パンチの独り言

(2022年10月31日〜11月6日)
(何方も何方、足りぬもの、止められず、鑑賞、罵り合い、恥ずべきは、言葉狩り)



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11月6日(日)−言葉狩り

 いつの時代も、言葉の使い方には、気を遣うものだ。敬語が重要、と言われたのは、ずっと昔のことで、今や、敬語の殆どが、使われ難いか、間違った使い方をされ、死語と言われるものが、増え続けている。一方で、差別の観点から、使用を控えるとされ、排除の対象も。
 差別と言えば、敬語も、その見方から、生じたものと言えなくもない。目上の者を、敬う心から、生まれたとされるが、逆に言えば、目下の人々を、蔑む気持ちからか、と穿った見方が、出来なくもない。流石に、そんな戯言を、並べる人は、居ないと思うが、こういう所が、立ち位置の違いで、何とでもなる、という点が、差別を、殊更に掲げる人々を、敬遠する所以なのだ。障害は、障害物競走から、浮かぶように、妨げとなるもの、という意味だが、気になる人には、害が引っかかり、障碍としたり、敢えて、ひらがなを当て、障がいと書く人も居る。子供の頃には、それと、一目で分かる人々が、街に居たから、手足が不自由な人、目や耳が不自由な人、という括りで、物事が、片付けられた。ところが、その範囲が、急速に広がり、一目では、それと判らず、誰が、どんな障害を、持つのかを、判断することも、理解することも、難しくなってきた。元々、養護という観点から、子供達を、対象とする考え方があり、その延長線上に、大人への対応があったが、その区別もまた、難しくなった。その中で、言葉狩りが始まり、事を、更に複雑にした。多くは、海の向こうから、渡ってきた言葉で、あちらの文化で、どんな意図から、使われ始めたのか、その理解さえ、及ばぬまま、鵜呑みにする人々が、利便性を優先させ、広めたように思う。だが、その多くは、人間が持つ能力のうち、少し不得手に感じるものを、敢えて、表面化させただけで、養護とか、擁護とか、支援とか、そんな配慮は、殆ど無い。一方で、個性とか、多様化とか、そんな言葉を使うなら、障害を、気にする必要は無いと思う。

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11月5日(土)−恥ずべきは

 昨日の醜い罵り合いは、実は、同じ舞台で、演じられたものではなかった。反撃に出た方は、専ら、囀りで、今回の感染症騒動に関して、特に、接種の問題を、取り上げていた。一方、その分野の権威として、大学で業績を積んだ人物は、別のSNSと書籍、更には、学会の活動で、発言した。
 一般庶民にとり、どちらの意見を、信じるべきかは、火を見るより明らかだ。何しろ、権威であり、その分野に通じるだけでなく、その仲間達も、同様に、知識豊かな人々、と思えるのだ。案の定、接種が始まり、混乱の兆しが、感じられた頃から、権威は、盛んに、論陣を張り、例えば、周囲の為に、と接種を推奨していた。但し、本人は、当初、接種を控える、とも発言しており、既に、二枚舌を思わせる、言動を続けた。とは言え、結局は、自身も接種をして、その後も、その効果を、絶大なものとして、喧伝していた。そこに、出版されたのが、科学入門本であり、如何にも、権威然とした内容に加え、一部の人々の意見を、徹底糾弾していたのだ。これと並行して、SNSでは、旧知の仲間を交え、口汚く、罵倒する場面も、あったと聞く。誰しも、槍玉に挙げられれば、叶わないものだ。何も知らず、無理解なまま、加勢する人々は、まさに、あの世界の特徴であり、唾棄すべき存在だが、その嵐の中でも、反論を続けたのは、ある信念があったからだろう。その後、長期化する騒動は、権威が予期せぬ方に、展開し始め、今に至る。多くの調査が、為されたことで、権威の解釈の間違いが、露呈されたことで、それまで抑圧された人物からの、一気呵成の反撃が、始まったという訳だ。過ちを、犯したことを、盛んに、批判する人々が居り、また、反撃の主も、その勢いに乗っているが、実は、科学の世界では、そんなことは、日常茶飯事であり、悪いことではない。新たな知見を基に、新たな解釈を、作ればいいだけのことだ。ここでの過ちは、一般社会で、同じことをしたことだ、侮辱を込めて。

