数学の定理は、いつ何時、どんな場合にも、通用するもの、と教えられてきたが、実は、そうではない、という場合が、数学の世界では、起きるのだそうな。但し、そんな特殊なことは、普通の人間が暮らす、この世界では、起きることがない。だから、定理は、常に正しい。
学問の世界は、ある定義を行い、その中で、何が通じるのか、考える場合がある。無関係な人間には、単なる遊びにしか見えず、下らないこと、と思えるが、その世界では、大真面目に議論される。そういうことに、慣れてしまったからか、時に、専門家の中には、別の論理を、受け容れられず、自分の考えばかりを、押し通そうとする人が居る。限られた世界では、それでも、何とか通用するだろうが、一般社会では、如何なものか。学界で、活躍した人でも、頑なに、主張にしがみ付く。結果、多くの過ちを犯し、社会からは、冷遇されることにもなる。だが、一度築いた業績は、簡単には、崩れないから、学界では、安泰となる場合が多い。普段なら、社会の混乱に、頭を突っ込むことも、無かったに違いない。それが、この騒動の中、自分達の主張が、否定されるのを、社会媒体の中で、実体験すると、黙っていることが、出来なかったのだろう。普通なら、学界同様、互いの意見を、ぶつけ合いながら、正しい結論を、導くのだが、相手が、専門家でもなく、無知蒙昧と見えると、一遍に、汚い言葉を浴びせ、罵倒を繰り返し始めた。その上、勢いがついたせいで、同業者の異論に対しても、同じ態度をとり続け、下品な言葉や、卑怯な手段も、使ったらしい。所詮、その程度の人間、と見ればいいのだが、学会の重鎮では、始末に負えない。本人達が、気付かぬ限り、この馬鹿騒ぎは、収まりそうにない。権威を振り翳し、敵を罵倒するのは、どんな世界でも、忌み嫌われるのだ。権威も無く、無力な人間に、多くが味方するのも、判官贔屓というものだ。
論理立てて、物事を考える。基本中の基本であり、何事も、このやり方で理解し、何をすべきか、決定する。その為には、多くの事例を集め、それらの傾向を、見極める必要がある。それが、統計の基本であり、目の前の一つに、目を奪われてはいけない。どうだろう。
自分は、確かに、そういうやり方を、していると言えるか。この問い掛けに、はい、と答えられる人は、少ないようだ。今、世の中で起きている、混乱の多くは、各自の、間違った考え方から、生まれている。全体の状況を、掴もうともせず、ただ、闇雲に、突き進む人々に、明るい未来は無い。というより、彼らにとって、身勝手な考えに、しがみ付いた上で、勝手な言動を、繰り返せばいいだけなら、何も心配せず、我が道を行けば良い。そこに、明るいも暗いもなく、ただ単に、自分だけ、という世界の未来が、あるだけのことだ。一方で、全体傾向を、把握しただけでは、心配は、解消しない。そこで、示されるのは、確率であり、何人のうちで、何人が、とか、何回のうちで、何回が、とかいった表現ばかりで、自分自身に、何が起きるのかを、明確に示してくれないのだ。本人にとって、何事も、起きるか起きないかであり、1か0でしかない。それを、確率という数字で、示されたとしても、答えは受け取れないのだ。更に、確率を、誤解している人が居て、事を複雑にする。例えば、10回に1回起きることなら、同じことを、10回繰り返せば、必ず起きる、と思い込む。だが、それは単に、起きない確率が0.9のものを、10回繰り返しただけで、0.9を10回かけたこととなる。その答えの0.35は、結局、10回に4回程起きないことで、全く違ってくる。この誤解を、解かない限り、何も始まらない。論理とは、物事に対して、当てはめるだけでなく、考え方に対しても、当てはめる必要がある。分かれば、すっきりするが、分からねば、がっかりするだけか。
学問の世界では、例外を示すことで、相手の考えを否定する。特に、数学では、一つの例外で、折角築き上げた定理が、否定されるから、研究者は、あらゆる可能性を、検討する必要がある。生物学は、嘗ては、例外を見つけ出すことが、重要と考えられ、新種発見を夢見た。
