パンチの独り言

(2022年10月24日〜10月30日)
(多勢に無勢、陰謀、逆張り、偏向報道、逆転発想、誰の責任、窮屈)



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10月30日(日)−窮屈

 反則負け、の報道に、驚いた人も、多いのではないか。素人なら、所詮、遊びの一つに過ぎぬものを、飯の種として、日々、研鑽を重ねる人々には、競技の規則は、不可欠なものとなる。嘗て、縁台で行われた、ご近所さんの戦いでは、「待った」の一言も、許されたのだが。
 実は、通常の規則における、反則負けは、稀だが、起きたことがある。将棋で言えば、二歩、同じ筋に、歩を二つ置くことは、禁じられている。囲碁でも、難しいものが多いが、二手連続に打つことが、禁じられている。プロの世界では、長考が続くことがあり、ついうっかり、が起きたと報じられる。ただ、どの場合でも、「待った」もなく、警告も発せられず、その時点で、負けが決まる。一方、今回の報道では、細かな部分は、定かではないが、感染症騒動に、起因するものが、対象となった。予防の観点から、当初、推奨とされたようだが、集中力維持との関連からか、厳格な規則となり、対局中の着用が、義務付けられ、茶を啜るなど、一時的な場合を除き、外した場合には、反則負けとなる、と明記された。それが、一流棋士の対局で、起きたと伝えられ、一方が、反則負けを、喫した。対局者の指摘から、責任者が、判断を下したとあるが、それが、耳目を集めた。着用の意義さえ、否定する人々からは、非科学的な規則、との批判が集中したが、心理的な面を含め、不可欠と、組織が判断したのだから、無駄なものだ。一方、世間的には、注意や警告が、あって然るべし、との指摘もあるが、他の反則負け同様、規則と定められたものを、守るのが当然、という空気もある。所属する人々が、納得の上で、定めた規則なのだから、その考え方で、構わないとの見方もあるだろう。それにしても、喧しいものだ。発言権を、得た途端に、他人の行状にまで、口出しする。妥当か、否かは、無関係に、自己主張が、撒き散らされるのだ。世界が、窮屈な時代になった。嘗てのこの国とは、違う形で。

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10月29日(土)−誰の責任

 囀りは、各自が、手にした端末から、自由に、情報発信できる場、という認識は、皆が認める所だろう。確かに、無名の庶民にとり、井戸端会議が、精々だった時代と違い、不特定多数、世界に向かって、発言できるのは、喜ばしいことだ。だが、そこには、益だけでなく、害もある。
 公共電波や新聞などに、掲載される場合、多くは、実名が記され、何処の誰かが、わかるようになっている。しかし、囀りでは、匿名でも、発言できるから、誰にも知られることなく、嘘も真も、発信できる。当初は、悪戯程度で、扱われたが、加入者数が、膨大となると、事を、荒立てる場合も、増えてきた。それは、嘘を撒き散らす側に、問題があるとして、当初は、発信者自身を特定して、訴えていたが、いつ頃からか、別の集団に、訴えを起こす場合が、増えてきた。囀りの特徴の一つである、「いいね」の表明を、問題視したのだ。情報の発信に、賛同表明するのが、この仕組みの、特徴の一つとなり、誰もが、気軽に、釦を押してきた。しかし、情報が偽だった場合、それにより、被害を被る人が、出てくることもあり、それが拡散することで、被害が甚大となれば、訴訟へと結びつく。発言者自身を、訴えるだけでなく、賛同者を、訴えた民事裁判で、有罪となることがあり、賛同の責任も、問われる事態となった。真偽を確認せずに、賛同するのは、同罪という訳だ。これに、恐れをなした人の中には、「いいね」を止めて、「フォロー」という別の釦を押し始めたようで、何処か、卑怯者の感が、漂っている。所詮、誤魔化しに過ぎず、真偽の確認を、怠る無責任は、そのままだから、罪の重さは変わらない。一方、この企業を、買収した新経営者は、発言の自由の確保を、謳ってきたが、どうだろう。彼も含め、真偽入り混じる発言を、繰り返してきた人々は、場の確保を、優先させてきた。彼らの論理は、送り手ではなく、受け手が、正しい判断を下すべき、とあるのだが。

