パンチの独り言

(2022年12月26日〜2023年1月1日)
(自明の理、死に体、地産地消、拙遅、無駄な抵抗、独り言、一年の計)



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2023年1月1日(日)−一年の計

 新しい年が明けた。何か、大きな変化が、起きるのか。この国では、期待は、膨らみそうにない。悲観的な筋書きで、ここ数年、厳しい制限を課せられ、圧迫感の中で、足掻いてきた人々が、改めて、何かを始められるか、と問われれば、否となる。悲観になる必要は、無いのだが。
 では、この閉塞感が、拭われることは、無いのだろうか。こちらにも、否との返答を、しておきたい。理由は、簡単なことだ。周囲の目を、気にすることで、島国根性を、形成してきた人々も、これ程までに、強い圧力を掛けられ、好きなことが、できないどころか、好きも嫌いもなく、ただ漫然としか、生きられないとなれば、考え方を、根本から変える必要が、あるからだ。どう変化させるのか。と言っても、独り言を読めば、このサイトの管理人は、どうも、他の人々と、かなり違った考えを、持っていることが、分かると思う。自分自身は、何も、変える必要は、無いと思っている。だが、多くの市民は、他力本願の考えを捨て、自分でできることを、どう行うべきかを、考える必要がある。他人を気にして、他人についていくだけなら、何も変える必要は無いが、もし、それが、自分にとって、何かしらの不利を、招くと思うのなら、さっさと、そんな考えは捨てた方が、良いだろう。マスク然り、ワクチン然り、何事も、お上が決めたことに、従いたければ、そうすれば良い。何の責任も無く、何の工夫も必要無い。ただ、後を追えば良いだけだ。これ程、楽なことは無い。だが、歪みが強まり、施しが破綻すれば、同じことを、繰り返すのは、無理となる。その時になって、慌てても仕方ない。さっさと、準備だけでも、しておいた方が良い。それより、もう、変えてしまった方が、良いのではないか、という意味だ。元旦に、何かしらの考えを、表明するとしたら、そんなことなのではないか。こちらは、いつも通り、続けるだけなのだが。

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2022年12月31日(土)−独り言

 今年も一年、独り言を、書き連ねてきた。始めた頃には、日記をつけたことの無い人間に、日々、何かしらを、書き綴ることが、できるのか、という懸念があったが、何と、20年を超えて尚、書くことがあるようだ。と言っても、今年の状況は、大きな変貌を遂げた。
 元々、時事的話題は、避けるように、していた。理由は、単純で、報道とは、時事と称して、下らない噂話を、垂れ流す存在、と思っているからだ。猫の目のように、ころころと変わる話題に、こちらの意見を、出したとしても、翌日には、正反対の結論を、平気の平左で、宣う輩ばかりだ。その上、論理の欠片も無く、嘘八百を、実しやかに、伝えることにも、腹が立っていた。なのに、何故、これ程までに、垂れ流される情報の、誤りを指摘し、糾弾し続けるのか、と思う人が多いだろう。理由は、これも、ごく単純なもので、世界機関、専門機関、各国政府、自治体などが、挙って、その間違いを、正しいものとして、大衆に知らせることで、庶民が、不条理に晒され、不利を強いられるからだ。特に、命に関することで、このやり方は、暴力でしかなく、排除する為には、誤りを正すのが、最適の手段と言えるからだ。だが、そのこと自体は、成功を見ていない。何故なら、多くの人々は、権威に頼り、権力に頼るからだ。専門家と称する人々が、発する情報は、本来、科学的見地に基づき、正当性を検証する、必要があるが、緊急事態との理由から、暴論が発せられ、誤った判断を、市民に強いてきた。それが、可能となった理由は、信頼の置ける人々が、議論を重ねた結果、という触れ込みだからだ。だが、その実、検証不能な事柄や、明らかな過ちが、ただ分かり易いとの理由から、安易に発せられ、大衆を惑わせる。匿名の指摘が、こんな愚民に、届く筈もなく、SNSに巣食う嘘吐きと、同類と見做される。意見の正誤は、内容にあり、発信者の正体に、依るものではない。なのに、だ。

