パンチの独り言

(2022年11月21日〜11月27日)
(作為的虚偽、情報管理、常備薬、無限循環、元の鞘、毒か薬か、厄介物)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



11月27日(日)−厄介物

 アレルギー反応の中でも、特に重篤なものは、アナフィラキシーと呼ばれる。昨日取り上げた、接種直後の反応も、その一つだが、より身近なものとして、例えば、蕎麦や小麦という、食物に対するものや、スズメバチなどに刺された時に、起きるものなどが、ある。
 何れの場合も、体内に入った直後、反応を生じ始め、死に至ることもあるから、救急措置が必要と言われる。接種後の反応も、同様のものと考えられ、処置としては、エピペンと呼ばれる、薬剤を投与するか、アドレナリン注射が、不可欠と言われる。元々、そういう症状を、示す可能性のある人は、携行することを、推奨されるが、蜂に刺される場合など、突発的なものには、備えは及ばず、治療が遅れて、死に至る場合もある。では、ワクチン接種は、どうだったのか。既に、そういう体質の人々には、事前の注意喚起が行われ、接種を回避することも、推奨されている。一方で、予備知識の無いままに、緊急事態が起きた場合には、本来なら、立ち会った医師が、適切な処置をし、危機を回避させるのだが、手遅れになる場合もあるようだ。半強制的に実施され、様々な問題を生じる中、厳しい批判の声も、上がっている。だが、同じ現象が、直後ではなく、暫く後に起きた場合、どうだろうか。先週取り上げたように、今回のワクチンの効果は、従来のものと異なり、注射液に含まれる物質が、抗原となって、引き起こされるのではなく、そこから、体内で産生されたタンパク質が、抗原となって、引き起こす免疫反応が、鍵となる。この仕組みが、素晴らしいとして、絶賛の声を、上げた専門家が居たが、風向きは、変わりつつある。同時に、この仕組みでは、アレルギー反応は、数時間から数日後に、起きる可能性があり、それが重篤となっても、医療行為を受けることが、叶わぬ場合が起き得る。副反応を、訴える声が、高まっているが、これはこれで、別物ではないか。兎に角、厄介な話だ。

* * * * * * * *

11月26日(土)−毒か薬か

 科学への信頼を、失わせた原因は、専ら、科学者自身にある、と思うのだが、でも、政府の朝令暮改にも、大きな責任が、あるのではないか。その典型は、ワクチン接種であり、書いたように、この国では、次々に追加接種が、不可欠と言い渡されるが、他国は、そうでもない。
 訴訟国家では、当初の約束が、破られれば、当然、訴えられることとなる。それが、今でも、2回の接種と、表示される理由だろう。一度立てた論理を、自ら否定することは、元の論理の間違いを、指摘することとなり、それ自体が、嘘を吐いた、と訴訟対象となる。それに対して、寄り添う姿勢を見せ、如何にも、国民の利益を、という素振りを見せる、こちらの政府には、訴えられる、という心配は殆ど無い。仮令、訴えられたとしても、書類の隅に、小さく掲げた一言で、言い訳ができる、と信じているのだ。では、真相はどうか。調査もせず、都合の悪い数値を、発表もしない、製造者の責任は、確かに重く、いつまでも、必要性のみを、訴える姿勢には、疑いしか抱かないが、それを、看過する政府や、味方につく専門家達は、やはり、無能なのであり、善悪の区別さえ、つかない愚者共と、呼ばざるを得ない。では、庶民は、どんな選択ができるのか。ただの風邪の一種となりつつある中、数年前と、同じ態度で臨むしか、無いのだろう。流行性感冒でも、毎年、季節を迎えると、ワクチン接種が、取り沙汰されていた。だが、占いの一種の如く、当たるか当たらないかは、運次第では、一部の人しか、参加しないのも、当然だろう。では、今回のものはどうか。こちらも、既に、ほぼ明らかなように、感染どころか、発症さえ、防げる保証が無い。その上、接種後の体調不良となれば、選択の余地は、殆ど無いに等しい。まさに、毒にも薬にもならない、状態では、無視するも止むなし、となる。更に、接種後のショック症状は、回数を重ねる毎に、可能性が高まる。毒に、なり兼ねないのだ。