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10月28日(金)−逆転発想

 改めて、放射性物質の話を、整理しておきたい。原子力を、論じる際に、事故を含め、様々な要因があり、それぞれが、人体に与える影響が、取り沙汰される。だが、その多くが、誤解に基づいたもので、一部の専門家でさえ、事実に基づかず、誤った解釈を、撒き散らしている。
 と言っても、解釈の違いによって、事実でさえ、正反対の展開を、与えることができ、注意を要する。独り言では、専ら、パンチなりの解釈で、出来事を理解し、過ちを指摘してきた。例えば、事故後の、処理において、除染が、課題とされたが、ここでも、過ちが重ねられた。放射性物質は、各種により、その性質が異なり、特に、半減期と呼ばれる、放射能を、もたなくなる期間が、異なる。沃素は、数日で、無くなるのに対し、セシウムは、30年かかる。だが、最大の事故でも、既に、世界に拡散したものは、半分以下になった。時間による解決を、待たぬままに、除染作業を、行った理由は、危険性だろうが、現実には、多くの場所で、単純な拡散が、行われていた。放射能の性質で、重大なのは、この点であり、集めることは、危険度を増すばかりだ。除染後に集めたのは、問題だ。同様に、汚染水の問題も、三重水素は、半減期が12年だが、単純な希釈が、最適処置と言われる。海水は、膨大な量あり、妥当な処置となる。更に、この手法を、拡大すると、使用済み核燃料の、処理についても、当てはまると思える。ウランは、各種によるが、億年単位の半減期で、時間解決は、望めない。だからこそ、集中管理ではなく、分散廃棄を、考えるべきではないか。専門家は、処理施設の建設を、喫緊の課題として、訴えており、一部の国では、既に、建設が進んでいる。だが、この手法では、危険極まりないものを、厳重な管理下に、置く必要がある。妥当に見えるが、その実、別の問題を、産んでいるのだ。元々、核燃料は、濃縮を経て、使用される。その過程を、逆転させるのだ。

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10月27日(木)−偏向報道

 大震災の後の、事故によって、未曾有の事態が、生じた。多くの住民が、避難を余儀なくされ、放射性物質による、汚染は、国内のみならず、世界へと広がった。類似の事故は、これまでに、二度発生していた。何方も、復旧は望めず、廃炉と呼ばれる措置が、行われた。
 と言っても、終息した訳ではない。依然として、覆うだけで、手つかずの状態にあるものと、もう一方は、計画があるものの、燃料を取り出しただけで、それ以外には、手つかずとなっている。こちらの事故に関しても、直後から、様々な情報が飛び交い、多くの人々が、振り回されている。除染が進むにつれ、避難した人々は、徐々に、戻ってきているが、多くは、断念したと伝えられ、今も、汚染水の問題は、耳目を集めている。10年以上経過し、その間にも、様々な報道がなされ、書籍も出版された。ここでも、ざっと調べただけで、11年10月、12年10月と12月、18年5月、19年2月、21年5月と10月と、度々、読んだ本に、紹介してきたが、その多くは、偏った考えを、撒き散らすだけで、殆ど役立たずと、断じてきた。報道に携わる記者が、著した本は、同じ路線に乗り、偏向報道の再現となる。権力に、反論する形の報道が、基本とも言われるが、政府や電力会社だけを、徹底糾弾する姿勢は、客観性に欠けており、読む価値は無い。今月読んだ本も、廃炉に、的を絞ったものだが、個人見解ばかりで、権力側は、嘘に塗れ、学者達は、真摯に取り組む、という決め付けに、呆れるばかりだった。確かに、遠い道程である。先の二つの例でも、見通しが立たず、ある程度、進んでいると思われるものも、まだ30年以上の期間を、必要とする。それに対して、甘い見通しを、立てている、と批判するが、現時点で、何を望むのか。住民の心情ばかりを、取り上げる姿勢も、この手の本に、有り勝ちなものだが、感心しない。最悪だったのは、図や写真の多くが、杜撰で、価値を損ねたことだ。

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10月26日(水)−逆張り

 悲観が、好まれる時代なのでは、と思う。その証左でもないが、相場の世界で、よく知られた人物の、言動について、取り上げたい。今世紀の始まりの頃、盛んに、悲観的筋書きを、提唱していた人で、周囲が、まさに、いけいけどんどん、の空気に満ちる中、悲観を主張していた。
 外資系の証券会社に、勤めていた彼は、社内でも、重要な立場にあった、と記憶しているが、流石に、20年以上経過して、自らの会社を、立ち上げていた。当時の、彼の主張は、兎に角、国内株価は、上がることはなく、その証拠は、こんなに沢山ある、といった調子で、誰が、何と言おうと、悲観相場が続く、というものだった。市場は、彼の警句に、耳を貸すことなく、泡が弾けた後、やっと回復基調を、示し始めており、海の向こうの、住宅ローンの破綻に始まった、大手企業の倒産など、一時的な下落を、示したものの、全体としては、上昇し続けていた。その中で、反論を展開するのは、余程の自信があるのか、はたまた、単なる能無しなのか、などと、話題を集めたものだ。その彼が、経済番組に登場し、披露したのは、楽観論である。円の下落から、多くの悲観論が、次々に、登場する中で、その一時の動きに、惑わされず、全体の基調を、見極めるべき、という主張には、今回も、多くの証拠が、示されていた。ただ、それらの多くは、20年前同様、見方の違いによるもので、先行きの見通しについても、立場を変えれば、どうとでも見える、といった具合だった。ただ、悲観論の主人公だった、当時を知る人間には、まるで正反対の役割に、驚きを感じられたのでは、ないだろうか。しかし、よく考えると、彼が演じる役割は、単純に、世間の趨勢の、逆を行くものであり、相場の世界では、逆張りと呼ばれる、行動様式に見える。楽観が、好まれる時代には、悲観を、悲観が、好まれる時代には、楽観を、という具合に。と見れば、彼の主張から、今は、悲観の時代となる訳だ。

