パンチの独り言

(2023年1月2日〜1月8日)
(妨害工作、手抜き、分類解除、老後資金、実用化、傲岸不遜、思い込み)



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1月8日(日)−思い込み

 昨日の活動家達の目的は、気候変動の阻止だという。世界機関をはじめとして、各国政府が、膝を突き合わせて、解決への議論を、進めている、と言われる、あれのことだ。だが、独り言で、何度も取り上げたように、これが、科学的に、確実か否かは、依然、定かではない。
 にも拘らず、活動家達は、必死の形相で、反社会的な行動に、挑んでいる。そこが、理解不能であり、最大の問題となっている。多くの市民は、迷惑を被ったり、嫌悪感を催すと、彼らの行動そのものに、反対の気持ちを強め、政治家達の、厳罰化の提案に、賛同の意を示す。ただ、彼らの殆どは、おそらく、重大な課題の解決は、世界機関や政府に、任せるべきと、思っているだろう。だが、気候変動という問題そのものに、様々な疑いが表出し、更に、その原因について、多くの疑問が、科学者達から、出されていることには、殆ど興味を示さない。何故なら、権威ある世界機関や、責任ある政府の要人が、主張することの方が、正しいに決まっている、と思うからだ。だが、今回の感染症騒動で、権威や責任が、どれ程の功績を、上げたというのか。それと比べて、こちらの問題は、どんな状況にあるのか。もう少し深く、考える必要があるのではないか。これは、正義を振り翳す、活動家達にも、通じることだ。北欧の少女が、声高らかに、訴えた時、報道の殆ど、政治家の多くは、讃美を惜しまなかった。その後も、彼女の活躍が、報じられてきたが、あの過激な言動でも、社会を動かすことは、出来ていない。それどころか、温暖化は、更に勢いを増し、炭酸ガス排出は、一向に収まりそうにない。だからこそ、活動家達は、過激な行動に、出たのだ、として良いのだろうか。信じる所を、強く主張し、反論を、徹底的に排除する。社会媒体の特徴は、多くの人々に、勇気を与えたと言われる。だが、その一方で、極端な言動が、強まり続けている。集団心理の極み、であり、正しいとは思えぬ。

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1月7日(土)−傲岸不遜

 半世紀程前、世界は、混乱の最中にあった。大戦直後に、東西冷戦の象徴とも言われた、ある半島での戦いは、南北分離という結末となり、今も、その状態が続く。同様に、大戦直後に、独立した国も、大国の思惑で、南北分離され、その後、大きな戦いが、始められた。
 世界の混乱は、まさに、後者の戦いを、発端としたもので、前者において、世界機関の軍隊を、率いて戦った国が、同様に、南側を支援し、若者を兵士として、送り込んでいた。徴兵制度への反対から、決起した若者が、国内各地で起こした動きは、大学を中心として、広がっていった。同様に、その国との関係や、国内の変動から、この国でも、多くの紛争が、大学を中心として起き、大混乱となった。これらの出来事を、今の軍事侵攻と、重ね合わせて、論じる人々が、囀りに、盛んに書き込むが、どうにも、事情が異なり、違和感が膨らむ。SNSでは、そんな発言が、屡々、話題を集めるが、嘘や出鱈目となれば、厳しく批判される。だが、信じたことは、主張すべきという風潮は、世界を巻き込み、当時とは、全く異なる混乱を、引き起こしている。驚くべきは、その活動内容で、様々な書き込みで、支援者を得ようとする人々は、活動を、過激化している。中でも、芸術を汚したり、交通を妨害したり、といった形での、社会的混乱により、自らの正当性を、主張する団体には、同意どころか、厳罰化を、求める声が、上がっている。正しいと、信じていれば、どんな蛮行も、許されるとの主張は、受け入れ難く、また、騒動の割に、大した罰も受けずに、活動を続ける姿には、彼らなりの打算が、露骨に表れ、呆れるどころか、社会的制裁を、求める声が強まる。言い分として、穏当な活動では、世界的な危機が、回避されない、との警句は、まるで、SNSで繰り返される、発言の数々と、同一線上にある、とも指摘されるが、現実には、何方も、浅薄な考えに基づく、傲慢なものでしかない。

