パンチの独り言

(2022年12月12日〜12月18日)
(根拠無し、飲む前、拠り所、齟齬、skill、深まる分断、現実的に)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



12月18日(日)−現実的に

 昨日の発言主の情報では、約2割程が、マスクの効果で、感染を逃れるとのことだ。肝心の書き込みは、種々雑多な発言で、見つけることができなかった。これを、2割もと見るか、2割しかと見るかは、立場によるだろう。それ程に、この手の議論は、煩雑なものなのだ。
 合意に至らぬ議論に、業を煮やした人々は、公開討論に、挑んだようだが、所詮、同じことだ。何れにしても、現実世界を、見ることの無い、机上の空論に過ぎず、科学の世界での、仮定に基づく話とは、余りに違うからだ。彼によれば、高性能のマスクでは、殆ど防げるとのことだが、職業人の常識と、一般大衆のそれは、余りに違い過ぎる。以前紹介した本の著者の、嗽励行の方が、遥かに現実味を帯びる。果てない議論を、余儀無くされ、本業を、放り出すのは、馬鹿げている。が、その原因は、大本山たる、例の世界機関が、完全な封じ込めが、可能と見込んだ、大失策に端を発する。細菌感染症のように、接触感染を、主とするものでは、隔離や手洗い励行が、功を奏するが、空気や飛沫で感染する、今回の感染症では、医療現場以外には、通用せぬものだ。それを、恰も可能の如く、大袈裟に喧伝し、更に、発生国での収束を見て、勝ち誇ったように、讃め称えるに至り、今の混乱を、招く原因を作った。彼等の悪行を、見せつけられるにつけ、このままの体制なら、解体しかなく、でなければ、刷新の上、大改革しか、利益追求の慣習を、排除できぬと見る。一方、世界各国で、政に携わる人々の、今回の対応は、余りに稚拙で、浅慮によるものでしかなく、庶民に、数々の制限を、強いた責任は重い。科学的な知見が、どうであれ、現実世界において、何が優先され、何が妥当となるか、それらを判断し、決断を下すのが、政治家の役割なのだ。はじめの話に戻れば、マスクの着用に関して、強制することは、百害あって一利なしの典型であり、不安や心配を、優先させたければ、そうすればいいし、でなければ、何もしなくていい。科学に頼らずとも、それだけのこととなる。

* * * * * * * *

12月17日(土)−深まる分断

 論争では、自らの主張の正しさを、飽く迄も、追求すると言われる。だが、世の中は、そうは行かぬことが多い。正しいか、正しくないかは、環境や背景によるし、余りに多い要因に、左右されるからだ。一方、学問の世界は如何か。大衆には、白黒が、明確と映る。
 住む世界の違い、と言って、片付けられていたが、最近、この辺りの事情が、大きく変わったようだ。自らの正当性を、飽く迄も、主張する人々が、巣食う世界が、どんどん拡大し、一般社会を、蝕むようになった。この機に乗じて、利権を拡大しようとする、不埒な輩が、盛んに暗躍し、情報を操作し、大衆を惑わせることで、分断が、広がったと言われる。その先頭に立ち、国の頂点に上がったのが、海の向こうの大統領だろう。彼の発言は、曖昧な表現を避け、極端な言い回しで、深く考えることに、不慣れな人々の、熱狂を勝ち取った。だが、所詮、底の浅い言動に、御里が知れるのも、一回の任期で、十分だった。熱狂から覚めた、大衆は、別の熱狂を求め、数々の陰謀に、飛び付いて行く。その過程で、以前の崇拝の対象は、忘れ去られたのだ。しかし、社会に根付いた分断は、彼の存在のように、消え去ることは無く、底知れぬ状況が、深まるばかりとなる。感染症の騒動は、その格好の的となり、多くの人々が、関心を寄せただけで無く、更なる分断を、多くの問題で、生じさせた。今も、ワクチンの是非だけでなく、マスクの問題でも、議論と呼ぶには、酷過ぎる程の、罵り合いが続く。マスクの着用を、義務付けたことは、現実には、無駄と断じるべきものだが、その過程で、賛成派と反対派に分かれ、根拠の有無に関わらず、正当性の主張が続く。その最たるものを、一つだけ紹介すると、この囀りだろう。確かな証拠に基づく、主張の戦いこそが、絶対的な正しさを、証明するとでも、言いたいのだろうが、科学的証拠に、絶対は無い。何しろ、口を覆ったままでは、死ぬしか無いのだ。

