論理性を重視し、科学的に、ものを捉え、考える姿勢が、重要である、と何度も説いてきた。危険な道路を、横断する時に、誰もが、注意したり、回避したりするのは、そういう癖が、自然と付いているからだ。幼な子には、出来ぬことでも、少し分別が付けば、出来るように。
だが、日々、車を走らせていると、危ない目に遭ったり、そんな光景に、出会したりする。先日も、バスを降りた老女が、殆ど確認せずに、その脇をすり抜けて、道路を横断していた。すぐそこに、横断歩道があり、そこに行けば、時には、止まってくれる車も、あるだろうに、堂々と、走る車を、無理矢理停めて、渡っていく姿は、勇敢と言うより、単に、愚かなだけ、と映っていた。物事を、論理的に、考えていれば、こんな危険を、犯す必要は無い、と思うのは、実は浅はかな考えだろう。無謀な人々は、彼らの頭の中では、何も起きないし、皆が停まってくれる筈、という考えが、当然のように、生まれているからだ。種としてのヒトは、そんな危険を察知し、回避することで、存続してきた、とも言われるが、現実には、ほんの一握りが、そうするだけで、種の存続は、達成される。無謀な人間は、時に、それにより、新たな境地を、開いてくれるから、時に、必要となることもあり、ある意味、両方が必要と言える。そう考えると、今の騒動も、馬鹿げたものにしか、映らないが、大真面目に、激論を交わし、人々を罵倒したり、罰を与えようと、躍起になるのも、そんなことの現れ、でしかない。丁度良い具合に、それらが、混じり合っていれば、問題は、徐々に解決するのだ、と思えば、放置するのが、一番なのかも知れぬ。だが、余計な圧力を掛け、時に、強い排除を、実行する場合には、肝心の均衡は、失われてしまい、滅亡への道筋を、駆け下ることとなる。愚かな君主も、愚かな組織も、そんなことで、姿を消すが、大衆には、知ったことではない。冷ややかな視線を、送るだけだ。
激論を交わし、互いに、罵声を浴びせるのを、眺めていると、何か、人間の性のようなものを、感じてしまう。戦うこと、と思う人も居るだろうが、それでは無い。物事の考え方に、それぞれの狭量さを、強く感じるのだ。その上で、自らの信念に従い、行動する、という。
科学技術の進歩により、世の中の物事は、全て、確率的に論じることができる、ということが分かりつつある。絶対に確実も、絶対にあり得ないも、一つのことを除き、決して無いことが、解ってきたのだ。その一つとは、生きとし生けるものには、必ず、死が訪れる、という事実だ。これだけは、確率1の事象として、皆が認める所だろう。否、不死の生き物が、最近見つかった、と言う人が居るかも知れない。確かに、クラゲの一種で、何時迄も、生き続けるものが、あるとの研究結果が、発表された。だが、これとて、再生という過程を経ており、生殖の一種である、単為生殖と似た事象、と見るべきと思う。さて、そんなことはさておき、確率で考えることと、人間の性と、何の関係があるのか。事象が、全て、確率的なものでも、それに接する人々は、そう考えない、という所に、激論や罵声の原因が、あるというのだ。多くの人々が、確率で話された時に、相手に、では、私は何方になるのか、と問う。これこそが、大問題なのだ。何方になるかは、確率でしか、論じられない、との返答に、食い下がる人が居る。物事は、所詮、こんなものだが、自分中心で考える人には、受け容れ難いこととなる。この話が、何方も、相手の話に対して、当てはめたら、どうなるか。結論に、達することは、決して無い、としかならない。マスクしかり、ワクチンしかり、感染症さえ、そういうことだ。だとしても、これまで、生き延びてきたのなら、理解できる筈だ。信号も、横断歩道も無い、危険な道路を横断したら、どうなるのか。運良く渡れても、何時迄も、とは行かぬ。だから、避けて通る、確率的に。
社会媒体が、世間の分断を、強めており、憂慮する声が、上がっている。と言われるが、昨日の話を、よくよく考えてみると、その主体となっているのは、いい年をした大人どもで、海の向こうの前大統領を、代表とでもするような、私利私欲の塊なのではないか。
