パンチの独り言

(2023年1月23日〜1月29日)
(沈思黙考、困った現状、上意下達、記念日、季節外れ、一点集中、疫病神)



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1月29日(日)−疫病神

 では、何をどうしたら、科学的解析、となると言うのか。これに関して、昨日の論説では、何も語っていない。つまり、報道は、その責に無い、という訳だ。何度も書いたように、科学は、物事の背景にあることに、光を当てて、見えるようにする、ものなのだが、どう使うのか。
 これまでに、書いてきたことの一部を、再び、書いておく。まずは、感染症による、病状とは何か。初期に、明らかにされたのは、重篤な肺炎が起きる。ということだが、それは、表面的なことに過ぎない。その際に、一部から、指摘されたのは、過剰な免疫反応を、起こした患者に、それが見られる、ということだった。だが、この指摘は、その後、確証を得ておらず、いつの間にか、宙に浮いた状態にある。それは、肺炎という症状は、その一部に過ぎず、過剰反応は、本来なら、身体中のあちこちに、起きるものだからだ。その確認が、取れていない、というのは、果たして、科学技術の問題か、はたまた、担当する人間の問題か。次に、過剰反応が、被害者の体質、つまりは、遺伝形質によるものならば、反応を起こさなかった人々は、その素質を持ち合わせず、仮令、重篤な肺炎となっても、正しく治療すれば、死に至ることは無い、という指摘はどうか。知ってか知らずか、こちらの解析は、全く行われていない。おそらく、規制にとり、好ましくない、と判断されるからだろう。しかし、この指摘は、多数の犠牲者を出したことで、その後の展開が、どうなるかを決めるだけに、はっきりさせるのが、科学の役割だ。で、その後の数々の変異により、感染力が上がり、毒性が下がった、と言われるが、ここにも、先程の話は、関連する。一方、それが事実だとして、どう処すべきかは、科学的に考えねばならない。世界機関の長が、それを論じる会議に先立ち、見解を述べるのは、あの組織の歪みを、表している。このことは、世界の組織に巣食う、病癖の最たるものだろう。

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1月28日(土)−一点集中

 騒動に関して、科学的解析が、行われなかった、と今朝の新聞は、批判していた。政治と科学の、役割分担が、重要とも書いていたが、さて、どんなものを、描いているのか、論説からは、一切見えてこない。ある意味、当然のことで、世界中が、ただ迷走しているからだ。
 おそらく、役割分担をしたとしても、相互に関与し合わねば、何事も解決に向かわない。そんなことを、思い描くのかも、とは思うが、さて、だったら、どうしたらいいのか、相互関与とは、何をどうすることか、見えてくるとは思えない。様々な、課題が山積しており、騒動の最中にも、種々の意見が、出されてきたが、とても、互いの理解を深め、解決の糸口を、見出そうとしている、とは見えていない。根本の原因は、何度も書いたが、やはり、世界機関の姿勢にあると思う。死を恐れ、それを避ける為に、あらゆる努力を惜しまぬ、という態度には、医療に対する、真摯な姿勢が、現れていると言われる。だが、その実、全く異なる考えで、今回の騒動のように、扇動を繰り返してきた、という歴史は、否定できない。感染症は、確かに、恐ろしい病だが、だからと言って、全てを停止させ、じっと穴に閉じ籠もる、という訳には行かない。単に、日々の生活に、窮するというだけでなく、人々の心をも、蝕むことが、今回の騒動で、明らかになったからだ。とは言え、それぞれに、違う反応を示す、生き物の特性から、一概に、それを避け、個々の判断に任せよ、という訳にも行かない。だからこそ、多くの人々が、困り果て、解決の糸口を、自ら、見つけようとした。ただ、政治が行ったことは、それを、頭から押さえつけ、逃れ得ぬ状況に、追い込んだことで、世界機関は、それを、強く支援し続けた。そこに、科学の検証は、一切生じず、結果として、悪い状況を、ただ長引かせ、窮した人々を、追い込んだだけだ。感染症を、悲観的にしか、捉えられぬ世界機関に、何を期待するのか。

