何故、人間は、悲観的な話に、惹かれるのだろう。確かに、最悪の事態を、想定することにより、その危機を、回避してきたからこそ、ヒトという種として、生き延びてきた、と言われる。だが、今、話題とする悲観には、そんな気配は、微塵も、見えてこない。絵空事なのだ。
将来への不安を、口にする人の中で、それを、心底、真剣に見つめる人は、どれ位居るのか。日頃、耳にしたり、目にしたりする、話題の多くから、そんなことを、思い浮かべてしまう。何故なら、そういう人間に限って、何も深刻に考えず、自ら、問題解決を図ろう、とはしないからだ。それより、権力を批判したり、周囲に、不満を打ちまけたり、他力本願でしかなく、自力での解決は、無駄と決めつけ、動こうともしない。そんな人種にとり、悲観話は、格好の話題なのだ。今、世に溢れるものは、ついこの間までなら、死の病への恐怖、だったのだが、一向に、埒のあかない展開に、興味が薄れたようで、また、将来への不安が、頭を擡げ始めた。中でも、生活不安は、格好の材料を、提供してくれる。老後の生活において、頼みとなるのは、大家族の時代なら、子供達との生活だったが、今は、核家族と言われて久しく、家族の数は、齢を重ねるごとに、減り続ける。その中で、生活を維持する為には、それなりの資金が必要で、蓄えは当然のこととして、それに加えて、国から支給される年金は、欠くことのできないものだ。だが、世間では、盛んに、その制度の破綻が、伝えられる。漸く、支給される年齢に達しても、微々たる金額に、唖然とする一方で、必要となる総額は、寿命が伸びる度に、膨らみ続ける。そこに、制度破綻が、降りかかれば、潰されてしまう、と思うのも、無理のないことだ。だが、彼らの根拠は、実は、多くの仮定に基づき、それも、悪い方に限ったもので、妥当とは思えない。逆に見れば、取るに足らない、とも言えそうだ。一部を除き、聞き流せば、いいと思う。
囀りの場でも、発言するようになってから、数年が経つ。元々は、独り言の存在を、知って欲しくて、始めたものだが、発言数は、一向に増えていなかった。この騒動が始まり、一部の人々が、無責任な発言や、根拠の無い発言を、繰り返す一方、正当なものがあり、賛同の意味で発言した。
当然、独り言と同様に、同じ名前で、匿名という形にしている。その意味は、何度も書いたように、無名の人間でも、発言の真意は、十分に伝わるし、内容の真偽は、実名か否かによらず、判断できるからだ。また、実名で、地位も名誉も持つ人間の発言では、多くの人々は、そちらに目を奪われ、発言の真偽の判断が揺れる、という理由もある。先日、囀りで、ある在外の医師の発言に対し、問題点を指摘したら、見事に無視しただけでなく、匿名を批判し、他の人々同様に、名を隠すことの、不当性を書かれた。その上、話の繋がりを断ち、別の発言を始めて、自らの正当性を、主張していた。別に、その程度の人間と、見做しておけば、それで済む。だが、この人物は、何か特別な理由でも、あるのでは、と疑いたくなる程、国内の医師達の言動に、厳しい目を向けている。実名で、発言していた人物が、姿を消せば、他の人間と共に、憶測を飛ばし、一方で、匿名の人物には、名を語れと言わんばかりに、糾弾し続ける。囀りの場での、匿名性は、多くの場合、非合法行為の、温床となっているが、その一方で、正論も多く見られる。何度も書いたように、名を隠すことが、不正行為と、直接繋がる訳では無い。確かに、それを利用する、不埒な輩は、何処にでも居るが、今や、完全な秘匿は、不可能だ。嘗て、2ちゃんねると呼ばれた、自由発言の場で、誹謗中傷が、盛んに行われたが、対象者が、実名で反論し、解決した事例があった。一方で、囀りでは、実名での反論が、炎上を招いたことが、何度もある。実名か否かは、この世界で、発言者本人の心理以外、何の意味も、持たないと思う。
合理とは、「理」に、合致することだ。だが、今の世の中、好き勝手な理屈を、通す人々が、余りにも多くないか。自分だけに、通じるものは、決して「理」ではなく、屁理屈でしかない。それを、振り翳して、立てられた論理は、皆に通じる筈もなく、世迷い事でしかない。
