パンチの独り言

(2022年12月19日〜12月25日)
(事実を直視、正直に見る、理解する、誰が主か、見破る、弄ぶ、扇動者)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



12月25日(日)−扇動者

 今回の感染症騒動では、嘘八百が、ばら撒かれている。その主体は、ご存知のように、専門家と称する人々だが、数の上では、巷に闊歩する、ど素人の集団の方が、遥かに上回っている。情報社会では、誰もが、最新のものを、手に入れられ、実しやかに語れるからだ。
 昨日取り上げた、超過死亡は、その一つに過ぎず、それ以外にも、マスクの効用と悪影響、ワクチンの効果と毒性、病原体の起源と陰謀説、果ては、電波の影響や、毒を撒き散らす人々など、枚挙に遑がない。どれもこれも、不確かなものに過ぎず、少しは、確かなものでも、彼らにかかると、全く違う解釈が、成立することとなり、庶民の不安や心配を、煽る為なら、少しの嘘や欺瞞は、許されるとでも、言うが如くに、傲慢な態度で、叫び続ける。論理で対抗すれば、ほぼ全ての戯言は、看破できるが、その意味があるとは、とても思えない。何故なら、不安や心配を、口にしたい人々には、まともな論理など、通用する筈も無く、却って、不興を買うばかりで、時に、炎上騒ぎにさえ、発展し兼ねないからだ。そんな、社会の壁蝨のような、存在に対して、飛び付くべき、餌を与えても、何の意味も為さない。それより、まともな神経と、判断力を有する人々の、助けになるようなことを、すべきだろうと思う。それは、結局は、正しい判断に、必要となるものを、提供することに違いない。不安を煽ることに、躍起になるだけの、マスゴミの存在も、そんなものさえあれば、打ち砕くことができ、落ち着きを、取り戻すことが、できるに違いない。超過死亡も、海の向こうで、話題になった時には、医療体制の崩壊を、懸念する声となったが、現実には、それ以前に、医療保険制度の問題が、全ての根源であり、犠牲者の多くは、その恩恵に浴せずに、医療を受けられなかった、に過ぎない。それに比べれば、こちら側は、心配は殆ど無く、ただ単に、寿命の問題、となるだけのことだ。

* * * * * * * *

12月24日(土)−弄ぶ

 専門家と称して、嘘八百を撒き散らすのは、最低の行状と思うが、それに加えて、俄としか思えぬ、社会媒体で暗躍する、知ったかぶりの人々も、同類としか思えぬ。互いに、相手を、罵倒しているが、目糞鼻糞の類いでしかない。目も耳も、向ける必要など、毛頭無い。
 専門家が、その世界の言葉を使うのは、権利なのだろうが、俄者達は、殆ど理解せずに、いや、無理解の上で、知ったかぶりを装うのには、反吐が出る。新しい言葉が、登場すると、その途端に、飛び付いて、矢鱈と使いまくるが、誤用も含め、内容は無に等しい。いや、却って、間違いを拡散させるから、害悪というべきだ。最近も、超過死亡なる言葉が、盛んに、取り沙汰されている。専門家が、国の委員会で、持ち出したから、何かしらの意味は、あるに違いないが、その定義を読むと、首を傾げたくなる。予想される死亡者数から、有意な差をもつ死者数が、報告された場合のことを、指すのだが、業界では、それが現れた場合、何かしら、隠れた要因がある、と見るべきとされ、それを探る端緒となる、というのだ。例として、引かれるのは、例の感染症の流行であり、当時の、膨大な死者数が、予想を遥かに上回った、として、意味付けられる。だが、予想値と、信頼区間と呼ばれる、ある確率の範囲内で、変動する値を、加減した範囲から、外れることを、重視する考え方は、統計の世界では、当然のものに見えるが、ある期間を、対象として考えても、それが、前後した場合を含めると、安易に、結論を導くことは、過ちと思える。それを、大袈裟に取り上げ、特段の要因を、血眼になって、探したとしても、多くは、何も見つけられない。理由は簡単で、物事は、引いた例の如く、単純ではなく、数々の要因が、複雑に絡んだものだからだ。統計は、愚か者の玩具ではなく、賢者の剣なのだ。更に、死は、いつかは確率1となる。そんなものを、弄んでも、何もならない。賢者も手出し無用だ。