* * * * * * * *

12月16日(金)−skill

 宰相は、所詮、官僚の作文を、読んでいるに過ぎない。と思う人は、多いだろう。多くの場合、それは、ピタリと当てはまる。だが、国の政の最終責任者として、誰かのものだったとしても、自らの口から、発する言葉に、無関心でも、無責任でも、居られない筈だ。
 そんなことを、思いながら、昨日の独り言の、最後の部分を、読み返してみる。何度も、書いてきたことだが、コロナに関しては、宰相が頼みとする、委員会や会議の面々が、余りに無知で、頑なな上に、傲慢だから、何の役にも立たない、戯言ばかりが、綴られている。仮令、明らかな間違いでも、それを口にした責任は、当然ある筈で、世界機関をはじめとする、妄想に取り憑かれた人々は、将来、厳しい批判に晒される。と言っても、その頃には、自ら、過ちを認め、仕方無かったとでも、言い訳を並べるに違いない。一方、政策の目玉として、強く訴えている、リスキリングなるものには、大衆は、どんな感想を、抱いているのか。おそらく、他人事の一つでしかなく、そんな動きが、自分の上に、圧力として降りかかっては、迷惑千万と思う一方、教育に関する事柄は、これまでもそうだったように、単なる掛け声で、終わるに違いない、と思っているのではないか。特に、これまでの教育では、能力や才能を、伸ばすことに、力が注がれてきたが、いざ、スキル、と聞いて、何を思い描くのか。専門家達の間では、スキルとは、訓練などで身につく能力とされ、読み書き算盤は、その代表かも知れぬ。その上に、最近は、パソコンや、手にした端末を、使いこなせるかが、重要な能力とされ、その訓練にこそ、力を注ぐべき、とも言われる。だが、機器の発達に従い、やれることが増え、その活用法にも、目を向ける必要があった、技術進歩の最中に、否応無しに、それらの能力を、身につけてきた世代には、何を今更、という思いしか、抱けない。教わった能力では、大したこともできないのに、と。

* * * * * * * *

12月15日(木)−齟齬

 言葉は難しい、と日々感じる人も多いだろう。人と話していると、時に、戸惑いの表情が、現れてきて、おや、と思ったという経験は、誰にもありそうだ。その原因の多くは、こちらが使った言葉が、全く違う意味に、受け取られたことで、誤解を解くのに、四苦八苦となる。
 言葉は、意思疎通の為に、重要なものだが、互いの了解が、前提となる。同じ言葉を、違う意味に、受け取れば、時には、怒りを催すこととなり、国の間の紛争の、原因にさえなり得る。はじめの例えのように、人との話し合いの場なら、少々手間取ったとしても、すぐに解決できるが、書類などの書き言葉では、そんな反応に、出会すのは、次に出会った時か、あるいは、その返事が届いた時となり、既に、手遅れとなる場合もある。話し合いの場でも、怒りの原因が、言葉の解釈の違い、と分かっていれば、対応も可能だろうが、何が原因で、何処から食い違ったのか、さっぱり、思い当たらぬとなると、お手上げだろう。そんな経験を、多くの人々がして、言葉の選び方に、慎重になったとしても、所詮、相手のあることだから、全ての可能性を、排除することは出来ない。独り言でも、社会媒体でも、それ以前の、掲示板と呼ばれる、交流の場でも、何度も、そんなことが、繰り返されてきた。結論として、誤解は避け難い、としか言いようが無い。その代わり、成る可く、誤解を招かぬように、丁寧に説明し、他の選択肢を、排除しようとする。だが、ここでも、相手次第なのだ。既に、考えを固定し、こちらの意見を、受け容れる気の無い人には、どんな手立ても、通用しない。今の宰相も、その点で、苦労が絶えないのだが、それにしても、言葉の選び方に、難ありと思える。リスキリングは、原語で見れば、違和感も抱かぬが、片仮名では、はてと思った。増税の話も、順序立てて、丁寧に説明すれば、今の誤解は、無かったろう。まあ、コロナの話は、所詮、間違いでしかないが。

* * * * * * * *

12月14日(水)−拠り所

 何時迄、続くのか。それとも、何時迄、続けるのか。馬鹿げた騒動は、始まりの頃から、書き続けているように、言い出しっぺが、幕を閉じるしか、終わらせる術は無い。だが、その一方で、世界の趨勢は、徐々に変化し始め、国ごと、地域ごとで、異なる様相を、呈している。
 例えば、隣の大国では、当初から、徹底的に撲滅し、誰も感染していない、という状況を目指して、国民に圧力を、掛け続けて来たが、此処に来て、情勢に変化が起きた、と言われている。だが、西洋の各国では、当初の甚大な被害に、落ち着きを無くし、常軌を逸する場面もあったが、今は、落ち着きを取り戻し、冷静な判断と分析が、行われているようだ。それに比べて、この国では、相も変わらぬ、馬鹿げた行動や、非論理的な言説が飛び出し、更には、嘘が蔓延し、陰謀説を、大真面目に論じる、輩までが跋扈している。冷静で、論理的な人々は、当初は、そんな愚かさに、周囲も気付く筈で、本人達も、早晩飽きる筈、と踏んで静観していたが、騒動が続く限り、落ち着くどころか、負の連鎖とも思える、愚かさの連鎖が、止まらぬ様子に、重い腰を、上げ始めた。一方で、専門家と称する、非常識な発言をも、厭わぬ連中が、それに拍車を掛け、事態を悪化させるばかりだから、本当に困ったものだ。なぜ、これ程に、愚かな行為が、続くのか、不思議に思う人が、居るかも知れないが、その背景は、明らかなものだ。長年続いた、安全・安心という、有りもしない目標と、その発端とも言える、不安・心配の声が、全てだろう。不安や心配は、心の中から、出てくるものであり、そこには、論理もへったくれも無く、ただの思いつきでさえ、対応を求められる。こんな状況で、今回の騒動のように、恐怖を撒き散らし、論理の拠り所となる、調査が、御座形な状況では、根拠を示さずとも、好き勝手に、主張ができてしまう。それを、否定する材料も、見当たらないのでは、悪を野放しにするだけだ。

