パンチの独り言

(2023年1月16日〜1月22日)
(小心国、科学の本質、若者達は、責任追及、複雑な問題、無能ぶり、変更は妥当か)



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1月22日(日)−変更は妥当か

 政治家も役人も、報道さえも、ここを覗きに来ることは、決してないと思う。だが、情報の重要性を、あれ程、強調した人々が、あらゆるものに、目を通そうとしない、この現状には、呆れるしかない。一人が、全てを、などと言うつもりはないが、分担してでも、何とかせねば。
 変更するにしても、時期が重要、と書いた理由は、勘のいい人なら、すぐに了解できる。年度で動く組織にとり、その変わり目での変更は、対応に苦慮する。書類上の手続きで、何事も済むのなら、何の心配も要らないが、子供を預かる学校や、それより上位の教育機関では、前に書いたように、突然の変更に、現場の混乱は、酷かったと言われる。その後も、マスクの着用や、給食時の黙食など、子供の心や体を、痛め付けかねない、深慮に欠けた制限に、心を痛めた人も多い。ただ、この件に関しては、個人差が、余りにも大きく、一概に片付けられる問題では無く、そのことにも、注意が必要だ。一方で、分類変更があれば、制限緩和が起き、現場での対応が、必要となる。だが、何時迄も、重い腰を上げぬ、監督官庁と政治家の怠慢が、年度の変わり目を前にして、急な動きを生じた。これ自体が、大きな問題なのだ。ところで、分類変更については、どう考えるべきか。2類相当から、5類への変更、と言っても、多くの人々は、報道などの情報に、惑わされるのみだ。監督官庁のサイトでは、が掲げられ、どんな感染症が、どう分類され、どう扱われるかが、明記されている。それを見ると、確かに、2類に結核が分類され、嘗てを知る人々には、成る程と思える。ただ、その他には、SARS、MERS、鳥インフルエンザとあり、想像が付かない。一方、5類はと言えば、インフルエンザを始め、梅毒、百日咳、風疹、麻疹等々、50近くの病気が、掲げられている。ただ、感染経路の違いや、症状の重さなど、余りに多くの違いがあり、十把一絡げの感を否めない。さて、変更は、妥当なのか。

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1月21日(土)−無能ぶり

 愈々、分類変更が、と報道は、盛んに騒ぎ立てている。愚行を繰り返した、政府も、やっと重い腰を、上げることになった、と伝えるが、一方で、問題山積は、一向に、変わらぬとばかり、難点を、次々と上げる。だが、目糞鼻糞を笑う、が如く、愚か者は、的外れを重ねる。
 何故、いつまでも、変更を行わないのか、意見を挙げた人々は、盛んに、批判を繰り返した。その根拠には、様々あり、どれが正しいのか、検証なきままに、判断は下せない。だからこそ、腰を上げないのだ、とばかりに、開き直る輩まで、登場したようだが、何方も何方、能無しには、変わりがない。分類変更は、無駄なこと、と以前、断じたのも、感染症予防の観点から、今回の騒動を、俯瞰すると、従来の予防法が、悉く、無効と思える節があり、掲げたとして、何になるのか、と思う。一方、それにしても、分類を、正しく行いたい、と思う連中も居り、彼らの要求を、満たすことも、必要かも知れぬ。で、今回の報道となった訳だが、そこでは、以前から問題視された、現場の混乱や、発症者の扱いなどが、取り上げられていた。だが、今報道するにあたり、重要な視点が、欠けていることに、思いが及ばぬのは、何ともはやだ。「今春」、と盛んに書き立て、喚き立てるが、それは、実際、いつなのだ。読めば、これから決めること、とあるようだが、それにしても、批判する側は、そこにある問題を、指摘せねばならない。年度で動く、多くの組織にとり、3月からか、4月からかは、重要な違いとなる。その上、その決定を、何時下すのかも、当然、新年度の準備に、大きく影響する。騒動が、始まった時、政府の突然の決定で、現場は大混乱となった。緊急事態、との理由が、後付けで出されたが、それとて、今となっては、戯言でしかない。変更後は、現場の対応も、当然変更される。だが、年度を跨ぐ形では、対応は難しくなる。政治家も役人も、報道さえも、気付かぬようでは、駄目だ。