* * * * * * * *

12月23日(金)−見破る

 論理的に、物事を考えることが、重要である、と説く中で、確率の話を、何度も取り上げた。では、確率とは、どんな手法で、求められるのか。これに関しては、誰もが、何処かで聞いた話となる。ある事象が、起こる確率は、全事象に対する、ある事象の割合、から求められる。
 こんなことを、読んだとしても、現実に、何を指しているのか、判らない、という人も、居るだろう。全事象とは、ある事象とは、と悩んでも、具体的に示されないと、理解できないからだ。では、これでは、どうだろうか。宝籤が、当たる確率は、という問題だ。例えば、一等に当たる確率は、と問われれば、発売された、宝籤の枚数と、一等の枚数で、確率が出る。でも、印刷されたものが、全て売り切れる、訳では無いのでは、との疑問も出るだろう。その通り、予想された確率と、現実に起きた確率は、違ってくる場合が多い。だから、細かく調べねば、本当のことは、判らないとなる。しかし、宝籤を購入する人には、本当の確率ではなく、予想されたものしか、わかっていない。だから、と考えるのなら、まあ、買わないのが無難だ。一方、数字を当てる方式のものでは、どの目が出るか、定かではないので、本当の確率は論じられない。でも、想定することはできる。ということで、確率の話をする訳だ。後者の問題は、複雑であり、理論値は求められるが、現実が、それに当てはまるかは、再び、確率の問題となる。統計において、こんな話が繰り返され、結局、大衆にとって、理解不能となる場合が多い。一方、この手法を持ち出す側は、有利になるように、統計を使う。宝籤では、大した操作は、できないが、通常の統計では、事象を、選り分ける段階で、恣意的な操作が、入り込む余地がある。数字になれば、その比較に、操作を加えることは、難しいかも知れないが、数字にする段階で、手を入れれば、操作が可能となる訳だ。論理的に考えるには、ここにも、目を向ける必要があるのだ。

* * * * * * * *

12月22日(木)−誰が主か

 囀りの様子が、おかしくないか。そんな思いを、抱く人が多いと思う。これは、発言が過激になったとか、件の人物が戻ってきて、不穏になっている、という意味ではなく、まさに、企業としての状況が、危うくなりつつある、という意味だ。ただ一人の金持ちの気紛れで。
 自由な発言を、支持する人々の多くは、今回の成り行きを、見守っているだろう。それまでの発言の数々から、彼の経営手腕に期待し、より良い場を、築いて貰える、と信じているからだ。だが、所詮、金儲けを企む人間が、皆の為と称して、様々な悪事を働き、私腹を肥やした例は、数限りなくある。今回のことも、表では、依頼があった、との情報もあるが、裏では、何が行われ、何が進められつつあるのか、さっぱり分からない。特に、経営手腕として、彼に、全幅の信頼を、寄せる人々に、尋ねてみたいのは、何を根拠に、そんな気持ちになったのか、ということだ。確かに、彼が始めた、新しい事業は、大いに発展した、と見えている。しかし、そこまでの過程で、一体全体、どんな紆余曲折があったのか、分析は、全く行われず、今が良いから、良いのだという主張にしか、聞こえていない。更に、この駆動方式に関しては、確かに、世界の先進国が、挙って導入を決め、法的整備も含め、強く支援している。しかし、これまでも、そして、これからも、この成り行きを、注視する必要がある。利権争いは、その一つだが、それより何より、電力供給の整備が、不十分なことだけでなく、その為に必要な、発電という事業自体も、不安定な状況にある。元に戻し、囀りの状況だ。改革を進め、より良い仕組みを、構築するという理想は、何度も語られたようだが、その実態は、何一つ明らかとなっていない。その中で、自らの役割を、大きく変更して、何を目指すのか。穿った見方をすれば、幕引きか、とも思えてくる。自由な発言の場を、保つのに必要なのは、経営ではなく、参加者の意識なのでは。

* * * * * * * *

12月21日(水)−理解する

 嘘はいけない、と言っても、言葉の綾という面も、否めない。三重水素から、出る放射線は、非常に微弱で、事故後に、各地でなされた、測定の方法では、全く検知されない。特殊な試薬を用い、特別な装置でしか、その存在を、知ることさえ、できない訳だ。
 だから、危険は無い、と言えるかは、定かではない。三重水素は、自然界にも存在し、日常的に、体内にも、取り込まれている。しかし、放射性カリウムのように、強い放射線を、出す訳ではないので、自分自身にも、他人にも、殆ど影響が無い、と考えられている。ただ、弱いといっても、放射線だけに、安全だとは言えない。だからこそ、慎重に扱われ、今回の措置でも、その為の方策が、様々に講じられている。だが、大衆にとって、放射線という言葉は、どれもこれも、同じに聞こえる。だから、反対運動が起き、だからこそ、感情的になる、とする人も多いが、それは、明らかな間違いだ。同等には、扱えないが、自動車の利便性を、人々は享受している。しかし、事故が起きてしまえば、人間に危害を加えることもある。同じ危害なのだから、けしからんとばかりに、自動車を廃止するか、と問われれば、殆ど全ての人が、否と答えるだろう。程度を見極め、判断することが、今の世の中では、重要となるのだ。一方で、事故だからこそ、汚染が深刻だと、見る向きもある。三重水素は、全ての原発で、生成されると聞いても、すぐには、理解できないのだが、読んでみると、自然界に存在する、重水素に中性子が、加わることで、作られるとある。中性子は、原子力の源だから、当然のことと分かるが、では、他の放射性物質は、ともなるだろう。これもまた生成され、そのうちの幾らかは、放出されるとある。だが、放射線を指標とすれば、その存在を、確実に知ることができ、それによって、除去を含めた措置が取れる。これも、重要なことだ。ただ怖がるのでは、こんな理解は、起きないのでは。