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10月25日(火)−陰謀

 時代劇で、猜疑心が招いた不幸を、主題としていた。最終的には、目出度目出度の、終演となっていたが、現代に制作されたものだから、あの時代に、同じことが、起きていたかは、定かでない。ただ、人間の心理は、そう簡単に変わらず、古今東西、似たものだから、同じかも。
 端末を、手にした人々も、まさに、そんな猜疑心に、取り憑かれた如く、せっせと発言している。陰謀論という言葉は、歴史上、何度も使われ、それに振り回された、不幸な人々を、盛んに取り上げるが、さて、どうしたものか。陰謀は、よくない企てとして、挙げられるものだが、それは、ある立場に、ついた人間にとり、善悪が、決められるもので、仕掛ける側には、圧倒的な優位を、保証するものとなる。本来なら、競い合う勢力の間で、交わされるものだが、端末を手にするのは、そんな力さえ、持ち合わせぬ人々であり、陰謀を論じるのは、どうかとさえ思う。確かに、同じ端末を手にしても、海の向こうの前大統領のように、力を誇示した人間には、まさに、敵対勢力からの陰謀を、表に出すことで、展開を有利にする、格好の武器となっていたが、それとて、真偽入り混じる、発言の数々から、災いを招いていた、とも見える。興味に走る、烏合の衆にとり、格好の餌が、ばら撒かれた訳で、関心を集めたのは、当然のことだが、それとて、陰謀と称して、敵対勢力を脅かすことで、却って、自らの陰謀を、露呈した部分もあり、所詮、利害を追求した果て、だったのだろう。その後も、こういう筋書きに、取り憑かれた人々は、何事にも、権力側の陰謀を、引き合いに出すが、創作の世界に、浸る人間の考えには、唖然とするしかない。そんな妄論に、振り回され、右往左往するのは、結局は、物事を考えず、鵜呑みにする愚か者であり、同好の士の集まりで、大いに盛り上げればいい。その中で、良識を維持するには、やはり、冷静さと論理性を、保つことが大切だろう。

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10月24日(月)−多勢に無勢

 手にした端末からの発信は、世の中の情報伝達の仕組みを、大きく変えたと言われる。確かに、著名な人物だけでなく、無名の人にも、同じ発言権が与えられ、多くの賛同を、得ることも可能となった。だが、ネット上の社会ではなく、実社会では、大した変化は無いようだ。
 今、躍起になって、日々、発言を繰り返す人々から、猛反対の声が、上がるだろう。自分達が、責任を負って、強い意見を、世に問うことで、趨勢に、変化を生じている、と実感しているからだ。だが、それは、狭い社会の中での、出来事に過ぎない。これにもまた、反論が届くだろう。それぞれの社会媒体に、加入する人間の数は、膨大なのだから、社会の趨勢を、反映するに違いない、とばかりに。しかし、その大多数の人間の内、上に挙げたような、発言に関わる人間は、ほんの一握りに過ぎない。例えば、旅行振興の目的で、最近始まった制度に関して、ワクチン接種を、条件とすることが、如何に誤りかが、盛んに論じられるが、数の論理からすれば、接種者が、圧倒的多数であり、彼らにとり、この制度を、そのまま適用して、何の問題も無いのだ。その上、政府が掲げる制度には、様々な但し書きがつき、それを合わせれば、反対派の論理は、簡単に打ち破られる。確かに、血税の使い道として、許し難いものが、あるのだろうが、一方で、この騒動で、生活を脅かされた人々を、救済する為の手立て、と考えれば、当然の策とも見える。それが、全てに行き渡らず、不公平感が広がる、と見る向きもあるが、施策において、こんなことは、日常に過ぎない。唯一、情報伝達の仕組みが、役立つ部分があるとすれば、それは、議論の場の提供だろう。これまでなら、発言権さえ与えられず、ただ、黙るしかなかった人々に、自分の意見を、表明する場が、与えられた。しかし、それが、世の中を変える程の力を、持ち合わせるか。所詮、不十分な論法では、力及ばず、と見える。

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