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1月20日(金)−複雑な問題

 責任問題に関しても、実は、様々な意見が、あっていいと思っている。特に、原子力発電所の問題について、企業側の責任を、強く求める声があるのは、ある意味、当然のことだろうが、訴えた側の論理が、そのまま通用するかは、疑わしいと思う。理由は、刑事裁判と同じかも、だ。
 大震災は、甚大な被害を、もたらした。それも、単に、揺れそのものを、原因とする災害だけでなく、そこから生じた、副次的なものも、含まれていた。百年目にあたる、あの大震災でも、揺れそのものより、その後に、各地で起きた、火災による死者が、大部分を占めていたことは、よく知られている。先日、取り上げた、記憶に関係する大震災も、想定外の地域、という点も大きかったが、やはり火災の被害が、大きかった。原発事故を、引き起こした震災は、これらとは異なり、津波による被害が、非常に大きく、その後の対策にも、強い影響を及ぼした。中でも、事故については、これを主要因とし、対策が不十分だったとする見解が、大半を占めている。だが、その考え方も、疑念を抱かざるを得ない部分が、あるのではないか。事故直後、伝えられた内容は、外部電源の喪失に加え、非常用電源が喪失したことが、事故に繋がったというものだ。その時の説明で、確かに、非常用電源を、津波が襲い、機能しなかったことが、問題視された。何故、対策がなされなかったのか、というのだ。だが、その報道を聞いた時、真っ先に浮かんだのは、原子力発電所が、抱える問題だった。安全を、強く謳う為に、様々な制限が、掛けられていた現状で、対策の為の工事さえ、認められない空気が、現地に無かったか、という点だ。そんなことを、思い浮かべるのは、ほんの一握りだろうが、危険を、強く訴える人々に、どう伝わるかを、考えてみると、事は単純ではない。その上で、責任問題を、扱うべきと思ったのだ。今でも、その考えに、変わりは無い。被害者の主張は、理解できるが、単純ではない。

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1月19日(木)−責任追及

 権利と義務は、一括りに考えるべき、という意見がある。権利を生じる為には、義務を果たさねばならない、という意味だろう。一方、これと一緒に、自由と責任、という組み合わせも、屡々、引き合いに出される。自由を謳歌する為には、責任を果たすべき、となるのだ。
 だが、責任に関しては、全く別の考え方がある。何かしらの役目を、負う場合には、責任が伴う、というものだ。そこでは、自由との組み合わせではなく、役目や役割が、組み合わされる。ここで、何度も取り上げた、感染症騒動において、世界機関や各国政府、専門機関などが、その対象となる。これ程、長きに渡り、世界中を、混乱の渦に巻き込み、経済活動だけでなく、人々の生命や生活を、脅かし続けた、騒動自体を、主導した人々には、何らかの責任が、伴う筈、という訳だ。これをはじめとして、社会活動の多くが、現代社会では、責任を問われる対象となる。昨日も、ある判決が、言い渡され、不当と掲げ、責任を追及する声を、報道機関は、盛んに伝えていた。確かに、民事では、有罪とされ、賠償責任が、確定している例も、あるようだが、何故、刑事では、そうならないのか。大衆にとって、理解に苦しむ所、というのが、報道の骨子だった。だが、この考え方には、明らかな瑕疵がある。民事では、被害一般を、扱うのに対し、刑事では、ある特定の罪状に関して、その責任を問うのだ。ここを、読み飛ばして、「責任」のみを、扱う所に、最近の風潮があり、報道の無能ぶりが、現れている。刑事で、問われたのは、過失致死という罪状であり、原発事故による、放射性物質放出、そのものによる、致死現象は、確認されていない。一方、ここで掲げられた対象は、事故からの避難により、入院患者が、死亡した場合であり、そこには、事故から避難までの、多くの段階が関与する。当然、直接的原因かが、問われた訳で、それを、証明できなかった。民事なら、可能だったのに、だ。

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1月18日(水)−若者達は

 若者に対する評価は、低いのが、当たり前と思う。だが、最近の傾向は、正反対のようだ。確かに、今の実力は、大したことはない、だろうが、自分の若い頃と比べれば、と口癖のように宣う、理解ある大人が、増えたからと言う。所詮、主観的判断だから、どうにでもなるが。
 では、実態は、どうだろうか。教育の力を、評価する人々からは、芳しい答えは、返ってこない。詰め込み教育が、全盛だった頃、子供達は、日々の勉学に、苦しめられた、と言われる。だからこそ、自由を謳歌すべき時代には、もっと楽な仕組みが、必要だとばかり、ある時期、教科書の厚さも、内容の濃さも、激減したと言われる程に、ある意味の緩和が、進められた。その結果、何が起きたのか。学力低下が、著しくなり、将来展望が、見えないとまで、言われ始めた。当然、舵きりが行われ、充実させようと、し始めたのだ。だが、この転換で、大切なことが、見落とされた。それは、一度、緩めた螺子は、簡単には、締め直せない、と言われるように、激減した時代に、育った若者達が、次代を担う子供達を、教育する立場となり、経験したことの無い、教育手法を、施す必要が出てきたのだ。現場の混乱は、予想以上のもので、状況は、好転していない。その中で、育ってきた若者は、緩めた当時と同様に、自己評価が高く、夢を追い、目標を目指す、という気持ちは、有しているものの、実態が伴わず、低い壁さえ、越えられない、という状況に、変化は起きていない。となれば、従順さこそが、唯一の救い、となるようで、素直に構え、指示に従う人材が、社会から、歓迎されるように、なっているようだ。さて、この状況は、喜ばしいことか。理解ある大人達は、彼らの行く末に、何の不安も、抱いていないようだが、単に、無責任なだけで、本来なら、叱咤激励して、潜在能力を、引き出す必要があるのに、放置したままとなる。そんな時代、なのかも知れないが、お先真っ暗なのでは。