憂慮の声は、概ね、若者達を心配するものだが、実際には、純真無垢な人々は、大人達の、馬鹿げた騒ぎに、冷ややかな視線を、送っているだけのようだ。利害に満ち満ちた意見は、当事者達にとっては、重要なものであり、引くに引けない話、なのだろうが、その利害関係とは、一切無関係な人々には、遠い世界のことでしかなく、耳を傾ける価値さえ、見つからないのだ。となれば、激論の結果として、出てきたものに対して、自分なりの判断を、下せばいいだけのことで、議論に参加する必要は、一切認められない。一方、無知蒙昧の大衆を、味方につけようと、躍起になる人々は、要するに、自分だけの利益を、追い求め、損害を、排除しようとしているだけで、大衆のことを、親身に思う素振りを、見せることも、その魂胆の現れ、とでも言うしかない。ただ、一部の正義感のみから、過ちや間違いを、指摘し続ける人は、そんなことには、目もくれずに、分断を際立たせ、対立者を、罵倒することや、蹴落とすことだけに、躍起になる人々を相手に、孤軍奮闘を続ける。結局、社会媒体では、こんな遣り取りが、日々、続いている訳だが、利害とは無縁の人々は、恐らく、仕組みそのものを、正常化したい、という思いだけで、動いている訳だ。その中で、囀りを、買収した富豪は、彼なりのやり方で、正常な形へと、導こうとしているようだが、所詮は、金儲けの手段でしかなく、期待を抱く人々の、気が知れない。制度や規則で、強引にでも、改革しようとしても、参加者それぞれが、身勝手な思惑で、動き続ける限り、この世界は、正常化しない。誰の気持ちが、大切なのか、気付くべきだ。
社会媒体は、若者の間で、盛んに使われている、と言われるが、本当にそうだろうか。最近の傾向は、全く違う方に、向かっているように感じる。それまで、最先端のものには、手を出さなかった年齢層が、毎日、せっせと、文字を打ち込み、画面を、眺めているのだ。
何が、変わったのだろう。最も大きな要因は、前々から触れているように、情報発信の大転換だろう。それまで、何を考え、何を思ったにせよ、身近な人との会話ぐらいしか、それを発する場が無かったのに、手にした端末からは、世界各地の人々に、意見を発信できるのだ。その上、公式の場でなら、厳しい批判に晒され、反対意見の礫を、投げ付けられるばかりなのに、仮想空間では、賛同者が、次々現れ、気持ち良く、居られるというのも、大きな利点となる。同好の士の集まりは、互いの顔を知らずとも、意見の同意から、強い絆で結ばれる、とも言われる。この傾向は、極端な意見を、持つ人程、強いのではないか。現実社会では、嘘吐き呼ばわりされ、非論理的な主張と、厳しく批判される。その上、自らの意見は、悉く否定され、孤立感のみが強まる。こんな空気の中では、仮令、同意を抱いても、それを表明する勇気は持てず、同情の念を、抱くだけに終わる人も、仮想空間なら、思い通りに行動できる。だが、この状況が続けば続く程、極端な意見のぶつかり合いは、互いの対立を強め、分断を招くだけ、と言われる。まさに、その状況が、強まるばかりの中、それでも、良識を持ち続ける人の中には、この状態を、異常と感じて、対立ではなく、同意できる点を、見出そうと、双方に働きかける。でも、今の所、状況に、変化は起きていない。本来、議論は、相違点を際立たせるのではなく、一致点を見出す為にあり、応酬があったとしても、何らかの結論を、導き出すことで、目的を果たすものだ。それが、今や、そんな気配は無く、ただ、罵声の浴びせ合いしかない。どうにもならぬか。
捜査が、進むだろうから、事実は、これから徐々に、明らかにされるだろう。だが、当初から、この事件に関しては、強い違和感を、抱かされた。最近の報道は、まるで、井戸端会議の如く、根も葉も無いことを、さも事実かのように、垂れ流す傾向が、強まっている。
そこに、社会媒体という、強敵が登場し、感染症の騒動でも、報道は、厳しい批判を、浴び続けている。だからと言って、市井の人々と同様に、井戸端会議に、勤しむ必要は無い。社会的責任は、特に、認可を受けた、企業体ならば、個人とは、大きさも、重さも、全く違うのだ。耳目さえ集めれば、それで良しとする姿勢も、不確かな情報でも、時宜を得ていれば、良しとする姿勢も、明らかに間違いであり、自らの言動を、吟味し直す必要がある。はじめに、取り上げたのは、幼少の子供達を、預かる施設での、虐待という事件だ。違和感は、子供達への声かけや、扱いにおいて、虐待と思しき行為が、あったという内容で、当然ながら、直接的な証拠は無く、伝聞でしかないものが、次々に、文言として、紹介されたからだ。映像に慣れた人々は、文言から、その光景を思い浮かべる。しかし、映像そのものとは、異なったものが、浮かぶ場合が殆どだ。何故なら、文言は、ある思惑を込めて、伝聞を言い換えたもので、効果を狙った、という見方もできる。そこに、描かれた行為も、笑顔を交えて、行われれば、日常的なものに、過ぎないのでは、と受け取ることもできる。また、発した言葉については、年端も行かぬ子供が、聞いたものとして、伝わるには、馴染みないものだけに、恐らく、録音機器を、忍ばせての収集、と想像される。そんなことから、行き違いなどの前提が、想定されるだけに、落ち着いた対応を、期待したのだが、今の社会は、過剰反応しか、起こせないようだ。人非人の如く、扱うに至っては、如何なものか、と思うのだが、勢いは、増すばかりかも知れぬ。