他国への軍事侵攻と、それに対する制裁に、始まったと言われる、原油の高騰だけでなく、ある地域では、天然ガスの供給不安をも、引き起こしている。世界的な、燃料の供給不安は、庶民の生活を、脅かしており、各国政府は、政策変更を、余儀なくされた。その最たるものが、電力供給だろう。発電様式に関して、循環型の世界を、築くべきという考えは、再生可能なものへの、転換を急がせていた。その一方で、安全・安心を、訴える声は、ある発電形式の、撤廃への道筋を、つけさせたと言われる。これらの中で、崩れかけた均衡に、燃料不足が、更なる混乱を、引き起こしたようだ。前首相が、撤廃を決めた国も、頼みの天然ガスが、潤沢な状況から、不足が明らかとなり、その一方、再生可能な方式は、導入過程にあり、目標にさえ、到達していない状況では、政策転換に、迫られた。確かに、想定外の状況、と思える訳だが、実際には、多くの過ちが、その温床となっている。例えば、再生可能なものは、環境負荷が低い、と言われるが、その実、太陽光を転換する仕組みでは、経年劣化の果てに、訪れる廃棄処分が、どんな問題を招くか、誰も検討していない。これは、忌み嫌われた原子力が、最終処分を、発電経費に、組み込まれたのに対し、勘定に入れないのは、不可思議としか思えない。同様に、他の形式も、再検討を要する。一方、処分の仕方でさえ、一方的な理屈が、全世界的に、押し付けられており、疑いを挟む余地が、無いとするのも、非合理だ。所詮、人間の知恵は、足りないもので、合理を標榜しても、破綻するのが当然だ。無い知恵絞り、何とか、打開せねば。
社会制度の違いに、同意は得られるか。おそらく、多くの人々が、何を今更、と思っただろう。先進国の仲間入りを果たし、欧米化が、十分に行き渡る中、今頃、社会の仕組みが、違うなどと言っても、同意は、得られ難い。だが、健康保険も、年金制度も、同じだろうか。
少なくとも、海の向こうとは、大きく異なっている。健康保険は、あちら側で、新たな仕組みの導入が、進められる中、様々な障壁に、悩まされるし、年金は、大多数の国民が、不十分な支給に、資産運用により、補うことが、不可欠と言われる。だが、後者では、今後、この国の制度が、破綻するに違いない、と主張する人が、増え続けている。しかし、資産運用の必要性は、何方にとっても、確かなものだが、根本の仕組みが、やはり、異なっているのだ。相互支援は、個人主義の国々と違い、この国では、重要な要素であり、不可欠とされる競争は、実際には、無駄となる場合が多い。低迷が続く中、生き残りには、競争こそが、不可欠と言われ、多くの人々が、それを信じてきた。だが、一方で、共同体としての運営は、依然として、経営の基本であり、協力体制が、その核となる。更に、能力給は、競争原理の基本とされ、導入が、進められてきたが、一方で、年功序列が、大部分の組織で、残されている。これこそが、元凶の如く、批判されるが、ここにこそ、社会制度の違いの、源がある。特に、少子高齢化が、著しいと言われ、将来への展望が、無くなりつつある、と言われる国では、成長を、仮定することで、成立する仕組みは、その殆どが、崩壊するだろう。だとしたら、今の限られた中で、同程度の水準を、保つことを、最優先と、考えるべきではないか。そこには、狭い社会で、相互支援の中、競争ではなく、協力によって、互いの生活を、守ることこそが、重要となる。経済の基本は、成長の上に成り立つが、有限な環境では、限界が訪れる。だとしたら、この選択こそを、だ。
成り立ちの違い、何だそれは、と思っただろうか。若い世代にとって、閉塞感に満ちた、社会しか目にできず、国の将来に、期待が持てない、などと言いたいようだが、この国も、嘗ては、未来が明るく、止まる所を知らない、成長を続け、将来にも、十分に期待できた、時代があった。
それは、何処に消え去ったのか。そんな問い掛けを、受けた時に、多くの年配者は、「昔は良かった」と返すだろう。だが、その認識は、明らかに間違っている。この国の仕組みは、嘗てと、殆ど変わらぬままに、残っているのだ。だからこそ、迅速な対応がなく、重い腰を上げず、様子見が続く。思い当たる所が、あるのではないか。では、何が違うのか。先進国の仲間入りをし、その先頭に、立つとまで言われた、時代に、資本主義、自由主義で、成り立つ国を、眺めてみたら、こちらとの、明らかな違いに、気付かされた。確かに、同じ考え方で、成り立つ国なのだが、何処か違うのだ。飛び抜けた能力を、有する個人が、先導する仕組みと、同等の能力を、有する人々が、協力する体制との、違いとでも言うのか。誤解を恐れず、当時、表現したのは、これこそが、真の共産主義だ、との解釈だ。社会主義の下での、共産主義が、厳しく批判されたが、立案者は、もっと理想的な考えに、基づいていただろう。一方で、個人の活動が、許される環境下でも、皆が、協力して働くことは、可能である。その表れが、嘗ての、高度成長期の姿、だったのだ。島国の特徴として、共同生活は、その基本となる。社会全体も、互いの結び付きが、重要となり、時に、過干渉と言われる、息苦しい雰囲気を、醸し出していた。だが、その中で、生産性を高め、上を目指そうとする動きは、強まり続けたのだ。一部の欲望が、破滅を導いたが、その端緒は、年功序列を廃し、能力給の導入など、個人の評価を、優先する考え方が、台頭したことにある。その後の低迷も、同じ問題からだ。でも、基本構造が残ったままだ。