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1月27日(金)−季節外れ

 例の如く、小出しにするやり方は、国民を馬鹿にする、お上の態度が現れ、無性に腹が立つ。だが、それと共に、如何に、教養の無い人間が、政を行い、国の行く末を、決めているのか、そちらに関しては、これまでと同様、愚かさを露呈する、能力の低さが、目立つばかりだ。
 前に書いたように、今春、と盛んに喧伝した。そこで、年度の変わり目で、前か後かで、混乱させられる、と懸念を書いた。だが、徐々に、日付が明らかとなり、4月末から5月初めとなり、遂には、Xデーは、5月8日と報道された。所詮、政府と同様の愚かさを、示し続けている、報道からは、連休明けとの指摘が、行われるだろう。そこには、人の移動が盛んになる、この時期を避けることが、重要との、鳴り物入りの解釈が、並ぶに違いない。成る程、そんな解釈をして、教養の高さを、示そうとでも思うのか。だが、はじめの表現を、思い出して欲しい。今春とあった、春なのだ。しかし、子供の頃に、唄った歌にあるように、「夏も近づく八十八夜」とある、茶摘みでは、5月の初めに、行われる行事を、歌っていた。一方、旧暦に関しては、すぐそこに来ている、節分を始め、多くの行事や変わり目が、それに従って、行われている。立冬は、よく取り上げられるのに、何故か、立夏に関しては、思い浮かばない人も、多いのではないか。今年の場合、5月6日だそうだ。となれば、季節の上で、5月8日は、夏になる。おやおや、今春と喧伝したのに、この為体では、何とも情けない。確かに、体感としては、梅雨が過ぎねば、この国に、夏は訪れない、と思えるかも知れない。しかし、そんなことでは、季節の移り変わりを、表現できる筈も無い。いやはや、この程度の人々が、国を動かしているのか、などと書いても、何も始まらない。何しろ、この騒動、そんな知識を持ち、そんな判断力を有するのなら、とっくの昔に、片付いているのだ。事程左様に、とはそのことだろう。

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1月26日(木)−記念日

 ふと、表紙の日付を眺め、はたと気が付いた。このサイトを、1000株さんが、開設してから、四半世紀が経過したのだ。証券業界から、他業種に転職し、それを機会に、このサイトを、開設したと聞いている。泡が弾け、下り坂にあった業界を、応援しようというものだった。
 当時、資産に余裕ができ、友人の企業の、株を購入し始めた。検索していて、気が付いたのだと思う。当時は、証券社員だけでなく、投資家や興味を持つ人々が、訪れていた。誰が、声を掛けたのか、オフ会なるものも、開催され、皆の実像と、対面することができた。その後、サイトを格納する場が、何度も変わり、数年前から、今の場所に落ち着いている。だが、数ヶ月前には、管理者の行方不明、と思われる事件が起き、不確かで勝手な書き込みもあり、こういう社会の危うさを、実感した。実際には、何の問題も無く、今に至っている。一方、参加者についても、その後、業界を去った人もあり、亡くなった人もあり、数回続いたオフ会も、多分、一昔前を、最後としている。あの人達は、今、どうしているのか。破綻して、社長が、噎び泣きながら、会見を開いた企業に、居た人も居た。業界そのものは、その後、ある意味、ゆっくりだが、順調に回復している。ただ、弾ける直前に、付けた最高値には、未だ届かず、当時を知る人間も、多くが引退した。今、私の履歴書で、書き綴る人物が、活躍した時代は、遠ざかりつつある。その後、老後の資金として、増やし続けているが、この期間の変動も、かなりの激しさだった。最初に投資した株は、一時、二桁に迫る程、下落を続け、やきもきさせられたが、今は、単位変更の後、ある意味の安定期に、入っている。その他の銘柄も、知己や優待を、きっかけとして、投資し始め、今回の騒動では、かなり甚大な被害を、受けてきた。さて、ここから先、こちらの寿命が、何時迄続くのか、知る由も無いが、ここの管理と共に、歩み続けるのだろう。

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1月25日(水)−上意下達

 やはり、と思った人が多いと思う。今春が、いつ頃なのか、徐々に明らかとなり、年度の変わり目でなく、更に、遅くなる、ということのようだ。ただ、今回も、報道の責任か、はたまた、発信者の責任か、その理由が、添えられておらず、お上のご意向、でしかない。
 これまで、何度も指摘され、この国の不思議の一つ、と数えられるが、国民は、議論を好まぬばかりか、出された指示に、問い質すこともなく、素直に従ってきた。社会媒体では、一部の論者が、盛んに、その問題点を、取り上げるが、実は、そんな状況は、国の中の、殆ど意識されない、領域に限られており、国民の大部分は、そんな意見が、あることさえ知らず、仮令、知ったとしても、出鱈目と信じ込んでいる。何しろ、政府だけでなく、設置された委員会に属する、専門家と呼ばれる人々は、正反対の意見を、連日発しており、それを鵜呑みにする人々には、それこそが、事実である、としか思えないのだ。考えることを、忘れた人々を、操るのは、容易いことであり、国の安定が、保証される、と信じる人も居るが、現実には、戦争に突っ走った時代の、悲惨な状況と、何ら変わらず、あろうことか、その状況を、強く批判し、深い反省をした、と盛んに喧伝してきた、報道陣は、今回もまた、同じ轍を踏んでいる。何度繰り返しても、無駄となることは、無いと信じているが、死への恐怖を、一番上に掲げ、それを避ける為の手段を、人民に啓蒙しようとする、その動きには、確かな根拠が無い。こう断じると、今の死者数の話を、早速持ち出す人が、居るに違いないが、彼らの目には、何が映るのか、想像できない。監督官庁は、死者に検査を施し、陽性となった場合には、死因を、件の感染症とせよ、としている。理由は、未知の病において、様々な症状を、発する場合があり、それによる死亡を、見誤らない為、とされるが、未知は未知だ。それが定かとなるのは、一つには、死亡者数の推移が、明らかとなってからだ。

