パンチの独り言

(2022年11月28日〜12月4日)
(トンデモ、無作為抽出、学問の府、外圧頼み、局面見えぬ、自業自得、要注意)



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12月4日(日)−要注意

 物事を、論理的に考えることの、重要性を説いてきた。その為に、必要なことの一つは、科学的な知識と思考だろう。だが、混乱が、極まるばかりの状況で、社会媒体では、科学の衣を纏った、似非科学なるものが、横行している。藁にも縋る人々は、飛び付いてしまうのだ。
 今回、その例として、挙げたいと思った、囀りに接した。自称内科医とのことだが、こういう場では、鵜呑みにはできない。とは言え、医学の知識を、活用していることは、事実だろう。一方で、その他の分野となると、些か心許ない。今回の囀りは、納豆菌の話から始まり、そこから、微生物の封じ込めへと移り、最終的には、マスクでは、ウイルスを防げないと断言する。一見、論理的に見えるし、その根拠の多くは、科学的知識に、基づくと思える。だが、この一連の流れには、筋書きがあり、結論を導く為に、所々、歪曲や嘘が、入り混じっている。囀りの場で、指摘しようと思ったが、辞めてしまった。ある意味、正しい対応とは、呼べないだろうが、敢えて、独り言の中で、反論しておく。一つ目は、味噌醤油の工場では、納豆が禁じられる、という話について、持論を展開するものの、確かな根拠は、示されていない。ただ、その論法を、受け容れるかどうかだ。確かに、醸造現場では、納豆菌、正式には枯草菌の一種は、忌み嫌われている。発酵の妨げ、となるからだ。だが、増殖力が、如何に強くとも、多勢に無勢では、成り立たない。更に、異常なのは、その拡散の方式だ。体内から、空気中に出されることが、混入の原因と断言し、その後の空気感染へと、導こうとする。一般に、細菌による感染は、接触感染であり、この論理は、破綻している。多勢に無勢も、その理由の一つだが、仮令、増殖力が強くとも、例外にはならない。ウイルス感染への、筋書きとして、不可欠だったろうが、この時点で、科学から逸脱した。科学の名を借りた、似非科学の典型だろう。

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12月3日(土)−自業自得

 偽報道、という言葉を、日常的に目にするようになったのは、海の向こうの前大統領が、既存の大手新聞社などの報道各社を、批判するのに、頻用し始めてからだ。だが、元々の、fakeという言葉には、偽だけではなく、偽造したとか、でっち上げたという意味がある。
 彼は、当然、その意味を込めて、新聞や電波で、伝えられる報道のうち、自分に不都合なものを、否定する為に、使った訳だ。彼の支援者の殆どは、発言の数々に、心酔していたから、報道の真偽について、即座に、嘘と見抜いた、と伝え始めた。本来なら、多くの情報に接し、それらを基に、確かな事実を、拾い上げる作業が、情報の受け手には、必要なのに、ただ一人の言動を、全て信じた訳だ。現在の世界の混乱は、その多くが、そこを出発点としている、とも言われる。心酔者達は、一つの事実として、ある人物の発言のみを、受け入れるから、この混乱の最中にも、依然として、一部の報道を、徹底的に否定する。だが、よく見ると、中には、好都合なものだけ、残す場合もあり、あの人物の身勝手さが、伝染した結果かも、とさえ思える。実際には、偽との批判の根拠として、全く別の情報が、流れるようになった。全てとは言えないが、その多くは、まさに、偽造され、でっち上げられたもので、何方がfakeなのか、とさえ思える。だが、一度、下り出した坂では、誰もが、簡単には、止まれない。暴走は、これから先も、ずっと続くだろう。それも、偽造という手段が、容易になれば、一層のことだ。件の人物は、その後も、次の選挙への出馬を、表明するなど、依然として、表舞台に立とうと、努力を続ける。しかし、あの手法は、もう、使い古されたもの、となりつつあり、支援者も、一部の熱狂を除き、冷静さを、取り戻しつつある。更に、彼の口車も、以前のような、効果を失いつつある。偽を見破る動きが、活発となり、無根拠なものと、指摘されるからだ。自ら招いた災厄か。

