物価上昇が、深刻となっている、と言われるが、どうも解せない。確かに、他国への軍事侵攻と、それに対する制裁から、様々な問題が、噴出した。特に、穀倉地帯と呼ばれる、世界有数の穀物生産地が、戦地と化したのだから、食糧不足への、懸念が高まったのも、当然だ。
だが、その中心となる、小麦の先物価格は、既に、平穏を取り戻している。一方、制裁の影響から、燃料価格の高騰が、続いており、それが、輸送経費の高騰に、繋がるとの図式から、あらゆる物品の価格が、高まったことは、ある意味、致し方ない所、と言えるのかも知れない。だが、こちらも、原油価格で見れば、既に、平穏を取り戻しており、理由が無くなっても猶、調子に乗って、値上げを続ける、一種独特の、市場原理が働いている、と見るべきではないか。便乗値上げ、という言葉は、この国独特のものかも知れないが、今回は、風が吹けば、という図式が、世界各地に、広がったようだ。確かに、燃料という意味では、原油よりも、天然ガスに、甚大な影響が及び、特に、ある地域の生活には、深刻な影響が、広がっている。これは、侵攻を断行した、独裁国家の計略に、まんまと騙された、という側面もあり、今更ながら、経済効果という、効率追求が、外交面では、大きな痛手を、負わせることを、実感させた。それでも、激しい物価上昇に、庶民の生活は、厳しい状況に、追い込まれている。ただ、金が回り始めれば、経済状況としては、良好になる筈で、そこで、収支の均衡が、保たれれば、何の問題も起きない、とも言われる。だが、現実は、そう展開せず、大衆の心理は、悪化の一途を辿る。大衆迎合主義が、政治の根幹となっており、その中では、この状況は、かなり大きな問題となる。でも、と思うのは、全体を、見渡してみれば、今回の経済騒動も、どうやら、人の手で作られたもので、心理を揺さぶる、得意技の一つと見るべきだ。喉元過ぎれば、とは、例の如くとなる。
仮令、「終わり」が、断言できなくとも、大衆は、以前の気分を、取り戻しつつある。違いがあるとすれば、それは、殆どの人が、口を覆うものを、身に付けていることだ。と言っても、この国では、以前も、流行性感冒の流行期には、多くの人々が、身に付けていた。
その頃との大きな違いは、着用率だろう。まだ、多くの場所や機会で、要請が続けられ、他人の目が、気になる人々には、選択の余地は無い。異常なのは、必要性無しと、専門家や政府などが、盛んに、助言しても猶、誰とも擦れ違わない道でも、他人との距離が保てる場でも、果ては、運動中でさえ、律儀としか言えぬ雰囲気で、口を覆い続けていることだ。逆に言えば、誰もが、効果を考慮せず、ただ単に、集団心理の表れとして、行動しているに過ぎない。では、一部の反対者が、盛んに訴えるように、効果は無いのか。科学的な解析が、全く行われず、信頼回復は、望めないのだが、そんなことを、するまでもなく、単に、障害物を置けば、ほんの一部としても、そこに止めることが、できることは、容易に想像できる。ほんの少しでも、感染確率を、下げる効果があるのは、火を見るよりも明らかだ。一方、感染そのものの、経路も仕組みも、何も明らかにされない中、これまでの情報から、明らかなことは、発症者からの伝播が、同条件に置かれた、全ての人に起きる、とは限らないことだ。当初、爆発的感染を、危惧する声が、高まった時、狭い空間で、長時間過ごすことが、最も危険と言われたが、それでも、そこに居た全ての人間が、陽性となった訳では無かった。抵抗性の違いなのか、感染経路の問題なのか、一切、明らかではないが、誰でも、その程度の想像はつく。更に、元通りを望むなら、次は、ワクチンの問題を、解決することだ。開発者の思惑だけで、事を済ませた、緊急時と異なり、平時となった今から先は、もう、そんな無駄は、御免蒙りたい。既に、終わっているのだ。
例の端末を、使った仕組みが、導入される前と後で、変わったことは何か。最も大きな変化は、賛同者の存在、なのではないか。意見を、発する人の数が、膨大になったのは、当然のこととして、その内容や質について、大きな変化は、殆ど無い。それより、好かれるかどうか、だ。