* * * * * * * *

11月25日(金)−元の鞘

 当初から、指摘してきたように、今回の騒動は、用意された悲劇の台本に、沿って進められた。だが、未熟で無知な脚本家達は、十分な想定をせずに、ただ恐怖を撒き散らし、混乱を煽るばかりで、収束への道は、一向に示されなかった。その後の展開は、馬鹿げたものだ。
 そんなことを書けば、死者を冒涜する、とでも糾弾されるだろう。だが、実態は、まさにその通りで、単に、死という運命から、逃れられるかの如く、下らない夢物語を、騙ったに過ぎない。混乱を、更に増長したのは、救世主として、登場したワクチンだろう。先週取り上げたように、鳴り物入りの登場だったが、実態は、数字の絡繰に塗れ、医薬品特有の、効果を過大評価する統計処理に、頼ったものだった。通常の治療薬であれば、寛解への道を、つけるか否かで、効果を評価するが、感染症では、別の指標でしか、評価できない。感染防止が、主たる効果と目されたが、状況から、それが叶わず、別の指標が、持ち出された。それも、数段階を経た、結果による評価だけに、途中の過程での、多くの仮定が、物事を拗らせたのだろう。学者達の自画自賛の、欣喜雀躍の様子とは、裏腹なその後の展開は、ある意味、予想通りだった。その上、製造者が保証した、二回接種による、免疫獲得は、次々に、怪しげな展開となり、追加を余儀なくされた。だが、空手形と雖も、保証を重視する国々は、元々、拒否が出ていた上に、更なる抵抗となり、昨日示した現状となる。一方で、従順な国民性から、終わりの見えぬ追加にも、嫌々ながら、従う国では、別の混乱の兆しが、見えてくる。何れにしても、免疫獲得は、不完全でしかなく、仮令、感染しても、重症化しないのなら、まさに元通りに、風邪の一種と扱い、拗らせぬよう、個々に注意すれば良い。その意味で、この騒動は、既に、過去のものであり、国を挙げて、取り組むべきものでは、決して無い。全て、個人の判断に、任せればいいだけだ。

* * * * * * * *

11月24日(木)−無限循環

 依然として、騒がれ続けている、感染症に関して、最大の懸念は何だろうか。多くの人々が、一向に減らず、再び増加傾向にある、陽性者数を、上げるのではないか。次の波が、襲ってくるとの懸念は、確かに、恐怖を煽り続け、更に強い対策の必要性を、掲げている。
 その一方で、理由は定かではないが、病原体の感染力が、強まるにつれ、毒性は、低下したとも言われる。だとすれば、当初のように、死への恐怖を、前面に出すより、如何にして、共存すべきかを、考える時が来ている、と思えてくる。ただ、もう一つ、他の国々と比べ、大きく違う点があることに、気付いて欲しい。囀りなどでは、副反応の問題に、注目が集まるが、ワクチンに関して、最近の情勢は、この国と同等の扱いは、少数派となりつつある。極端な意見では、既に、多くの国々では、ワクチンの追加接種は、推奨されておらず、ほんの一部の国でしか、実施されていない、とされる。何が、この違いを、産んだのか。少し調べてみると、その理由が、様々な所に、明記されている。例えば、陽性者や死者の数の、推移を報告する、海の向こうの大学のサイトでは、ワクチン接種に関しても、最新情報が、掲げられている。しかし、そこにあるのは、日々更新される、数値ではあるが、この国で、出回るものとは、違うように思える。当初は、同じように、全人口に対する、割合として、接種率が、示されていた。だが、この国では、それが、何回目の接種か、という区分けで、表示されるのに対し、あちらでは、当初から一貫して、同じ基準での百分率が、掲げられている。そこには、people fully vaccinatedという表現があり、訳すなら、十分なワクチン接種をした人々、となる。What do these metrics mean?という追加説明では、mRNA製剤の場合、二度の接種の意味となる。だとしたら、今の国内の状況は、何なのか。何故、解釈が違うのか、考える必要がある。

* * * * * * * *

11月23日(水)−常備薬

 待望の新薬が承認され、政府は早速、購入を決めたとある。他の措置同様に、無料で、国民に配布する為だ。恐怖に苛まれる庶民達にとり、朗報となるのだろうか。一方で、昨日取り上げた薬は、他国での成果にも関わらず、認可の見込みが無い、とされる。違いは何か。
 既に、市場に出回っている薬は、承認済みのものだが、それは、通常、ある特定の病気や症状に対して、効果がある、と認められたものだ。今回のように、新しい死の病に対し、効果があるかどうかは、通常の認可と同様に、確かな治験を行い、有意な差を得る必要がある。但し、通常の新薬開発と異なり、開発に10年以上の期間を、必要とすることは無い。何故なら、初めの治験において、毒性や副作用の有無は、確かめられているからだ。ここでは、新たな処方として、それまでの適用症とは、異なるものに対する、効果の有無だけを、調べればよい。だが、件の薬は、賞を受ける程に、長期間安定した、効果を誇ったものであり、作用機序も、十分に研究済みだろう。その中で、新たな効果が、どういう仕組みで、発揮されるのか、専門家でも、推測できないようで、ある国での確かな実績も、何がどう作用したのか、思い当たらないようだ。当然、未知の機能が、発揮された、と考えるのだろうが、果たしてどうか。現状では、かなり難しい状況にある、と言わざるを得ない。一方、新薬は、初期治療に、用いられると言われるが、重症化の懸念が、盛んに取り沙汰されるように、その展開を、予測することは難しい。にも拘らず、使用法が、限定されるのは、解せない。更に、経過と共に、一般症状が、軽減化する現状では、この類の特効薬の必要性は、あるとも思えない。逆に、既存の風邪薬が、どんな効果を、発揮するのか、何の音沙汰も無い。拗らせなければ、風邪の一種と言われるように、まさに、その程度のものなら、風邪薬で、症状を和らげれば、それで良いのでは、と思う。

