しい決断が、下された。その時代から、長く続くと言われるが、果たしてそうなのか。
開国後、維新を経て、先進国の仲間入りを、果たしたと言われる。その過程では、数々の交渉を経て、それなりの地位に、上り詰めた。一方で、そこから生まれた、驕りの数々が、悲劇を招き、敗戦へと繋がった、とも言われる。とは言え、どん底から、人々は、地道に働き、上を目指して、再び、先進国に肩を並べた。これらの過程で、常に、交渉下手が、障害となった、と言う人々が居る。だが、交渉自体は、それぞれに、ある程度の目的を、果たしていたようだ。却って、国内事情が、拗れることで、その後の展開が、思わぬ方に、向かったとも言われる。対外交渉は、それぞれに、成果を上げ、その後の道筋を、決めていたのに、仲間内から、異論が噴出し、道を塞いだ結果、二進も三進も行かぬ、窮地に追い込まれた、と見るべきかも知れぬ。此処に、この国が、常に抱える課題が、あるのではないか。そんな気が、していたのだが、いつの間にか、それが、世界各地に、広がったように見える。社会媒体という、手にした端末から、多種多様な人々が、発信できる仕組みが、世界中に広がり、誰もが、意見を出し、議論を重ねることが、できるようになった、と言われるが、その実、間違った認識が、拡散され、罵詈雑言の嵐の中、議論が、全く成立しない事態が、起きているのだ。事実や論理を、受け容れることを、放棄した人々は、勝手気儘な意見を、好き放題に、発することができ、それまでの鬱屈を、解消できたろうが、無価値な意見に、大衆は、振り回されている。その多くは、自らの正当性を、主張するばかりで、他人の意見は、扱き下ろすのみでは、何ともはやだ。
下らない騒動が、起きた最大要因は、論理的思考の欠如だろう。一つひとつの事柄を、冷静に分析し、結論を導き出せば、この騒動が、空騒ぎでしかなく、如何に、下らないものかが、見えてくる。だが、恐怖を突き付けられ、大衆は、慌てふためいた。人間の性、と言うべきか。
そこに、泡銭に群がる、連中が加わり、ありもしない言説が、ばら撒かれた訳だ。論理の元となる、科学の活動は、既に、人気商売へと、身を落としており、話題が集中すると、そこに群がる行動様式は、まるで、火事場泥棒の、ようでもある。世論を、混乱させる材料を、供給するのが、科学の役目などとは、誰も思わない筈が、その通りのことが、起こされ続け、都合の良し悪しで、結果を左右させる、統計処理という、便利な道具も加わり、想定以上の、効果と影響を、及ぼし続けた。「終わり」を、口にし始めた、騒動の発信源は、今や、何をどう論じても、構わぬとばかりに、好き勝手な言説を、振り回している。学問の危機、と思われる状況に、批判の矢を、放ち続ける人々が居るが、これとて、手にした端末で、せっせと、発言を続けるだけで、その根拠たるや、論理の欠片も見えず、当然、学問に基づく、解析や議論など、ある筈も無い。批判に、喜びを見出したのか、その対象は、次々と、変貌し続け、今や、未来をも見通せる、とばかりに、科学の将来を、危ぶむ意見を、書き連ねる。だが、所詮、自らの非科学的な言説に、酔い痴れるだけで、内容たるや、無価値でしかない。この所、報道でも、同様の言説が、盛んに、流されるが、その根拠は、的外れでしかなく、実態を、見極めているとは、とても言えない状況にある。研究を、論文の数で測り、その質を、引用数という話題性で、測ることは、最近の風潮だが、どちらも、数値しか見ないから、真の内容に、辿り着く筈も無い。結果、数を稼ぐだけの、下らないものに、目を奪われる。批判の根拠が、これでは、当たる筈が無い。
ここ数日、書き連ねているのは、学問、特に科学の本質についてだ。科学の営みとは、どんなものか。直接関わった人間以外には、見えないものだが、平和で安定した時代が続き、科学の進歩の恩恵を、受けてきた人々は、いつの間にか、自分達にも、それが判ると、思い込んだ。