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11月4日(金)−罵り合い

 後出しジャンケン、子供の頃、ズルした友達に、こんな言葉を、浴びせたとは思えない。ただ、ずるい、と言ったのだと思う。しかし、大人になって、こんなことが、屡々起きてきた。白黒、勝ち負けが、はっきりした後で、主張を始める、けしからん奴らで、相手にするだけ無駄だ。
 学問の世界の論争は、その過程が重要、と言われる。不明確な事柄に、自分達の考えを、当てはめることで、ある結論を導く。その結論は、未だ確かなものではなく、その後の展開で、様々に変貌する。仮令、事実が揃っていても、その解釈により、全く別の結論が、導かれることもあるし、実験や試行が必要な分野では、尚更、それらの結果次第で、どうにでも変化する。逆に言えば、人間の見通しは、常に甘く、不確かなもので、何事も、確認する必要がある、となる。そんな中で、様々な知見が、明らかになる中、以前の論争相手に、互いの過ちを、指摘することは、何の意味も成さない。その上、その過ちが、重大なものだとして、厳しく糾弾するのは、学問の世界でなくとも、議論とは呼べない、馬鹿げた代物にしかならない。いい大人達が、躍起になって、そんなことに、精を出すのは、ある意味、平和の証かもしれない。彼らにとり、互いを罵倒しても、失うものは、一切なく、ただ単に、溜飲が下がる為のもの、としかならない。手にした端末から、せっせと、そんなことを、送信し続けるのは、天に唾するだけで、過ちを、認めた上で、次の議論に入ることこそ、大切なのではないか。ただ、馬鹿げたこと、と断じる訳にも、いかない部分もある。それは、反撃した人物に、攻撃を受ける人物は、嘗て、厳しい言葉を、浴びせかけたり、罵ったりしたからで、そのお返し、と言えなくもないからだ。相手の過ちを指摘し、糾弾した人物は、嘗て、天に唾した訳で、その報いとも言える。論理の重要性は、その場で、結論を出すことにあるが、新たな事実があれば、変えられることにもある。

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11月3日(木)−鑑賞

 娯楽には、様々あり、楽しむものも、楽しみ方も、人それぞれと思う。ここでは、何度も取り上げたから、読書が、その一つと思われるだろうが、子供の頃から、楽しんできた訳ではない。仕事上、滞る時期があり、その暇潰しの一つとして、始めたのが、最大の理由だ。
 読書家を自認する人には、及ばぬことだが、一般から見れば、読んだ本に示す通り、まずまず、読んでいる方だろう。公共交通機関での移動が、常であれば、もっと増やせるだろうが、車での移動では、望むべくもない。他にも、最近、少しずつ始めたのは、映画鑑賞だろうか。こちらも、子供の頃も、若い頃も、あまり足を運んでいなかった。全盛期を、誇った時代とは違い、徐々に、その勢いが衰え、別の媒体を介すようになると、一気に、忘れ去られそうな、存在となった。とはいえ、依然として、産業として成り立ち、それなりの資金が、注ぎ込まれる。時に、耳目を集め、観客数が、突然増えることもあるが、多くは、単に、趣味の世界に留まり、産業の復興は、望めない。地方都市でも、以前なら、必ず映画館が、あったものだが、今や、その大部分が、別の施設となり、隣町に出かけなければ、観られないことも多い。先日観た映画は、大した評判もなく、いつも通り、期待もせずに、鑑賞したが、まあまあ楽しめた。外国の、史実に基づく物語、という触れ込みからは、内容を想像することは、全くできないが、戦前の独裁国家誕生の問題を、取り上げたものだった。確かに、最後の場面では、記録された演説と、劇中の演説を、重ね合わせており、史実に基づく物語、と示してみせた。独裁を、裏で操る人々の存在を、暴いてみせた話は、今、世界で蠢く陰謀論を、表現したものかもしれないが、制作時に、軍事侵攻を、予見した訳でもないから、背景には、海の向こうの前大統領の存在が、あったのかも知れぬ。何れにしても、陰謀には、富裕層の欲望が、反映されるとは、ありそうな話だ。

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11月2日(水)−止められず

 今回の騒動で、色々な無駄が、行われたと言われる。確かに、多くの検査や接種が行われ、その殆どに、血税が注ぎ込まれた。それらは、製薬会社や検査会社に、流れた訳だが、結果として、どんな恩恵が、あったのか定かではない。一方、近年、厳しい目が向けられる、研究でも。
 馬券や車券の買い方を、指南する予想屋でさえ、もっとマシな見込みを、提案するだろうに、偉そうな科学者は、当たりもしない予想を、繰り返す。大きな予想値を、掲げることで、市民を、恐怖に陥れたが、結果は、彼らにとり、散々なものだった。でも、次こそは、と懲りもせず、別の予想を出してくる。世界一と、賞賛される計算機も、宝の持ち腐れ、などと揶揄される、計算結果を披露するが、どちらも、血税の使い先として、如何なものか、との声も聞こえる。ただ、何れにしても、限られた予算の使い道であり、更に、国民から、毟り取ろうという訳でも無い。一方、連日、紙面や画面を、賑わせていた、陽性者数などの報告は、一旦、監督官庁の省令改正により、沙汰止みとなると思われた。ところが、数日後から、自治体ではなく、官庁まとめとして、何も無かったが如く、掲げられている。改正の理由は、感染症分類を、元凶とする、報告義務を、撤廃する為であり、既に、現場からの数値は、上がってこない筈で、発表数値の信頼性は、著しく落ちている。にも拘らず、せっせと、同じ愚を繰り返す、報道機関は、何のつもりか。それ以上に、愚かなのは、官庁の態度だろう。一部の人々は、世界的な収束が、見えている中、何故、この国は、依然として、渦の中を、ぐるぐると回り、混乱を続けるのか、と疑問を投げ掛ける。ただ、この騒動を眺めれば、狂騒曲を、演奏するのは、役所であり、専門家達なのだ。ただ漫然と、同じことを、反復するのは、何も調べず、何も考えないからであり、当たり前でしかない。確かに、諸悪の根源の世界機関は、何の変更も、宣言していない。

