パンチの独り言

(2022年10月3日〜10月9日)
(しかるべき、本来の力、茶番、優先すべきは、果ては、転職したい、自己満足)



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10月9日(日)−自己満足

 科学への信頼を、失った人々に、共通する特徴は、何だろうか。日々、繰り返される、極端な言説に、それが、垣間見える気がする。それは、自らの論に、酔い痴れる姿で、確かな根拠も、筋の通った論理も、一切無いままに、極論を振り翳すのだ。失ったものに、気付く気配も無い。
 何故、このようなことが、起こるのか。不思議に思う人も、居るだろう。だが、これは、今、突然始まったことでは、決してない。以前から、そういう性向を、示していた人が、今この時ばかりと、勢い付いただけのことだ。そこに、科学の信用性が、がた落ちとなり、好き勝手な言説が、罷り通ることと、なっただけのことだ。ある程度の思考力を、有する人々は、この成り行きを、馬鹿げたこと、と眺めているが、手にした端末から、発信する自説に、酔い痴れる愚か者達は、互いに、同調し合って、我が天下を、満喫する気分だろう。遊びの一つ、と見做しておけば、大事とはならず、問題無しと見ることもできる。だが、一切の懸念が、無い訳でもあるまい。こういう無責任な行動を、野放図に、放置し続ければ、社会全体の自由と責任の均衡は、大きく崩れてしまい、無法地帯が、広がり続けるからだ。それ自体も、好き勝手に振る舞う人々には、何の不都合も無い、と映るだろうが、現実には、その傾向が募れば、社会崩壊が、始まりかねない。そんな心配も、今この時を、我が天下と、楽しむ人々には、届きそうもない。科学を否定することで、自分を強く肯定し、反論を、排除することに、躍起になる人々は、実は、他人との協調性を、著しく失いかねず、集団行動が、できなくなる。自己満足の世界を、築くことに、腐心する人達は、狭い世界しか、見えておらず、僅かな数の主観しか、持ち合わさない。これでは、客観が導かれることなく、社会から孤立する。仲間だけから成る社会で、十分だとの思いは、自らの過ちに、気付くことなく、突き進むだけだろう。さて、どうしたものか。

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10月8日(土)−転職したい

 終身雇用が、当たり前だった時代、人々は、安定を求めて、年功序列に従い、地道な企業活動を、続けてきた。高度成長期と呼ばれ、年々の成長に、伴われていれば、雇用者側にも、被雇用者側にも、有利な仕組みだった。そこに、風船が、弾けたことで、事件は起こった。
 成長が、約束されなくなり、時に、破綻さえ起きるとなれば、人々の不安が、募り始める。一方で、企業にとっても、存続が危ぶまれ、業績を追求せねばならず、同じ要員を、働かせ続けることが、必ずしも、吉とは出ない、時代となると、人材育成より、人材確保が、重視され始めた。当時、中堅以上の人材を、他から調達する動きが、強まっており、それは、ヘッドハンティングと呼ばれた。だが、そんな環境下でも、この国の企業は、派手な動きを嫌い、育成を続ける、との方針を打ち出した。一方で、外資系企業は、あからさまに、人材の引き抜きを行い、風土に慣れた、経験豊かな人々を、迎え入れていた。対象となった人々にとり、実力を、正当に評価されることは、年功序列を、頑なに守る組織より、魅力的に映ったろうが、現実は、甘くは無かったようだ。人の能力は、年齢に応じて、様々に変化し、一方で、要求される能力も、地位に応じて、変化し続ける。そこでのずれが、転職によって始まり、歓迎された組織は、その時の能力を、評価したものの、その後の能力に、満足しなかった。そんな悲劇が、多くの人によって、演じられた結果、また、落ち着きを、取り戻していたが、最近、中堅は勿論、若手でさえ、転職を促す動きが、強まっている。誰しも、正当な評価を、受けたいと願うものだが、それが、客観的に正しいかは、別の問題となる。絵空事で、演じられる物語が、広告では、流され続けるが、果たして、自分はどうか、考えねばならない。一方、経営陣の転職で、起こった不祥事には、明白な過ちがある。同業他社への転職は、嘗ては厳しく制限された。理由は、これだろう。

