何も考えずに、指示に従った人々は、当然、褒美を期待した訳ではない。だが、施政者達は、理不尽なことを、市民に押し付けるに当たり、報酬こそが、重要との判断を、下していたのだろう。それが、金のばら撒きや、何らかの資格となって、世界各地に、起きてきた。
無駄遣いを、批判する声が、あるものの、実は、大したことはない。それより、報酬が必要、と判断した理由が、理不尽さにあることに、問題があるのだ。物事を、合理的に考えれば、ここ数年の間に、世界各地で巻き起こった、騒動の大部分は、まさに、理不尽そのものだった。当初、封じ込めと称する、検査と対策の組み合わせが、功を奏する、と見込まれた。だが、発生源とされた国でも、その後の、悲惨な伝播が起きた国々でも、殆ど全ての手立てが、見事に、当てを外し、感染拡大を、食い止めることは、叶わなかった。その困難を、打ち砕くものとして、鳴り物入りで登場したのが、ワクチンだろう。登場直後から、専門家と呼ばれる人々が、盛んに喧伝したのは、周囲の人々の為に、接種しよう、という掛け声だった。だが、その時には、既に、従来の免疫効果で、考えられていた、感染防止ではなく、発症と重症化を、防ぐ効果のみが、確認される中、陽性者の数は、一向に減らず、検査に追われる人々は、疲弊の谷に、落ちていった。理不尽とは、まさに、この流れを指す。合理性は、一切無く、話が違うとの声は、様々に上がっていた。それに、輪を掛けたのは、初めの見込みから、接種が、感染を防ぐと判断し、接種者には、移動制限を、外すとした、多くの国々の判断で、今でも、それが適用され、理不尽の極み、と化している。同様に、この国でも、旅行振興への動きとして、補助金の復活が、進んでいるが、ここでも、その資格に、接種済みを、採り入れた。理屈の通らない、馬鹿げた施策は、早晩、消え去るだろうが、報酬云々に、触れることは、まさに、非条理の典型だ。
安全・安心を、目指す社会こそが、理想のものと思う人が、居るらしい。随分前から、非論理的な目標に、批判を浴びせてきたが、未だに、無くならないのは、何故だろう。おそらく、人々の心に巣食う、悪意が、形を成したものだろうが、一方的な要求に、耳を傾ける価値は無い。
命を脅かす、恐怖の病原体が、世界に撒き散らされ、大衆は、恐れ戦いた。だが、死への恐怖は、当然のものと見る考え方には、重大な欠陥があった。誰もが、何時かは、死を迎えるという、定めについてで、それが早まるか、生き存えるか、の違いに過ぎない。この身勝手な考えの、背景となっているのが、安全・安心という目標で、その達成こそが、誰もが、安全に、安心して、暮らすことができる世界、という意味となっている。だが、生活における、安全と安心には、全く別の見方がある。それは、ある程度の安全と、ある程度の安心という考えで、その達成ならば、既に、多くの国々が、できていると言えそうだ。なのに、程度を弁えず、極端なものを、乞い願うのは、如何なものか。天変地異に関しても、多くの重大事故に関しても、常に、その危険性を、完璧に取り除くことこそが、究極の目標、と掲げられる。逆に言えば、この不埒な考えさえ、捨て去ることができれば、物事は、簡単に片付けられる。ある割合までの、制御であれば、造作もなく、達成できるものの、全く起きない、という目標は、確率で論じる限り、不可能となる。特に、人為的なものであれば、まだしも、科学でさえ、理解しきれぬ、自然現象を相手には、不可能でしかない。誰もが、理解できる筈だが、今の世界では、そういう指摘に対し、耳を傾けず、ただ、闇雲に、自らの要求を、出し続ける人が、社会媒体の世界には、巣食っているようだ。一方、ある思惑から、こんな連中に、寄り添う人間が、専門家として登場する。無視することは、実際には、難しくないが、狂った仕組みの中では、不可能となりつつある。
では、元は、どうだったのか。長く盲従してきた人にとり、思い出すことは、不可能かもしれない。だが、何も考えずに、ただ従うだけなら、元も、そうだったろう。何も、考える必要は無い。同じように、世間が決めたことに、従えばいいのだ。嫌だとか、苦しいとか、言わずに。
