情報の遮断は、簡単なこと、と書いた。不快なものや、不安に感じるものが、流れてきても、その源を断てば、それで済む、という話だ。先日、囀りの中で、フォローを一つ外せば、連日、山のように押し寄せた、不快な囀りを、遮断できる、と書いた。早速、やったのだ。
だが、二日もすると、「おすすめ」と称して、あれこれ理由を付けて、新たな囀りが、表示され始めた。すると、あろうことか、例の人物が、フォローしていた人々が、いつの間にか、ずらりと並び、以前と変わらぬ状況に、なり始めた。その頭に掲げられたのは、「あなたへのおすすめ」という言葉で、如何にも、必要な情報を、提供している、という体を装っている。だが、実際には、こちらが、敢えて、情報の遮断の目的で、打ち消した、それまでのフォローを、情報源とするものが、まるで、アカウントを、乗っ取ったかの如く、並んでいるのだ。世間的には、余計な親切、と呼ばれるものだが、社会媒体、SNSの世界では、今や、当然の奉仕として、施されるもの、と言われる。これでは、虐めを始めとして、精神的な打撃を受ける、不特定多数の発言を、遮断することは、出来なくなる。まるで、実社会の、ご近所の世話好きのおばさんや、社内のうだつの上がらぬ上司や同僚のように、無視しようとも、追いかけてくる、親切の押し売りと、何ら変わらぬ状況ではないか。元々、これらの仕組みは、管理企業が、収益を上げる為に、広告を流す際に、用いる手法から、編み出された。参加無料を謳う中で、経営を成立させる為には、別の収入源が、必要となる。それが、広告であり、何度打ち消しても、復活してくる、邪魔な広告に、悩まされる人は、一杯居るだろう。その企業論理は、個々の興味関心に、沿った形での広告表示であり、広告を依頼する企業にも、大きな利点がある、と言われる。それと同じことを、囀りの選別に、使っているのだろう。人工知能なんて、所詮、その程度のものだ。
論理の重要性について、何度も説いてきた。だから、これを読む人は、論理の構築が、大切だと解っている、と思う。だが、それは、何も、自分で書くことについて、だけでなく、誰かが書いたもの、についても当てはまる。つまり、文章の論理の吟味が、重要という訳だ。
何故、改めて、こんなことを書くのか。それは、世の中で起きている、様々なことについて、吟味が不十分、ということが、原因で、被害に遭う人が、どんどん増えているからだ。まず、電話などによる、詐欺事件の殆どは、相手の言葉を、十分に吟味すれば、簡単に防げたものだ。詐欺師が、次々に、新手を繰り出す中、警察は、警告を発し続けているが、埒が明かないのは、被害者が、相手の論理の綻びに、気付かないからだ。この国に限らず、世界的に、こんな事件が、多発するのは、人々の判断力が、全体として衰退しているからだろう。それは、別の事柄についても、当てはまる。今回の感染症騒動で、右往左往した人々は、権威ある筋が、発した警句に、振り回された。一見、論理的であり、尚且つ、科学的でもある、筋書きには、多くの見落としが、散見されたが、国家も、専門家も、誰も彼もが、気付かぬままに、恐慌に陥った。一方で、陰謀論などを、振り翳す人々も、盛んに、因果関係を、引き合いに出したが、そこで用いられる論理は、短絡的で、欠陥だらけのものだった。落ち着いて考えれば、簡単に見破れるのに、それができないのは、吟味力不足でしかない。風が吹けば、とか、蝶が舞うと、とか、因果関係の無理筋は、古今東西、あらゆる場所、あらゆる時代に、用いられたが、所詮、無駄でしかない。落語で、使われたように、笑いに結び付けて、済ませていた筈の国も、今の状況は、惨憺たるものだ。相関だろうが、因果だろうが、偶々か、関連があるのか、見極めねば、何事も始まらぬ。情報遮断は、論外だろうが、操作さえも、見抜けぬようでは、お手上げなのだ。
この国では、何事にも、記念日が好まれる。特に、報道関係は、事あるごとに、それを伝える。理由は簡単で、重要なことを、忘れないという、合言葉のようなものがあるからだ。被災者に寄り添う、被害者を保護する、などという掛け声が、盛んに繰り返されるのも、それが理由だ。