しかし、統計における例外は、そういう類のものではない。統計では、例外は、存在するものとして扱い、当てはまるものから、何が導けるのかが、重要な観点となる。本来、統計処理によって、導かれた結論は、例外を、少数派と見做し、結論とは、関係ないものと扱う。正しい手順を、追っていれば、それだけのことで、取るに足らぬもの、と排除できるのだが、統計自体を、悪用した場合には、何が正しいのか、確定できておらず、結果的に、例外と見做したものこそ、正しい結論を、導く為の情報、となることもある。本末転倒と思う人が、居るかもしれないが、実際には、台本を書いた人間が、その筋に見合うものを、選び出したことが、統計処理の過ちを、招いた訳で、当初から、間違いを重ね、その証明に、躍起になった結果に過ぎない。それでも、例外が、正しい答えを、導くことになれば、それでよしだが、現実は、更に、拗れたものだろう。筋書きに、合致する数値は、それ自体に、間違いがなくとも、そこから、結論を導く過程で、間違ったことが、今の結論となったのだ。つまり、調べたことには、何の誤りもなく、傾向として、正しいものを指すのに、解釈で、過ちを犯し、自らが作った、筋書き通りに、話を進めたことが、いけなかったのだ。となれば、やはり、例外は、少数派に過ぎず、そちらを、重視する必要は無い。にも拘らず、反論する人々は、筋書きの誤りは、傾向自体の見間違い、と勝手に解釈し、自分達の主張を、通す為の手立てとして、例外を、さも重要の如く、掲げている。何方も何方とは、こんなものだ。双方共、統計を、使えないだけ。
騙す目的で、統計を用いるのは、過ちに違いない。統計という道具の、使い方としても、明らかに間違っており、その指摘が、あって然るべきだ。だが、世の中の流れは、大きく異なっている、何故だろうか。それは、経済をはじめとして、社会を回すものが、最優先とされるからだ。
市場原理が、全てに優先される、という考え方が、好まれるのは、利害関係が、明確になるからだろう。それに基づき、全ての物事を、定めていけば、何が儲かり、何が損失を招くか、単純に、それだけを、考えれば済む。だが、本来、重要な事柄は、金銭だけで、決まるものではない。だからこそ、今、世の中全体に、著しい混乱が起こり、多くの人々が、窮状を訴えたり、批判を主張する。となれば、統計の使い方が、間違っていることに、最大の要因があるが、それを指摘する人は少なく、相手の主張の間違いを、指摘している。つまり、考え方の誤りを、指摘することで、相手を批判する訳で、このやり方だと、別の問題が生じる。それは、批判する側から、別の統計処理を行い、出た結果を提示するのではなく、単純に、反対の主張を、提示するだけとなり、結局、統計的に妥当な考えが、何なのかが、見えてこないことだ。批判派は、別の事例を掲げ、それが、反論の根拠である、と主張するが、そこでは、全体傾向は示されず、単純に、相手の主張の例外が、示されるだけだ。これでは、現象を、統計的に考える、という大元の考えさえ、否定することとなり、議論の的が、絞れなくなる。統計の使い方について、お互いに、間違っている訳で、その中で、示される論理には、何の根拠もなく、確かな証拠も、示せてないこととなる。はじめに、統計を悪用した人々も、それに反対し、批判を繰り返す人々も、実は、統計を、正しく使わず、身勝手な主張を、繰り返すだけとなる。今の状況が、惨憺たるもの、と思えるのは、こんな事情もある。
筋書き通りに、事を運ぶために、統計を利用する。今の世の中では、当然の戦略であり、作り上げた筋が、如何に妥当なものかを、確実なものとする。だが、所詮、人間の考える事、間違いや過ちが、満載となる。本来、統計は、誤りを犯さぬよう、全体の傾向を、見渡す為のものだ。
にも拘らず、愚かな人間は、自らの考えに拘泥し、その正当性を、押し通そうとする。その為の道具として、統計を使う場合、様々な手立てを、講じる必要がある。例えば、集めた数値の内、都合の良いものだけを、拾い上げる。例えば、生のデータを、そのまま使わず、演算処理をして、辻褄の合う数値を、作り出す。そんな数字の操作は、時に、気付かれる恐れがあり、注意を要する。そこで、別の操作を、行う場合もある。膨大なデータから、有用な情報を、掘り出す作業で、最も重要なのは、データ処理と考える人が、多いようだが、実際には、データ収集の時点で、掘り出し作業が、円滑に進むような、設定を行うことこそ、最重要と言われている。逆に言えば、筋書き通りの展開を、確実にする為、何をどう調べるかを、始めから、決めておく必要がある。先日の、科学衰退の話では、この国の研究が、厳しい状況に陥ったことを、数字の操作で、見出していたが、感染症騒動で、重要な課題として、取り上げられる、接種の問題では、実は、多くの項目の、データ収集が、行われたにも関わらず、その一部を切り取り、筋書きが、成立する状況を、作り上げた。この手法では、全ての数値が、公開される訳ではなく、不都合なものは、無かったかのように、扱われる。できるだけ多くの項目を、調べ上げることが、必要なのだが、それを実施しても、後から消去すれば、不都合は解消できる。統計の問題は、多くが、こういう点にあり、処理後の最終結果のみが、日の目を見る。一方、騒動の総括には、疫学的な調査が、不可欠だが、そちらも、何の兆しも見えず、霧は晴れそうにない。誰の責任なのか。