自分の人生では、遥か昔のことでも、長い歴史においては、ほんの一瞬に過ぎない。確かに、そうなのだろうが、やはり、人間は、自分を尺度として、物事を見るしかない。その意味で、環境問題は、今生きている人の多くにとり、重要且つ避け難いもので、身近に感じられる。
半世紀程前には、この国も、様々な環境汚染に、悩まされていた。科学技術の進歩は、確かに、人々の生活水準を、大きく向上させたが、その裏で、技術発展が産み出した、便利な品々には、汚染物質という、暗い影が付き纏っていた。害虫駆除に、大いに役立った、殺虫剤の多くは、その後、強い毒性と催奇性から、製造中止となった。一次的な効果を、追い求めた結果、強い効力は、間接的な副作用を招き、自然破壊のみならず、人類への悪影響も、甚大となった。当初は、直接的な悪影響のみに、注目が集まったが、その後、間接的、長期的な影響も、問題視され、禁止対象となった。一方、産業廃棄物の多くは、環境汚染を起こし、有機水銀、カドミウムなど、国内でも、甚大な被害を及ぼし、規制対象となった。これらは、悲劇を招いた訳で、多くの被害者を出したが、その結果、様々な規制が定められ、その後、環境浄化が、進んだと言われる。ただ、世界的に見れば、途上国の多くは、依然として、悪影響に曝され、環境問題の解決は、簡単には、実現しそうに無い。とは言え、先進国の多くは、暗い経験から、多くのことを学び、それを、実践に移してきた。この国は、その中でも、最先端を行き、浄化技術や、有害物質除去技術など、世界に誇るものがある。ただ、最近の関心は、長期的なものへと移り、現時点ではなく、将来への問題を、取り上げている。確かに、これらの問題解決も、重要なのだろうが、果たして、それらの予測が、確かなものか、疑問は尽きない。振り返れば、自然任せの浄化から、浄化技術の開発へと、移ってきたが、対象は、現在のものだった。将来とは、さて。
顔認識の自動化が、実現したとの報道があった。科学技術の進歩、とも言えるが、その反面、個人情報の問題を、懸念する声も、高まっている。一方で、日々、顔の半分を、布で覆った人物達に、戸惑い続けている。何処の誰か、判別できず、挨拶されて、困り果てるのだ。
以前から、顔も名前も、覚えられない、という人ならば、何の変化も、感じないだろうが、それを得意としてきた人間には、今の時代は、過ごし難いと言える。では、顔認識は、どうだろう。実は、現状でも、判別能力には、殆ど影響無い、と言われる。その違いは、認識法の違いによる。自動認識では、専ら、目元に焦点を合わせ、その違いから、判別している。一方、人間はと言うと、顔全体の特徴を捉え、それを総合的に、判断しているようだ。此処に、大きな違いがあり、現状では、能力差が、際立っている。この違いは、例えば、相手が、マスクを外した時の、特徴の変化に反映する。口元の特徴が、露出することで、全体の印象が、大きく変化した、という経験は、誰にもあるだろう。さて、この困った時代は、何時迄続くのか。一説には、今後何十年も続く、と言われるが、それは無いと思う。快不快の問題からしても、着用の有無に、大きな影響を、与え続けているし、実用の問題にしても、徐々に、事実が明らかになる、と思われるからだ。既に、度々の変更で、戸惑う人も居るが、現実には、恐れを抱く人々を、最優先させ、責任を回避する考えから、従前通りを、踏襲する人が多い。特に、室内での着用に関しては、強迫観念からか、或いは、ここでも責任回避からか、小さな変化しか起きず、反対派からは、批判の声が強まる。現実には、効果の程は小さく、気休め程度とも言われ、無駄との声も聞かれる。だが、安全・安心ばかりを、強調してきた、社会事情からは、この制度を、即座に廃止するのも、難しそうだ。だからと言って、未来永劫などとは、誰も思わない。そんなものだ。