でも、如何に、世間体を気にするにしても、この状況は、流石に、御免蒙る、と思う人も多い。こちらに関しては、もう少し考えて、元がどうだったのか、思い出して欲しい。皆で渡れば怖くない、と世間体に従っても、時に、身勝手な都合を、引き合いに出してきた人なら、少しは、自分で考えるだろう。その上で、従うべきとなるなら、そうすべきだろうし、もし、別の行動をしたい、と思うのなら、それもありとなる。選択の自由は、自由主義社会では、保証されたものだが、この国が、これまでに歩んできた道筋では、お上に従うとか、皆と同じが良いとか、そんな選択肢しか、持ち合わせない人が、大部分だった。だが、ここまで、生活が脅かされ、自らの健康が、危機に陥ったとさえ、思えてくると、安閑とはしていられない。状況判断も、自分なりに行い、決断も、自分で行うべきだろう。ただ、その中で、耳を傾けるべき人物や組織を、決めておけば、ある程度、安心が得られるだろう。それでも、端末に飛び込む、種々雑多な話の中には、他人の気分を害し、危機感を煽るような言説が、溢れている。それらを、取捨選択した上で、自分なりの判断を、下す為には、別の感覚が、必要となる。例えば、冷静に、論理的に、物事の本質を、見極めた上で、参考にすべきか否かを、判断する力は、どんな時にも、役立つものだ。一方、民主主義とは言え、全てを、多数決で判断する、という考え方は、危ういものとなる。愚民政治の典型が、それに当たるが、一見、集団による正当な判断を、目指しているようだが、その多くが、暴走の果てに、破滅へと堕ちていく。自分の納得を、優先すべきだ。
自粛と称する、強い圧力の下、人々は、窮屈な生活を、強いられてきた。状況が、好転したか否かは、定かでないにも関わらず、世間は、全体として、動き始め、外出も、混雑下での行動も、殆ど制限されず、自由に振る舞うことが、可能となった。一つを、除けば、だ。
政府や専門家は、慌てて、説明を繰り返すが、大衆は、頑なに着用し続ける。先日も、ある公園に出かけたが、そこに来た殆どの人々が、口を覆い、黙々と歩き回っていた。説明では、他人に近づき、会話を繰り返す以外には、屋外では、着用の必要が無い、としているが、現実には、聞く耳を持たないかの如く、ほぼ全ての人々が、着用を続ける。街頭で、質問されても、皆がそうするから、とか、怖いから、とか、まるで、安全安心の経文の如く、理にかなわぬことを、繰り返すだけだ。一方で、社会媒体の世界では、全く別の極論を、展開する人々が居る。悦に入って、非合理的な論法を、批判し続けるが、彼らが、引き合いに出す内容は、愚の骨頂でしかなく、敵対する人間を、罵倒するだけで、こちらも、合理性の欠片も無い。大衆の罵り合いには、屡々、こんな光景が、見られるが、理、ことわりとは何か、意に介さぬ人々には、こんな遣り取りが、精々なのだろう。圧力をかける、政府や専門家も、所詮、合理性に基づく、説明を施せず、内容は兎も角、自粛の一言で、強い制限をかけ続け、市民を混乱に陥らせ、精神的、肉体的だけでなく、金銭的にも、窮地に追い込んだ。この長い疲弊期間の後、理由も無く、解放へと移り、物理的には、自由が手に入った筈だが、精神的には、蝕まれた状況にある。ここで、再び、急激な変化を、強いることは、必ずしも正しくない。まずは、選択の自由を、保証することこそが、重要であり、自らの行動規範に、基づいた決断を、下せるように促すべきだ。その中で、合理性を、説明してこそ、元の姿に、戻る機会を与えられるだろう。元が、何にせよ。
市場原理、とよく言われるが、さて、市場とは何か。この考え方が、盛んに持ち出された頃、宰相に重用された、経済政策の責任者は、何かと言えば、これを根拠に、自らの愚策を、断行してきた。だが、彼自身の、小さな世界に留まり、世界の市場には、無関係だったのだ。
その表れの一つとして、引き合いに出されるのは、企業破綻の姿だろう。本来、市場原理に従えば、業績悪化は、即座に、破綻へと繋がり、企業としての存在を、消し去るものだ。だが、この国の慣行に従い、破綻させるより、存続させることで、一部の利益を、確保しようとした。破綻をも、自在に操るという、政策の何処が、市場原理なのか、作為だとしたら、詐欺師以外の何者でもない。だが、彼自身も、自らの発言に、何らかの信念を、持ち合わせた訳でもなく、単に、先進国の模倣を、繰り返しただけだ。底の浅い、真似事では、様々な歪みが、生じ始めて、下り坂を、進んでいた国は、回復への端緒を、見つけるどころか、その勢いを、増しただけだった。その後、新たな掛け声で、回復を果たしたとされたが、それとて、薄氷の上で、演じられるに過ぎず、今も迷走が続く。市場原理は、経済において、最重要要素だが、その一方で、言い訳に用いられる。軍事侵攻と、それに対する制裁から始まった、世界の混乱は、物価上昇に、繋がったと言われる。ここでも、需要と供給の均衡が、崩れたことが、その端緒と言われるが、例えば、小麦の価格変動は、一時的な上昇を過ぎ、既に、以前の値に戻っている。にも拘らず、依然として、市場価格が、上昇を続けるのは、何故か。輸送費が、という解釈は、何処迄通用するのか。原油価格は、その要因の一つだが、減産を決めることが、価格維持に、影響するという考えも、需要と供給だとされるが、理解に苦しむ。特に、需要が伸びず、余剰を減らす為なら、価格への影響は、殆ど無いだろう。作られた市場原理に、どんな意味が、あるのだろうか。