確かに、人の記憶は、徐々に、薄れていくものだ。記憶の強化、と言われるように、時々、思い出していれば、忘れずに済む、というのも、経験として、誰もが持つ。だが、儀礼的となったり、単なる、義務として、繰り返すのでは、意味は、殆ど無くなる。特に、受け手側に、その気が起きなければ、雑音と変わらず、強化には繋がらない。その理由の一つは、毎年、同じことを、繰り返すだけ、となっていることで、それに、変化を持たせようと、工夫する場合がある。今年は、大震災から百年となり、おそらく、その日付に向かって、盛り上げられるだろうが、さて、何をどうするのか、単に、その光景を見せるだけでは、無駄でしかない。その後も、この国には、様々な天変地異が襲い、中でも、大震災は、被害の大きさと、その後の復興への、道程の厳しさから、重視されてきた。今も、地震大国にとり、意外な盲点となった、ある大震災が起きた、日付まで、あと数日となり、そろそろ、その話題が取り上げられる。今朝も、警察機構の欠点を、当時の長官が、振り返るという話題が、取り上げられていた。確かに、情報系統が、遮断されたことで、半日近くの混乱と、初動の遅れから、災害が拡大した、との反省がある。そこから、再構築をして、今に至るとの内容だったが、その教訓が、その後起きた大震災に、どう活かされたかを、論じる気配が、全く無かった。報道は、本来、俯瞰的に見渡すことで、様々な問題を、指摘するのが、その役割だったが、近年、それを、果たせぬ状況が、続いている。今回の騒動でも、政府共々、煽るばかりで、全体への視野を、失っていた。どうしたものか。
情報弱者の問題を、殊更に取り上げるのは、如何なものか。確かに、現代社会において、情報は、生き延びる為に、重要なものの一つで、知らないのは、大きな不利益となる、と言われる。だが、不可欠なものなら、当然のことだが、実際には、害を及ぼすものの方が、桁違いに多い。
情報弱者と呼ばれる人の大部分は、実は、肝心なものが、手に入らないことより、自分を傷つける、悪意の情報に、苦しまされている、と言われる。何方も、重要な社会問題だが、実は、何方も、本人の選択で、解決できると思う。SNSの害悪の一つ、として紹介したのは、その仕組みの中で、幅広く、情報を手に入れる為に、不可欠とも言えるものだ。仲間内の情報交換は、こんな仕組みが、登場する以前から、社会に満ち溢れていた。当時も、除け者となり、情報伝達を、遮断されてしまった、人が居たのだが、仕組みが変わっても、その状況は、殆ど変化が無い。と言うより、遥かに悪化した、と言うべきかもしれない。「いいね」を手に入れる為に、躍起になる人々が、最近、盛んに取り上げられるが、これも、自身で解決すべき問題で、社会が、どうこう言うべきではない。一方、悪意の書き込みで、傷付けられた、と訴える人々も、増え続けている。確かに、言葉の暴力は、発した人より、受け止めた人の方が、遥かに深刻なものだ。だが、面と向かって、言われた頃と違い、最近は、それ自体を、遮断することができる。仲間や友達、と称する悪魔からも、簡単に、逃れることが、出来るのだ。当然、その情報源は、失われるが、少し考えれば、その有用性が、殆どか全く無いことに、気付くべきと思う。虐めの問題が、ここでも取り上げられ、また、最近の、全てをハラスメントと呼ぶ風潮が、それに、勢いを与えている。が、よく考えれば、それらの暴力を、排除するのに、必要なのは、ごく単純なことだ。相手をせねば、それで良い。反論は、多々あるだろうが、まずは、そこから、だ。
ここ数年、囀りに、意見を書いたり、掲げられた意見を、読んだりしてきた。その中で、独り言の内容を、追っていけば、誰もが気付くことだが、非論理的、非科学的な意見が、溢れていることに、強い懸念を抱き、危機感を露わにした、呟きを、日々書き記してきた。
特に、違和感を覚えたのは、論理も科学も、一切関係の無い書き込みが、まるで、論理と科学に、溢れたもののように、飾り付けられ、読み手を、欺こうとする気配に、満ち溢れていたことで、社会情勢として、明らかに、誤った方に向かっている、と思えたことだ。囀りは、単純に、検索によって、見出した発言を、読む為に登録したが、精々、そんなものの確認を、目的としたものだった。ところが、感染症騒動が、大きくなるにつれ、政情不安や、市民の不安や心配、更には、それらを煽る為としか、思えない編集方針を、露骨に出した番組など、多くの問題が、積み上がる中で、ある人物が、囀りの中で、この国のやり方に、大きな過ちはなく、特に、当初、外国が、世界機関の指針通りに、検査重視の施策を、繰り出すのに対し、この国では、検査を控え、騒動を拡大させない、施策を取ることこそ、重要との意見を、掲げたいたことが、印象に残り、それを支援する、データを纏める為に、書き込みを始めた。そこに、海の向こうで、企業を立ち上げたと称する、ある人物の囀りが、目に入ったことから、彼ら二人をフォローすることで、意見を追跡しようとした。そこまでは、どうということなく、普通に、読める内容だったし、彼らが、「いいね」をつける囀りも、参考になるものが多かった。ところが、感染症騒動が長引き、軍事侵攻が、始まると、状況が大きく変わった。毎日、過激な意見ばかりが、掲げられ、まるで、世界が、そちらに向かっているかの如く、見えてきたのだ。これはおかしい、と思い、片方のフォローを外した。結果、囀りは、沈静化した。これも、SNSの害悪の一つだ。