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12月2日(金)−局面見えぬ

 囲碁には、傍目八目という言葉があり、対局者より、傍で見ている人間の方が、的確な判断ができる、という意味とされる。八目は、八手先とも、囲碁の陣地の大きさを表す、八目とも言われる。この国の囲碁では、先手が、五目半有利と言われたが、今では六目半となった。
 何れにしても、囲碁や将棋の世界では、対局者より、傍観者の方が、有利と思われることから、始まった言葉が、現代では、日常生活で使われ、当事者より、第三者の方が、的確な判断ができる、とされている。冷静な判断を、下す人間には、当てはまらないだろうが、勝負事では、つい頭に血が上り、判断を誤った経験は、多くの人にある。一般社会でも、様々な勝負があり、勝ち組、負け組などと、一部の人間を括ることで、明暗を分ける、嫌な風習もある。はじめは、命の危険を、指摘していた騒ぎも、いつの間にか、何方が正しいのか、白黒付けようと、躍起になる人も出てきた。下らぬことと、冷ややかな視線を、送り続ける人も居るが、一方で、何方に与するか、に拘り、冷静さを失い、血道を上げる人も居る。本来なら、傍で眺めている人が、遥かに有利となるのが、常なのだろうが、この騒動では、囲碁や将棋とは、全く異なる状況で、そうはなっていない。理由は、簡単なことで、盤面上の勝負なら、どの石が、どの駒が、どう並ぶかは、一目で見分けられる。だが、今の騒動では、盤上では、多くのものが、覆い隠されており、当事者だけでなく、傍観者にも、見えない状態なのだ。例えば、当初から問題視されたように、陽性者数と発症者数、更に重症者数、果ては死者の数さえ、明確には示されず、時と場合により、その推移が、変わってくる。これでは、勝負の行方が、判断できる筈も無い。少なくとも、盤面の状況を、明確に示してこそ、状況判断が、できるというものだ。情報の取捨選択が、自在に行われ、時には、隠蔽さえ起こるのでは、傍目八目も、発揮できそうにない。

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12月1日(木)−外圧頼み

 この国は、外圧に弱い、と言われ続けている。護送船団方式を、改めさせられたのも、関税の撤廃も、そんなことの表れ、と言われる。今の、為替の動向も、嘗て、公定歩合と呼ばれ、最近は、政策金利と呼ばれることが多い、数値の操作が、要因と言われ、圧力が掛かる。
 と言っても、これは、外圧ではなく、内圧では、との声も聞かれ、近年では、外圧を装った、情報操作が、国内から発せられることが、目立ち始めた。先月読んだ本でも、その典型と思わしきものを、紹介した。外国の報道機関の、特派員達が、それらの新聞・雑誌に、著した記事で、この国の特殊性を、際立たせるものを、選んだようだ。確かに、以前なら、こんな記事を読むと、「すわ、一大事」、とばかりに、騒ぎが広がったが、今では、状況は、かなり変わったようだ。まず、この世界には、様々な意見があり、それらは、一人の考えによるもので、全ての人々からのもの、ではないという事実があり、次に、それらの意見を、取り上げる人々には、彼らなりの思惑があり、鵜呑みにしてはいけない、という戒めがある。今では、社会媒体の多くで、これが実践されており、分断の原因の一つ、とも言われるが、それは、鵜呑みにして、騒ぎ回る人々が、手を貸したからで、冷静に、一つずつ、分析すれば、正誤の判断も、そこから、汲み取るべき戒めも、引き出せる。長きに渡り、多くのことを、見聞きした経験に、基づくものでも、記者なりの思い込みや、傲慢な考えに、左右されるものが多く、一つの意見として、読む程度に留めるのが、妥当だと思う。でも、何故、これらの記事が、特別に選択されたかには、確かな意図が潜む。外圧に弱い国民性を、巧みに操れば、世論を、都合よく導ける、との思惑が、露骨に見える。この手の本を、書評に取り上げるのも、その動きに与するものだ。その底に横たわるのは、責任転嫁という、言論界に巣食う、悪弊の一つと思う。

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11月30日(水)−学問の府

 漱石の小説では、帝大を出ても、行き先を失い、途方に暮れる若者が、登場する。当時、ほんの一部の人々しか、高等教育を受けられないのに、何たることか、と読者は思ったろう。その状況は、戦争が終わるまで、続いた。戦後、高等教育の整備が急がれて事態は一変した。
 全ての都道府県に、国立大学が設置され、多くの若者を、受け入れた。と言っても、当時の統計は、残されておらず、10年程後には、同世代の4分の一が、進学するようになった。それが、近年では、6割強となり、ごく当たり前のこととなっている。その間、当初は、国公立大学も、定員を拡大したが、ある時点から、他の産業と似た形で、民業圧迫の観点から、制限を加えられる一方、私立大学は、数量共に、拡大し続けた。だが、今や、子供の数が減り、進学希望者数も、減り続ける中、既存の大学の多くは、再編を余儀なくされている。この均衡の崩れが、進学率の上昇にも、影響しているが、その一方で、学生の水準低下こそが、重大な問題、と指摘する声が増えている。進学の目的は、と問われても、卒業する為、と答えるのでは、単なる資格取得の一つであり、教育の場としての、役割とは異なる。一方で、優等生発言では、専門性を高める、との目的も、聞かれるが、入学後の変化は、予想外のものだ。期待と異なる現実に、落胆する声にも、正反対の意見があり、実力に見合わぬ水準に、諦めるしかない話と、高校までの繰り返しと、呆れるしかないものまである。地方の私大には、入学後、卒業までの支援に、人気を誇る所もあるが、多くは、勉学そのものとは、無関係なものだが、学生だけでなく、親にも人気とされる。確かに、質の低下は、否定できず、現状に見合う、内容の提供が、不可欠なのだろうが、大学として、譲れない部分は、無いのだろうか。専門性の高さを、二の次としては、社会からの要求は、満たせない。学生も、大学も、大切なものを、見失ってはいけない。