以前の、発表の場と言えば、活字媒体だったり、報道などの媒体に、載るものしか無かった。が、誰もが、意見を掲げ、互いに、賛同を示し合う。そんな仕組みが、人々の関心を集めた。その結果、内容や質よりも、目を引くものや、衝撃を与えるものが、話題を集め、更に、賛同者が増えれば、再掲示という、仕組みを使って、より一層の関心を、集められた。そこでは、根拠の有無や、事実か否か、という問題は、受け手の判断に委ねられ、一種の市場原理が、働いている。経済活動で、盛んに、論じられた原理だが、実際には、誤った方向に、進むことも多い。それと同様に、意見の場も、嘘や捏造が、横行するばかりで、多くの人々が、騙され続け、損失を被った。この時代の寵児、と言われるのが、海の向こうの前大統領で、従来の報道機関を、嘘吐き呼ばわりし、偽情報の発信源として、厳しく糾弾することで、自らの正当性を、強く訴えた。権力に与しないことを、基本路線としてきた、報道機関にとり、権力批判は、当然の戦略だが、その権力から、偽物とか嘘吐きとか、言い返されたのは、一種の椿事だったろう。だが、大衆に寄り添う姿勢を、見せた権力者に、簡単に騙された人々は、支持者から、信者へと変貌した、と言われる。となれば、教祖の言葉は、絶対であり、正義となる。そんな権力者に、危惧を感じた人々は、あらゆる手段を講じ、嘘を指摘し、根も葉も無い噂を、否定することで、続投を妨げ、権力の座から、引き摺り下ろした。その辺りの経緯を、内部から見た報告が、出版されたが、その偏向ぶりも著しい。どちらにしても、言論の自由とは、こんなものだったのか。
騒動が長引き、悲観的な解釈が、社会全体に、蔓延すると、人々の心は、荒ぶようだ。それが、猜疑心を強め、権力への反発が、強まったことで、世界全体の混乱が、高まったと言われる。本当に、危機的状況に、陥ったのなら、その場の対応に、追われるはずだが、そうでもない。
台本通りに、展開するのなら、悲観が消え去ることは、決して起こらないが、現実には、自然の成り行きからか、落ち着きを取り戻し、「終わり」さえ見えた、と言われる。だからこそ、多くの言説が、流され始め、その一部は、本として、人の目に触れる。今月も、そんな本の一つを、読む機会があったが、内容は、警句の連発で、総括には、程遠い状態だ。原因の一つは、騒動そのものが、確かな分析を受けず、未だに、暗中模索の状況が、続いていることだ。病原体自体は、明らかとなり、その解析も、進んでいる、と言われるが、現実には、伝染の経路や、発症の仕組みなど、不明な点が多いし、重症化と言われる、劇症から、死に至る道筋も、はっきりしない。逆に言えば、今回の騒動の主、そのものに対する、科学的な解釈は、依然として、出てくる気配は無く、結局、副次的なものばかりが、書き綴られ、本質的な解決ではなく、別の事柄への、警告のみが、発せられている。この本も、主題は、権力による監視であり、社会科学として、騒動を発端とする、この手の動きへの、警戒を論じる。戦時の監視と同様、騒動の中でのものも、権力が、都合良く利用し、その維持と結び付けることで、大衆の不利益を、招くという論旨だが、騒動自体への理解は、当然ながら、不十分であり、監視とその手法にしか、目が向いていない。問題は、根拠である騒動と、監視の必要性が、直結しておらず、論旨自体が、暈けてしまったことで、主張が、弱まったことだ。感染拡大が、どう起きるのか、知らぬままに、行った監視は、無駄だったと、断じる訳でもない。ただ、監視の危険性を、掲げただけだ。
日々、発表される数字に、一喜一憂を繰り返して、早2年半。最近は、大きくなるばかりの数字に、緊張感を、露わにして、伝える姿にも、実は、慣れっことなってしまった。となれば、恐怖を煽る道具として、役に立たないばかりか、却って、逆効果さえ、産み出しかねない。
その一方で、現場の混乱が、高まるだけでなく、長く続くことで、疲弊が、極まってきた。数字の増減ばかり、追い掛けても、何の解決も見えず、業を煮やした人々は、他に目を向けさせる、手立てを講じる。法律で、規制してきたものを、大きく変えようとしたのだ。だが、ここでも、触れたように、報告の仕方を、変える為には、まず、法律改正か分類変更の必要が、ある筈なのだ。それについて、改めて、考えてみたい。感染症法では、感染症は、その症状や伝播の性質から、幾つかに分類される。当初、結核などの重篤な呼吸器感染症と、同様に分類されたが、変更への要望が、高まる中で、別の分類へと移された。だが、根本的な内容に、変化はない。検索で示される、監督官庁の資料では、以前の分類表が、示されるが、現行のものは、別の所にあり、分類ごとに、該当項目が、示されている。すぐに気付くのは、旧来には、無かった項目が、加えられたことで、「無症状病原体保有者」と呼ばれるものだ。これが、今回の騒動の中心にある、検査陽性者に当たる。発症者のみならず、これらの人々を、入院させるという規制が、現場の混乱を、招いた訳で、これを変えずに、小手先の誤魔化しは、更なる混乱を、引き起こすだけだ。では、現場の状況は、どう変わりつつあるのか。ある自治体では、報告義務のある感染症について、週ごとに、発表しているが、新型コロナについては、別に説明を加え、掲載している。だが、依然として、陽性者という、得体の知れない集団を、対象としたものであり、これでは、混乱が収まる筈が無い。だからこそ、法律を変えるべき、となる。