* * * * * * * *

12月20日(火)−正直に見る

 罵るだけでは駄目、と書いても、その程度の人間には、何も届かないだろう。兎に角、一度思い込んだら、何が起きようが、知ったことでは無いのだ。どんなに、説明を尽くしても、彼らに響くことは無い。却って、逆上したり、叫んだりと、常軌を逸するだけだ。
 どうせ、聞いて貰えずとも、まずは、順序立てて、考えてみたい。ここでは、廃炉に関して、論じるつもりは、毛頭無い。企業が示したのは、今、喫緊の問題として、取り沙汰される、処理水なるものに、関することだ。暴走は、していないものの、閉じられた空間で、ある程度の制御下に置けず、続々と放出される汚染水は、不十分な制御の下、崩壊によって、生じた熱を、奪い取る為に、注入された水が、そこにある放射性物質を、溶かし込んだ形で、出て来たものだ。ただ、これは、事故によって、生じたものではなく、通常の発電においても、同類の汚染水が、発生するとある。それらは、三重水素を含むもので、通常の金属イオンなら、高校化学で習ったように、沈殿物を生じさせ、回収することが可能だが、水素に関しては、その手立てが無い、とされる。つまり、何も起こらずとも、原子力発電所からは、三重水素を含む水は、日々放出される、ということだ。それが、昨日の広告記事の右下に、示された図が、表す事実だ。時期が異なり、能力もおそらく異なるが、それにしても、各国の発電所から、これだけのものが、放出され、殆どが海洋廃棄されている。ここに、喧伝した当時の嘘が、暴かれている。つまり、放射性物質を、放出することは無い、という主張は、ある例外を除いた話であり、方便としての嘘だった訳だ。それにしても、膨大な量が放出されるが、海洋水の量を考えれば、希釈の概念が通用する。但し、ここでも、反対派を説得する為、濃度を下げる手順を加え、安全性の確保を目指す、というのが、左下の図だ。総量も、濃度も、妥当というのが、主張だろう。どう見るのか。

* * * * * * * *

12月19日(月)−事実を直視

 漫画といえば、最近は、悪い話しか、聞こえてこない。などと書けば、厳しい叱責の声が、届くに違いない。夢の世界だったものが、いつの間にか、商売の種となり、不正の温床となった。漫画自体に、罪などある筈も無く、全ては、金儲けしか、頭に無い悪者の世界だ。
 子供の頃、楽しんだ漫画には、未来を描いたものが、一杯あった。代表格は、ロボットが登場する話だろう。正義にも、悪にもなる、操縦器で動いたのは、鉄人と呼ばれた、大型のものだが、人間と同じ大きさで、正義の味方として、登場したのは、アトムだった。動画となり、世界に配信されたから、同世代の人々の、共通認識ともなった。ただ、名前は、変えられていたが。このロボットの動力源は、当時、最新の技術として、注目された、原子力だった。小型の原子炉を、搭載した機械は、膨大な出力を誇り、歌にも唄われていた。その頃、この国では、最新の発電方式として、導入が検討され始め、爆弾の印象を、払拭しようと、政府は躍起になって、安全性を主張していた。だが、その過程で、多くの、不都合な情報は、隠蔽されてしまい、全国各地に、建設された後も、反対運動の中心は、危険性に関するものだった。その果てに、起きたのが、大震災に伴う、発電所事故であり、周囲に飛散した、放射性物質の処理と、事故を起こした原子炉の、始末に、国も企業も、追われる結果となった。ただ、その過程で、喧伝された危険性の多くは、誤解や無理解に基づくものであり、導入当初の、隠蔽工作が、しっぺ返しとなったものだ。その後も、十分な理解もなしに、罵り合うのは、今の分断と、よく似た現象かも知れぬ。ただ、最近、企業が出した全面広告では、確かに、発電所からの放射性物質の放出が、明記されており、嘗ての隠蔽体質とは、少しは違う姿勢を、見せているようだ。その上で、廃炉に向けての過程として、必要なことは何か、訴える姿勢に対し、ただ罵るだけでは、駄目だろう。

(since 2002/4/3)