悲劇の筋書きを、好む風潮は、かなり深刻な事態を、招いていると思う。今回の、感染症騒動でも、その傾向が、著しいと感じられたが、それは、どの立場に立つ人でも、同じだから、困ったものだ。何故、人は、こんなに愚かなのか、と思うが、皆さんは、どうだろうか。
科学への信頼が、失われつつある、との警句を、何度か書いたが、それとは別の形で、科学の現状を、危ぶむ声が絶えない。特に、科学研究において、この国は、ずっと下り坂にあると言われ、今後は、世界からも、相手にされなくなる、との声さえある。彼らの根拠は、概ね、次のようなものだ。世界の科学研究が、発展の一途であるのに、この国の状況は、惨憺たるものであり、あらゆる面で、衰退の一途を、辿っている。特に、20年程前に始まった、法人化の嵐が、大学に吹き荒れ、研究の府であるべき、大学の姿が、荒れ果てている、と言われる。その根拠は、研究成果として、指標となるべき論文の数であり、世界各国が、急激に、その数を伸ばしているのに対し、こちらは、減少の一途を辿っている、というものだ。世界の科学論文数は、確かに、この所、急激にその数を伸ばしており、グラフにあるように、40年で、5倍ほど増えている。それに対して、この国が、全体に占める割合は、急激に減少しており、ここ20年で、半分以下に落ちた。これが、主たる根拠であり、数字が、裏付けとなっている、という訳だ。だが、よく見て欲しい。確かに、論文数の増加が、著しい中、この国の数字は、殆ど変化が無い。分母が増え、分子が変わらねば、当然、割合は減る。だが、この増加の意味する所は、何だろうか。そちらに、目を向ける為に、別の指標を、眺めてみたい。それは、それぞれの国で、分野毎に、全体論文数に対し、どの割合となったか、という、ここ10年の値だ。隣の大国の変化が、著しいことが、見えてくる。母数が、急増する中、この変化は、何を意味するのか、考えるべきだ。
世界各地の問題に対し、解決策を図る為に、それらの機関は、設立された。だが、今の状況は、どうだろうか。国内外の問題を、多数抱える国々は、それぞれに、様々な事情が、あると言われるが、それを鑑みた上で、国際的に、解決の道を見出す、という命題が、あった筈だ。
現状は、厳しい、と言わざるを得ない。内政干渉の一言で、全ての関与を、撥ね退ける国も、自国防衛を掲げ、他国への軍事侵攻を、正当化する国も、大戦後に、世界を率いる国として、特別な待遇を、受けてきた。それが、冷戦期には、目には見えぬ均衡を、保つ為の命綱として、機能していたが、直接的な対立が消え、個別の細々とした対立が、表面化するに従い、決定権を奪う、障害物としか、見えていない。世界機関は、頂点に立つものから、その下に属するものまで、数多く存在し、それぞれが、現時点の均衡を、保つだけでなく、将来への保証を、確保する目的を、有していると言われる。だが、この不均衡に限らず、多くの問題が、噴出するに従い、機関自体の存在意義が、失われつつある、とも言われている。それも、今現在の問題が、表面化しておらず、解決課題が、見出せない中、将来への保証を、如何に確保するかを、模索する上で、課題を掲げることこそが、最重要とされるようになり、状況は、更に悪化したのでは、と思えている。貧困問題や、食糧不足は、確かに、起きている問題で、その解決を図ることは、重要だが、その一方で、温暖化や感染症、更には脱炭素などは、課題とすべきか否かも、定かではない。掲げられる中、解決策が、徐々に明らかとなると、疑問は、更に膨らんでくる。例えば、炭酸ガス削減は、因果関係も、不確定な中、突如として、課題に掲げられたが、その方策が、権利の売買や、算出方法の謎など、論理とは無縁の、単なる、経済効果を狙った、儲け話に過ぎないものだ。同じ穴の狢が、一杯居て、その飼い主が、世界機関とは、いやはやだ。