先月、読んだ本の中で、印象に残ったのは、文章の書き方、に関するものだ。と言っても、よく小説家が著す、所謂、文章読本ではなく、どちらかと言えば、書き方に関するが、その中にある、規則の一つを、取り上げた内容で、これを読めば、良い文が書ける、というものではない。
長い鎖国の後、文明開化と称する、大きな波が、この国で起きた時、文章で、物事を伝えることにも、大きな変化が、訪れたと言われる。それに関する、歴史の話に加え、新たに導入された、二つの記号が、どんな意味を持ち、どんな役目を担うか、という点に関して、論じた内容だった。意味や役目については、ずっと昔に読んだ本の中に、嘗て、新聞記者だった人物が、著したものがあるが、それは、実用を目的として、書かれたものであり、これらの記号が、どんな背景で導入され、どんな役目を負わされたか、については、殆ど触れられていなかった。それに対して、今度の本は、どちらかといえば、歴史に重きを置き、導入以前は、どんな手立てが、講じられていたのか、とか、導入において、どんな役目を担わせようと、意図されたのか、とか、そんなことに触れている。文章を書く上で、これらの記号を、的確に用いることが、要求されると思われるが、現実には、それぞれに課された規則は、厳密なものとは言えず、人それぞれに、使い方が異なる、と言われている。その意味で、読者にとっては、少し、気が休まる思いが、起きたのではないか。教育上は、まるで、一つの規則に、縛られているかの如く、言い伝えられるが、その実、そんな事実は無く、書き手の意図が、伝われば良い、というだけのものだ。新聞記者は、誤解を招かぬよう、使い方には、注意を要する、と警告しているが、暮れにも、ある新聞の見出しで、そんなものを見かけた。今、正確に、思い出すことができないが、記号を省いたことで、二つ以上の解釈が、可能となる。そんなあやふやさは、情報伝達では、禁忌だろう。
一話完結で、終われば、と思うのだが、最近の独り言は、どうも、連続化している。手短に、纏める能力が、下がっている、とも思えるのだが、その一方で、対象となる話題が、多岐に渡り、元々、纏まりが無い、というのが、根本要因なのでは、と思っている。
活動家の無軌道さも、以前なら、本人達の傲慢さのみが、原因と断じれたが、今は、随分と事情が変わり、社会全体が、彼らの支援に、走っているように見える。そんなことを、書いたら、日々、囀りに、書き込む人々は、猛反対を唱えるだろう。確かに、無軌道さが、ある限度を超えた時、厳しい批判の矢が、囀りの社会で、飛び交っていた。しかし、それ以前の状態では、確かに、活動に加担していたのだ。と言われても尚、そんなことは無い、と言い出す輩も居るだろう。彼らの多くは、囀りの社会の中で、賛同を得ることで、意を強くし、その言動の過激さを、増し続けている。その仕組みこそが、活動家の原動力へと、繋がっている、というのが、こちらの主張なのだ。「いいね」の釦をはじめ、数多くの、賛同の意を表する仕組みが、囀りをはじめとする、社会媒体、SNSには、仕組まれている。それこそが、この社会の活動を、活発化させ、賑やかな社会が、管理する企業にとって、多くの収益を、もたらすとされて来た。しかし、最近の状況は、彼らの収益に、暗い影を落とし、管理と話題性の追求という、相反する事象に対し、得られぬ答えに、新たに参入した、企業の幹部は、苛立ちを、隠し切れない。その上、新型の過激派とも言える、活動家の登場に、一役買っている、と言われようものなら、断固、関与を否定するに、違いない。だが、現実には、一部地域に留まった、噂話が、止めどなく、世界中に拡散し、僅かな賛同者を、大多数の如く、表示する仕組みが、狂信的な人々の、関心を集めている。その結果として、活動の過激化さえ、正当と見る狂気へと、繋がっているのだ。