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12月30日(金)−無駄な抵抗

 安全・安心な社会を、築く為に、全ての危険を、取り除こうとする。こんな表現に、出会ったら、貴方なら、どんなことを、思い浮かべるだろう。理想の社会、と受け取るのか、そんな夢物語が、ある筈は無い、と思うのか。現実を、目の当たりにすれば、答えは見つかるだろう。
 だが、世の中には、現実に目を向けず、嘘や欺瞞に満ちた、夢物語を、真実の如く、吹聴する人々が居る。それも、あらゆる危険を、回避できるものとして。通常の思考能力を、持ち合わせた人なら、そんな戯言に、惑わされることは、決して無い筈、と思えるのだが、現実は、そうでもない。多くの人々が、理想を求めて、彷徨い歩いている。例えば、投資の世界では、危機回避を、目指した仕組みとして、設定されたものが、盛んに売られている。確かに、危険さえ排除できれば、後は、手持ちの資産を、増やすだけ、となるのだが、そうは問屋が卸さない。通常であれば、正反対の投資を、繰り返すことで、片方で生じた損失を、もう一方で補える、というのだが、これまでも、そうだったように、危険が、ある水準を超えると、損失が大き過ぎて、補うことができなくなる。典型は、仮想通貨の世界だろう。元々、通貨とは、各国政府が保証することで、その価値が、支えられるが、仮想通貨には、そんな支えが無い。逆に言えば、それだけ変動が大きく、波に乗りさえすれば、莫大な利益が、上げられると言われる。だが、仕組みの脆弱性故に、不正が頻繁に起き、先日も、破綻が起きた。この背景に、花火の如く、兵器を上げ続ける、某国の存在があり、暗躍しているとも言われるが、この図式は、まさに、危機を象徴している。ことほど左様に、投資の世界に、危機回避は、成立しないのだ。当然、人間にとっても、危険を、完全に排除することは、不可能となる。生きとし生けるものが、寿命を迎えるのは、運命であり、逃れることはできない。安全・安心も、その定めに、抗うことはできない。

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12月29日(木)−拙遅

 またぞろ、分類の問題が、噴出している。だが、肝心な時に、何の対策も取れず、ただ漫然と、失策を続けた、愚かな専門家達は、的外れな意見と、非常識な見解を、示すばかりで、存在価値さえ、失っている。ここで取り上げた、あの頃とは、状況が一変したのに。
 元々、分類変更が、取り沙汰されたのは、現場の混乱を、極める元凶を、取り除くのが、目的だった。今や、感染力に、目を奪われるばかりで、その病原性は、ただの風邪とさえ、思えぬ程に、落ちている。この理由は、単に、病原体の問題ではなく、宿主たる、人間の状況にも、変化が起きたからだろう。当初、多くの犠牲者が、過剰と思える、免疫反応の果てに、自らの命を、失っていたが、やはり、この原因は、人それぞれの、先天的な形質の違い、から来るものだったようだ。だからこそ、徐々に、過剰反応を示す患者が、減り続けて、世界的には、以前のものと、大差無いものとなった。否、今もまだ、多くの死者が、出ているとの反論を、盛んに繰り返す人々が居るが、その症状を、精査しないまま、同じことを繰り返す、愚かな状況では、議論に値しない、ものでしかない。その中で、分類変更は、無料の治療を、約束する状況から、有料へと変わることが、議論の的とされ、無知蒙昧な輩が、再び、その勢いを、取り戻しつつあるが、治療の必要性自体を、論じないままに、空論を続けるのは、やはり、愚の骨頂でしかない。既に、以前と変わらぬ状況に、戻ったとしたら、指定する必要さえ、無いこととなる。これは、現在の各地の医院に、通達されたように、一部の陽性者のみの、報告でよしとするのと、同じことだろう。その上、感染拡大を、防ぐ手立てが、既に、失われつつある中、どんな施策を、講じようとするのか。出鱈目も、支離滅裂も、迷走も、全て含めて、まだ尚、金蔓を失いたくない、というだけのことだ。分類変更は、遅きに失し、指定解除こそ、的を射るのだ。

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12月28日(水)−地産地消

 グローバル、という言葉が、世界的に大流行している、と言われた時期もあった。外国人観光客の誘致を、盛んに行い、地域の活性化を進める、という話も、実しやかにされていた。さて、今はどうか。感染症騒動や、某国の軍事侵攻などで、大混乱を来し、大変貌を遂げた。
 国連や、その下部組織が、主導する形で、これらの施策は、進められてきた。だが、それらに、大打撃を与えたのも、同じ下部組織の仕業だ。所詮、国際機関の収益を、上げる為だけに、これら全てのことが、さも重要なことの如く、取り上げれられ、国の機関も、報道機関も、挙って推進してきた。だが、こうなってしまい、誰もが、呆然としている。何故なのか。理由は、簡単だ。他人任せの施策は、所詮、他人次第だからだ。グローバルも、一部の識者からは、海の向こうの大国が、主体となったものに過ぎず、世界全体を、視野に入れたものではない、と言われ続けた。世界機関は、まるで、世界統一の平和が、訪れるものと、仮定した上で、様々な施策を、講じてきたが、たった一つの国の、暴挙を発端に、平和そのものが、打ち砕かれた。世界大戦とは、全く異なる形だが、世界を二分する戦いに、混乱は高まっている。では、他人に頼らず、自らの力で、何ができるのか。長く続いた依存体制から、脱却できない国に、光は見えてこない。と思う人が、多いのではないか。だが、身の回りを、見渡して欲しい。自分が関わるもの、一つひとつについて、どんな関わりが、できるのかを、考えるのだ。物価上昇が、抑えられる中、兎にも角にも、安物を探し続け、生活費を、節約し続けてきた。そこに、世界的な混乱から、物価が上がり始め、困窮状況が、極まりつつある、と思う人が多い。だが、自分とその周りだけを、相手にしていれば、殆どのことは、大した違いを、生じないまま、生活し続けられる。単に、考え方の違いなのだ。依存体質を改め、自分で考え、決めれば済むだけのこと。