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1月24日(火)−困った現状

 子供時代を、振り返ると、何度も、叱られたことを、思い出す、という人が、多いのではないか。親や大人の、言うことを聞かず、勝手な行動に出たり、言い返した時、その間違いを、指摘されて、叱られたのだ。言うことを聞く、とは、従うことだ、と思った人も多いだろう。
 だが、分別がつくに従い、そんな叱責は、少なくなってくる。とはいえ、仕事上で、皆の前で、上司から、厳しく叱責され、悩み苦しんだ人は、少なくないと言われる。今や、この行為は、立場の違いを、利用した暴力とされ、厳しく罰せられるが、叱責そのものが、悪かったかどうか、問わないままに、処分するのはどうかと思う。まあ、何れにしても、叱られるから、従うのだ、という考え方は、成長するに従い、徐々に変化するものだ。だが、世の中の現状は、そうとは限らぬ、とも思える。今回の騒動でも、大部分の人々が、政府の方針に従い、何も考えぬまま、決められた行動を、行ってきた。ここで、何度も触れたように、その幾つかは、明らかな間違いで、発した源自身が、その後、改めた場合もある。その多くは、良識ある人々からの、重ねての批判に、過ちを、認めざるを得なくなったのだ。ここで、重要なことは、考えることで、特に、指示に対しても、その正誤を、自ら判断しようと、疑ってかかることだ。施政者にとり、大衆が、そうなると、統制がとれず、政は、頓挫しそうだが、大きな間違いを、犯さずに済むことは、実は、自身の立場を、守ることにも繋がる。民主主義は、こうあるべきだが、現状は、その域には、達していない。だからこそ、次代を担う人々には、その能力を、身に付けて欲しい、という考えからか、入試問題に、考えることを、導入すべきとの意見が、強まったのだろう。近年、変更された制度では、呼び名も変わり、愈々、と思われたが、先日実施されたもので、受験生の状況が、芳しくないことが、表面化した。まさに、社会の実態を、映し出したか。

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1月23日(月)−沈思黙考

 口を酸っぱくして、論理の重要性を、何度も説いてきた。それを、会得する為には、科学への理解が、まず第一と考えられ、それを、進める方法に関しても、何度か取り上げた。だが、科学自体が、信頼性を失い、頼るべきものが、傾く中、さて、何をしたらいいのか。
 科学が、信頼を失った、と言っても、それは、実際には、科学そのものが、信頼に値しない、という訳ではない。科学という装飾を、身に纏った、言説の一部に、捏造や嘘が入り混じり、論理を歪曲させたものが、登場することとなり、それらが、科学そのものの価値を、台無しにしているのだ。「科学」という表現だけで、盲信してきた人々にとり、騙されることが、度々起こり、裏切られた、と感じることは、信頼そのものを、失わせることになる。でも、この流れには、大きな過ちがある。何故、表面的な言葉だけで、信じ込んでしまったのか、という点だ。まさに、今、隣の大国が、多くの国々に向かって、科学的でない、などと批判を繰り返すのも、それまで、自国の人民を、騙し続けた言説を、自らが放棄し、全く違った方に、向かい始めた時に、それ自体を、批判されたことに対する、根拠のない反論でしかない。こんな所で、科学を持ち出すのは、人民を欺く行為を、正当化するものでしかなく、それらを盲信して、従った人々に、罪は無い、というのも、おかしなことだ。これらの過程で、重要なことは、信じ込むという行為を、如何にして、せずに済ませるか、という点にある。これは、論理の重要性でも、強調したことだが、自分で、考えてみる、という点が大切で、その為には、当然ながら、あらゆる意見に対して、疑いを持つ、という点が重要だろう。何も信じない、としてしまうと、疑心暗鬼に陥り、精神の不安定を、引き起こしかねないが、ただ単に、疑うという行為には、信じないではなく、考えてみるという段階がある。それが、情報の洪水への、対処となる筈だ。

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