間違いの始まりは、そんな所だろう。だが、それに加えて、営みを、判ったとした後に、そこに注ぎ込む資金を、上手く動かせば、より効率的に、科学の進歩を、加速できるとし、誤った方に、進み始めた。血税などという言葉が、盛んに使われたのも、風潮が、そちらに向いた為で、何度も指摘するが、平和と安定が、大いなる誤解を、産んだと思う。つまり、傾向と対策こそが、そういう時代を、賢く生きる為の、重要な手立てで、それに、従いさえすれば、発展が約束される、と思い込んだのだ。だが、新たな発見によって、科学の営みは、続けられる訳で、発見は、それまで、未知だったものにしか、当てはまらない。となれば、傾向は、一切役に立たず、対策は、徒労に終わる。なのに、浅はかな人々は、さも、判ったかの如く、選択と集中を、繰り返すことで、進歩を後押しできる、と信じ込んだのだ。一種、宗教の如く、信じるものが、救われるのなら、良かったろうが、実際には、選択を繰り返し、集中的な資金提供を、施したとしても、そこには、ただ、溝に金を捨てるような、無駄の繰り返しが、続いただけとなった。その上、科学に携わる人々にも、この悪疫は伝播し、悪霊に、取り憑かれた挙句、無駄を選択する仕組みに、乗っかろうと、過ちを繰り返した。確かに、そういう愚者に、無駄金が、注ぎ込まれたが、一方で、地道な科学の活動は、細々と、続けられている。営み本来の形として、興味に走り、地味な発見に、喜びを見出す。全体の利益を、考えもしない、一見、下らない研究に、明け暮れる人々は、選択と集中からは、無駄でしかない。だが、それこそが、本質なのだ。
悲観的な風潮が、社会に満ち溢れ、扇動者にとって、都合のいい状況、となっている。騒動の成り行きは、彼らが、盛んに喧伝したものとは、全く異なる様相を呈し、ある意味、勝手に、落ち着きを取り戻し、以前と変わらぬ生活に、戻った人が、世界で見れば、大部分だろう。
しかし、懲りない輩は、宝の山を、手放す筈は無い。次こそは、とばかりに、新たな脅威を、産み出そうとする。既に、科学の欠片も、存在しない言説には、過ちなど、ある筈もないから、当然の如く、過激な筋書きを、作り出せる。大多数の人々は、もう、彼らのことを、見限っているが、それでも、政府の中枢や、経済の中枢に、居座る人間には、魅力的なものと映り、互恵関係を、保とうとし続ける。実は、こんな騒動でなくとも、今の科学の世界では、よく似た暴挙が、繰り返されている。選択と集中と呼ばれた、如何にも、効率的と見える政策が、財政を司る官庁から、編み出され、国民の血税が、大切に使われている、という幻想が、国全体に、行き渡ってきた。この際にも、財源の運用からは、定常的な支出を、減少させる代わりに、一部の重要な課題に、多くの資金を、集中させる、という手法が、最も効果的とされ、断行されてきたが、これは、互恵関係にある、科学者集団に、資金を集中させ、学問としての価値より、人間社会の利益を、優先させることで、全体の均衡を、崩すだけでなく、研究の多様性を、著しく損なう方に、舵を切ってしまった。人気商売は、ある世界に、限られたもので、学問とは縁遠いと思われたが、まさに、そこにさえ、悪疫が及んだ訳だ。一部の科学者は、依然として、地道な活動に、精を出すものの、多くは、資金を求めて、下らない競争に、明け暮れている。学問としての価値より、人気や話題を優先すれば、どうなるかは、明らかだろう。だが、悲観が重視され、競争に敗れれば、研究の道が絶たれる、と思い込まされる。本質を見ていないのだ。
物事を、悲観的に捉える人々にとり、今回の騒動は、注目の的だった。何処まで、悲惨な展開が続き、世界中から、悲鳴が届き続けるか、期待を込めて、見守っていただろう。だが、実態は、期待を裏切り、当初は、急増した死者数も、いつの間にか、落ち着きを取り戻した。
しかし、悲劇の物語は、そう簡単には、幕を閉じない。人間の叡智を集め、殺人的な病原体に、立ち向かった結果、窮地を脱したとする見方は、大きく外れ、感染防止は、思惑通りに進まずに、別の効果を引き合いに出して、取り繕われ、治療に関しても、従来の手法が、適用されるだけで、期待された新薬は、一向に市場に出回らない。撲滅は、不可能とする見方が、大勢を占めるが、実際には、この類の病原体を、消滅させることは、不可能であり、考え違いも、甚だしいもの、と見るべきだ。ただ、大衆の期待は、大きく裏切られ、科学への信頼が、失墜したと思われている。実は、期待したものが、的外れなだけで、それを失敗と断じ、信頼を失わせたのは、科学の本質を、理解せずに、ただ、耳目を集め、私利私欲に走った、一部の似非科学者達だ。出来ることと、出来ないことを、きちんと見極め、その範囲内で、何が適切かを、判断するのが、科学者の本来の姿だが、偽情報を、流すことで、自らの利益のみを、追う人々が、結果的に、今回の騒動を、あらぬ方に向かわせた。では、ここまで落ちた信頼を、取り戻す為に、何をすべきか。以前と同じく、地道な活動で、地味な成果を、上げることに、力を注ぐしかないだろう。ただ、社会は、利潤追求に、舵を切ったまま、突き進んでおり、その中で、地道な活動では、資金も得られず、注目も集められない。だから、派手な言説を、飛ばす輩が、世間から、注目され、社会を、誤った方に向かわせる。だとしても、科学者ができることは、限られている。地味な成果の積み重ねが、偉大なものに繋がった、歴史を思い出そう。