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12月27日(火)−死に体

 この騒動の出鱈目ぶりは、元々、世界機関と、それに与する専門家達が、先導したものだが、庶民にとっての、直接的な影響は、やはり、各国政府や自治体が、定めた数々の制限や、政策の数々から、もたらされたものだ。ほぼ全てが、過ちとなり、悪影響が、一気に広がった。
 子供達に、あらぬ疑いや、責任を押し付けた、過ちの数々は、世界中に広がり、次代を担うべき人格を、傷つけてしまった。この汚点は、簡単には、拭い去れず、負の遺産として、長く残る可能性がある。その責任だけでも、重大と思うが、それ以外の世代にも、多くの圧力を掛け、人々の不安を煽った責任は、消し去ることなど、出来る筈もない。仮令、素知らぬ顔を、押し通そうとも、彼らの過失は、はっきりと記録せねばならない。その後も、過ちが続き、この場でも、度々指摘してきた。例えば、屋外でのマスク着用も、当初から、無駄の一言で片付け、役所が、挙って推奨という、社会的圧力を、掛け続けたことに、危惧を指摘した。遅きに失する形で、最近は、恰も、はじめから明白だったかの如く、喧伝を続けるが、何の効果も示せない。これこそ、信頼が失墜した証左であり、愚かな大衆でさえ、耳を傾けることを、止めたからだろう。だが、懲りない輩は、唯我独尊を、続けている。感染者数、として定着させた、陽性者の数を、調べるのを止める、と国が宣言しても、依然として、報道機関は、その報告を、毎日続け、波の到来を告げている。だが、現場では、既に、報告義務は無くなり、ある年齢層のみ、依頼が続いている。となれば、日々の報道で、出てくる数値は、出鱈目どころか、捏造でしかなく、何の信頼も、おけないものだ。迷走を続け、出鱈目を続け、遂には、嘘八百を、撒き散らす。こんな政府に、何を期待するのか。支離滅裂の論理に、陥った人々は、既に死に体と化し、断末魔の叫びを、上げている。一方、良識ある市民は、雑音を封じ、自分なりの生活に、戻る訳だ。

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12月26日(月)−自明の理

 賀状を、書き上げた人も、多いだろう。だが、この世相では、明るい話題は少なく、苦言を書き記した人も、居るのではないか。危機的状況、と言われ続け、様々な対策が、各国政府から、投じられたが、結局、功を奏さず、生物としての、抵抗力に、頼っただけのようだ。
 その中で、この国の政府も、数々の失政を、繰り返してきた。最たるものは、世界機関が、警告を発した直後の、流行が懸念された時期に、暗殺された元宰相が、率いる政府が下した、子供達への厳しい制限だろう。当時は勿論、今となっては、只の空騒ぎでしかなく、その効果も、子供達への影響も、失策としか呼べず、無駄の一手でしかなかった。当時は、監督官庁から、反対の声も、上がったと言われたが、その後の失政も加わり、そんなことさえ、誰も覚えていないのでは、と思える始末だ。この国に限らず、今回の騒動では、世界各国が、様々な迷走を、繰り返していた。今も尚、その渦中の国も、あるにはあるが、大勢は、落ち着いたと言えそうだ。だが、今後、失策の数々を、詳しく検証し、その原因を、追及する声が、高まってくれば、世界機関をはじめとする、専門家の責任も、それを、鵜呑みにして、暴走を繰り返した、政治家の責任も、厳しく問われることとなる。だが、これほど、多くの人々が、絡んだ話となれば、誰もが、他人の責任を、追及することができず、ただ、忘れ去るという選択を、下しそうな気配だ。これ程の出鱈目を、放置したのは、確かに、死への恐怖という、抗い難い事柄も、あるのだろうが、もう一つ、肝心なことは、これまで、信頼を得てきた、科学研究の力が、失われていたことだろう。死という、確定したものに対し、様々な可能性を、示すしかない科学には、それを、排除する力は、無かったのだ。だが、自明の理に対し、どう処すべきかを、見極められなかった、人間の性こそ、最大要因ではないか。各人が、考え直すべきことと思う。

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