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1月17日(火)−科学の本質

 ここ数年の騒動で、感染症に関しても、軍事侵攻に関しても、分断化が進むと、一方のみに、責任をなすりつける意見が、屡々出される。だが、殆ど全ての分断で、互いの責任は、明確なのだ。日常生活でも、議論を重ねて、妥協案を出すが、そこで、啀み合っては、何も生まれない。
 社会性の生物である、ヒトは、そんな性質を、保つことで、繁栄を築いてきた。その一方で、啀み合いが、発展して、戦いへと入り、多大な損害を、互いに被る歴史も、確かにある。現状を鑑みれば、その可能性を、如何に摘み取るかが、肝心なのだろうが、如何せん、愚かな人々には、自身の面子が、優先され、結果として、決裂へと突き進む。軍事侵攻は、国家間の面子の、打つかり合い、と見る向きがある一方、単に、独裁者の気紛れ、を指摘する声も大きい。これでは、検証を重ねても、解決策を、見いだすことは、恐らく不可能だろう。唯一の策は、独裁者の失脚しかない。一方、感染症に関しては、確かに、大きな利害関係が、横たわっており、それに、どう関与するかが、立場の違いとなっている。だが、科学の本質は、そんな所には無く、事実は、一つきりの筈だ。本来なら、結果を得る為に、検証を繰り返し、総括を行うのだが、現状は、そうなっていない。科学でも、仮説を立てる時点で、ある立場に、決めることが必要で、そこでは、仮の姿を纏う。それに基づき、検証と総括を、行うことで、仮説の正誤を確かめ、ある結論を導くのだ。その営みが、分断化によって、大きく損なわれている。結果、誰もが、迷走を繰り返し、国家や世界機関の過ちが、繰り返される。仮説の過ちを、正すことこそが、科学の重要な歩みだが、それを、面子か何かで、投げ出すのは、愚かとしか思えない。どんな結論が、あるのかについても、科学の世界では、事前に、見えていない。にも拘らず、互いに、信じる所を、断定的に主張すれば、溝は深まるばかりだ。いつまで、続くのやら。

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1月16日(月)−小心国

 科学が、信頼を失いつつあることは、何度も書いてきた。その原因は、科学者自身にある、という点にも、触れてきたが、その一方で、良識ある科学者達は、盛んに、反論を掲げ、大衆を、誤解から開放しようとしている。だが、根本的な理由から、その戦いは、勝ち目の無いものとなっている。
 事あるごとに、触れてきたが、科学の根本は、可能性を示すことであり、絶対は、存在しない。ところが、今回の騒動では、世界機関や国家に、与した科学者達は、死の恐怖から、逃れる為の手段が、ただ一つしかなく、それさえ講じれば、死なずに済む、と断言してきた。感染予報の為の、都市封鎖に始まり、集団免疫獲得として、ワクチン接種を、推し進めてきた。だが、封鎖の効果は、検証されることなく、忘れ去られ、ワクチンの効果は、当初の触れ込みとは、全く異なる形に、次々と変貌していった。確かに、未知の病原体を、相手にしては、変更も止むを得ない、との解釈が、科学者自身から、発せられるが、確実を謳ったのは、彼ら自身であり、前言撤回には、検証と総括が、不可欠となる。それが、信頼失墜の主要因であり、その点を、良識ある科学者達は、追及している。だが、それとて、可能性の話に過ぎず、過ちを、完全否定することは、不可能なのだ。そこに、科学の呪縛が、存在している。にも拘らず、隣の大国は、自らの過ちを、反省することの無いままに、方針転換を行い、それによって、巻き起こった他国の混乱を、盛んに批判する。その言い草が、彼らの愚かさを、如実に表している。自らの力を、過大評価した結果、封じ込めを可能と、見誤った挙句、人民を、押さえ付けることが、不可能と見るや否や、大転換を、平然と行った。だが、発生当初と同様の、大移動を、開始されては、その行き先は、堪ったものではない。制限を課すのは、当然の成り行きだ。それに対して、科学を振り翳したのは、笑止千万だ。それも、小国と見做す、隣国のみの措置では、愚弄も甚だしい。嘗て、成長の為と、盛んに、真似をして、盗みまで働いた相手を、ここまで見下すとは、信頼に値しないのは、当然だ。

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