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11月29日(火)−無作為抽出

 論理の重要性を、説いた時に、非論理的な主張や、非科学的な言説は、即座に、見破れるもの、と書いたかもしれない。しかし、今の混乱の最中、互いに、科学的な根拠に基づき、議論を交わすのを、眺めていると、それが、容易でないことが、徐々に、解ってくる。
 似非科学の批判者は、見破れるとして、その証拠を、数々並べてきた。偽物は、無数にあるから、それらを実例として、提示すれば、論破することが、如何に容易いかを、示すことが出来る。だが、互いに、数値を操作し、調査の対象を、不明確にした上で、手に入れたものを、根拠として、自らの主張を、掲げてきた場合には、この作業は、簡単には済まされない。似非科学が、多くの無垢な人々を、騙す為に使われたのは、科学的に明らかな事象を、否定した上で、勝手な解釈を、科学的な論法で、展開する手法だ。ここでは、論法そのものを、見破ることは、簡単ではないが、勝手な解釈そのものが、確かな論理に基づかず、破綻していることで、論破できる。だが、論争の最中には、どちらも、自らの主張に、合致するような数値を、拾い上げて、論理を組み立てる。その中では、嘘を見破ることも、簡単には行えない。では、どうしたらいいのか。科学研究の常道として、屡々使われるのは、調査対象全ての数値を、提出させることで、取捨選択を、行わせないことだ。これにより、所謂、生データを手に入れ、それを基に、客観的な解析を、行うことが、重要となる。通常、殆どの研究者は、こういう手続きを、地道に行うが、薬品開発に携わる、企業の中には、作為的な、数値の拾い上げを、行う場合がある。その手順の後では、一部の数値が、削除されており、全ての情報に、接することができない。それが、統計処理後に、ある結論を導くとしたら、果たして、正しいものと言えるか、答えは、簡単には、導き出せない。重要なことは、無作為かどうか、という点となる。

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11月28日(月)−トンデモ

 今の混乱を眺めていると、一時、風靡した話題を、思い出さされる。正式には、似非科学と呼ばれるようだが、世間では、専ら、トンデモ科学とか、果ては、「と学」とまで呼ばれるようだ。人の噂や嘘は、元来、根拠の無いものが、多いのだが、それを真しやかにする。
 科学による事実を、否定する目的で、科学を悪用する訳だが、今回の混乱は、果たして、このような状況にあるのか。実際には、殆どの言説が、科学的根拠を持ちつつ、必要十分な条件を、満たしていないのではないか。そんな状態で、議論を重ね、激論を飛ばしても、所詮、事実には、到達できないと思う。科学の営みでも、ある論理が、成立するまでの過程では、様々な考えが飛び交い、反対や賛成の意見が、加えられる。定かで無い時期には、客観的には、どちらに傾くか、決められないが、調査研究が進むに連れ、徐々に、ある方向に傾き始め、結論が導き出される。科学者であれば、そういう状況は、日常的なものであり、議論を戦わせても、確固たる結論が、引き出された後には、それが定説となり、理論として成立し、皆が同じ方を、向くこととなる。それでも、死ぬまで、反対を唱える場合もあり、必ずしも、全員一致を見るとは限らない。だが、そんな営みとは、全く関係の無い人々にとり、そんな遣り取りは、邪魔なものにしか映らない。似非だろうが、偽物だろうが、自分の理解で、十分と思えれば、信じ込むし、都合が良いだけで、鵜呑みにする場合も多い。そこに、利害関係が、入ってくれば、更に、勝手な論理を構築し、不都合なものを排除して、科学の衣を纏わせ、堂々と提出してくる。これは、本来の科学の姿では、無いから、全てを一括りにして、似非科学と呼んでも、構わないのではないか。世界機関も、政府も、研究所も、専門家も、製薬会社も、どれもこれも、そんな状況にある。ただ、はじめの二つは、権力を持ち、強制できる点が、違うのかもしれない。

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