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1月6日(金)−実用化

 20年以上前のことだが、証券サイトが、まだ賑やかだった頃、年に一度か二度、オフ会なるものを開いていた。そこで、証券社員の一人から、質問されたのは、燃料電池車は、実現するかとの問いだった。答えは、まだ暫くかかるだろう、というものだったが、理由は幾つかあった。
 一つは、技術的な問題で、実用となるか、という点だが、これについては、当時でも、装置的には、実用可能となっており、早晩、走り出すとの見込みは、ついていたと思う。だが、それが可能だとしても、燃料供給は、簡単ではなかった。二つの系統が、考えられていたが、何方にしても、水素の管理が、ネックとなっていた。当然、一部の研究機関や工場で、使われていた水素とは、異なる管理法が、必要となるからだ。法的整備に加え、場所の条件や、補給装置の開発なども、関係していた。とは言え、その後、ある企業が、かなり高額とは言え、市販を始め、今では、街中でも見かけることができる。だが、依然として、ごく僅かな台数に、限られている。当時から、電気自動車は、既に、開発済みであり、そちらの生産を、優先すべきとの声が、上がっていたが、そちらにも、ネックとなるものが、存在しており、切り替えは進まなかった。理由は、簡単なことで、電気駆動機に関しては、ほぼ出来上がっていたが、電力供給に、大きな問題を、抱えていたからだ。充電という過程に、長時間を要することは、日々の暮らしの中でも、多くの人々が、実感しており、それと同じ課題が、大きく立ちはだかっていた。今も、その状況に、大きな変化は無く、各国政府が、挙って、導入を促進させようと、法整備をするが、課題克服は、容易ではない。電池交換や、走行中充電など、提案されるものの、整備への莫大な費用を、どう賄うかの問題が、別に出てきてしまう。一方で、電力供給そのものにも、課題が山積しており、遠い道程と思える。事ほど左様に、新技術とは、掛け声のようには、行かぬものだ。

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1月5日(木)−老後資金

 ここ数年、明らかになったことだが、社会媒体に掲げられた情報は、その多くが、根も葉もないことで、時に、悪意に満ちた嘘が、含まれている。その為、受け取り側が、情報の真偽を、確かめる必要があり、それを、拡散する場合の、責任の所在は、発信者だけでなく、伝達者にもある、となる。
 そんな状況でも、真偽さえ確認すれば、伝達することは、構わないということだ。噂話に、花を咲かせる人々は、社会媒体が、登場する以前から、確認を、怠ってきたのだから、どうにもならない。以前との違いは、拡散速度と、その範囲の大きさにあり、影響の程度も、大きく異なっている。とはいえ、百年ほど前の大震災後にも、噂による惨事が、起きていた。確認は、一人ひとりの責任だろう。さて、そんな中、先日、FBの中に、興味深い情報が、掲げられていた。海の向こうの、年金支給額変更の報せが、届いたという話で、8.7%の上昇とあった。理由は、生活費の高騰とあったそうだが、調べてみると、確かに、政府機関の頁に、明記されていた。あちらの物価上昇率は、かなりのものと報じられ、生活困窮が、進むと言われている。年金支給額は、平均的には、微々たるもので、それだけでは足らず、企業年金や、個人資産運用により、多くの市民の生活費が、賄われている、と伝えられる。一方、こちら側はどうか。昨年四月に、変更の報せがあり、減額が提示されたことは、記憶に新しい。物価上昇が、見込まれる中、何たる決定と、一斉に悲鳴が上がったが、その後、確かに、久し振りの物価上昇となり、年末には、来年度の改定で、上昇するとの報道が、あった。だが、二つの国の上昇率を、比べたグラフでは、互いの扱いの違いが、鮮明となる。この国では、年金に対する期待が、萎むばかりだが、こういう政策決定にも、責任がありそうだ。生活費高騰が、課題となる中、果たして、どんな施策が、講じられるのか。暫くは、眺めておく必要が、ありそうだ。

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1月4日(水)−分類解除

 何度も、分類の間違いを、指摘した上で、暮れには、遅きに失した、と断じた。その際に、分類変更は、既に、意味を無くし、警戒すべき感染症、との認識を、捨てるべき、とも指摘した。理由は、簡単なことだが、愚かなことを、繰り返した、専門家達は、そんなことにも気付かぬ。
 はじめに、分類変更を、訴えていたのには、明確な理由がある。甚大な被害を招くと、世界機関が、発信したことと、その後の、一部の国々での、死者数の急増に対し、厳しい規制を、する必要があるとの判断に、間違いは、確かにあったのだが、実は、大過とはならずに、済んでいた。この原因も、明確になっており、この国では、検査陽性者が、急増せず、医療現場の混乱も、然程でなかったからだ。だが、その後、検査を止めず、漫然と、その数を増やすに連れ、症状の軽重に依らず、全てを隔離し、報告を義務付ける、分類故の負担が、医療現場に、重く伸し掛かり、過負荷と疲弊が、広がったことから、無意味な検査と、その結果に縛られる、感染症分類の問題を、解決する必要が、出てきた。それが、変更の必要性を、強く訴えた理由だ。一方、その後、全世界的に、被害が沈静化し、重症化の割合も、死亡率も、下落した結果、警戒すべき感染症と、見做すべきか否かを、検証する必要が、出てきた。こうなると、感染防止を目的とした、隔離自体が、意味を成さず、一方で、感染防止が、それまでに講じられた、三密の回避や、マスク着用、ワクチン接種、いずれにおいても、成立しないことも、明らかとなったことから、分類対象と見るべき理由は、ほぼ失われた訳だ。現時点で、新型流行性感冒とも違い、引き合いに出される、通常の流行性感冒と、同等と見做すべき、との意見が強い。確かに、対症療法しか、存在しない中、発症者の不安が、募る場合もあろうが、現実には、その殆どが、軽症で済み、回復することを考えれば、分類解除が、妥当な判断となる。それだけのことだ。