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10月7日(金)−果ては

 狡猾な人間が、独裁政権を築けば、どうなるのか。これまでは、小説の世界でしか、見られなかったものが、今、現実に、進行している。社会主義では、独裁化が、容易に起きると、警戒され、大国化した隣国は、その節目を、迎えている所だが、嘗ての社会主義国も、似て非なる状況だ。
 一党支配から、自由国家となった時、本来なら、全く別の展開が、予想されていた。しかし、そうなった場合には、統制が取れず、今、混乱している国々同様に、深刻な貧困が、起きていたかもしれぬ。それに比べ、党による支配は、解けたものの、変わって登場した独裁者が、手を替え品を替え、支配体制を、存続させる中、実は、国民の生活は、困窮した社会主義時代より、遥かに、良好な状況にあった。但し、自由と責任の均衡は、統制されない中、大きな格差を産み、庶民の不満は、徐々に高まりつつある。となれば、体制維持には、目を逸らすことが、必要となる。これが、嘗ての同盟国を、再び、支配下に収めようとする、動きへと繋がった。一度、断ち切られた、南下政策の要衝を、多重の謀略の末、手に入れたのは、独裁者に、強い満足感をもたらし、その結果、更なる報酬を、手に入れようと、始めたのが、独立国家容認から、奇怪な呼び名をつけた、軍事侵攻へと繋がる、一連の茶番だろう。二匹目の泥鰌を、手にしようと、今回も、様々な画策を、講じてきたが、前回との大きな違いは、敵対勢力の動きが、急だったことと、侵攻された国が、一時の劣勢を、大きく挽回したことだろう。軍事支援が、その理由の一つだが、二度目となり、独裁者が、安易な見通しを、立てたことが、最大要因だろう。どんな結末を、迎えるかは、神のみぞ知る、としか言えないが、ある意味、想定通りに、併合にまで漕ぎ着けたことは、目標達成を、思わせる。だが、その代償は、予想以上に大きく、国内外に、大きな歪みを、生じてしまった。逆に言えば、もう戻れない、袋小路に入った独裁者、どうなる。

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10月6日(木)−優先すべきは

 普通に暮らしてきた人間にとり、企業経営に携わる人々の、行動は、理解に苦しむもの、という印象がある。確かに、人の上に立つことは、多くの難題を抱え、その解決に向けて、大きな決断を、下す必要があるから、並の精神力では、務まらないものだ。しかし、その一方で。
 近年、企業の倫理や道徳などが、特に、大きく取り沙汰されるのは、幹部達の行動が、規範外のものと、なっているからだ。利潤追求が、第一とされる中、従業員より、株主を優先させる、考え方が強まり、社会規範から、外れた考えでも、利益を上げさえすれば、許されるという空気が、満ちてきた。その中で、優秀な経営者は、法律擦れ擦れどころか、仮令逸脱していても、見つからねば、構わないという方針を、打ち出すことで、他よりも優れた、成績を収めてきた。だが、違法行為となれば、当然、罰せられることになり、折角築いた業績も、消し飛んでしまう。飲食業界の、経営者の転籍に伴う、数々の情報漏洩は、その典型に違いない。また、鳴り物入りで、迎えられた経営者が、期待通りの成果を、上げられず、去ることとなった事例も、数多くあり、特に、一代で築いた企業の、後継者に、多く見られるのは、偶然ではあるまい。ワンマン経営と、企業全体の協力体制による経営には、大きな違いがある、と言われるのも、こんな背景があるからだろう。結果が良ければ、どちらの体制であっても、構わないことだろうが、実は、その手法は、大きく異なる。誰に、経営を頼むかは、そんな要素を、考えた上で、決めるべきことだ。ただ、今回の事件は、罪を犯した人間のみに、目を向けるだけでは、事は済まない。企業体質、と呼ばれる、全体としての考え方が、漏洩をさせ、それを許したことに、繋がっているからだ。社会的な責任が、強く求められる時代、ただ単に、利益追求を、前面に押し出すのでは、経営は、成り立たないだろう。倫理、道徳を、第一とせねば、責任は果たせない。

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10月5日(水)−茶番

 以前なら、詐欺の被害に、遭わない為には、相手の信用性を、見極める必要がある、と言われていた。だが、多くの人間にとり、詐欺は、ごく稀なことで、目の前の人間を、値踏みする必要は、殆ど無かった。でも、今はどうか。情報が氾濫し、その真偽を見極めねばならぬ。
 相手が人間なら、様々に問い質し、綻びを、見つけることが、出来るのだが、情報は、単なる文字列だったり、画像などの視覚情報だったりする。これらに、問い質そうにも、送り手に、直接接することもできず、やはり、情報そのものから、判断するしかない。人間相手の話との違いは、こんな所にもあり、意思疎通とは、違った手法が必要となる。では、何から、始めたら良いのか。今、巷で盛んに飛び交う、真偽に関する情報は、その多くが、無意味なものと映る。例えば、映像で紹介される、事実に関して、それを取り上げる方は、これこそが、真実だとするが、反対する側は、別の事実を、映像として伝え、嘘と断じる。この遣り取りは、特に、社会媒体で、横行するものだが、どちらを見ても、それ自体は、事実だろうし、嘘ではない。となれば、どちらを信じるか、と考えてしまうが、それでは、真偽の見極めを、放棄したこととなる。信じるか、信じないか、という選択肢は、この世界で、盛んに使われるが、そこには好悪に似た、判断基準しかなく、真偽とは異なるからだ。その上、映像自体を、捏造する輩まで登場しては、如何ともし難い。映像で、真偽を判断するのは、やめておいたほうがいい。では、他には、どんな手立てが、考えられるか。もし、数字が示されれば、それを判断材料に、してはどうか。先日、軍事侵攻した地域で、併合への手続きとして、住民投票が行われた、と報じられたが、そこで、互いに流した映像は、所詮、切り取ったものに過ぎず、どちらも、事実なのだろう。一方で、賛成率ではなく、投票率に目を向けると、異常な数値が、判断の助けとなる。茶番だと。