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11月1日(火)−足りぬもの

 世の中では、意思の疎通が、重要な能力として、掲げられている。だが、意思の疎通とは、一体全体、何のことか。この問いに、答えられぬまま、重要性ばかりを、強調しても仕方がない。尋ねてみると、答えの多くは、発表能力のこととなる。だが、この考えでは、不十分だ。
 如何に、自らの主張を、相手に伝わるように、表現するか。それが、意思の疎通と見る向きもあるが、それだけだろうか。まだ、他にも、大事なことが、残っているようだ。意思の疎通とは、一方向のものではなく、双方向であるべきものだ。となれば、単純に、意見を発することだけでなく、相手の意見を聞き取り、それに対応することも、必要となる。世間で、発信の重要性が、強調される度に、受信については、無視され続け、結局、意見の交換が、不可能となる。こんなことが続けば、意思の疎通には、程遠い状況となり、身勝手な意見を、放るだけとなる。この状況が、今まさに、社会媒体の世界で、起きている。自分の意見を、押し通す為には、相手の意見を、否定せねば、とばかりに、躍起になる人々が、蠢く世界では、意見交換も、意思の疎通も、決して行われない。ただ単に、自己主張を繰り返し、議論にさえならない、状況に、満足するだけだ。では、何が、不足しているのか。決定的なのは、話すこと、書くことではなく、聞くこと、読むことだろう。受け取る力が、不十分では、議論を戦わせることも、不可能となる。それでも、自己主張を続け、言い続けることが、唯一の方法と、信じていては、互いの意見を、補い合い、正しい結論を、導くことは、できる筈もない。にも拘らず、当人達は、自らの論理性を、疑うことなく、真っ当な意見、と信じ込んでいる。これでは、科学も、論理も、合理も、あったものではない。誤った方向に、進む人間を、引き戻すのは、聞く耳持たずでは、如何ともし難い。それより、成長過程にある若者に、正しい道を、指し示すことが、重要なのだ。

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10月31日(月)−何方も何方

 科学への信頼が、失われつつある中、政治への信頼も、同様に見える。政治の場合は、信頼は元より、期待を寄せる場合が、多くある。特に、生活が脅かされる中、活路を見出す為の、政策への期待は、大きい。だが、現状を鑑みるに、数々の混乱は、収束の糸口さえ、見えない。
 感染症による騒動は、病原体に端を発する、死への恐怖が、主要因だった。しかし、恐怖そのものも、それに続く対策の数々も、何方も、人為的なものとなり、その本体を成す、科学への信頼を、失墜させるものとなった。一方、軍事侵攻による脅威は、まさに、人為的なものであり、数々の思惑が、入り乱れる中、陰謀渦巻く筋書きが、出ては消えしている。こちらは、まさに、政治の世界であり、権力者の競い合いが、多くの市民を、巻き添えにしている。元首相の醜聞から、政権を引き継ぎ、女王最後の任命となった、前女性首相は、掲げた救済策が、国家の経済を、危うくしたことで、歴史的にも、短命のものとなったが、似た状況は、多くの国々にも、現れている。大国の、独裁政治を、強める動きに、世界は、警戒感を強め、新たな騒動が、起きる予想は、強まっている。一方、国内でも、当初、経済に対する無知を、懸念された、宰相が率いる政権の、支持率低下は著しく、期待は勿論、信頼も失われている。あまりの混乱に、多くの人々は、とうの昔に、忘れたことだろうが、年初、かの宰相は、感染症に関する、精査を約束し、その期間を、半年と宣言した。喫緊の課題に、何を惚けたことを、と当時批判が集中したが、では、その期間が過ぎて、何が起きたのか。何処かに、何らかの報告が、秘密裏に上がっているかもしれないが、おそらく、何も起きなかったのだろう。これは、政治と科学の組み合わせで、双方が、失われつつある信頼を、回復できなかったことを、如実に表している。否、科学は、政治にさえ、相手にもされず、蚊帳の外だったろう。科学者の奮起も、期待薄か。

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