世界的な物価高が、続く中、収入増が、強く望まれている。早い所では、既に、基本給や最低賃金を、上げる国や地域が、出ているが、物価の上昇率に比べ、見劣りする、との指摘が多い。一方、この国では、例の如く、重い腰は上がらず、政府も中央銀行も、静観を続ける。
困窮する人々から見れば、その態度は、煮え切らぬもの、としか映らない。だが、経済を司る立場からは、全く別の視点が、持ち出される。それも、世界の趨勢から、恐ろしく、かけ離れたもので、何処か、別の世界の出来事、と見ているのか、と訝しむ声も多い。確かに、動きにおいて、先行する国々は、素早い対処を、行なっているように、見えてはいる。だが、それとこれで、どんな違いが、起きるのかについて、今知ることは、できない。何方の場合も、大いなる実験であり、正しい答えが、あるのかさえ、はっきりしないのだ。その中で、この国では、独自の路線を、歩んでいる。これは、中央銀行総裁の、判断に因る所が、大きいようだが、果たして、それだけだろうか。物事を、合理的に考えれば、先進諸国が、あたふたと立ち回るように、政府と中央銀行だけでなく、多くの企業も、対応を急ぐことこそが、肝要と見える。だが、それとて、所詮、急速な物価上昇には、後手に回るしかなく、時に、焼け石に水、となるしかない。というのも、社員の収入増は、企業にとっては、経費増となるから、当然、製品価格に、反映される。この図式は、一見、合理的に見えて、実は、事態の悪化を、加速しているだけ、となりかねない。一方、鈍い動きで、やきもきさせられる、この国のやり方では、厳しさが、一層深まるように思えるが、実際には、その深さは、ある水準で、止まる可能性がある。何方が、大衆にとって、好都合かは、すぐには答えられないのだ。ただ、何方が、適切だったのかは、早晩、明らかになるだろう。この違い、実は、国の成り立ちの違い、から来ていると思う。
大衆を操るには、恐怖を植え付け、怒りを煽ることが、肝心と言われる。政治手法として、歴史上で、何度も用いられ、国を挙げて、ある目標に突き進む間、この二つを、取っ替え引っ替え、繰り出すことで、効果を上げてきた、とされるのだ。今も、思い当たるだろう。
騒動の最中、盛んに使われた、死への恐怖は、その一つだが、一方で、怒りは何だろう。政府の方針に、従わない人々を、糾弾するのは、その一つだし、外に向かっての怒りにも、当てはまりそうだ。以前なら、国の方針は、一つの方向性しか、示さなかったが、情報社会の現代では、手にした端末から、多くの発信が行われ、それを受けて、怒りを催す人々が、社会に溢れている。となると、政に就く、一部の人間の、思惑通りには、事が進まず、反対勢力も、同様の手法を、用いることができ、世論操作は、拮抗した状態となる。多様な社会では、主張も多数となり、分散傾向が、強まってしまうが、二大政党から成る、政治体制を築く国では、両極化が強まり、互いに、強く啀み合う状況が、形成される。西洋諸国の中でも、二つの国が、それに当てはまり、現時点で、その戦いは、激化しているようだ。一つは、ごく最近、宰相の交代があった国で、政策転換により、物価高の窮地を、脱しようとするが、多くの財政対策が、頓挫しつつあり、短命を予期させる。一方、中間選挙を、間近に控える、海の向こうでは、その結果に、一喜一憂する姿が、浮かびつつあるが、実際には、一部の興味は、前大統領の影が、消えるのか、濃くなるのか、に集まっている。その分断という手法は、まさに、恐怖と怒りを、出し入れしたものであり、感情だけで、動き回ることは、本人にとっては、分かり易く映るが、他人の感情を、推し量ることは、容易ではない。独善的な人物だからこそ、この手法を、好んで使える訳で、周囲の混乱には、目を向けない。だからこそ、端末を手放さないのだ。どう転がるのか。