当初の目論見が、大きく外れたことで、何が起きたのか。短期間で、感染爆発が、抑えられた、前回の騒動でも、はたまた、世界機関の発表が、初めから、大誤算となった、新型流行性感冒でも、平静を、取り戻したことで、実は、何事も無かったかの如く、人々の記憶に、残らなかった。
一方、今回の騒動では、二度の失敗から、学んだからか、慎重に、事を大きくする為の、筋書きが、準備された。まずは、全数検査の導入が、不可欠とされ、多数の論理を、適用できたことが、重要と見られる。次に、母数が増すことで、犠牲者の数も、一見、膨大な数と、見做すことが出来、それにより、騒動は、膨張した。更に、関係者にとり、幸いだったのは、想定以上に、広範囲に伝播したことで、飛び火する恐怖が、効果を、増大していった。しかし、これは、諸刃の剣となり、感染力の増大は、検査による制圧を、不可能なものとした。結局、初めの筋書きは、期待通りの展開には、転じられず、結果として、手に負えないもの、との印象を、与えただけとなる。それを、悪化させたのが、治療法に対する、誤解だろう。不治の病の如く、手の施しようが無い、と見る向きが、当初、大勢を占めていたが、現実には、殆どの発症者が、回復しており、犠牲者の割合は、かなり小さなものだった。劇症化したものを除き、殆どが、単純な肺炎を呈し、既存の治療法で、対応できたからだ。この数値は、実は、殆ど触れられず、騒ぎに乗じる、専門家にとって、不都合な事実となった。それでも、ワクチン接種が、期待通りの効果を、上げてさえいれば、筋書きは、上出来となったろう。こちらも、免疫獲得に関して、期待外れの結果となり、理解不能の説明により、事を複雑化した。要するに、この類の感染症に、携わる専門家は、病気の本態を、理解しておらず、ただ騒ぐだけの、蒙昧に過ぎないのだ。総括は、不可欠だろうが、行われそうにない。これまで同様、記憶にも記録にも、残らないのだ。
「終わり」が見えた、との発表も、具体的に、何がどう変化したのか、さっぱり分からず、科学的根拠も、論理も、全く見えてこない。死亡者数が、減少したとする見方が、示されたとされるが、その何処に、「終わり」の兆候が、あると言うのか。幕引きの台詞のようだ。
世界機関は、このまま、恐怖の病原体を、掲げておきたいらしい。それにより、世界的な保健水準を、保つ為の資金を、確保したいからだ。一方、そのお零れに預かる、製薬業界も、感染症専門家も、如何に、金蔓を、握り続けるか、算段に、余念が無い。一度築かれた、この手の図式は、簡単には、崩れそうに無い。成る程、死への恐怖は、安定な生活を、手に入れていた、先進国の富裕層に、強烈な衝撃を与えた。だが、それとて、長くは続くまい。だからこそ、この国や周辺の国を除き、多くの国々が、以前の状況に戻り、別の要因からの、物価上昇に、悩まされるものの、日々の生活を、ある程度、楽しめるようになっている。ただ、次の悲報が、何時届くのか、恐れが消えた訳では無い。一方で、恐怖を減じるとされる、接種自体も、効果の程は、定かではなく、特効薬も、見当たらない中、安心は、まだ手に入っていない、と思う人も居る。だからこそ、基本に立ち返る必要が、あるのではないか。度重なる失策に、世界機関や政府、それに加え、専門家達への信頼は、失墜し続けた。その中で、現象としては、終息に向かい始め、「終わり」が、語られるようにさえなった。だが、今後の対応として、何をすべきか、指針さえ出せていない。失態の最大要因は、感染を、抑え込む為として、学界から出された、検査方法の提案が、根本から、間違っていたことにある。発症者を対象とせず、全員検査を、断行したことで、抑え込めるという目算は、大きく外れた。だったら、それを止めるのが先だ。ただ、この国では、分類変更を、先にせねば、論理は成立しない。発症者の隔離より、看護を優先する。