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10月4日(火)−本来の力

 未曾有の騒動により、科学への不信感が、広がったのは事実だろう。次々に、繰り出される、新技術の結晶たるものが、何の役にも立たず、時に、害悪を広げ、犠牲者を出した、とまで言われれば、誰もが、それまで抱いてきた信頼を、裏切られた、と思うのが、当然なのだ。
 それでも、世界は、平穏を取り戻しつつある。これは、結局、科学が、役立ったからだろうか。今、こんなことを、言い出せば、何を惚けたことを、と揶揄されてしまう。確かに、世界機関も、各国政府も、専門家達も、自分の判断が、誤っていたとは、誰も、認めたくないし、認める筈も無い。だが、数から言えば、犠牲者の数は、感染症そのものだけでなく、それへの対抗策として、鳴り物入りで登場した、接種に至っては、様々な悪影響が、報じられてきた。特に、社会媒体の世界では、大事であれば、一つだけでも、大きく取り上げる傾向が、非常に強いからだろうが、さも、大ごとのように、扱われてきた。現実には、数として、ある程度の水準に、達したことは、事実だろう。だが、それまでの、各自の判断に、任されていたものと、同等に扱うのは、どうかと思う。特に、この国のように、死への恐怖を煽り、危機感を煽った上で、半強制的に、大衆に接種を要請した場合、母数が大きくなれば、確率的に低い事象も、確かな数字となって、表面化する。これが、一大事か否かは、事象の数ではなく、やはり、確率で、論じなければならず、その意味では、今回の騒動の、一大事として、取り上げる程には、達していないと言わざるを得ない。科学への不信を、露わにするのは、個人の自由だが、その罪を、弾じる上で、非科学的な論法を、矢鱈と展開するのは、愚の骨頂だろう。今更、科学との離別を、宣言できる筈も無く、また、その恩恵に浴しつつ、ある特定の事柄だけを、糾弾するのも、馬鹿げたことだ。今回の騒動は、生き物本来の能力が、発揮された結果、平穏に戻っただけなのだ。

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10月3日(月)−しかるべき

 人を育てる方法には、様々あると言われる。背中を見せるのは、もう死に絶えたと言われる手法で、最近は、懇切丁寧に、伝えるべきとされる。一方で、子供や若者達には、伝えるにしても、褒めて育てるのが、最適と言われた時代もあった。今は、怪しいもののようだ。
 理由の一つには、飲み込みの早い人間には、進歩を後押しすれば、更なる進展が、期待できるからだが、当てはまらぬ人間には、褒めようがないことと、繰り返される失敗に、別の対処、つまり、失敗を指摘し、叱ることこそが、重要との考えが、あるからだ。傾向と対策が、整備される時代には、本来なら、決まった道筋を、順調に歩ませる為に、応援という、褒める行為が、重要となると考えられたが、よく見ると、多くの人々が、地道に歩むことより、手っ取り早く、進むことを望み、結果として、不正を繰り返す、という傾向が、目立ち始めた。抜け駆けと呼ばれる行為には、時に、倫理や道徳に反し、法律を犯すことさえ、起きてくる。成人すれば、犯罪となり、罰が与えられるが、子供のうちは、大目に見る向きも多い。かと言って、その過ちを、指摘しないまま、時に、褒めたりしたら、とんでもないことが、起きかねない。叱り方にも、様々あろうが、間違いは、間違いとして、指摘すべきと思う。ただ、皆の前で、公開処刑のような、叱責をすべきかは、別ごとだろう。昔から、子供の想像力を、伸ばそうとして、盛んに、標語を作らせたり、絵を描かせたりする。以前なら、真似るものも、身近にしかなく、目の届く範囲に、留まっていたが、今は、情報社会となり、あらゆるものが、全世界から、取り寄せられる。その中で、真似することは、周囲の注意の範囲を、超えてしまい、豊かな想像と、単なる模倣が、区別つけられなくなっている。不慣れな大人達は、こんな状況でも、純粋無垢な子供との、先入観から、褒め続けようとするが、不正に手を染めたら、やはり、叱らねばならぬ。

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