情報収集の重要性は、高まり続けているが、その一方で、情報の氾濫が、著しくなり、取捨選択が、必要となっている。種々雑多で、玉石混交の情報の山から、正誤の判断を下し、必要なものを、選び出す能力が、不可欠となる中、別の問題が、浮き彫りとなる。処理速度だ。
情報量が、増すばかりとなり、それを、処理する時間が、不足している、と思う人は多い。どうすれば、手早く、確実に、処理できるのか、その最適解を、見つけたいのだ。そんな時、世界は、騒動の渦に巻き込まれ、物理的な接触の機会が、失われた。教育現場では、生徒が、教室に集められ、教師に、教えを受けるのが、当然のやり方だったが、集まることも、直接話を聴くことも、できない状況となり、通信を通した、授業や講義が、世界的に、採り入れられた。その際に、問題となったのが、通信容量で、多数の接続によって、同時進行が、困難となる障害が、生じたのだ。多人数教育を、常としてきた学校では、解決の手段として、録画視聴を、導入した。この場合、受け身の教育では、何の問題も、生じないが、意思疎通を、必要とする場合には、問題となった。だけでなく、録画再生では、別の作業を行ったり、高速再生で済ませたり、様々な、工夫をして、効率を上げる、と称する学生が、目立つようだ。ここでの、工夫も効率も、自己満足に過ぎず、結局、何も得られず、無駄となる場合が、多いと思われるが、どうだろう。別の作業は、以前から、「内職」と称された行為で、今に始まったことではないが、倍速再生は、現実の世界では、起き得ないものだ。時間短縮で、効率を上げた、と信じるのは、勝手だが、自身の処理能力を、考えないままに、こんな無謀に走るのは、愚かとしか思えない。元々、教師の進行に、不満を漏らす声が、あったのだから、速過ぎれば、処理は追いつかないのが、当然だろう。なのに、これを、賢いと思い込む。学ぶ資格さえ、失ったようだ。
平和な時代が、長く続くことで、安全・安心が、当然のものと、受け止められると、人々は、慢心すると言われる。一方で、殆どのことが、問題なく、流れるようになると、ごく稀に起きる、危機に対して、心も体も、備えができず、思わぬ被害が、生じることとなる。
だが、被害を受けても、人は、自分の責任とは、思いたくないから、他人のせいにする。この循環に入ると、解決の糸口が、見つからないまま、何度も、同じ苦しみを、味わうことになる。でも、大部分の時間は、そんなことを、考える必要も無く、ただ、漫然と暮らせるから、それでいい、となるのだろう。だが、国を治める立場からは、そうもいかない。大規模な被害が、広がれば、その保障が必要となり、困難を抱えかねない。だからこそ、危機感の無い大衆に、確かな認識を、届けようとする。その際に、有効な手段は、様々にあるだろうが、近年、専ら使われるのは、脅迫だろう。天変地異を、担当する官庁からは、おそらく、四半世紀くらい以前から、様々な脅し文句が、発せられてきた。功を奏したものが、見つからないから、毎年、手を替え品を替え、次々に、新たな脅し文句が、登場するが、一向に、効果を上げられず、次の言葉探しを、延々と続けている。それに比べ、感染症騒ぎでは、死の恐怖が、前面に押し出され、人々は、様々な対策に、従う姿勢を見せた。例外は、幾らでもあるが、同じ自然現象なのに、何故、これ程までに、異なる反応となったのか。簡単には、自然現象による災害では、そこに、更なる恐怖を、盛り込もうとしても、期待通りの結果は、所詮、得られない。地震の大きさも、台風の威力も、明確な数値に、現れるからだ。一方、感染症はどうか。こちらは、日々の数値に、操作は加えられないが、今後の予測には、作為が、自在に盛り込める。それにより、死の恐怖を、増大させるのも、簡単なことだ。だが、嘘は、所詮、嘘でしかない。大衆も、気付いている。