* * * * * * * *

11月22日(火)−情報管理

 真偽入り混じる中、自らの都合で、偽情報との発言を、繰り返した前大統領は、当時、陰謀論と思しき言説を、盛んに振り回した。この騒動が、分断という状況を、招いたとする考えは、今も強く残っており、好き放題の発言を、再開させて、何を目論むのか、真意は見えてこない。
 何れにしても、陰謀論という鍵は、その後も、様々に分断された、勢力それぞれから、発せられており、まさに、分断を煽る道具、と化している。感染症騒動では、火元と目される、世界機関の戦略が、元々、金集めを主体とし、それを源に、恵まれない人々に、支援を贈るものだけに、製薬企業や検査企業への、優遇措置が、行われてきたことは、当然の結果なのだが、それに絡む、金銭的な取引が、混乱を、更に深刻化させた、と噂されるのは、余りに近視眼的な想像だろう。ただ、その中で、敵対勢力間の、鬩ぎ合いとも思える、意見の応酬では、互いに、証拠に基づく主張が、繰り返されるが、それが、結論に至らぬのは、所詮、陰謀による情報操作が、前提となっているからだ。本来、科学研究の営みでは、ある仮説に基づき、実施された実験などで、得られた結果から、結論を導くが、近年、改竄や創作と目される、違反行為が、頻発することで、研究自体への信頼は、失われている。これでは、主張の応酬も、議論に至らず、分断だけを、強める結果となった。騒動の中で、命の綱として、期待された治療薬は、本来の効果とは、異なるものが指摘され、愈々と待望されたが、結果は否定的となった。著名な科学賞を、受賞した人物が、所属する組織でも、実は、二つの正反対の主張が、掲げられている。公式のものは、否定的な結果を、明示しているが、一方で、絶大な効果を、訴える文書が、別の場所に掲げられる。ただ、後者には、何処にもリンクが無く、単に、検索結果として、提示されるに過ぎない。こういう情報管理自体が、今の分断の原因を、生じているのではないだろうか。

* * * * * * * *

11月21日(月)−作為的虚偽

 騒動が、混乱を招き、真偽入り混じった、様々な情報が、社会に溢れて、大衆は、更なる混乱に、巻き込まれた、と言われるが、そうだろうか。混乱は、確かに、そんな状況にあり、それは、騒動が引き起こしたもの、と見ることも出来るが、実は、ずっと昔から、そうだったとしたら。
 以前は、人々が、手に入れられる情報は、主に、電波や紙面で、送られるものだけだった。そうでないのは、ご近所や知り合いから、もたらされる情報だが、これらには確証が無く、噂話に終わることが、殆どだった。それに比べて、権威ある筋から、流されるものには、必ずと言っていい程、根拠が示されており、情報伝達者は、裏を取ることが、半ば義務となっていた。その中、別の経路が整備され、大衆は、手にした端末で、情報を集めるだけでなく、自らが、発信者になることさえ、可能となった。その結果、何が起きたのか。種々雑多な情報には、真も嘘も入り混じるだけでなく、改竄などで、意図的に嘘をばら撒き、混乱を楽しむ輩が、登場したのだ。以前なら、権威ある情報を、鵜呑みにしても、騙されることは、殆ど無かったが、これでは、正反対の情報の洪水に、右往左往した挙句、騙されてしまう。本来、情報の真偽は、送り手の責任、となっていたものが、今では、受け手自身が、判断せざるを得ない。と言うより、全ての責任を、受け手が担うこととなったのだ。異常事態だが、新方式では、旧来の考えから、抜け出せない人々が、翻弄されるばかりで、何の手立ても講じられない。まして、他の情報源が、この状態に陥ると、権威筋さえも、嘘のばら撒きを、正当化し始めた。その典型が、海の向こうの前大統領であり、偽情報との攻撃の一方で、自身は、せっせと対抗馬の、作り上げた醜聞を、撒き散らした。絶大な影響力を、誇ったものの、管理側から、使用禁止の措置を受け、他の経路に移っていった。だが、その企業が、買収された上、復活となったとある。さて、どうなる。

(since 2002/4/3)