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1月3日(火)−手抜き

 情報化社会となり、便利になった、と思う人が多い。確かに、何か、分からないことがあったら、まず、検索すれば、それなりの答えが、手に入る。以前なら、図書館に出かけ、その分野の本を見つけ、その中から、答えを見つけていた。手にした端末で、簡単に手に入るのだ。
 大人になってから、この便利さを、手に入れてみると、以前は、何と不便だったか、呆れてしまう。だが、成長過程にある人にとって、この便利さは、どう映っているか。技術を、身に付ける為に、教えを乞うても、何も教えてくれず、ただ、簡単なことを、やらされた。こんな光景が、どの仕事場でも、見られていたが、今は、大きく違っている。基礎から、しっかりと教え、疑問を解決させる、というのが、仕事場の基本とされ、誰もが、簡単に、技術を身に付けられる。こう書くと、何の問題も、無いように思える。が、以前との違いは、この段階の苦労ではなく、その後の上達にある、と言われる。折角、技術を身に付けようと、弟子入りしても、何も教えて貰えず、去るしかなかった、という時代には、その時期を、師匠の背中を見るだけでなく、後ろから、横から、その姿や仕草を、観察することで、技術を盗むことに、費やした。ある程度の技術を、身に付けた時点で、そこから先は、自分なりの成長を、目指すしかなくなる。一方、手取り足取り、全てを教わった人間は、確かに、一定の技術を習得し、弟子として活躍できただろうが、その先は、どうすべきか、初めて壁に当たる。芸の世界、技術の世界、長い時代、前者のやり方が、踏襲されてきたが、今の時代、それは通用せず、懇切丁寧に、伝授することが、肝要とされる。どうだろうか。実は、高度でなくとも、同じことは、通用するのではないか。教えることが、悪いとは言わないが、その時その時に、適した内容を、伝授するのが、教える側の心得だ。それが無くなり、手軽な情報源に、接することができる。基礎抜きで、良いのか。

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1月2日(月)−妨害工作

 初夢や書き初めなど、年の初めに、初めて行うことを、指している。それまでにも、行ってきた行事を、初めてすることに、何かの思いを、込めるものだ。一方で、人生で、初めて行うのは、事始めとでも、言うのだろうか。こちらは、事情が、少し異なってくる。やったことが無いのだ。
 誰でも、何をするにしても、初めてとなれば、特別だろう。何しろ、何をどうしたらいいのか、分からぬままに、やらなければならない。昔から、先人の教えとして、言い伝えられてきたことを、繰り返すことで、徐々に慣れていく、と言われる。だが、最近は、状況が、大きく変わった。初めてだろうが、何だろうが、巧みに行う為には、という助言が、増えてきたからだ。例えば、文章を書く上で、起承転結が、重要であると、昔から言われてきた。だが、こんなのは、まどろっこしい、とばかりに、結論から、先に書くべき、との指摘が増えている。特に、報告などでは、前置きが長いと、我慢ならぬと言われ、先に、と強く要求される。でも、起承転結のそれぞれが、整っていなければ、論理は成立しない。こんな助言に従うと、結論だけの報告となり、背景を伝えられぬこととなる。本末転倒ではないか。仕事を始めると、これと同様に、ホウレンソウとか、カクレンボウとか、心得を伝えられる。それぞれ、報告、連絡、相談と、確認、連絡、報告の、はじめの部分を、繋げたものだ。こちらも、それ以外にも、重要な項目がある、との指摘があり、負荷が増えてくる。実は、これらに共通するのは、基本の重要性を、解いた話なのに、いつの間にか、上達者の技術を、伝えることで、巧みさを身に付けさせる、話に転じていることだ。最近の助言の多くが、この過ちを、犯している。基本を教え、それを習熟させた上で、各人の工夫を重ね、上達へと繋げる、という道筋を、すっ飛ばして、安易に、巧みさを身に付けさせる。一見、技の伝授に思えるが、その実、創意工夫を排し、上達を妨げる。

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