科学が、大衆の信頼を、失い続けている。盛んに、そんなことを、書いてきたが、何故、と思う人も多い。世界中の誰もが、日々、科学技術の成果に、触れており、その恩恵に浴している。その状況では、科学を信じる人が、居るのが当然で、裏切られた、などと思わない筈だ。
だが、端末を手に、意見交換する人々は、今、世の中で、根拠とされる事柄の、根幹を成す筈の科学を、完全否定している。何処に、違いがあるのか。最大要因は、科学の営みが、崩れたことにある。証拠に基づき、そこから築ける、論理を展開することこそが、科学の役割だった。だが、今回の騒動では、証拠自体が、操作されたものと、糾弾されており、営みの基本が、崩れたように見える。一方、以前から、様々な科学の成果が、害悪を招くことが、問題視されており、大震災後の発電所の事故は、その典型として、槍玉に上がっている。何方も、現実には、人為的な災厄であり、科学そのものの、責任では無い。がしかし、批判する人々は、此れ幸いと、攻め立てているのだ。では、信頼回復は、図られているのか。今回の騒動で、物議を醸した発言を、繰り返してきた人物は、依然として、枢要な立場を保ち、強い発言権を維持している。最近の発言では、着用と接種の問題を、さも重要の如く、主張を展開したが、その中で、根拠としたのが、社会媒体での、ある人物の発言となれば、薄弱さが、際立つように見える。特に、あの仕組みでは、自由討議が行われ、極論や妄論が、強調される傾向にある。大衆向けの、話題提供のつもり、だとしたら、余りにも未熟な判断で、呆れてしまう。科学の営みでは、研究発表の場での議論こそが、その根幹を成すものとなり、証拠や根拠を示し、その妥当性を論じることが、不可欠である。だが、社会媒体では、その機会は無く、身勝手な言説が、罷り通る。大衆に寄り添う姿勢を、見せたつもりか、今回の主張は、彼自身の能力の無さと、重用する人々の、判断の甘さを、露呈したものとなった。
身勝手な論説が、ばら撒かれ、拡散しても、何の問題も起こらない、と主張する人々が居る。一部の有識者は、非常識で、馬鹿げた論理は、すぐに、その誤りが暴かれ、消滅すると言うが、今の時代、非常識はそちらも、と思える状況であり、放置することは、過ちとなる。
言論が、一部の人達に、独占された時代、愚論も妄論も、悉く、抹殺されてきた。仮令、同好の士の間で、好んで使われたとしても、それが、大衆の耳に、届くことは無かった。だが、殆どの人が、手にする端末から、意見が発信され、受信される時代には、そんな統制は、何の効力も持たない。特に、社会媒体と称する、一部の仕組みでは、同好の士が、互いに褒め合い、推奨する、一種の無限ループが、設けられ、それにより、多数意見が形成されるから、恰も、それが世論の如く、扱われてしまう。そこに、危険性があり、警告が発せられるが、根拠の有無や、論理の確かさではなく、ただ単なる、好き嫌いで、判断する人々には、そんな警句が、届く筈も無い。その上、妄論が、多くの賛同を得れば、その勢いは、更に増し、奇想天外な論さえ、発せられることになる。好悪の基準は、人それぞれに、違う筈だが、互いに高め合う関係では、ある方向に、突き進むことが、起きてしまう。本来、根拠や論理の大切さは、こういう暴走を、抑える為に、あったのだろうが、科学が、その信頼を失ったことで、そんな歯止めは、働くことなく、逆に、火に油を注ぐ、状況さえ招いている。一部の良識者は、それでも、批判を繰り返すことで、非常識を戒め、非論理的な言説を、否定しようとする。だが、多勢に無勢は、否めない。元々、論理の重要性を、認識させる為の、大前提は、科学的な思考を、身に付けることだが、今の状態では、その前提が否定され、無視することこそが、本質的とする、誤認が広がっている。なお、肝心の科学が、正常に動かぬのでは、解決の糸口さえ、見つからない。