* * * * * * * *

12月13日(火)−飲む前

 独り言は、様々な話題を取り上げ、問題点を指摘したり、矛盾を突いたりしている。話題は、多種多様に及ぶから、当然のことながら、手持ちの知識では、理解し切れぬことも多い。時には、検索を繰り返し、正しい情報を、手に入れる必要もあり、それでも、及ばぬこともある。
 及ばぬ時は、どうするのか。単純なことだ。知らぬことは、知らないのであり、それを、知っているかのように、振る舞う必要は無い。誰かに聞かれれば、知らないと答えるし、独り言なら、はじめから、取り上げなければ良い。単純なことだが、世の中には、そういうことが、出来ない輩が一杯居る。画面や紙面に登場し、嘘八百を、撒き散らすのも、その類いの人間だ。所謂、生と呼ばれる形式で、画面上で尋ねられたら、単純に、知らないと答えれば、と思うのが常だが、それが出来ぬ人が、世の中には居る。一方、紙面では、先程触れたように、検索したり、本を探したりして、調べた上で、答えを導けば良いのだが、それをしない人も居る。理由はそれぞれだろうが、単に、面倒だという、怠惰を理由とする場合も多い。少し内情を知ると、画面においても、別の理由で、間違いや過ちを、口走る人が居る。編集側から、与えられた台詞を、自分の言葉として、発する人々で、その真偽を、事前に調べないと、何とも無責任な発言、となることが多い。元々、番組編集において、このような手法は、度々使われており、権威とか専門家とか、画面に表示される割に、発言が、心許なく、一貫性の無いことも多い。この場合は、番組の演出として、使われただけで、作る側にとっては、どの程度の知識がある人物かは、問題とならない。そんな代物を、与えられて、鵜呑みにしていては、危ういばかりとなる。少しは、自分でも調べ、確かめた上で、どう考えるかが、肝心なのではないか。独り言は、匿名で綴られるが、少なくとも、そんな無責任は、避けて通りたい。人間として、最低限のことだ。

* * * * * * * *

12月12日(月)−根拠無し

 これまでにも、何度も繰り返されたことだが、今も、安全・安心を求める大衆に、権力側は、何とか応えようと、不安と心配の解消を、試みている。だが、隣の大国の様子を、見ているだけで、それが、叶わぬ夢の如く、下らない目標と、なっているように思える。
 これまでとの違いは、不安や心配の種が、天変地異や、自然現象によるものではなく、ほぼ全てが、人為的なものだ、という点だろう。確かに、生きとし生けるものは、死を迎える運命にあり、それが、何時訪れるかが、多くの人の関心だろう。だが、今回の騒動では、異常としか思えぬ程に、過大評価が重ねられ、講じられた対策の殆どが、無益なものに過ぎず、現場の混乱が極まり、人々の不安と心配が、上り詰めていった。だが、犠牲者の数も、長い期間で平均すれば、従前との違いは、殆ど見えず、様々な病気で、亡くなる人々の数と、大差無い状態だろう。にも拘らず、依然として、騒ぎを続けたい人々は、重箱の隅をつつくように、小さなことを、さも大袈裟に捉え、死が、すぐそこに迫っているかの如く、三流芝居を、演じ続ける。あまりに、長く続いた芝居で、観客達は、すっかり雰囲気に飲まれ、いざ、制限を緩和しようにも、根付いた疑いは、簡単には晴れそうに無い。隣国の現状は、まさに、こんな状況だろう。政局不安を、盛んに煽るのに、格好な材料に見えたが、実は、それ程のこともなく、皆、芝居小屋に居るだけで、仮想空間の出来事と、大差無い状況だ。では、こちらはどうか。不安と心配を、口にするのが、習慣となった人々は、相変わらずの調子だが、それでも、人の波は、徐々に回復し、観光地には、多くの人が訪れている。何が、この変化の要因か、戸惑う声も聞かれるが、要するに、何事も、深く考えず、噂に惑わされ、右往左往する人間が、この行動の中心に居る、というだけのことだ。根拠など、何処にも無い。

(since 2002/4/3)